口のある生活

 壁に生えた口こと坂月さんが、わたしの唯一の友だちだ。
 町には至るところに目や鼻や足が生えている。たいていは喋らない。町の背景として、だらだら溶けこんでいる。増えたり減ったりを繰り返しているけど、誰も気にしていない。
 きっと、みんなイカれてるんだ。
 わたしもイカれてる。
「おまえ、またサボりかよ」
 路地裏のコンクリ壁に生えた坂月さんは、いつものように呆れかえった声で言う。
 最初に話しかけられたときは驚いたけど、もうすっかり慣れてしまった。偉そうなことを言うわりには坂月さんはおちょぼ口で、そのことを指摘すると、ツバを飛ばしてくるから、たまにしか言わない。
「今日ははやく終わったのよ。先生、倒れたから」
 路地裏は砂利道になっていて、靴から伝わる凸凹がちょっとかったるい。いつもみたいにもう一つの壁に背中をあずけると、コンクリートの冷たい感触が背中に伝わってきた。
 視線を感じて、右手のほうを見ると、壁に生えた茶色い目がわたしを凝視している。横歩きでちょっとだけずれる。
「先生なんていくらでもいるだろ」
「ううん。みんな死んだ」
「マジかよ」
「マジです」
 窓に人影が立った気がして、わたしは目を伏せた。坂月さんの向こうにはアパートがある。すごくボロい。錆びた絵の具を使ったような茶色い色をしている。
 たまに人が現れてこっちを見てくる。誰かに見られるのは嫌い。
「あうっ!」
 顔を上げようとしたら、左頬に衝撃が走った。木の枝にぶらさがった右腕がビンタしたみたいだった。よくわからなくてあたふたしてたら、坂月さんの笑い声が聞こえてきた。
「そんな嘘には騙されねーぞ。大人をなめんな」
「え? これって、坂月さんの右腕だっけ?」
 庭から飛び出た木の枝に右腕が生えているのは知っていたけど、いつもはぶらぶらしているだけだったはずだ。
「違う」
「じゃあ、なんで?」
「飼い慣らした」
「あうっ!」
 またまたビンタが飛んでくる。坂月さんはめちゃくちゃ笑っているみたいで、口が大きく開いている。
 無関係なはずの茶色い目さえニヘラ笑ってる。
「な、なんで、もう一回叩くのよ」
「おもろいから」
「あとでその口に唐辛子入れてやる。おっと、へへ、三回も食らわないよー」
 気配を感じて、わたしはさっと座りこんだ。右腕は木の枝にぶらさがっているから、座ったわたしまで届かない。
「ざまぁみ――あうっ!」
 今度は頭に衝撃が走った。目の前に柿が転がっている。どうやら柿をもぎ取って投げつけたらしい。
「甘いな小娘。フハハハ」
「むー」
 視線をあげると、右腕はグッドサインを作っていた。
「これが人生の経験値の差だな」
「坂月さんいくつなのよ」
「とりあえず柿でも食え。それから学校へ行け」
 

「また来たのか」
「ん。差し入れ」
 坂月さんのところにシュークリムを差し出す。コンビニで買ってきたものだ。
「寿司か」
「無理無理。学生をなめるなよ。シュークリームです。はい。口を開けて」
「甘いのは好きじゃな――んんんっ」
 坂月さんの口に、まるごと詰め込む。右手にこぼれたクリームをぺろっと舐める。少しなのにビリリとした痺れが走る。
「辛いから大丈夫だよ」
「あ?」
 もごもご動く口を見ているのは愉快だ。それが急におとなしくなる。
「おまへ、なひいれた?」
「わさび」
「ふざふぇんなよ」
 あまりに真剣な口調に、わたしは笑いがこらえなくなった。ずっと笑っていた。夜の路地裏に笑い声はよく響く。
 何かをぶつぶつ言いながら、坂月さんはシュークリームをごくりと飲みこんだ。
「あまりの辛さに涙目になったわ。燃えるように辛い」
「目ないじゃん」
「あるわ。どっかに」
「どこにあるのよ」
「知らねぇよ」
 わたしはペタリと座りこんだ。アパートの屋根のところにまん丸い月がかかっている。
 風に揺られたコンビニの袋がくしゃくしゃ音を立てる。
 坂月さんの口からはだらりと舌が出てた。
「まだ辛いんだが」
「探してあげようか」
「なんだよ」
「目」
「おいお前は勘違いしてないか。俺は口だぞ」
「うん」
「口が俺なんだ。それ以外なんでもない」
「耳もあるんでしょ」
「バカには見えねえよ」
「じゃあ、わたしには見えるってことだ。手とか足とか全部集めたら坂月さんは人間になるのでしょうか」
 お腹が鳴ったので、夜ご飯を食べることにした。プラスチックの蓋を開けると、鮭ときんぴらごぼうの混ざりあった匂いがする。
 坂月さんに少しだけあげた。

 先生が、自転車で転んで頭を強く打って死んでしまった。電柱から生えた足に引っかかってバランスを崩したらしい。足はもうない。
 好きな先生じゃなかった。お葬式へ行ったのは、学校よりもマシだったから。クラスメイトも何人かきていた。
 棺桶の中にいる先生はいつもの先生だった。おばさんが泣いたり怒ったりしていた。処分、とか、野ざらし、とか聞こえてくる。
 吐きそうになって、途中で外へ出た。
 いくらバスを待っていても来ないので、歩いて坂月さんのところへ行く。葬儀場の煙が遠くなるところまでいっても、知っているところへは出なかった。
 田んぼが消えて、十字路のようなところまでたどりつく。煙草屋さんの屋根には鼻がいくつもついていた。
 ポストの背中には目が四つ。シャッターが閉まった自転車屋さんには細長い足があって、だれかの仕業なのかボロいサンダルが履かせられていた。
 床屋さんのランプに赤い目。ガードレールに黒い目。橋の欄干に子どもの目。
 どれが坂月さんの目だろう。
 気づいたらいつもの薄暗がりのところまでやってきていた。
「ただいま」
「ここはおまえの家じゃないだろ」
 坂月さんが呆れたように言う。
 わたしは疲れたので、思いっきり壁によりかかった。右腕が攻撃してくるのが怖いので、坂月さんのとなりに腰を落ちつける。
「塩もらってきたけど、舐める?」
「いらねーよ」
「そうですか」
 舌に乗せてみたらしょっぱかった。坂月さんの隣には新しく左足が生えていたけど、何も言わなかった。先生の足に似ていた。

 風邪を引いた。歩こうとすると倒れてしまう。ほっぺに冷たい床の感触。目の前にはビールの空き缶が転がっている。
 片付けなきゃと思うものの、アルコールの臭いがさらに気持ち悪さを誘発する。ドアが半開きになっている。たぶん母親はいない。
 結局、三日くらい天井を見ていた。
 ようやく歩けるようになって外へ出ると、坂月さんはいなくなっていた。路地裏の塀はただの壁に戻っている。
 木の枝から生えた右腕も、壁に生えた茶色い目もなくなっている。
 息が苦しくなって何度か呼吸を繰り返した。鼻孔に入る空気の中に、焦げたような匂いが混じっている。それが脳天を突きぬけいくつも記憶が蘇る。
 坂月さんはいつも怒ってばかりだった。でもやさしかった。いまはただの黒い染みで、地面には柿を潰したような赤い色がついている。
 あだしたちがなにしたってんだよ。声を出そうとしてもつっかえて声にならなかった。
 力任せに小石混じりの土を握りしめる。指先が何か柔らかいものに触れた。必死でかきわける。出てきたのは、少し小さい右耳だった。
「ばか」
 しばらくしてから、誰にも見つからないように元通りに戻した。