Neetel Inside ニートノベル
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稲妻の嘘
第九話 『真夜中に太陽、永遠の時針』

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 誰も気づいていない、この蒸気船にいれば、見上げるだけで見つかるものを。それは深夜も遅く、空に浮かぶ。あまりに弱い光は、海面の漣に喰われてすぐに砕け散ってしまい、誰かの目を惹きつけるほどの輝きを望めない。
 それでも、それはそこにあるのだ。
 砂の匂いがする甲板に、青いベンチがある。誰もわざわざ座りに来ないその場所からは、それがよく見える。
 真夜中の太陽――
 それは、黒いレンズを被せられた神の眼のように見える。日蝕で炎の輪が薄く、隙間のように燃えて、この蒸気船〈アリューシャン・ゼロ〉の斜め上に懸かっている。なぜそれがそこにあるのか、誰が作ったのか、誰も知らない。この蒸気船の浮かぶ海の上では、月の代わりに二つ目の太陽が昇る。
 もう、〈陸〉からは遠く離れてしまった――
 ふたたび接岸する頃には、いったいどれほどのフーファイターが入れ替わっているのだろう。そしてどれほどのバラストグールが、家畜に堕とされ燃やされていくのか――灰も残さず。
 そんなことを考えながら、一機の天使人形ドミニオンが、青いベンチに座って、ラード・コーヒーを飲んでいる。
 彼女はそこが好きだった。
 誰も訪れず、誰にも邪魔されない。
 そんな場所で静かに飲むコーヒーは特別な味がすると思ったし、飲み干すのが惜しかった。だが、何にでも終わりは訪れ、空になった缶を振り、ついでにショートボブに整えられた黒髪も振って、少女はそれを海へと投げた。
 なんの音もしなかった。
 真夜中の太陽は、薄く静かに燃えている。
「ザルザロス」
 その呼び声に、少女は応えた。胡乱な目つきで顔を振り、その横顔に彫られた火炎太鼓の紋章を晒しながら、この静域を訪れた者を見る。
 銀の女だった。
 羽織ったローブドレスは磨き損ねた白のような銀色、絹糸のように細い髪は豪雨のような銀色、そしてその手足にくくりつけられた、鎖の千切れた四つの枷は黒を磨いたような銀だった。違うのは、うっすらと狐色をした瑞々しい肌と、そしてこの蒸気船の領主だけが持つ両眼の紅桜――
 黒髪の天使人形は、その薄い唇の中で、来訪者の名前を口ずさんだ。
 リザイングルナ。
 この船の〈所持者ダイドローラー〉の、名前。
「――あなたが負けたと聞いて、驚きました」
 リザイングルナは、枷の鎖を鳴らしながら、ベンチに座った。隣に並び、天を見上げる。
 暗い影の向こうの炎を。
 しばらく二人は、真夜中のベンチで、カジノデッキから遠く聞こえてくる、ダイスやボールが回る音、めくられ切られるカードの気配に身を委ね、やさしい時間に沈んでいった。
「なぜ負けたか、お分かりですか」
「逆に聞こうか。あれに理由があると思うか?」
「――ないのですか?」
 胡乱げに銀色の少女が小首を傾げる。眉をひそめ、不愉快そうに。
「ないよ。俺の読みは二十点。でも、そうじゃなかった。かといってエンプティがそうなるように仕組んだわけでもなければ、真嶋がそれを読み切っていたわけでもない。あんなもの、まぐれだよ」
「まぐれの結果、あなたはかような身に堕とされた……その結果に悔いはないのですか?」
「ないね」
「ないないづくしですね、あなたは」
「ああ、そうだな、悔いもなければ勝てもしなかったし――でも、もう一度やるチャンスがあっても、俺はあれと同じことをすると思うね」
「それは愚かしさを誇りと間違えている、ということですか?」
 機械じかけじみたリザイングルナの瞳に、斜に構えたザルザロスの、かつてシャムレイと呼ばれていた天使人形の横顔が映っている。それが身じろぎをした。
「そういう綺麗事で飾れれば箔もつくんだろうけどな、あの時、俺が考えていたのは、そういう『ああでこうだから』ってことじゃない。そんなんじゃないんだ。俺はただ、――通ると思った」
「通る」
「そう思えたのに、どうして打たない理由がある? 手を差し出せばすぐにでも」
 狭山は細く白くか弱くなった指先を真夜中の太陽に向けて伸ばした。見えない指輪でもその指にかかっているかのように、くゆらせる。
「何もかも思い通りになるかもしれないのに、躊躇なんてしてられないし、後悔なんざ逃げてからのほうがずっとずっと重いんだ。――聖霊領主フーファイターに挑む腐乱死体バラストグールなんて、みんなそうなんじゃないか? もしかしたら勝てるかも、そう思うから足を踏み出すんだろ。踏み外すかもしれないけど――勝てるように見えたから」
「それが愚かだというのです」
 リザイングルナは言った。
「この蒸気船に、ありもしない希望を求めて乗船してきたことこそおこがましい――そんなもの、穢れた夢です。それが賭博師らしいとでも?」
「ああ、そうだよ」
 狭山は笑った。友達のことでも語るように。
「勝負って、そういうもんさ」
「――わたしはあなたを評価していました。領主として、愚かな悪霊たちに正しい裁きを与えてくれる絶対の審判官だと」
「どうもありがとう」
 リザイングルナは、射抜くように隣に座る人形を睨んだ。
「どうやら、わたしの目は潰れていたようです」
「シャットアイズ?」
「冗談はやめてください」
「許せよ、女になったばかりだぜ? ――いろいろ落ち込んでるんだからさ、これでも」
 あるものもないし、と狭山は苦笑した。寂しそうに足を組みかえる人形に、リザイングルナは言う。
「なにもかも、わたしの買いかぶりでした。ザルザロス」
「そんな名前のやつは、もういない」
「結局、あなたもあの薄汚い豚どもとなんら異質なものではなかった。聖霊領主の身でありながら、かような人形に魂を移すなど、その過程でどのような苦痛があろうと認められることではありません」
 抵抗されなかったからな、とは狭山は言わなかった。その表情にはほんのわずかに、痛みのようなものがあるように見えた。
 だから、とリザイングルナは言う。
「あなたは詐欺師で、恐喝屋で、ペテン師で、ごろつきで、そして」
 その唇が怖気を覚えたように、震える。
「――本物の、勝負師でした」
「ありがとう。お前に言われると、自信がつくよ、〈ダイドローラー〉」
「そんなものに、どれほどの価値があります?」
 リザイングルナは立ち上がった。紙のように薄いローブドレスの裾が床を払い、銀色の気配が真夜中を淡く照らし出す。
「あなたは終わった。負けたのです、ザルザロス。もう次はないし、永遠にあなたが勝負の場に戻ることはありません。そんなことは、このわたしが許しません」
「ひどいなあ」
「わたしはあなたに……領主でいて欲しかった。いてくれると、思っていました」
 ふっ、と狭山は笑った。
「ごめんだね」


 顔を上げた時、もうそこには誰もいなかった。ちぇ、と舌打ちして、狭山はベンチに深々ともたれかかり、ふと思い立って、手元の紙袋を漁った。おやつにチキンを買っておいたのだ。本来なら、鶏肉などこの〈アリューシャン・ゼロ〉では手に入らない。だが、いつでもどこにでも、報酬次第で動く密輸人はいるもの――くしゃくしゃになった脂まみれの紙包みをほどいて、狭山はその中身に齧りつこうとした。
 が、
 ――なにもなかった。
 狭山は唖然とした後、なぜか急に笑い出し、紙包みを投げ捨てると男らしく両足を投げ出して、ぼやいた。
「溶けてやがら」
 そんなものだ。


































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