Neetel Inside ニートノベル
表紙

稲妻の嘘
リザイングルナのこと

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 かち、かち、かち。時計が動く。彼女はそれを見ながら手の中のライフルに弾薬を詰め込んでいく。革手袋に包まれた指の内でそれは軽楽器のように思えた。薬室に装填された真鍮製のシェルの中身は実は存在しない。空隙に破壊と苦痛が圧縮されているだけだ。彼女はそれの射手である。
 豪奢な装備で埋め尽くされたその部屋には、動くものが三つある。一つは彼女、一つは時計、最後に壁際の格子に囚われた掌のような蜘蛛。その外殻は鋼鉄で出来ていて、八本の足が蠢く度にかしゃんかしゃんと乾いた音が鳴り響く。リザイングルナはその音色が嫌いではなかった。どこか涼しげな感じがする。目を閉じて耳を澄まして聞き惚れていくほどではないにしても。
 彼女はライフルの銃口を持ち上げる。銀を基調に金の鎖を絡めたドレスは暖炉の炎を浴びると液化しかけているように流動的に輝いた。緑柱石の双瞳が、その猟銃の照準だ。疑似餌を引かれる釣竿のように揺れる銃口が、やがて吸いついたように一定の軌道を取り始める。それは壁際で錆びた鉄柱の格子を往復している鋼鉄の蜘蛛を狙っていた。彼女は間違いなくそれを撃つ気で、なぜそれが分かるかというと、鉄蜘蛛の背中には綺麗な宝石が装着されているからだった。それは沸騰した血の蒸気を封じ込めたように、透明な石のなかで紅く深く揺れていた。鉄の蜘蛛は知恵と知識に忠誠を誓わされた学者のように、その紅石を背負わされている。彼女はそれをどうあっても撃つ気で、そして革手袋に覆われた指先が息を呑むように静かにその引鉄を弾いた。
 稲妻は時折、真横に落ちる。特に麗しき銀髪の才媛が発砲した時などは。
 彼女の眼と同じ緑の雷撃は、空気抵抗など紙切れのように突き破りながら格子と格子の間に八肢を伸ばしかけていた鉄蜘蛛の背にある紅石を見事に直撃した。凍りついた波頭のような緑色の亀裂が紅石に消えない傷として刻みこまれ、鉄蜘蛛の噛み合わされた口から細い隙間風のような悲鳴が漏れた。それはあまりにも小さく、彼女の耳に届く前に消えてしまった。リザイングルナは銃口を下ろす。ライフルからは硝電がまだ走っていた。
「おみごと」
 ぱち、ぱち、ぱち。
 気の無い拍手を笑顔で見せた少女は、それまでの真剣な顔をやめて椅子の上で足を組み替えた。それをリザイングルナはちらりと見やる。ひたすらに時を刻む時針のない時計の真下にいる少女は、その頬に炎の稲妻を刻印されていた。だが、それはリザイングルナからはわずかな断片しか見えない。白髪をしたその少女は、鷹の顔をあしらったかのような黄金の仮面を被っていたから。
「とても初心者とは思えない。きみには素質があるよ、リザ」
「初心者? ……私はもうだいぶ遠く、この射撃を繰り返してきたのですけれど。ミギュオン」
「なーに、たかだか百年ごとき、真実の域には遅いのさ」
 白髪の少女は口元だけでにっと笑った。その瞳は見えず、かつ読めない。
「ああ、いつ見てもきみの稲妻は綺麗だ。いつまでだって、見ていたい」
「……口説かないでください」
「あ、バレた? えへへ、いーじゃんいーじゃん、欲望に身を委ねてみようよ」
「やめてください、近づかないで」
 指をわきわきさせながら寄ってきた少女をリザイングルナはするりとかわす。雪のような刃のような銀色の長髪がたなびいた。
「ちぇっ、つれないなあ」
「あなたはいったいなにを考えているんですか? 私とあなたは女と女、添い遂げられるわけがないのに」
「そんなことは神様が決めたことで、わたしが望んだことじゃない」
 白髪の少女はどさっと安楽椅子に腰を下ろした。優しい祖母のようにそれを傾けながら、彫像のように硬い表情をしているリザイングルナをすっと見つめる。
「きみは綺麗だ。稲妻もそう。わたしはきらきらしたものが大好きなんだよ、リザイングルナ。特に一瞬でなくなってしまうものがいい。美貌とか、運命とか、あと……」
「お金とか?」
「……うーん、それを言われるとつらい……ひどく負けちゃったときのことを思い出す……」
 椅子の上でミギュオンはぶるぶる震えている。が、足を組み替えて気を取り直し、
「ま、勝負をしてればいろいろあるさ! 街で誰かとばったり出くわして、なにを喋るのか決まりきっていたらおもしろくないでしょう? びっくりしながら慌てふためき喋り出すのがおもしろいのさ」
「わけのわからない話をされて、貴重な時間を潰されるくらいなら、私は挨拶だけして立ち去ります」
「わーお。それもまた自由、かな?」
 あっはっは、と少女はあかるく笑う。リザイングルナは髪を振って、起き始めかけた頭痛の虫を払いのけた。この少女との付き合いは短くないが、それでもこの自由奔放さには腹が立つ。馬鹿にされているようにしか思えない。口説くのだったら、もっと上手にやって欲しい。
 放っておけばいいもの、どこか原因不明の苛立ちをわざわざ胸で燃やしながら、リザイングルナは再びサンダーライフルを構える。口径のことは覚えていない。それを授かった時、自分が何を喋ったかも覚えていない。ただ分かるのは、あの刻、この蒸気船と供に彼女はこの猟銃を手に入れた。それが祝福だったのか、どうか、それはいまでも分からない。だが彼女は、少なくとも自分自身では、かなり上手くこの蒸気船を支配していると思っている。いまのところ致命的な失敗はしていない。まだ誰も、リザイングルナの記録の中で、レイズデッドを成し遂げたものはいない。そう、誰も生き返りさえしなければ、この蒸気船は幻の悪夢のままでいられる。神の秩序と栄光を穢すものではなく、むしろ逆――……
 鋼鉄製の虫けらが、もがき苦しみながら、逃げ惑おうとしている。
 だがそのすべては無意味。
 蜘蛛が足を這わせるその格子に、出口はない。どこへも繋がっていない完全密閉の針金の巣。背中に背負った紅石、そこに残った緑柱色の傷跡の痛みから逃げるように蜘蛛は出口のない袋小路を彷徨い続けている。己自身が背負った紅石こそ激痛の元凶と思考する知恵もなく、決して逃れ得ぬものから逃げようと、鉄蜘蛛は走り続ける。彼女はそれに銃口を向ける。引鉄に指先。呼吸を止めれば当たりやすい。
 鏡が砕け散ったような音。
 今度は鉄蜘蛛も耐えられなかった。噛み合わされた口吻のタガが外れ、鼠でも丸呑みにしようとしているかのようにその顎(あぎと)が開いた。その奥で艶やかに濡れている人間の舌と口蓋を、リザイングルナは静かに見つめている。その横顔にミギュオンは言った。
「痛がってるね」
「そうですね。……だからなんです? あなたは私の稲妻が見たいのでしょう」
「うん? そうだね、でも、……なんだか凄く、つらそうだから」
「ああ、そう」
 反吐が出る。
 危うくそう吐き捨てかけて、リザイングルナは吐瀉物を嚥下するようにその言葉を飲み込んだ。なぜかは分からない。吐いてしまえばラクになる。そう分かっていながら、その一言が出せなかった。代わりに気分を害したことが丸分かりな表情でさらに一発鉄蜘蛛を撃った。もうその背の紅石は半ば緑色に染まっている。
「ねぇミギュオン、なぜあの虫が苦しんでいるか分かりますか」
「え?」
「私には分かります」
 新たに弾薬をライフルに詰め込みながら、リザイングルナは夫に虐げられた妻のように冷たい瞳で床を見ていた。
「もがくから苦しいのです」
「……もがくから」
「そう。そして逃げるから苦しい」
 リザイングルナはサンダーライフルを乱射する。射撃された雷撃は鋭角の螺旋を幾重にも描きながら瞬き一つも待たずに走り、鉄蜘蛛の足を一本ずつもいでいった。そのたびに鉄蜘蛛が壊れたおもちゃのようにくるくる回る。
「なぜ私がわざわざあの虫の足を一本ずつもいでいっていると思います?」
「……楽しいから?」
「馬鹿おっしゃいです。いいですか、私は射撃には慣れています。ええ、得意と言ってもいいかもしれません。それでも、動く標的に揺れる稲妻を当て続けることは難しい。本当に難しいのです」
 リザイングルナはライフルから空薬莢を排出する。圧縮された全てを吐き出した真鍮製の小さな缶は絨毯の海に落ちて、わずかに穂を倒してから消えた。
「本当に苦しみたくなければ、逆らわなければいい。もがくのなんてやめればいい。そうすれば、私がどれほど当てたくなくても、稲妻は彼らを撃ち抜くでしょう。それを拒んでいるのは彼ら自身なのです。逃げることが罪なのです」
「罪……か」
「罪には罰が必要です。私は、彼らの罰なのです」
 それが自分だ、と思う。それがリザイングルナという聖霊領主の存在理由。
 許すわけにはいかない。逃がすわけには絶対いかない。
 なにがあっても償いをさせる。慈悲深き神の手からすり抜けかけている虫けらに、魂相応の報いを浴びせてやる。
 あの刻、この猟銃を掴んだ刻、そう思った。記憶も名前も喪いかけたあの薄明の中で、確かに自分は誓いを告げた。
 それが絶対に正しいことだと感じたから。

 死は訪れれば一瞬で済む。
 十七発目の雷爪が、鉄蜘蛛の紅石をとうとう最深部まで撃ち抜き、緑色の電流がクリスタルの中に充満し紅色を駆逐した。もはや一本の足しか残っていなかった鉄蜘蛛はだらりと格子にぶら下がりひっくり返った。たとえどれほど願おうと、その最後の一本だけは絶対に切断できない。苦痛の鎖であり、逃避の綱。罪に塗れた魂には、お誂え向きの玩具だ。
 ミギュオンは、死んだ蜘蛛を眺めている。
「ねえ、リザイングルナ。いったいどんなことをしたら、こんなにも誰かに許してもらえなくなるんだろうね」
「そんなこと、私の知ったことではありません」
 リザイングルナは猟銃を剣のように、椅子に腰かけた白髪の少女に突きつけた。少女はまた、それに臆せず動じず静かにこの蒸気船の唯一無二の主を見上げた。
「誰一人として許しはしません。この蒸気船に乗ることを選んだ愚かなバラストグールどもは、私が一匹残らず殲滅します。そう、誰であろうと許しはしない……ありもしない夢を望んだ愚者どもなんて」
「リザイングルナ」
 白髪の少女は銀色の断罪者の名を呼んだ。仮面を外し、黄金の瞳が露になる。
「誰かを許さないということは、自分を許さないということ」
 リザイングルナは銃口を逸らさない。
「それがわかっていてもなお、魂を裁き続けるというのなら――とめたりしないよ。だけど、いい? 覚えておいて――あなたが本当に何を望んでいるのか。何を罪だと感じているのか。それを」
「言われなくても、私が正義です」
 船婦の装束を翻し、リザイングルナは船長室から出て行った。その手には鉄蜘蛛の死骸が握られていたから、おそらく換金にでもいくのだろう。船の所有者といえども、この蒸気船の呪縛(ルール)からは逃げられない。出口のない巣を張り巡らせた蜘蛛――それはいったい誰のことなのだろう。白髪の少女はそんなことを考えながら、ジャケットのポケットから小さな箱を取り出した。煙草の箱に似ているが、それにしては封印が厳重だった。少女は何度も切りすぎた短い爪で悪戦苦闘しながら、ようやくその封を切った。中からトサリとフィルムを巻かれて出てきたのは、カードの束。少女はフィルムを剥がして、それを取り出した。軽く指先でその表面を撫でるでもなく叩くでもなく、不思議な韻を踏みながら次の瞬間にはもうそのカードの束はシャッフルされていた。もう誰にも先は読めない。少女に尋ねても「わたしは手品師じゃないから」と言って笑うだけだろう、そしてきっとそれは真実なのだろう。少女はそのカードの束を、小さなテーブルの上にぽんと置いて、散歩にでもいくような気楽さで部屋を出て行った。そして誰もいなくなった船長室の中で、暖炉の火だけがテーブルの上を覗き込もうとするかのように赤々と長く広く燃えていた。わずかに船が揺れて、カードの束がテーブルから滝のように崩れて絨毯の上に散らばった。頭部、胴体、右腕、左腕、右脚、左脚――
 そのカードには、数字が無かった。























                   稲妻の嘘

                    第四部







               ダイドロール     ダスト   ワン
            DIE’D ROLE DUST ACE





















       

表紙

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