Neetel Inside ニートノベル
表紙

稲妻の嘘
第三話  『腕をくれ』

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「慶様、ご覧ください」
 それは、一枚の貨幣だった。黄金の硬貨だ。奴隷人形エンプティの小さな白い手の中で、それは柔らかい炎のように輝いている。指先でそれを裏に表に弄ぶ少女は、コインに喋りかけるように言った。
「これは、〈あなた〉です。慶様。この幽霊客船〈アリューシャン・ゼロ〉では、霊的亡者であるバラストグールが存在し続けるためには、この脂貨(ラード)が必要になります。存在証明書のようなものです。どうぞ」
 慶はその脂貨を受け取った。実際に触ってみると、わずかに弾力があった。表面には時計の文字盤のようなものが彫刻されている。そこには数字の代わりに、アルファベットが天辺から左回りに印されていた。
(……remember……)
 裏面にひっくり返してみると、斜め下から見上げる構図の〈アリューシャン・ゼロ〉が描かれていた。金色の波頭を切り裂いて直進しているその光景は、どこか永遠を思わせる。指先で硬貨を傾け、眩い表面に少女の歪んだ微笑が映る。
「この客船に乗船なさったお客様には、それぞれに定額の脂貨をお貸ししています。お返ししていただくのは、この船を降りる時で結構――ただし夢を叶えずに降りることは出来ません。この船には誰もが夢を見に来るのですから。そして亡者が望む夢などただ一つ――蘇生すること。でしょ?」
「ああ」慶は否定しなかった。ポーカーテーブルの空席に深くもたれながら、
「俺は、生命をもうひとつ奪りに来た。一個じゃ足りなかったからな。もっとも、たぶんそれでも足りなくなりそうだが」
「素晴らしいです、慶様。それが人間という獣、なんですね?」
「ああ――」慶は少女の肢体に視線を放った。人間そのもの、押せば弾みそうな純潔の柔肌を。
「それで、その獣はどうすればいいんだ?」
「あなたの欲する〈生命〉――つまり、新しい肉体は六つに分解されて、この船にそれぞれ安置されています。頭部、胸部、右腕、左腕、右脚、左足に。そして〈ボディパーツ〉には、それらを守護する賭博師がいます。この船の管理者たちでもある、その六人の賭博師――〈フーファイターズ〉とギャンブルで勝負し、〈ボディパーツ〉を全て奪い取って集めることが出来れば――」
 ぱちぱちぱち、とエンプティは小さく革手袋に覆われた掌で拍手をする。
「おめでとうございます、ボディパーツは霊性を失い物質化し、あなたは新しい身体を〈受肉〉するのです」
「受肉」
「あなたはいま、幽霊です。そして生きている、というのは肉体を持っている、ということ――なんでしょ?」
「さァ、どうだかな――いずれにせよ、この船に乗ったバラストグールは、その〈フーファイターズ〉とかいう護衛をぶち破って、六つの肉片をかき集めていく。そういうことか」
「はい」
「勝ち抜き戦だな。――この脂貨は、何に使うんだ」
「まず第一に、この脂貨は〈炎〉と同じで、常に燃え続け、消耗しています。それは、あなたがこの幽霊客船で動くために与えられた仮の肉体が常に消滅へ向かっていることを意味します。それは誰もが同じです。バラストグールなら」
 慶は、死相を浮かべた亡者たちが、安いカードでお互いの脂貨を奪い合う卓をチラリと見やった。見ながら言う。
「その〈フーファイターズ〉に挑戦する前に消えちまわないように、バラストグール同士で共食いする必要がある――ということか」
「腕試しにもなりますよ。〈フーファイター〉は、どなたもお強い方だとわたしにもインプットされてます。よほどのギャンブル経験値を積んでからでなければ、バラストグールでは勝てません」
 ふっ、と慶は嘲笑した。
「やってみなけりゃわからん」
「……そうですか?」
 不思議そうに小首をかしげた後、エンプティは微笑を浮かべ直した。
「第二に、金銭としてやり取りができます。この蒸気船が構える店舗でお買い物も出来ますし、バラストグール同士で物品のやり取りも可能です。また、脂貨の補充は店舗で脂貨を料理に加工してもらって、それを取るのがおすすめです。それから、わたしの活動にも脂貨が必要でして、えへへ、お世話になります」
「じゃあお前はクビだ」
 ぶうう、とエンプティが頬を赤く膨らませた。
「な、なんてこと言うんですか。こんなに一生懸命、働いてるのに。それから慶様、バラストグールは必ず一機か、一機以上のスレイブドールを所有しなければならないのです」
「なぜ?」
「あなたが寂しくないように」
「俺は寂しくなんてならない」
「そんなこと言ったってだめですよ。ルールなんですから」
 またルールか、と慶は吐き捨てた。
 指先の硬貨を、窓のように覗き込む。
「俺は〈炎〉か、燃え続けるのか。この船で、燃料(カモ)どもを喰らいながら」
「あっさり消えてしまわないように、ご注意を。――〈傲慢な炎〉さん」
 エンプティはミスティックに微笑んだ。
「脂貨の管理はわたしがします、慶様」
「使い込むなよ」
「当然です。それでは慶様、参りましょう」
「どこへ?」
「決まっているじゃありませんか、ホラ、あんなに沢山、お仲間が」
「やらない」
「え?」
「俺は、〈フーファイター〉とやる」
 慶は椅子から立ち上がった。脂貨を一枚弾いて、じっと二人の話を聞いていたポーカーテーブルのディーラードールに祝儀をくれてやり、振り返る。
「どこにいる?」
「――ご案内、いたします」
 にわかに緊張した奴隷人形に導かれて、慶は行く。
 敗北の結末を、賭博師はいつも聴かない。

 ○

 慶が見て来た限りのことだが――
 賭博師というのは、肉食獣のような男が多い。目がきりりと吊り上がり、痩せていて、吐く息に熱がある。欲望を制御する能力に長けているが、その代償として有害な人格をしている。慶もそうだし、慶がこれまで倒してきた数え切れないほどの男たちもそうだった。勝負の世界に優しさはない。もし、優しい賭博師というものがいるとすれば、それはもはや賭博師ではない。だから、慶はこの蒸気船で初めて出会ったことになる。
 その青年は、あかるい賭博師だった。

 ○

 真っ赤な絨毯が敷き詰められた豪奢な部屋に、シャンデリアの眩い光を浴びながら、一人の青年が絵を描いている。それは油絵で、緑色の服を着た猟師が笛を吹きながら虚空を歩いていく絵だった。青年はバンテージを巻いた手で、右手は正しく左手は逆構えに絵筆を持ち、パレットから抜き取った絵具をキャンバスに塗りたくっていく。だがおそらく彼を見た者は皆、彼には絵画の才能がないと気づくだろう。なぜならそんな緑色の服を着た猟師よりも、もっと優れた描かれるべき題材がすぐそばにあるのだから。そう、それは彼自身。爪先まで覆い隠す鴉羽色のローブをまとい、顔のほとんどが隠れているが、白髪とその異相までは隠せない。脂ぎった顔でキャンバスを、その向こうにある彼自身の心の世界を赤眼で見抜くその顔には、左眉の上から鼻の上を通りほとんど右の首筋付近まで届く深い傷跡があった。それは綺麗に切断された後、治癒の力があったばかりに生まれてしまったひどく醜い奇跡だった。隆起し、腫れて膿んだその傷は完全には塞がらず、癒着と剥離を繰り返し血混じりの汗を流している。白髪赤眼の絵師は、魂を絵筆に封じてしまったかのように、無心に絵を描き続けている。部屋に入室してきた真嶋慶と奴隷人形エンプティにも気づかずに。
 だが、絵筆をポットの水に浸したところで、終末の太陽に似通った真紅の赤眼が二人を捉えた。
「おや?」
 白髪の絵師は飛び散った絵具で七色に塗り分けられているバンテージに覆われた手をぱんぱんと叩いた。
「ごめんね、絵に夢中で気づかなかった。いま、いいところでね。ノックはしてくれたかい?」
「し、しました、〈セルディム〉様」
 返答した奴隷人形を、セルディムと呼ばれた絵師がチラリと見やった。その瞳に冷酷な色が一瞬、走ったようだったが、それはすぐに柔和な雰囲気に飲み込まれて消えた。
「そうか。どうもいけないな、絵のことになると周囲がおろそかになる。失礼したね、君。ええと――バラストグール君でいいかな?」
「好きにしろ」
 エンプティは主の顔を盗み見た。慶は、相手の異貌になんの興味も好奇も感じていないようだった――あの傷を、眼や鼻かなにかと同じように、心からまっすぐに見つめている。それがどうした、とさえ思っていないかもしれない。ただあるがまま――それだけのこと。
 セルディムが笑って手を振った。
「嘘、嘘。冗談だよ冗談。怒った? いやだな、ちゃんと名前ぐらい聞かせてよ。久々のお客さんなんだから。僕はセルディム。この部屋の〈フーファイター〉だ。君の名は?」
 真嶋慶、と慶が答えると、セルディムはその名を味わうように目を細めた。
「真嶋慶、か。聞いたことがないな。ふうん。……ところで、その娘はどうして、君のうしろに隠れているんだい?」
 セルディムが、慶を盾にしているエンプティを指差した。
「僕が怖いのかな?」
「その傷が嫌なんだろ、なァ、エンプティ」
「い、いえ……」
 エンプティは小刻みに震えている。セルディムはため息をついた。
「やれやれ、この傷のせいだといいんだけど。ま、いいや――それで、真嶋慶。君は何を求める?」
 慶は部屋の壁一面に飾られている、白髪の男が描いた絵の列を眺めながら答えた。
「真剣勝負」
「……真剣勝負、か」
 白髪の絵師は安物の安楽椅子に腰かけて、慶を見た。
「また随分と高値の要望だな」
「いやなのか?」
「いやってことはないさ。僕は君のような男から、この蒸気船を護るためにいるのだからね……とはいえ、あまりお勧めはしないな」
「どうして?」
「君は、僕に勝てないからさ」
 にこやかに微笑むセルディムに、慶も不敵な微笑を浮かべた。ただし、不快感が搾り出したように滲んでいたが。
「よく聞けよ、エンプティ。これがいわゆるブラフってもんだ」
「面白いことを言うね。この僕の自信が、ブラフ? ……ふふ、なんだか君を絵にしてみたくなってきたよ」
「俺は高いぜ」
「いくらだい?」
 慶はゆっくりと、壁にかけられている絵の一枚を指差した。火の落ちた暖炉のマントルピースの上に掲げられたその絵には、貴婦人のものと思われる裸の『右腕』だけが描かれていた。今にも動き出して手を伸ばしてきそうな、そんな魔性の雰囲気をエンプティは慶のうしろに隠れながら感じていた。
「なるほど、『右腕』か」セルディムが絵を振り返りながら言った。
「残念ながらそれは駄目だ。あれは勝負のトロフィーだからね。そうか、君は肉体を取り戻したいのか。本物の肉体を」
「それ以外に選択肢があるか?」
「あるさ」
 セルディムがエンプティを見た。
「〈バラストグール〉が〈フーファイター〉へ挑戦した場合、結末は二つある。一つは、〈フーファイター〉が保管している『本物の肉体』の一部を受肉し、次の戦いへ進む道。君が選ぼうとしているのはこちらだ。だが、もう一つの道をその人形は話していないようだ。そうだね、君?」
「ひっ……」
 セルディムの冷たい視線がエンプティを捉えた。
「与えられた仕事はしっかりこなしたまえ、奴隷人形。君の魔法が解けてもいいのか?」
「あ、あのっ……」
 なにか答えかけたエンプティを、慶が片手で制した。
「一ついいか」
「なんだい、真嶋慶」
「これは俺の所有物だ。そうだったよな? エンプティ」
「は、はい……わたしは慶様のものです」
「そうだよな。じゃ、セルディム君。――俺のモノに無遠慮な口の利き方はやめとけ。その薄汚い傷跡を、バッテンにされたくなけりゃあな」
 セルディムは沈黙した。悪になるか善になるか迷っている胎児のように気まずげな視線を向けた後、ふっと息をついた。
「すまなかった。そう、それは君のモノだったね。失敬した」
「分かればいいんだよ、分かれば」
「なるほど、確かにこれだけ傲慢な男なら、その人形がもう一つの道を君に話さなかったのも頷ける。絶対にイエスとは言わないだろうな――君は――僕に勝ち、この小さな部屋と〈ボディパーツ〉の新しい主になる、なんてことは」
「そうか、そういう仕組みか。お前を倒せば、俺はお前になれるのか。その――〈フーファイター〉とかいうやつに?」
「そうだ。そうすれば、君は消滅の危険に身を晒されず、いつまでもこの蒸気船に乗り続けることが出来る。終わらない夜の船に――挑戦者を待ち構えながら。とはいえ、単騎の〈バラストグール〉一匹でいるよりは、ぐっとラクだし、快適さ。しかしそれでも、売るかい、喧嘩を」
「当たり前だ。俺は生命を踏み倒しに来たんであって、鎖に繋がれに来たわけじゃない」
「――鎖か、ここが」
 セルディムは己の部屋を見回した。そこは彼のアトリエであり、巣であり、そしてたったひとつの領地だった。それを敗失することは破滅を意味する。破れた領主に待っているのは、追放だけだ。
「いいだろう」
 セルディムは手で弄んでいた絵筆をポットの中に投げ捨てた。絵筆の先から煙のような朱色が匂い立ち、水が赤く染まる。
「君の挑戦を承けよう、〈バラストグール〉。君は〈脂貨〉を、そして僕は〈夢の右腕〉を賭けて――真剣勝負、ギャンブルだ」
「俺は賭博師だった。だから奪うと言ったものは必ず奪う。たとえどこまで追いかけてもな」
 慶は絵師の腕を指差した。剣のような歯を剥いて、笑う。
「貰った」

       

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Neetsha