Neetel Inside ニートノベル
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稲妻の嘘
第六話  『単騎二頭』

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 慶はカジノデッキに戻って来ていた。空席に座り、じっと虚空に目を凝らしている。喧騒は遠く、近くのルーレットテーブルでチャララララ……と盤を回る銀球の音だけがやけに響いて聞こえた。エンプティが心配そうに慶の顔を覗き込んでいるが、それが視野に入っている様子はない。だから、エンプティは慶が恐怖を感じているのだと思った。敗者の末路を知り、この幽霊客船に乗ったことを悔やんでいるのだと。真実はともかく、慶はこんなことを考えていた。「慶様?」と声をかけてくるエンプティの顔を見返しながら、その頬を掌で掴んだ。ぎゅっ、と柔肌が潰れて、エンプティが悲しそうな顔になる。「いふぁいいふぁい」と抗議する人形を見つめながら、慶は思う。指先に感じるぷにぷにとした柔らかいものを確かめながら、思う。
 こうなることだ。
 負けるというのは、こういうことだ。この柔らかくてぷにぷにとした何かになることだ。もう何物も跳ね返せず、圧されればたわみ、握られれば潰れる、そんな玉子細工のような何かになることだ。手足は縮み、蹄が出来て、赤ん坊のような産毛しか残らない。惨めな鳴き声をあげ、悲痛な目をして、災厄が自分を避けて通り過ぎ、どこかのべつに誰かにぶち当たる、そんな偶機を待ち焦がれる。何もせず、ただ悲嘆に暮れながら。
「けいふぁま?」
 弱いというのは、こういうことだ。抵抗するなど思いも寄らず、掴まれながらも〈それ〉を振り払わないことだ。誰かに己を委ねてしまって、それきり手を動かさないことだ。そして〈それ〉を、当然の運命として味蕾に乗せる。弱いというのは、こういうことだ――
 慶はエンプティの頬から手を放し、立ち上がった。ポケットから五枚の写真を取り出して、眺める。五つの足跡は発見した。残る足跡は、ただ一つ。慶が脂貨を与えて動かしている奴隷人形たちは、動力切れで壁際の椅子に座り直し、また次の主が現れるまでの永い眠りに戻りつつあった。
 慶は脂貨をすべて失い、豚へと変化して焼かれた男を思い出した。そして、慶を不幸な男だと思っているエンプティの表情を、それから絵描きの賭博師のことを。
 弱いというのは――……豚に変化したあの男のことを言うのではない。
 ここで手を、止めた男のことを言うのだ。

 ○

 最後の瞬間は、差し向かいで終えると決めていた。だから慶は、奴隷人形の少女を外に置き去りにし、たったひとりで〈フーファイターズ〉の間(ま)へと戻っていった。その絵具くさい部屋の中では、絵描きの賭博師が真白なキャンバスに肘をかけて、じっとその白地を見つめていた。まるで目を凝らせばそこに己が望んだ世界の破片が浮き上がると思っているかのように。赤眼が慶ではなく、マントルピースの上の砂時計を見た。それを指先一つで鳴らして砕き、〈単騎の賭博師〉、セルディムは真嶋慶と向かい合った。
「刻限丁度――最初の約束は守れたみたいだね、真嶋慶。でも、僕との勝負は果たせたかな? 君はちゃんと僕が残した六つの足跡を見つけられたのだろうか――」
 いや、と慶は言った。結局、スレイブドールズを酷使した船内探索では五つの足跡まで、最後の一つが見つからなかった。慶自身も、それを見つけることはなかった。
 絵描きの男が包帯に巻かれた手を握りこむ。
「じゃ、君の負けというわけだ。残念だったね」
 慶は、黙って首を振った。セルディムが眉をひそめる。
「――最後の足跡は見つからなかったんだろう?」
「当てる」
「当てる?」
 ポケットから、ポラロイドカメラで撮影した五枚の写真を慶は赤絨毯に放り捨てた。セルディムがそれを赤眼で見下ろす。
「五つまで、見つけた。最後の一つは――見つけず当てる」
「この大型蒸気船の中に捺印された足跡を、どうやって?」
 セルディムは嘲笑した。
「夢物語だね」
「魔法の国の夢の船で、亡霊が吐く台詞とも思えんぜ」
「ならばその亡霊をどう倒すんだ、〈バラストグール〉? 死人に脅しは通じない――」
「通じるさ」
 慶はもう一枚、六枚目の写真をセルディムの足元に放り捨てた。ひらりひらりと天使のように舞いながら、それはゆっくり地に落ちて、セルディムの赤眼に映りこんだ。
 傷一閃のその相貌に、抑え難い嫌悪が滲む。
「――これは」
「ボイラー室にいたよ。〈バラストグール〉の成れの果て――もういない、蒸気船の燃料にされて燃やされちまった。かわいそうにな」
「そうか、僕には関係ないな」
「いや、お前にも関係がある」
 慶は一歩、二歩、三歩と韻を踏むように彼我の距離を詰めた。フードに半ばまで隠された青年絵師の顔を真正面から見据え置く。
「関係ないとは言わせない。――これはお前の運命だ。じゃなけりゃそんな顔はしない。喉元締め上げられかかったニワトリみたいな顔はな――」
「一緒にするな、バラストグール」
 セルディムが白地のキャンバスを左手でそっと押して倒した。絨毯が吸い取った衝撃と音の余韻が溶ける中、亡者と賭博師は睨み合う。
「僕は〈フーファイター〉だ。君たち、豚の前触れとは違う」
「へえ、豚の前触れとはな。いい言葉だ、気に入った。その豚の前触れが言わせてもらうよ、いいか〈フーファイター〉、お前がどれほど言い繕おうが、そんなことはそれこそ俺には関係ないんだ。勝負の場に立った以上、身分も資格もあるものか。俺とお前は同格なんだ――敗北の末路ごとな。お前は負けたら」
 慶は豚の写真をブーツの底で踏みにじった。紙屑が散らばる。
「こうなるんだ」
「――だったらどうだっていうんだ? 僕が負けても豚に変化する、なるほどそうかもしれない。僕はそれを恐怖しているのかもしれない。……それで? まさか僕の恐怖が、君に答えを告げるとでも?」
「ああ、そうさ。――俺は、ずっと考えていた。俺がお前なら、どうするか。負けたくない、それは分かる。負けないためには、どうすればいいか。この〈空中散歩〉で、相手に絶対にバレないところに足跡をつけるなら、どこがいいか? 目星はついてる。種は割れてる。あとは――」
 慶が左拳を握り締め、トン、と軽く、セルディムの胸にそれを押し当てた。優しく、弱く、信じるように。
「お前が俺を、超えてるか、どうか。それだけだ」
「――ふふ」
 セルディムが、少女のように笑う。
「君だって、怖いんじゃないか。豚に変化するのが、そうだろ? だから、読めた答えを出すのを嫌がっている」
「ああ――これはお互いやられりゃ終わりのギャンブル――デッドリーオッズだからな。警戒もする、心配にもなる。だが、一つだけ確かなことがある。俺は恐怖は感じてない」
「嘘がヘタだな、真嶋慶」
「いや、それはお前だよ、絵描きさん」
 いつの間にか。
 慶は、最初に渡されたセルディム名刺を、指先でひねくっていた。セルディムの目が、それを捉える。
「お前、随分丁寧に教えてくれただろ。『これが足跡だってことはない』だったか。勝負開始前にさ」
「ああ、言ったね。それが?」
「不思議な言葉だよな」
 慶は、名刺に捺印された、蹄の『型』を親指でざらりと撫でた。
「これが足跡だなんて、誰が思う」
「思わないだろうね」
 セルディムは、慶の答えを待っていた。
「それで? 何が言いたい」
「お前は人間じゃない」
「――――」
「人間じゃない、俺がお前なら、それを最大限に利用する。俺がお前なら、絶対に相手が探そうとしない部位に足跡を捺す。たとえば――」

 ゆっくりと持ち上がっていく慶の腕を見ながら、セルディムは思い返していた。あの日、確かに見た奇跡のことを。強く美しく気高い存在のことを。
 それが今、そこにいた。

「悪いが勝たせてもらう。最後の足跡は……
 あんたの『切り札』は、ここにある」

 そう言って、
 慶は己の首筋に、指先を押し当てた。
 ざらりとした、土の感触。

       

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