Neetel Inside ニートノベル
表紙

稲妻の嘘
第一話  『楽園落第組』

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 人は死ぬと誰でも、一通の招待状を受け取る。
 それは、気づかぬ間にコートのポケットやブーツの隙間なんかにそっと差し込まれている、なんの変哲もない、赤い封蝋で閉ざされた手紙だ。
 慶などはいい加減だから、ポケットに突っ込んでそのまま一度忘れてしまって、幽霊仲間から招待状の話を聞かされるまで、ごみと一緒にしてしまっていた。
「招待状って言ったって」
 慶は折れ曲がった手紙の縁を、なんとか元に戻そうとゴシゴシ擦りながら言った。紙は上等で頑固で融通が利かず、慶のことを撥ねつける。
「なんで、そんなこと分かるんだ? まだ開けてもいないのに」
「開けたやつがいるんだよ」
 そう答えたのはアッシュグレーのスーツを着た、身なりのいい幽霊だった。まだ若いが、整髪剤で黒髪をオールバックに撫でつけて額を見せている。掘りの深い顔立ちは混血を思わせるが詳しく聞いたことはない。死んだばかりの頃、慶はこの男からいろいろなことを教えてもらった。幽霊としての心得を。
「幽霊というものは」と男は言った。
「ルールで縛られている。死ねば自由になる、なんてのはみんな嘘さ。都合のいい誤魔化しだ。幽霊こそ、がんじがらめに規則で縛りつけられているんだ」
「たとえば?」
「大通りを歩けない。建物に入れない。物体に触れない。生者とコンタクトできない。そしてなにより――天国にも地獄にも、自分の意志で歩いていけない」
「じゃ、みんなどうするんだ」
「電車に乗るのさ」
「――おすすめは?」
「環状線」
 なァ真嶋、と男が言った。
「この手紙、誰もが死んだ時に受け取るこの紙切れを開けてみるって言い出したやつはたくさんいる。娯楽もないしな、俺たちは競馬場にだって入れないんだ。だから誰もがこの手紙のことを忘れられない――開ければ何もかも明瞭になる」
「何も書いてないかもしれないぜ」
「それならそれでいいじゃないか。所詮、何もかも性質の悪い冗談なんだと不貞腐れて、彷徨い続けていくだけさ。だが――いなくなるんだ。これを開けるって決めたやつはな」
「あんたが騙されてんだよ。みんな影で笑ってんのさ」
「なら、お前にはこの秘密めいた手紙を玩具にする勇気があるのか? なァ真嶋、お前だって考えないわけじゃないだろう。この手紙は――天国への招待状なんじゃないかって」
「地獄なんじゃねぇの?」
 慶はだぶだぶのコートのポケットに手を突っ込んで、流れ過ぎ去っていく田園風景を眺めながら言った。
「差出人は神様か、それとも閻魔様か? バカ言ってんじゃねぇよタコ――おい、ひとついいこと教えてやる。少なくともこれは、天国への招待状じゃない」
「何故?」
 アッシュグレーの男は、女物のような真っ赤なコートを着た幽霊に素直に尋ねた。興味深げに。
「決まってんだろ。俺みたいなロクデナシが、天国なんかに逝けるかよ。地獄で仲間が待ってんだ」
「分からんぜ。悪党が、善人しかいない孤独な世界に閉じ込められて難儀する、なんて旧い話もあるだろう」
「そんなもんは慣れてる。俺には友達なんかいないんだからな」
「じゃ、俺は?」
 慶はシートにしなだれかかって、ふわァとあくびをした。
「敵だよ、敵。俺は俺の思い通りにならねぇものは、みんな敵ってことにしてるんだ」
「ふうん。それなら――この手紙を奪えよ」
「――ああ?」
 男は言った。
「天国か、地獄か。もし本当にこの手紙がそこへいくための切符なら――俺は確信がある。天国へ逝けるってね。だが、お前は違うんだろ? なら俺の切符を奪えよ。それが、お前の人生だったろ」
 男が慶に自分の手紙を差し出した。慶のそれと違って折れ目もなく、くたびれてもいない、ピシッとした封筒に入れられている。
 それを、慶は手の甲で押し返した。
「……いらない」
「へえ? どうして。地獄がお好みか? こんな手紙一つ、奪うのを躊躇うお前じゃないだろ」
「さあね、理屈なんかいちいち考えてねぇよ。ただ……気に入らねぇな、そういうの」
「……気に入らない、か」
 少し残念そうに、男は封筒をスーツの裏に仕舞いこんだ。
「そうか。なら、それもよかろう。だがな真嶋、お前は永遠に、ここにいるつもりか。誰にも気づいてもらえず、たった一人のまま――」
 そういうあんたはどうなんだ、と慶が振り返った時、もう男はそこにはいなかった。空席になった緋色のシートに、蝋を開けられた封筒が、笑うようにそよ風に揺れていた。
 傾き始めた太陽を見上げて、慶は呟く。
「疲れたんだよ、もう」

 ○

 幽霊になると、時を喪う。
 朝も昼も夜も、慶は電車に乗り続ける。死んだように顔を伏せる人々の中に混じっていると、生者と死者の違いをなかなか実感しにくい。ちょっと近寄って、失礼、と声をかけたら相手が「ン」、と反応してくれそうな気がする。決してやりはしないのだけれど。
 幽霊には、電車を乗り降りする乗客を眺めるくらいしか、娯楽がない。だから慶もぼんやりそれを眺めている。入れ替わっていく顔、顔、顔。誰も彼もが不充足を覚えながらも、それに逆らえず生きていく。慶はそれを眺めた。眺めるくらいしか、出来ることがもうない。

 いつからだろう。
 慶には『声』が聞こえるようになった。
 最初は、誰かに呼ばれたような気がした。ふと顔を上げるとそこには誰もいない。ただ静かに列車のドアが気の抜けた音を立てて閉じるだけ。慶は、あのアッシュグレーの男がいなくなってから一度も取り出さなかったあの手紙を引っ張り出した。窓から差し込む午後の陽射しがその手紙を磨かれた石のように輝かせている。
 どうも声は、そこから聞こえてくるような気がする。
 封筒を裏表にして、ためつすがめつしてみるが、押しても振っても声などしない。それきり忘れていると、またふと意識が遠くなり、思い出したように『声』がする。そしてそれは、どんどん明瞭に、ますます強硬に慶に届いた。そして慶は観念した。
『声』からは逃げられない。
 手紙を取り出す。
 不思議な気分だった。もしかしたら、それが最後の破綻を誘うかもしれないというのに、慶にはもう、それを見なかったことにする気がなかった。そうすることは簡単だ。けれどどこかで、納得している自分がいる。心のどこかで分かっている。この『招待状』から、逃げることは出来ない。誰もがいつかは、この手紙を開封する羽目になる。そんな気がする。
 恐れはなかった。いや、あるにはあったが、それ以上に強い欲求が慶の奥底から湧き上がってきた。それは野原を燃え広がっていく炎のように、静かで、圧倒的な欲望だった。
 それほど複雑な心境ではない。
 慶のような生き方をしてきた男にとって、『誰かに呼ばれる』ということは、滅多にない。誰かに求められる、愛される、そういう要素から一番程遠い世界で、慶はやらずぶったくり、自分の破滅を誰かの肩にそっと上乗せして、蹴落とし、二度と立ち上がれないように完膚なきまでに叩きのめし、最後には相手をドブの底へぶち込んだ。そうしなければ生きていけなかった。死ぬのは御免だ。どこかのべつの誰かでいい。そう思って、慶はその生涯を駆け抜けた。
 だから、餓える。
 自ら捨ててきた物に対して、究極の欲求がある。
 幼い感傷、苛烈な世界で生きてきたからこそ――慶にはどうしてもそれが捨て切れない。
 指先が震える。封蝋に爪が触れる。
 開けるのは簡単だ。ちょっと見るだけ、それでもいい。
 この俺の名を呼ぶ、誰かの『声』のためなら――
 本当は、最初から分かっていたのだと思う。
 最後の目的地への招待は、いつだって誰もが、その手の中に握っている。
 彷徨うことに見切りをつけた亡霊は、ゆっくりと手紙の封を切った。
 掠れた紙の開く音――……






 真嶋慶。
 生きていた頃は、賭博師。
 今は、もう亡い。

       

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