Neetel Inside ニートノベル
表紙

稲妻の嘘
第七話  決着――『蹄と翼』

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 はらり、とセルディムは己の腕に巻いていたバンテージをほどいてみせた。林檎の皮が剥けるように包帯が垂れ下がり、覆いが外れる。二又に割れた指先。わずかに血が滲んでいて、歪に生えた爪が彼自身の手を傷つけていた。それを鳴動するように蠢かし、セルディムは顔を上げた。
「これが僕の指だ。〈フーファイターズ〉になった時、僕の身体に刻まれた傷跡。僕は、この指先と引き換えに永遠を手に入れた――勝ち続ける永遠を。だが、それも終わったらしい」
 セルディムは真っ白なキャンバスに手を伸ばし、そこにべったりと手形を残した。脂で浮いたその形は、五つの蹄を持つ魔性のものだった。感触を確かめるように指先をこすり合わせながら、セルディムは呟く。
「大切なのは一瞬だ。君の身体に触れる理由――自然な流れ。それを編み出すまでが、僕のギャンブルだった。真嶋慶――きみとは相性がいいと思った。ほんとだよ。いままで、数え切れない人間と闘ったけれど、きみと創った流れほど、自然に手を伸ばせたことはなかった。だから、教えてほしい――どうして分かった?」
 慶は、キャンバスに捺された魔の手形を静かに見つめた。
「お前が考え抜いた以上、俺にも考え抜ける。答えがいるなら、それがそうだ」
「――それだけ?」
「ああ。お前が何か、失策をしたわけじゃない」
「――そっか」
 休憩用の安楽椅子に、セルディムはどさりと座った。そして、暖炉の上にかけられた<右腕>の絵を見上げる。眩しいものにぶつかったように、わずかに口を裂き、目を細めていた。
「右腕か――ずっと守ってきたけれど、奪われたって困らないんだ。僕には結局、絵に描いた夢でしかなかった。持っていきなよ、〈バラストグール〉。あれは、君のものだ。――ただし」
 絵に手を伸ばしかけた慶を、どろりと溶けた赤い眼で睨みながら、セルディムは言った。それは切り裂かれた音が歯の隙間で渦を巻く、割れ鐘のような囁きだった。
「君はこれから――無限といってもいいほどの試練に見舞われるだろう。それは大きなものから小さなものまで、君に憑りつき、苦の種をばら撒く。理解しておくんだ、真嶋慶。君には道が二つある。いま、君はこの絵に手をかけ、一つの道をいこうとしている。だけど言わせてくれ、いつだって、君にはもう一つの道がある。――この道が」
 セルディムは、最後のキャンバスと、そこに捺印された手形を指差した。
「きみがどんな人生を過ごし、どうやって果てたか知らない。誰にも知られず路傍で斃れたのかもしれないし、誰かのために犠牲になったのかもしれない。それは僕には分からない、だから聞かない。だけど、いつか必ず、『質問』はきみを訪れる。そいつはいつだってきみの耳元で囁き続ける。――『生き返りたい、なるほど、だが本当にそうか?』、と」
 セルディムは、見えない何かを押し潰すかのように、五指を拳に固めて振動させた。
「よく考えるんだ、真嶋慶。本当にきみが闘い続けるほどの価値が、〈陸〉にあるのか。この船へ乗り込めたことだけを天空からの贈り物と受け取って、この小さな領地を守護することが、それがそんなに、屈辱か、過ちか――それを君は、よく考えなくっちゃならない」
「――それだけか」
「なに?」
「言いたいことは、それだけか」
 その細い腕のどこに、そんな力が秘められていたのだろう。伸ばされた慶の腕はセルディムの胸倉を掴み、椅子から引き摺りあげた。眼と眼が触れそうな距離で、慶はセルディムを睨んでいた。
「セルディム、どうしてそんなに怯えてる」
「怯えてなんか、いないさ。僕は負けた、この運命は避けられない――どうせ豚になる。だから教えてあげてるんだ、ああなることの恐怖を、知らない君に――」
「お前が怯えてるのは、豚に変化することなんかじゃない。――言い訳はやめろ」
 慶は言った。
「お前は負けた。俺が勝った。だが、そんなことはどうだって構わないんだ。勝負は五分五分だった。俺もお前も手前に出来ることをやった。それだけだ。後腐れはナシにしようや――俺はお前を嫌いになりたくない」
「――驚いたな、好かれてたとは知らなかった」
「手前を好いてないのは、お前だ。負けたからって、掌返しで、己自身を捨てやがって。教える、だ? 何を教えるっていうんだ、これから豚になるお前の恐怖と同質に、これから挑み続けるこの俺のことだって、お前に分かるわけがねぇよ。なぜってお前は、途中で降りたんだからな」
「――――」
「俺はお前じゃなかったし、お前も決して俺じゃなかった、だから――ここでお別れってことにしとこうぜ」
 慶は手を放した。握力で引き伸ばされた絵描きのローブが、蛇腹のようにたわんで広がっていた。セルディムはただ黙って、味わうような沈黙の中で、足元を見下ろしていた。それからゆっくりと赤眼が動いて、一点で止まった。
「きみは強いな、真嶋慶」
「勝てばな」
「きみなら、六人抜き――全部位奪還を成し遂げられるかもしれない。僕には出来なかった――そうだ、僕はやめた。恐怖に負けて、軽くて安い勝利に、逃げた。脇目も振らずに一生懸命――逃げ切った先にいたのが、きみだった」
 セルディムは慶を見上げた。
「握手してくれないか」
「――――」
「嫌、かな?」
「いや、――嫌じゃない」
 慶とセルディムはぐっと固く握手を交わした。それは強く、痛く、重たい握手だった。セルディムの歪んだ指先が離れた時、慶の手は傷だらけになっていた。血まで滲んでいる。ふと見上げると、暖炉の上の〈右腕〉の絵が、白紙になっていた。古びた紙だけが、それが守られてきた永い永い刻を教えてくれていた。セルディムが身体をよじって、その失われた作品を見た。
「真嶋慶、僕は悪魔に――〈本物〉になりたかった。だが、なれなかった。きみの言うように、言い訳はよそう。強さとは何か、そんなことを考え出すと力や運や技なんか、いくらでも答えが見つかりそうだ――でも、僕にも分かることが一つだけある」
 それはね、とセルディムは微笑んだ。
「いい勝負だった。ありがとう、真嶋慶。――その翼、大事にしなよ」
「――最初から、思ってた」
「ん?」
「あかるい賭博師なんか、見たことない」
 セルディムは笑った。

 ○

 慶様、と呼びかけられて、真嶋慶はもたれかかっていた扉から背中を離した。胸元に手を持ち上げて、こちらの様子を窺ってくる少女人形に、慶は何か言おうとして、やめた。固く結んだ唇と、逸らされた鋭い視線の先にあるものは、きっと彼にしか分からない。何物にも分かつことは出来ない。そんな慶の前に、ぬっとエンプティの手が伸びた。
「どうぞ」
 それは、薄茶色の紙に包まれたポーク・ハンバーガーだった。ふっくらとしたバンズの間に、蒸気が立つほど熱くて分厚い二段の肉が挟み込まれている。そこに熟したトマトと飴色のオニオンが赤と銀の彩りを加え、それをレタスのグリーンが柔らかく受け止め、どろどろに溶けた黄色いチーズがいまにも持つ手に滴り落ちそう。慶はそれを受け取った。しばらく、じっと見る。かつて誰かの魂だった成れの果てを。
 それを口にすることは、間違っている気がした。だが、喰わねばならない。これが〈脂貨〉なのだ。こうすることでしか、慶は慶でいられない。たとえそれを喰らうことが自分自身を喰らうことだとしても、喰わねばならない。
 慶はそれを、噛んだ。途端にパティが裂けて肉汁が溢れ出し、焼かれた豚の美味が口の中に広がった。慶は右手で、貪るようにそれを喰った。噛めば噛むほど積み重なった味が七色に揺れて舌を誘う。消滅したはずの神経が次から次へと再生していくような気がする、それは生命の味だった。きっと、と慶は思う。きっとこの『味』の先に、頭部が、胸部が、右脚が、左脚が、そして左腕がある。つまり――〈復活〉が。
 全て喰い尽し、指先についた肉汁を舐める慶に、エンプティは笑顔を見せて、そっとスカートを摘み礼をした。
「お疲れ様でした、真嶋慶様。〈右腕〉奪還、心無き身なれどこのエンプティ、響愕しております。願わくば、続戦も――お稼ぎください」
 慶は下げられたエンプティの頭を軽く手で叩いてから、歩き出した。一歩、二歩、三歩、韻を踏むように。振り返らずに、唇の端についていた汚れを、指先で払う。視線は一点――揺るがない。

 そうとも俺は生きていく。
 ――死にながら。

 ○

 ボイラー室には、いつも一人の少女がいる。あちこち煤けた白のワンピースを着た、麦わら帽子の少女だ。亜麻色の髪を蒸気にそよがせながら、透明な視線で、ボイラー室で飼われているブタをいつも見ている。船を進ませる高圧蒸気が足りている間は、ブタになってもすぐには燃やされない。それどころか柵を立てられ、そこに小さな畜舎があり、飼われたりもする。ブタたちは人間だった頃のことを覚えているのかいないのか、鼻をぐずつかせながら、麦わら帽子の少女や、働く機関士たちを時折じっと眺めている。
 慶は、そんな少女のことを、休憩中の機関士にそっと尋ねてみた。焼けたパンのように焦げ茶色の肌をした男は、むっと汗の匂いを立ち込めさせながら、少女のことを教えてくれた。
「昔からいるんだ。なんでも、死んだ恋人を生き返らせたいんだと。あの囲ってあるブタの中に、恋人がいると信じてるんだ。いつかボディパーツを全回収して、それを恋人にくれてやるつもりらしい……かわいそうに」
 慶は肩越しに麦わらの少女を振り返った。少女は、こちらを見ていた。
「……あの子には、どれが恋人のブタなのか、分かってるのか?」
「分かってるわけねぇだろ。だから、いつもああして探してるんだよ……」
「ま、死人の考えることだから……」
「生きてるよ」
「――何?」
「あの子は生きてる。生きて、恋人を探しにこの船に乗ったんだ」

「ねえ」
 いつの間にか、麦わらの少女が慶の後ろに立っていた。慶は睨むように、ゆっくりと振り返った。
「なんだ」
「わたしの彼、知らない?」
「――知らない」
 慶はそっぽを向いて、それだけ言った。麦わらの少女は、残念そうに顔を伏せると、また畜舎の方に歩いていった。そしてまた、寂しそうな顔で、恋人を探し始めた。
 そんな彼女を、慶はずっと、見ていた。
 蒸気に満たされた部屋の中、
 少女は涙を流すように、汗をかいていた。


       

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