Neetel Inside 文芸新都
表紙

金魚は吠えない
天井の顔

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 わたしが眠ってしまうと、天井にくっついている顔は安心したのか、自らの体を探し求めて移動し始めた。その顔は疲れきった森山未來に似ていた。
 手と足はそれぞれ天井の四辺にあった。パーツを分けることにより、わたしを騙そうとしたのだ。ゆえのドヤ顔。胴体は天井裏にでも隠しているんじゃないかな。
 パーツが揃った森山は首の骨をバキバキ鳴らして準備を整えると、木目の隙間からにゅるりと抜け出し、わたしの布団の横に降りたった。
 天井には未だに文明がなかった。森山は仲間と資源を求めて旅に出ることにしたのだ。
 わたしが目を覚まして天井が空っぽであることに気づく前に、森山は帰還しなくてはならない。わたしは病気で熱があるから、たぶんいっぱい寝るだろう。いっぱい寝ますよ。
 水曜日の午後で、とても静かだった。
 襖一枚へだてたリビングから、誰かのささやき声のような音が漏れている。森山が襖の隙間から出ていくと、そこには香子の背中があった。香子はじっと動かず、テレビを見ている。音は、最小限まで絞られているようだった。
 台所からはうどんの匂いがして、ときどき漂ってきていた。それは昼食の残りものだけど、森山は当然そんなこと知らなかったし、気づいてさえいなかった。彼には鼻の穴がないのだ。どうしてだかはわからない。天井が臭すぎて捨てたのかもしれない。
 森山がやって来たことに関係あるのか、彼女はリモコンを使ってテレビを消した。唯一の音の発生源がなくなると、家の中からは何の音もしなくなった。家の外からも音がしない。
 森山は窓から外の景色をのぞいてみた。誰もいなかった。車さえ走っていない。午後を少し過ぎたばかりなのに、みんな熟睡してしまったように静かだった。
 森山が道路をずっと進んでいって、「く」の字になっている角を曲がって、国道へ出ていっても人の気配はしなかった。バナナみたいになっている道をずっと歩いていくと、歩道橋が見えた。
 階段をのぼって、見下ろすと線路が続いている。ちょうど電車が来たところで、猛スピードで足元に呑まれていた。風が森山の身体を包みこむ。
 どうして電線はこれだけあるのに絡まらないのだろうか、森山はそう思った。森山には電線が木目のように見えた。
「ぜんぜん違うよ」とサトウちゃんが真面目な顔で言った。「木目はひたすらにまっすぐで短いんだよ」
 森山にはその声は聞こえない。そのサトウちゃんは昔のサトウちゃんで、森山に言ったわけじゃないからだ。いま彼女は歩道橋のすぐ向こうに建っている中学校にいる。チャイムが鳴って、サトウちゃんは自分の椅子を引いて着席したところだった。二年三組の教室は平常運転だ。
 かえりたい、とサトウちゃんはつぶやく。サトウちゃんは、そうやって本心とご飯粒をぽろぽろ零すところがあるのだ。それでいて自覚がなかったりする。
 教室のドアが開いて国語の先生が来るなり、サトウちゃんはウヘと吐きだしそうになった。まだ若い男の先生の手には大量の問題用紙が乗っかっていたからだ。
 しかも漢字のテスト。
 サトウちゃんが一番嫌いなものだ。オクラと漢字が無理で無理で無ー理ーなのだった。サトウちゃんは後ろを振り返って舌を出した。
 だけどその席は空っぽで誰もいなかった。机の上には教科書も筆箱もない。全然似てないバッハの顔だけが残っている。サトウちゃんは友だちが休みなことを思いだして前へ向いた。
 今日はお見舞いに行こうかな。サトウちゃんはそう思い、帰りのホームルームで、先生からプリントをもらった。
 部活を終えてから校舎を出ると、もう日は暮れていた。歩道橋の近くまで行くと、ちょうど電車が走ってくるところだった。網フェンスの向こうで、窓ガラスにたくさんの顔が映っては消え、映っては消えている。みんな同じ服装をしているとサトウちゃんは思った。会社帰りのサラリーマンたちだった。
 サトウちゃんはひょこひょこ階段をのぼりはじめた。手すりを叩くとペコペコ音がする。サトウちゃんの頭からは、もう電車なんて跡形もなく消えていた。サトウちゃんの脳内から抹消されても、電車はいまも走り続けていて、振動を乗客に伝えている。それは吊り革に掴まりながら本を読んでいる泰夫も例外ではなく、斜めに揺らされページをめくる手が滑った。
 会社の近くから乗車したとき、泰夫は座れたのにそうしなかった。彼は揺れに身を任せるのが好きだった。だから、ずいぶん昔、乗馬の機械が欲しくて妻と喧嘩をしたことがあった。喧嘩は娘が泣いて終焉を迎えた。いまでは笑い話として、ときどき食卓にのぼる。
 電車は終着駅につき、泰夫たちサラリーマンは電車に吐き出されるようにしてホームに出た。
 駅前には昔ながらのお菓子屋さんがあった。泰夫は無駄に明るい店内に入ってマドレーヌを買った。娘が好きなものであり、妻が好きなものであり、泰夫が少しだけ好きなものだった。
 泰夫は自転車に乗って走りだした。カゴの中に入れた鞄が跳ねた。手で押さえようとして、ベルがかすり、鋭い矢のような音が飛んでいった。音は、床屋のポールを通りすぎ、電柱についているチラシを膨らませ、前を歩いていた森山の背中に突き刺さった。森山が前のめりに転がると、自転車が通りすぎていった。もう少しで森山は引かれるところだった。
 むくりと起きあがると、森山は自転車の後を追うようにして歩き出した。その手には戦利品と呼べるものは何一つなかった。あれもいい、これもいい、と眺めているうちに獲得するのを忘れてしまうのだ。しかし、早く帰らなければ病人が起きてしまう。森山は歩く歩幅を大きくする。公園の角を曲がると、家の前では二人の人間が会話をしていた。
 あ、お見舞いに来てくれたんだ。
 はい。そんな感じです。
 あがってあがって。あ、これお菓子。
 うまそうっすね。
 森山は、泰夫とサトウちゃんの間をすり抜けて、家の中へ飛びこんだ。香子のいるリビングを通りすぎ、わたしのいる和室に帰ってくると、にゅるりと木目から天井に戻っていく。掃除機で吸われているみたいに戻った森山は、手足をもとの位置にバラして回る。騒々しい物音でわたしが目を覚ますと、いつもどおり天井には顔の形をした染みがついていた。
 真っ暗だった。
 どんよりとした暗い空気が漂っている。襖から一筋の光が漏れていた。それが大きくなっていく。
「あ、起きてる」
 ふいに放たれた声がいつもより耳に響いた。立っていたのは、サトウちゃんじゃなくて、よっちゃんだった。しばらく会わないうちに、髪が茶色くなっている。
 あ、よっちゃんか。つぶやくと舌が歯茎にくっついた。
「もっと喜びなよ」
 さいこーとバンザイすると、布団から出た手のひらが冷たいものに触れた。

       

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