二人がいったいなにをしているのか――固唾を呑んで『わくわく』しているエンプティには当然わからなかったし、そしてもちろん、その隣で夕影に紛れて控えている黒髪の奴隷人形・シャムレイにも分からなかった――
(……いったい、なにを? 二人とも、なにもせず、相手に番を返して……)
いままでのバラストグールは、奇襲や手品は弄策しても、自分自身の『利』を捨てたりはしなかった。
それを無意味に――そして、
(ザルザロス様は、相手の隙をお見逃しになられるような方ではない……のに……)
なぜ、ザルザロスは相手の愚行に追従しているのか。
なにか、水面下で駆け引きが行われているのだろうか――
(それに、こんなこと、いつまで続けたって無意味ではないですか、我が主。牌を置かなかったことで、どちらの手牌も六枚になっている。これでは新しい牌を引くこともできないのに……)
いったい、どうするつもりなのか。
シャムレイは、半ば非難の気持ちで、そしてもう半分は――好奇心で、真嶋慶の一手を待った。
さあ、どうする――?
慶は、おもむろに、一枚の牌を手牌から抜き取る。
(そう――それを、打つの?)
いったいどの牌を――と爪先をわずかに立たせて覗き込もうとしたシャムレイの前の前で、慶は窓に向かってそれを振りかぶり、
投げ捨てる。
がしゃあん、と夕陽の中でガラスが割れて、黒牌は大海原に吸い込まれていった。波飛沫すら立たなかった。
唖然としているシャムレイを慶が振り返る。
「……なに?」
「あ、あ、あなたはいったいなにを……なんて、馬鹿なことを……」
「だって、こうしないと牌が引けないし……」
「こ、こどもですか! いいですか、こんなこと、許されません、あなたはたったいま、
「やだ」
「このっ……!」
「やめろ」
バラストグールに詰め寄ろうとしたシャムレイを、制止したのは――
「ざ、ザルザロス様? いったい、どうして……」
「引かせてやれ」
「ですが……! こ、こんなルールは、シャットアイズには……」
「俺が作った。だから俺が、俺の思い通りにする――いつでもな。
さァ、真嶋。引かしてやるよ、引けばいい」
「いいのか?」
慶はおもしろそうに、ポーク・バーガーを齧りながら言う。
「あっさり引いちゃうかもしれないぜ、――アレ」
「ああ」
構わない、とザルザロスは思った。
試してみればいい。
己の天運と地力の有無を――おこがましくも。
「じゃ、引かせてもらおうかな――」
「……慶様」
三方からの視線を集めながら、慶がゆっくりと、牌山から一枚を引く。
それが輝くあの一枚なら、――勝負の行方はさらに縺れる。
だが、そうでなければ――
慶は、引いた牌を確かめた後、それを静かに伏せた。
河には、打たない。
そうとも、とザルザロスは思う。
お前の思い通りになんかなってたまるか、なあ。
――これで今度は、俺の番。
自分がやったことは、相手もやると思わなければならない。
そうだろ?
ザルザロスは、手牌から一枚を、慶のように投げ捨てたりはせず、手の甲で床に払い落としてから、牌山から一枚を引いた。
慶が、見ている――
お互いに抜き身の刃が、光るかどうか。
そんな一瞬――
革手袋越しに引く牌の感触は、どこか曖昧で、実感が遠い。だからだろうか、牌を見る前に、狭山にはそれが欲していた一枚ではないことが、なんとなく分かった。牌を見る。
〈単眼の溝鼠〉。
それを伏せ。
心を決める。
いや、もう決めていた。
卓を見守るエンプティを見返すでもなく、眺めながら――ザルザロスは思った。
確かに、これは真嶋慶の戦いなんかじゃない。
これは、エンプティの勝負。
お互いに、彼女の河を読んだ方が勝つ。
最初から、真嶋慶の誘いには、『一度』だけ乗ると決めていた。
それがいま、終わった。
このままいけば、真嶋慶の思う壺というやつだ。
いまなら、分かる。
慶が見たあの二牌――あれは、『六眼牌』じゃない。
いや、たとえそうだろうと、そうでなかろうと、慶が何を狙っているのかは、分かった。
六眼悪魔を、どちらが先に引くか。
あの無手番は、そのための――時間稼ぎ。
効果のほどは、すでにザルザロスの行動が証明している。まさか、あそこで開けた二枚が六眼牌ではないなど――相手のリーチに耐え得る壁牌の保証など最初から無かったなど、通常なら読めない。
読まない。
なぜなら、それは理不尽だから。
そんなものを認めれば、心理戦に『読み』など存在しなくなる。誰もが自分自身の『勝利』を目指しているから、読みは生まれる。
真嶋は、それを蹴った。
――相手に引かれれば、おしまい。
だが自分が引けば、何もかもひっくり返せる。
そんな牌を、目指す。
それが真嶋慶の勝負。
――それに乗る手も、ある。だが、六眼悪魔を待てば、勝率は五分五分。どちらかが勝つかはわからない。それどころか、お互いに河に一枚以上は(少なくとも、狭山は)悪魔を伏せてある以上、どちらが引いても、そこから『消耗戦』に突入し、やはり勝負は、混迷の霧に呑み込まれる――どちらが勝利の光を浴びるのか、分からない。真嶋慶にも、ザルザロスにも。
だが。
――いまここで、『リーチ』を通せば。
それで終わりだ。
状況は、一手前となにも変わっていない。河に牌は増えておらず、そしてやはり今、ザルザロスは『先手』にいる。遅いということはないし、一貫性がないという考え方も場合によりけりだ。少なくとも、狭山はたった一度だけ、真嶋慶の誘いに乗ると決めていた。そう、一度だけ。
その『一度』は、もう済んだ。
だから、真嶋慶にとっての勝負が、六眼悪魔を待ち続けることならば。
狭山新二にとっての勝負は、いま、ここで『リーチ』をかけること。
相容れない。
どちらかが潰れるしか、決着の方法はない。
――読みなら、ある。
エンプティは、リーチをかけるのを躊躇っていた。その理由は、二つ推測できる。
1.総打点数の高さに不安があった。
2.六枚目を置き、守勢に出て、相手のリーチや襲撃を待とうとした。
この、どちらか、あるいは両方。
いずれにせよ――慶が止めた以上、やつの『勘』を信じれば、総力点数は、狭山の『目』と同じ、二十まで。ここから、エンプティの『目』の数を推測するのは、困難だ。――これだけならば。
エンプティは、リーチをかけようとした。
それが、致命的な情報漏洩。
なぜなら、打点二十以下でリーチをかけようとしたということは、速やかに勝負を決めにきた、ということ。
(ガードに不安があったから。俺の〈リーチ〉もしくは〈襲撃〉に、耐え切れる自信が無かったから――)
推測する。
いったい『何眼』なら、エンプティは己に不安を感じたか。
十八か、二十か、二十二か。
――ザルザロスは、『二十点』だと思っている。
あるいは、『二十一点』か。
少なくとも、そのどちらかだ。少なくとも、『二十二』以上なら、リーチをかけようとはしなかったはずだ。六枚目を置き、〈襲撃〉にも耐え切れる牌をばら撒き、状況を膠着化させたままずるずると切札到来を待っていたはず。
だから、どちらかだ。
『二十』か、それとも、『二十一』か。
(……俺の打点は、『二十一』……)
攻防同点の場合、防御側に勝利判定が降りる。
わずか、一点の差。それがすべてを、分ける。
いつも――
あれから、長い時間が経った。
あの日、地下から解放され、朝陽の中で別れたあの時、本当は違う結末を自分は望んでいたのではないか。
知らない街に消えていく真嶋の背中に、自分は、本当はこう声をかけたかったのじゃないのか。
――続けないか?
そんな言葉を飲み込んで、背中を向けて、
知ったような顔をして、街角に消えていくために、
俺は生まれたわけじゃない。
俺が生きていたのは――
俺が、本当に望んでいたものは――
なによりも、本当だった、ものは――
「リ ー チ ・・・・・・・・・・!」
迷いは、もう無い。
指先が、かつてのように稲妻のごとく走った。
河を返して、すべての牌を押し倒す。
その打点は、二十一点。
あとは、ただ。
真嶋慶の、そしてエンプティの河が、――ザルザロスの一撃を耐え切れるか、どうか。
慶が、わずかに息を吐いた。そう、慶自身にも、この勝負がどうなったのか、まだ分からない。それを分かっているのは、エンプティだけだが、慶はエンプティのほうを振り返らなかった。
狭山との勝負は、勝っても負けても、
自分の指先で、終わらせたかった。
――手を伸ばし、指で一枚ずつ、牌をめくっていく。
最初に開けたのは、着席した時に覗いた二枚。
〈四眼の魔兎〉
〈三眼の魔兎〉
ザルザロスは、正しかった。
慶が見たのは、六眼牌ではなかった。そんなに都合のいいものを背負って、あれほどエンプティが怯えるはずがない。
どこかで、なにかが燃えている音が聞こえる。
ぱちぱち、ぱちぱちと、それは静かに甲高く、呻き続ける。
それはもう、慶の足元にまで迫っていた。
――残りは三枚。
右端の一枚を、開く。
〈五眼の黒豹〉
さらに隣の牌を、開く。
〈四眼の黒豹〉
最後の一枚。
――四眼以下がめくれれば、二十眼。
ザルザロスの一撃には、耐え切れない。
この一枚は、エンプティが五順目、慶が来る直前に打った牌だ。
それまでの河から見て、もし五眼以上の牌が伏せられているとすれば、それはエンプティが五順目に引いた牌になる。
つまりそれは、エンプティの運。
だが、いまさら動揺するには当たらない。
慶は薄く笑いながら、その牌に触れた。
最初から、この席に着いた時から、なにも変わっていない。
慶は、エンプティに賭けた。
裏切られようが、負けて燃やされようが、そんなことはどうだっていい。
一度、張ったなら、あとは最後まで――
駆け抜ける。
それだけのこと。
――慶の指先が、
最後の牌を、裏返した。
〈五眼の飛竜〉
顔を上げた時、ザルザロスの河には、牌がもう残ってはいなかった。
彼自身もまた、卓に積み重なった黒い砂に差し出すように広げた両手を埋もれさせながら、ただじっと、味わい深く、両目を閉じている。
勝負の余韻が、ただ静かに、二人の間に流れていた。
それはいつか止まったままの、
懐かしい