Neetel Inside ニートノベル
表紙

稲妻の嘘
第四話  『CELLDIUM ―セルディム―』

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 こんな話を知っているかい、とセルディムが語り始めた。
「僕は雪国の生まれでね。収穫が終わって冬になると曇った空から重たい雪が降り始めるんだ。都会の雪と違って、それは家や人を押し潰す災害さ。小さくて冷たい焼夷弾みたいに、あれはゆっきりちらつきながら、僕らの生活を脅かす……何もしていない僕たちを。もっとも、子供の頃からそれが当たり前で、つらいとも苦しいとも思わなかった。それは享受すべき運命、単騎の個人にどうこうできるようなものじゃなかった。でも空想だけはしていたよ、空飛ぶ靴をつけて、この村から出て行ければどんなに素晴らしいだろう――と」
 慶は壁際にかけられた寒村の絵を眺めながら、セルディムの話を聞いている。それを確かめてからセルディムは続けた。
「子供の頃の空想なんて、大人になれば忘れてしまう。鍬と鋤と雪の生活が、そういったものを全て押し潰してしまうんだ。けれど僕はそうならなかった。死ぬまでずっと、空飛ぶ夢を見続けた。――なぜって僕は夢を見たから、本当に、この目で」
 ある日、とセルディムが言った。
「朝、目が覚めた僕は胸騒ぎがした。起きたら家の中に誰もいなかった時のような心細さを覚えて、あたりを見ると両親と妹はまだ眠ってる。突き刺すような肌の寒さが明け方だということを教えてくれる。僕は薄い布団から這い出して、靴を履いて外へ出た。二階の窓からね。一階なんて、春にならないと降りられないんだ。だから冬はいつも、一面の銀世界――ぽつぽつと離れ小島のように民家の二階が僕の家と同じように突き出している。地平線の先で、虚ろで曖昧な太陽が燃えていた。いつも、その光景だ。鼻水も凍る温度、丘の上の耕作地へ続く道を来る日も来る日もシャベルで掘り抜かなければならないだけの苦役の世界――でも、あの日だけは違った。足跡があったんだ」
「――足跡?」
 セルディムは遠い記憶を、言葉のシャベルで掘り返していった。
「僕の村に動物なんていないんだ。みんな雪に潰されて死んでしまう。僕らにあったのは、雪に強い種類のわずかな作物と、街で売るための草を編んだ草履や雨傘だけ。なのにあの日、窓から這い出した僕が見たのは、地平線の向こうへと続いていく馬の蹄の跡だった。
 僕はね、馬なんて生き物がいるんだなんてこと、知らなかったよ。だいぶ後になってから、あの蹄が馬のものだったと知った。だけどその時の僕には――それは悪魔の足跡のように見えた。
 僕は戦慄し、恐怖し、何度も目を瞬いた。まだ僕は眠ってるんだ――何度も目を瞬きすれば、何度目かには夢が覚めて父さんと母さんの隣で寝てるんだ。そう思った。だけど、夢は覚めなかった。いるはずのない馬の足跡は、僕の知らない世界へ続いていったままだった――太陽の向こうに。
 僕はその空想に強烈に惹きつけられた。食べるものにも困る暮らしで萎縮し切った精神に、それは酒より熱く火を点けた。僕はそれこそ競走馬のように駆けた。どこまでも続くその足跡を追いかけていれば、その先には新しい未来が待っているような気がした。一度も振り返ったりしなかった。僕は駆け抜け、そして見た。
 足跡は、銀世界の真ん中で消えていた」
 慶はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「永く博打をやってると、奇跡としか思えない出来事になんていくらでもぶつかる。だが、そんなものは全部、偶然のまやかしに過ぎない」
 そうだね、とセルディムは寂しそうに慶の言葉を認めた。
「僕もそう思った。いろんなことが頭の中を駆け巡ったよ。そう、いろんなことがね。その生き物は、足跡を逆走して戻ったんじゃないかとか、誰かが足跡を途中でかき消したんじゃないかとか、穴でも掘って蓋をして消えたんじゃないかとか。でも僕は、その生き物が『空を飛んだ』のだと信じた。いくつもある選択肢から『それ』だけを選んで握り締めた。だってそうだろ――そこからわずかな距離にある、普段は山の頂上になっている切っ先に積もった雪に、最後の足跡が刻印されているのを見てしまったのだから。もうどんな解釈も通用しない、僕には一つの真実しか見えはしなかった。この世界には、空を飛ぶ生き物がいる、蹄を持った鳥ではない生き物が。そしてそれはきっと〈悪魔〉のように強く気高く、そして美しい生き物に違いない」
「……それで結局、お前は、その〈悪魔〉に出会えたのか?」
「いや。残念ながら、僕の夢はそこで途切れた。あの足跡のようにね」
 セルディムは一度、話を断った。だが、不思議な沈黙を保って待ち続ける慶に、思い返したように一言だけ添えた。
「僕は、〈悪魔〉になりたかった。真っ白に塗り潰された世界、何も踏み締めるものがない場所なんて関係ない。望めばどこへでも飛んでいける、なんでも出来る、そんな気高き強さに――そして」
 セルディムはまとっているローブの裾を持ち上げた。そしてそこに隠されていたものを見て、慶は顔をしかめた。
 青年の足は、人間のものではなかった。それは『蹄』になっていた。爪先が二つに別れ、鋭利な牙のように磨がれている。ところどころに錆のように血がこびりついていた。
「この蒸気船で、僕は〈フーファイター〉になった。そして願いは叶えられた。僕はどこへでも歩いていける。ほら、こんな風に」
 セルディムは蹴破るように壁に蹄を押しつけると、そのままぐっと壁に立ち上がった。重力――そんなものがこの蒸気船でまだ流通しているのだとすれば――を無視して、セルディムは慶を見た。
「残念ながら、僕の蹄は馬じゃなく豚の蹄だけれどね。それに、虚空を踏み締め歩んでいくことも出来ない。僕のは不完全な夢だった――だが、それでもまだ、君を滅ぼし、餓えを凌ぐぐらいならまだ出来る」
「――そう思うか?」
「お待たせしたね。勝負について語らせてもらうよ」
 赤い絨毯に無音で着地したセルディムは、言った。
「ギャンブルは誰にでも出来る簡単至極なものでなければ嘘だ――複雑なルールなんかいらない。シンプルであることはよいことだ。あらかじめ必要な知識なんてない。高等な数学も不要。誰でも勝てる――誰でも負ける。それでこそ、ギャンブル」
 戦を告げる鼓のように、セルディムが蹄で床を踏み締めた。
「勝負は、〈悪魔の空中散歩〉。ルールはシンプル、これから僕はこの領地を出て、蒸気船の中を散策し、六つの足跡を残してくる。僕がここへ戻ってきたら、君は僕が残した六つの足跡を探し出す――全て見つけられれば君の勝ち、出来なければ僕の勝ち。いいかな?」
「確かに簡単だ、だけどいやだな」
「いや? いやかい」
「いくつか質問させてもらうぜ」
 いいとも、とセルディムが了承した。慶は尋ねた。
「時間制限は?」
「ああ、あるよ。この蒸気船に時間なんて概念はないけれど、砂は落ちてくれるからね」
 セルディムがローブの袂から、ガラス瓶のようなものを取り出して慶に放り投げた。慶はそれをあっさりかわし、背後でエンプティがわあきゃあ言いながらなんとかそれをキャッチした。振り返りそれを確かめてから、慶が言う。
「あれは?」
「砂時計だよ。体感時間でおよそ二時間ほど――かな。ご不満?」
「いや。――もう一つ、その足跡っていうのは、俺が探せないようなところに捺せるのか?」
「たとえば?」
「船の外壁、あるいは船底、どこでもいいが俺の行動範囲にならない場所だ」
「それはないよ。勝負の前提が崩れる。あの右腕の――」セルディムは暖炉の上の絵を顎でしゃくった。
「あの絵が僕をがんじがらめに縛りつけている。君を納得させられないようなルールには出来ないんだ、やりたくてもね」
「ふうん。――その足跡は、蹄鉄の型やなにかで、お前以外の誰かが捺せた場合、それは有効か?」
「言ってることがよく分からないな。誰かって?」
「バラストグールやスレイブドールだよ。お前が入り込めないような小さな隙間に蹄鉄か何かで足跡をつけられたり、あるいは十個も百個も偽の足跡をばら撒かれたりしたら、俺の負けだ」
「へええ、面白いな。賭博師っていろんなことを考えつくんだね。想像もしていなかったな、そんなやり口。ま、心配はいらない。足跡は必ず僕自身の手で捺すよ。道具も使わない。自前の蹄があるからね」
 軽く足を持ち上げて笑うセルディムに、またもやエンプティが怯えたように震え始めた。慶はそれを睨んでから、セルディムに向き直る。
「やめろ」
「わかったわかった――あとは? もうない? なら、これを渡しておくよ」
 セルディムが手首のスナップを利かして一枚の紙片を慶に投げ渡した。慶は弾くようにそれを掴み取ると、指で挟んで照明にかざす。それは、名刺だった。流線型の筆記でセルディムの名が書かれ、その横に小さな親指大の蹄の跡がスタンプされていた。土か何かで捺したのか、ぽろぽろと破片が落ちている。
「これは……」
「僕の蹄の『型』さ。それを参考にしてくれ、地図のようにね。おっと、安心してくれ。それが『足跡』ということはない。それじゃ、僕は散歩に行ってくるよ。――空中を歩くかどうかは、僕の気分次第だけどね」

 ○

「……慶様」
 セルディムが出て行った後、おずおずとエンプティが慶に近づいて来た。これまでずっと、あの小さな領地のふしぎな領主に畏怖を覚えて、まともに喋れなかったのだ。
「勝てそう?」
 慶はしばらく、セルディムが描いた絵の列を眺めていたが、何も言わなかった。代わりに、部屋の隅にある画材用のロッカーの前に立ち、がしゃんと開けた。そこには未使用のキャンバスがいくつか、木材の腐りかけた古いイーゼルが二つ、印字の読めなくなったダンボールに放り込まれた絵具があるだけだった。
「慶様?」
 慶はあかるいところにイーゼルを引っ張り出し、そこにすでに完成しているかのような丁寧さで真白のキャンバスを立てかけた。そしてセルディムがやっていたように水の満ちたポットに絵筆を浸す、なんてことはせずに素手にそのまま絵具をぶちまけ始めた。泥団子でもこねるように絵具を極彩色に混ぜ合わせると、躊躇することなく七色の手形を純白のキャンバスに捺しつけた。手を離すと、掌紋がくっきりと残っている。ふっとそこに冷たい息を吹きかけると、慶は次から次へと手形をくっつけ始めた。捺し、伸ばし、引き、拳で軽く叩く。あうあうするエンプティなど歯牙にもかけず、慶は塗り絵を続けていく。そしてキャンバスに空隙がほとんど見当たらなくなると、一歩下がって、出来上がった絵を見上げた。それはほとんど扉のような大きさだった。なんの形も為していない、奔流のような色彩だけが荒れ狂っている、その題名のない扉絵を慶は、大切になどしなかった。雷が裂けるような音を立てて、絵は倒れた。左手一本を突き出して、描いたばかりの絵を壊した慶はようやく答えた。
「分かんねぇ」

 ○


「……あまり僕のアトリエを荒らさないで欲しいな」
 ぐっ、と首筋を掴まれて、慶は動けなくなった。痛いほどに力がこめられている。
「これでも、画材は貴重でね。無駄にして欲しくないんだ」
「無駄?」慶は、へし折れたイーゼルと、その上で真っ二つになった極彩色のキャンバスを見下ろした。
「これがか。俺ァ、これでも絵を描いたつもりなんだけどな」
「君は描いた絵を破壊するのか?」
「ああ」
「……ふむ」
 首筋から圧力が消える。振り返ると、セルディムが解けかけていた絵具まみれのバンテージを指先まで巻き直しているところだった。
「言いたいことが、分からないわけじゃない。なるほど……これが君の創作か」
「初めてやったが、悪くないもんだな。またやらせてくれよ」
「……それはやっぱり、挑発か? それとも本心かい」
「賭博者なら、それぐらい察せ。とはいえ、荒らしたのは済まなかったな」
「いいさ、君が勝てば、どうせ君のものになる」
「――俺は、勝ち抜き戦をやると言ったろ」
「挑発さ」
 ふっ、と慶は笑った。そしてポーカーフェイスを作って尋ねた。
「足跡は捺印し終わったか?」
「ああ。これぞ、という配置にしてみせたつもりだ。足跡六つ――探し出せれば君の勝ち、できなければ――」
 セルディムが、静かな暖炉の上に砂時計を逆さに置いた。さらさらと砂が流れ落ち始める。部屋を出て行く二人も見ずに、セルディムは呟いた。
「僕はここにいる。真嶋慶、君が負けるのを、ここで待ってる――じゃあ、お稼ぎよ」
 そして、扉は閉ざされた。

 ○

〈アリューシャン・ゼロ〉の見取り図を、脂貨三枚でショップから買い取った。それはカジノの片隅にある小奇麗な雑貨屋で、商品の仏花が気配と音を消していた。ニコニコするメイド服のスレイブドールに手渡された見取り図を慶は壁に叩きつけるようにして張った。構造は簡単だ。乗降用のタラップのある甲板。同じデッキにカジノがあり、そこから上下層へと移動できる。下層デッキはボイラーのある機関部だ。バラストグールでも移動できるため、ここに足跡がある可能性はある。続いて上層は、カジノデッキから螺旋階段で上っていく。セルディムが構えていた領室も上層にあり、フーファイターズが占拠している場所だ。セルディムに挑戦している現在、ほかのフーファイターズの領室へ入ることは出来ない。ゆえに、せいぜい足跡があるとしても扉の前まで。時空が歪んでいるとしか思えないほど続く螺旋階段なので、すでに通過したセルディム部屋以外の五つまで探査していると、やや時間が奪われる。だが、問題はやはりカジノデッキだろう。
 蒸気船というよりは、戦艦といった方がいいような巨大な空間には等間隔に賭博台と給仕の奴隷人形、そして亡者たちがひしめいている。とてもすべての空間を探査など出来るものではない。物陰やくぼみなどいくらでもある。それに加えて、セルディムは、壁を歩ける。おそらく天井も。頭上を見上げると、シャンデリアのそばまで階段で上がれるようになっており、眩い光の裏側に足跡が蹴り込まれていたとしても、セルディムはそこまで慶を案内できるだろう。しかもその階段からはさらにバルコニーデッキへ続く道や、奴隷人形たちが作業するパイプ管だらけのバックヤードにも繋がっている。どちらかといえばカジノデッキよりも、その裏側に広がっているごちゃごちゃした空間の方が、足跡を残すには適しているかもしれない。いや、そう読んであえてすべての足跡をひとつのデッキに集中させる――そういう手もある。蒸気船が広大だからと言って、数学的に均等に足跡をバラけさせる必要はない。そんなことをすれば、一つ見つかれば逆算で全部やられる。そんなことはやるまい――絵描きのような人種と勝負するのは未踏経験だったが、セルディムは計算ずくの馬鹿じゃない。少なくとも慶はそう感じている。
「慶様?」
 慶は壁に張りつけていた見取り図を引っぺがして丸めて捨てると、エンプティを振り返った。慶に買い与えられたポーク・ハンバーガーを両手で慎ましく食べながら見返してくるエンプティに、慶は毅然として言った。
「エンプティ、お前、俺の味方だよな」
「え、は、はい。そうですけど」
「じゃ、お前――足跡、探して来い」
「えいっ」
 ぺちん、とエンプティが慶の頭を叩いた。
 慶が少女の胸倉を掴む。
「いい度胸してんなァ、お前」
「だ、だって慶様が無茶なこと言うから! に、人形は亡者と賭博師の勝負に干渉できないんです。だ、だからわたしがたとえ足跡を見つけても、それを慶様に教えることは出来ないんです!」
 慶は手を放した。
「ま、そうだろな――だが、何事も頑張り次第だ。そうだろ?」
「そ、そうなんですか?」涙目で服の襟を直しながらエンプティが聞き返した。
「頑張り次第って……わたしにどうしろっていうんですか」
「たとえばこんな命令なら聞けるか? ……この蒸気船に捺印されたセルディムの足跡を見つけたら、そこを『動くな』っていうのは」
 エンプティが青眼を見開いた。
「……それは」
「それなら、教えてることにはならない。たとえばお前が天井にある足跡を見つけてそこで立ち止まっても、俺には一発で足跡が分かるわけじゃないからな。どうだ」
 エンプティは逡巡していたが、やがてこくんと頷いた。慶はわしゃわしゃとその頭をかき回してやってから、
「いいぞ、じゃ、さっそくやってもらおう」
「は、はい」
「いや、お前じゃない。――脂貨よこせ」
 エンプティはどこから取り出したのか、いつの間にか茶色い紙袋を持っていた。ジャンクフードショップで安いランチを包んでおくようなその紙包みを受け取ると、慶はその中から黄金の脂貨を鷲づかみにして引っ張り出した。そして、そのまま壁際へと歩いていく。
 そこには、沈黙した奴隷人形が目を閉じて椅子に腰かけている。その膝に、慶はジャラジャラと脂貨をばら撒いた。少女人形の膝から滑り落ちて床に当たった脂貨は、なぜか慶が手放したよりも少なかった。
 ゆっくりと、その人形の目が開いていく。まつげが震え、唇から呼気が漏れ、うつろな瞳で慶を見上げる。慶は笑った。
「こんばんは、ガラクタ人形」
 奴隷人形も微笑み返し、ゆっくりと立ち上がってスカートの裾を摘む。恭順の意志を見せたその人形を、慶はもう見ていない。奴の視線にあるのは、壁際いっぱい、どこまでも続いている沈黙した奴隷人形の行列。紙袋に手を突っ込み、己自身の依代(よりしろ)を慶は指先で弄ぶ。そう、手はいくらでもある。いくらでも。
 慶が選んだ戦略。それは、古めかしくも効果的な――
 ――――人海戦術。

       

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