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 頬に感じる温かな感覚。脈打つように繰り返しそれは頬にあたるのだ。
ボクは外で寝てしまったのだろうか? ゆっくりと息を吸い込みながら目を
開ける。

『ワンッ』
「なっ!?」
 
 鼻孔に飛び込んでくる獣のにおい。ボクが目を開けた視線の先にあった
のは茶色の毛。少し視線をずらせばおもながな凛々しい顔つきの動物の顔。
 
「喰うなーーーーーーーーー、近寄るな!!」
 飛び起きるボクはその勢いで獣を払いのけると前後もわからずとにかく
その生物から遠ざかる。


「ああ、起きたんですね!!」
「ワンッ!!」
「はあ、はあ、はあ……へっ?」
 何者かからの声掛けに正気に戻るボク。目の前にあったのは犬と少年の
いる風景……何だ、この睦ましい光景。
 さっきの茶色い犬、そしてその飼い主と思わしき少年。4つの目はボクを
正面にとらえている。
 ボクはいったいなぜここに? 今になってずきずき痛んでくる頭を押さえ
ながらボクは自身の身に起きた出来事の一部始終を思い起こす。


「それにしてもびっくりしましたよ。僕がちょっと目を離したすきに窓か
ら飛び降りちゃうんですもん。停めてあった車のボンネットがクッション
替わりになったからよかったものの下手したら怪我じゃすまなかったかも
知れないんですよ」
 少年の言を呼び水に呼び起される記憶。ボクの行動、確かに今考えると
顔から火が出るほど恥ずかしい。
「……なにか、ご迷惑をおかけしたようで、すみません」
「いや、せめてるわけじゃありませんよ? ただ、心配になっただけで。で
も、大事なさそうでよかったです。本当に心配したんですよ。ああ、そう
だ。食べ物も用意してあるんです。傷に触らないようでしたら遠慮なさら
ずに食べてくださいね。おかわりもありますから」
「ああ、ありがとう」
 少年はテーブルの上に置かれた料理を指さしながらそういうのだった。
確かに申し出は魅力的ではあるが……はい、そうですか。と料理にむさぼ
りつけるほどボクの心は純粋ではなく、スプーンへと伸ばしかけた手を引っ
込める。

「この料理、ボクのために?」
「そうですよ。僕のお母さん、料理上手なんです。目覚めたら食べてもら
えるようにって、それはもう張り切って作っていました。だから遠慮なさ
らずに。母もおいしく食べてもらった方が喜びます!!」
「……」
 目を瞬くボク。
 嘘をついているようには思えない。それにボクをだまして得があるとも
思えない。ボクは少年を横目に見る。
 貨幣なんて持っていない。価値があるとしたらこの肉体であろうが、そ
れだってボクが意識のないうちにどうすることだってできただろう。つま
り目の前の料理は純粋な善意……そう受け取っていいはずだ。

 ボクは料理を口へと運ぶ。

「おいしい」
「ほんと!! 口に合うようでよかった」
 少年の声。どうしてそんなに喜べる? ボクは顔を上げる。
 赤の他人の幸福など妬みこそすれ共感し、心から祝福できる物なのか?
知り合いならともかく今日初めて会う他人だぞ。ボクにはとても理解でき
そうにない。 


「ああ、そうだ。君が目覚めたことみんなにも伝えてこなくちゃ。ええっ
と、名前教えてもらってもいい?」
「アーエル」
「あーえる? もしかして外国の人? どおりで目鼻がくっきりしてると思っ
たよ。アーエル君ね。じゃあ、そこでちょっと待っててよ……また窓から
出ていこうとしちゃダメだよ」
「……分かってる」

 嵐のように去っていく少年。ボクは一人赤面する。

「ワン」
 少年が去ると入れ替わるように茶色い毛玉がすり寄ってくる。動物は苦
手だ、何を考えているかわからない。
 ボクはもふもふしたその毛を乱暴になでながら思考を巡らす。

 とにかく、今は身の振りかただ。一日下界で過ごしてみて今のボクに生
活能力が無いのは明らかだ。この状態が三日も続けば間違いなく体調を壊
し、最悪死ぬ。
 けれども、神に見放されたボクだが運にはまだ見放されていないようだ。
見るからにお人よしな家庭に拾われた僥倖、生かさない手はない。

 理由は何でもいい。とにかく能力を使えるようになるまでの拠点として
ここを使わせてもらう。さっきの少年の反応から見るに三日……いや、一
週間なら。その間に体勢を整え……ってこの犬なんでずっとこっち見つめてる
んだよ。しっぽを振るな、かわいいじゃないか。
 ボクはモフモフを抱きしめる。

 ドタバタと聞こえてくる足音。少年がこちらに戻ってきたようだ。

「お待たせ、母さん呼んできたから」
 扉が開く。

「この度はお世話になりまして、ありがとうございました」
 一礼。まずは礼儀正しく。

「あらあらあらら、元気そうで良かったわ。家の前で行き倒れてるんだも
の、心配したわよ。痛いところなあい? お腹減ってたでしょう。もう大丈
夫だからね。今日はうちに泊まりなさい。何か事情があるにせよ聞くのは
あしたでも遅くないでしょう。今日はゆっくり休んでいなさいな」
「は、はい」
 何この母親。少年もそうだったが如何にも善人そうなおっとりとした顔
とは裏腹に押しが強く、強引に善意を押し付けられる。
 まあ、とはいえ願ってもない申し出ではある。ここは素直に受けるべき
だ。

「本当ですか。ありがとうございます。もう十分良くしてもらい申し訳な
いのですがお言葉に甘えさせてもらいます」
「この部屋は僕の部屋なんだけど、今日はアーエル君が好きに使っていい
からね。僕は別のところで寝るよ」
「えっ、いや別にボクはどこでも……」
「それじゃあアーエル君、おやすみなさい」
「朝ごはんも作っておくからしっかり休むのよ」
「へっ、ああ。ありがとうございます」
 ボクの……いや、少年の部屋から慌ただしく出ていく二人。犬もそれに
ついていく。残されたボクは緩んだ口元もそのままに閉じていくドアを見
つめていた。

―バタン
 閉じる扉。ボクはおろおろとベッドに座り込む……うん、決めた。難し
いことは明日考えよう。

 半ば無理やり現実逃避したボクはベッドにもぐりこむと押し寄せる疲れ
に引きずられながら、ゆっくりと深い夢の中へと落ち込んでいく。
 まだ純真だったころのあの温かい日々を思い起こしながらボクは体を丸
め明日へと思いをはせるのであった。