稲妻の嘘
デミンとラグン
デミンは頬杖を突くのが好きだった。そうして頭を支えていると何かいいアイディアが浮かんできそうな気がする。べつに何を思いつくというわけでもないのだが、少なくとも考えがまとまりやすいのは確かだ。だからその晩もデミンは、姉妹のラグンと一緒にカフェの椅子に腰かけて、頬杖を突いていた。ラグンは自分のご主人様の愚痴をずっと繰り返しているが、本当はまんざらでもなく忠誠心を持っていることをデミンは知っている。
「だからさ、あたしは言ってやったわけ。パンツ忘れて風呂入ったって、古いの履けばなんとかなるよって」
「持っていってあげればいいじゃない」
デミンはラグンの話を聞く気なんてこれっぽっちもなく、ぼうっとピアノの方を眺めていた。薄暗いカフェの隅っこにコテンと置かれたそのピアノは、べつに誰が弾いているわけでもなく、ただ飾りとされていた。デミンが見ていたのは、ピアノのそばのテーブルに座った一人の男と一機の人形だった。デミンはどちらのこともよく知っている。
撃たれてそのまま放っておいたら染まってしまったかのような赤いシャツを着た男は、真嶋慶。もはやこの船で彼の名前を知らないものはいないだろう。難攻不落と称されたフーファイターズを怒涛のごとく五人抜きして、頭部胴部右腕右脚左脚、偽物ではない本物の肉を具えたパーツを五つ集めたバラストグール。前世は本職の賭博師だったとか。ずいぶんご立派な経歴だとデミンは思う。まさに勝ち上がるために用意された『駒』のような素性――しかし、本当にそうだろうか?
「ああ、見てよデミン。真嶋慶だよ。また水こぼしてる」
「疲れてるんじゃないかな」
「死人が疲れるなんてあるの?」
かちゃんと倒れたグラスの音が太陽色の照明に響いている。真嶋慶は自分のジーンズにかかった水滴を興味なさそうに見下ろしながら、のっそりとテーブルの上のナプキンを掴もうとして指を滑らせ、その束を床にばらまいてしまった。わあああ慶様ちょっと待って下さい動かないでくださいわたしがぜんぶやりますから!と立ち上がった金髪蜘蛛青(クモズミ)のエンプティがまたさらにメイドドレスのカフスをテーブルクロスに引っかけてがっちゃんがっちゃんわあわあやり始めたが、デミンはそれを飛行機雲でも眺めるように観察していた。呆れる気にもならない、あの二人の日常。
「あの二人も変わったよね。ていうか、真嶋慶が落ちぶれたのかな?」
背もたれに腕をかけて振り返る赤髪のラグンの半笑いの軽口に、青髪のデミンはそうだねと答える。
そう、真嶋慶は変わった。
かつて視線が重なればじっと見透かすように輝いたあの瞳はいまでは空洞同然、起きているのか眠っているのか、分かっているのかいないのか、緊張感がないことおびただしく、まさに屍のような有様だ。あれほどの損気激昂もどこへやら、誰にぶつかられても何を馬鹿にされても、なんにも答えなくなってしまった。今ではもう、かつて誰も成し遂げたことのない死者再生に手が届くかと目された真嶋慶に反発し敵意を剥き出しにするバラストグールなど一体もいなくなってしまった。すでに慶はかき集めた脂貨の遺産を食い潰すだけの存在であり、彼を見る周囲の目は王者に刃向かう挑戦者へのそれから一瞬の成功を掴んだきりの一発屋へと向かうものへと変わってしまった。
デミンもまた、そうして彼を見限った一人だ。
「無様なもんだね。キャルメオを倒してすぐにリザイングルナ様に挑むのかと思ったら、いつまでもぐずぐずぐずぐず……今じゃあもうあの真嶋慶が、エンプティに世話してもらわなきゃ何も出来ないんだから。人間、なにがどうなるか分かったもんじゃないねぇ」
「キャルメオを倒すのも、ようやっとって感じだったものね」
「そうだっけ?」
そうだよ、とデミンは呟く。みんな、五人目を倒したところで真嶋慶は臆病風に吹かれて六人目に挑めなくなったと言っているが、それは違う。真嶋慶が変わったのは四人目を倒してから。
狭山新二を倒してから。
勝負が終わって戻ってきた慶を見てデミンはぎょっとしたものだ。揺れた男の足取りは、勝つと決めて歩き出したものとは似ても似つかなかった。隣で喜びはしゃぎ顔を見上げるエンプティのことも目に入っていないようだった。きょろきょろと周囲ばかり見回して、まるでいまいきなりそこに放り出されたかのように戸惑っていた。無理もないとデミンは思う。
「大丈夫ですよ、慶様」
慶がこぼした水を跪いて布巾で拭き取りながら、エンプティは笑顔だった。
「きっとすぐによくなりますから。また元の慶様に戻って、そしてあなたは勝つんですから!」
慶は答えない。デミンはため息をつく。
エンプティは分かっていない。
狭山新二を倒すということが、真嶋慶にとってどういう意味を持つのか。二人の関係性はおしゃべりなエンプティがだれかれ構わずぺらぺら喋ってくれたから、さほど真嶋に興味のないラグンですら知っている。だがおそらくその意味を理解しているのは、少なくとも奴隷人形の中では、薄い青の髪とKをひっくり返したような刺青、そして少ない口数とは裏腹にずば抜けて人間心理への高い洞察力を授かって生まれた、このデミンだけだったろう。デミンは思う。
真嶋慶は、もう終わっている。
もともと死後の勝負、そのものが自然の摂理に反していると言っていい。生命があるから人は抗い拒み、生きようとするのに、バラストグールにはそれがない。生命がないから生きられない、その当たり前の現実が仮初の時間をゆっくりと腐食させ、やがて心の一番奥へと侵入する。逆らうことはできない。誰も生きていないまま戦うことはできない。真嶋慶がそれをできていたのは、彼がずば抜けて強い信念――それがなんだったのか、いまとなってはもはや分からないが――を持っていたからだ。だがそれも、逆らいがたい敗北を迂回していただけに過ぎない。だから、バラストグールはいまだかつて誰一人、再生(レイズ)へと辿り着いた者はいないのだ。
そういうものだ。
だが、きっかけとなったのは間違いなく狭山を倒したことだ。狭山新二は真嶋慶にとってたった一人、最後に残った好敵手。自分とほぼ同等の力量を持ち、否定しがたい信念を携え、同じものを見、同じことを考えていた、いわば魂の兄弟分。前世で絡み合ったまま終わった因縁に、死後の船でケリをつけたのだ。動揺しないはずがない。
(もはや充分、そうでしょう?)
果実をそのまま絞ったジュースをストローで吸いながら、流した視線の先にいる真嶋慶の横顔にデミンは呟く。
(あなたは賭博師だった)
それも誰にも負けない最硬の指先を持った、賭博師。
(そんなあなたが、察しがつかないわけがない。もはや、狭山新二を越える敵は現れないことを。勝負師として、自分はもう、最高峰の相手を倒してしまったのだと。わたしには、勝負の内容自体は分からない。ルールを知って、戦術を覚えて、それから盤面を見ればつまらない勝負だったのかもしれない。しかし、それとこれとは話が別――たとえそうであったとしても、水面下における駆け引きは、幾重数多、二人の間で繰り返されていたはずだもの)
そうでなければ、ああも真嶋慶が『燃え尽き』ているはずがない。
(たとえどんな夢を描いていたとしても、何を求めてレイズ・デッドに挑んだのだとしても、あなたの本質は変わらない。賭博師として、もはやこれ以上の相手と出会えないことを悟りながら、なぜ戦えるはずがあるというの?)
『俺には欲しいものがある』
誰もが聞いたことがある、真嶋慶の決まり文句だ。その言葉があるからこそ、真嶋慶には誰にも邪魔立てしえない戦う理由があるのだと皆思う。しかし、とデミンは考える。どうして誰もあのセリフが『自分にそう言い聞かせている』ようには聞こえないのだろう? 狼の悲鳴を雄叫びと誤解する羊の群れは、結局喰われるだけだから? そうであれば問題ない――だが、次の敵は?
最後の敵。
六人目のフーファイター。
彼女は真嶋慶のそれを聞き逃さないだろう。勝負師としては素人でも、彼女は対戦相手の心の弱みを見抜くことにかけては本物の才覚を持っている。揺れたままで倒せるような相手かどうか、それはデミンにも分からない――あるいは、真嶋慶は勝負をしかけないかもしれない。このままここで、かつて五人抜きを果たした幾人かのバラストグールたちと同じように、己が業と共に倒した敵から奪った燃料を喰らい尽くして、やがて消滅するだけなのかもしれない。最初から、そこには誰もいなかったかのように、彼らはみんな消え失せる。かつて見せたはずの輝きと共に。
「ねぇ、慶様。わたしとカード遊びをしませんか? ひょっとしたら、むかしのカンが戻ってくるかも――」
答えを返さず沈黙し続ける慶に喋りかけ続けるエンプティから、青髪のデミンは視線を逸らした。エンプティの気持ちもわかる、でも――
人間は、叩けば直る時計じゃない。
もはや終わった男に呼びかけ続けることに、なんの意味があるのだろう。
それがデミンには、分からない。