金魚は吠えない

 通いはじめて三ヶ月でとうとう表札は知らない苗字に変わってしまった。これまでの「吉澤」から「渡部」に変わっている。渡部ってだれだよと小鳥ちゃんは思う。
 よっちゃんが引っ越してしまってからというもの、小鳥ちゃんはわざわざ旧吉澤家の門前まで足を運んで登校していた。
 距離は桂馬くらいしかないからそこまで遠回りにならない。角で相手陣地まで斜め切りという距離だったら小鳥ちゃんはしなかったと思う。
 寂しいだとか、信じたくないだとか、そういう理由じゃなかった。最初はそうだったかもしれない。小鳥ちゃん自身にもよくわかっていなかった。
 もうそれって癖だ。癖なんだ。
 あるいは坂道をスバババーンと下っていくのが爽快だったのかもしれない。旧吉澤家の場所には坂道がある。急勾配だ。
 小鳥ちゃんは普通に下っていった。そのうち学校がある右に折れるだろう。でも三ヶ月前よっちゃんの車は左に折れた。
 そして小鳥ちゃんとそのお姉ちゃんが見ているまえで消えた。終わってしまうとあっさりとしたものだった。
 小鳥ちゃんはどうしたらいいかわからなかった。帰るべきなのに、そうしていいのかわからない。いつまで経っても歩きだそうとしない小鳥ちゃんを見て、お姉ちゃんは「馬鹿でぇ」とつぶやいた。
 一生会えなくなるわけじゃあるまいし。
 小鳥ちゃんもわかっていた。でも本当にそうなんだろうか。
 考えているうちに小鳥ちゃんは自分の部屋に戻った。本を読もうかな、と小鳥ちゃんは思う。
 小さいときから小説が好きだった。敬愛する小島(信夫)と小鳥の文字が似ていることがささやかな自慢だった。だから書くこともあった。それはこのときより十年近く経った今も続いていることだ。
 本の背表紙をズズズと眺めていく。飛車のように横へとスライドしていく。室生犀星の『蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ』で、小鳥ちゃんの目がとまる。
 それから視線は敵陣地へ侵入するかのように上へと向いた。
 本棚の上には空っぽの金魚鉢がある。透明なガラス材で出来ていて丸い形をしている。見た目は柔らかそうなのに持ってみると固い。しばらくお役御免になったそれは、よっちゃんがくれたものだった。
 そういえば室生犀星の小説もよっちゃんから借りたものだ。というより一方的に貸してくれたのだ。「蜜のあわれ」は老作家と女性の金魚の会話で構成される対話体小説だった。金魚の“あたい”は春まで生きることを約束して小説は終わる。
 金魚鉢には、何代もの金魚が住んだ。
 最後の金魚は、二ヶ月前に死んでしまった。金魚鉢から飛びだしてしまったのだ。かわいそうな金魚はみんなからも小鳥ちゃんからも忘れられていた。
 そのとき小鳥ちゃんは熱を出していた。学校にも行けずリビングの隣にある和室で眠っていた。
 風邪を引くといつも和室に移動させられる。看護が楽だからという理由らしい。小鳥ちゃんにしても階段の上り降りをしなくて済むし、人の気配を感じられる和室は嫌いじゃなかった。
「うわ、真っ赤」
 時々よっちゃんがやってきて襖を豪快に開けた。布団のなかで身体の芯に火がついたような熱に耐えていた小鳥ちゃんは「ん」とだけ言った。
「イチゴのかき氷、顔から食べたのか」
 なんだそれ、と小鳥ちゃんは思う。
 よっちゃんは時々わけわからないことを言う。笑おうとしたら、思いっきり顔に手をあてられた。というより両頬を挟まれた。それからおでこもベタベタ触られる。
 よっちゃんの手のひらはひんやりしていて気もちよかった。
 とても冷たい。
「くそ熱いぞ」
「……ん」
「イチゴのかき氷、顔から食べたほうがいいよ」
 今度は笑うことができた。
 小鳥ちゃんにはいまが何曜日で何時なのかもわかっていなかった。熱がひかないせいで本を読むこともできず、一日中ぼんやりと現と夢の間を行ったり戻ったりしていた。小鳥ちゃんの視界にあるのは染み一つない天井と、紙が剥がれそうになっている襖くらいのもので、だからこのよっちゃんも夢かもしれないなあと思う。
「よっちゃん、……暇」
「寝な」
「……にべもない」
「鍋がないの?」
「にべだよ」
「羊を数えたらいいよ。ふわふわしてるし、暇つぶしにもなるし」
「……つまんなそう」
 よっちゃんが帰ってしまったあと、小鳥ちゃんは言われたとおり羊を脳内に爆誕させた。高らかに響き渡る「メー」の声。でもそれは何の間違いか山羊だった。小鳥ちゃんはこのとき山羊と羊の区別がついていなかった。
 爆誕させた山羊は小鳥ちゃんの「GO!」を合図に走りだす。蹄を地面に強く叩きつけ、加速する。加速加速加速。
 しかし肝心のハードルを小鳥ちゃんは忘れていた。脳内の領域限界まで山羊は駆けていく。山羊は想像を食い破り現実に侵食する。だけどそこには襖が待ち構えている。山羊は急にはとまれない。すさまじい衝撃音が辺りに響く。
 思わず両目を開けて顔を横に向けた。襖がぐらんぐらん揺れている。
 小鳥ちゃんは怖くなって羊を数えるのをやめた。どうしてそんなことが起こったのか小鳥ちゃんにはわからない。本当になんだったのだろうか。
 ただ目を閉じて何も考えないようにしているうちに意識が消える。それと呼応するように雲が太陽を隠した。
 小鳥ちゃんの眠っている和室も、その向こうにある庭も、いつか小鳥ちゃんがよく訪れるようになる路地裏も、すべて暗闇に包まれる。
 路地裏を左手に出ると、森に隣接するようにして線路が伸びていた。そこから電車が現れ、香車のようにまっすぐ進み駅のホームに滑りこむ。寝息が聞こえるくらい静かな和室とは対照的に、構内では人々の足音やアナウンスが絶えず響いている。改札口から吐き出された人々は、ほとんど一斉に空を見上げた。
 低く垂れた黒い雲から、ひらひらと白い雪が降ってくる。小鳥ちゃんはそんなことも知らずに眠っている。寝返りをうつ、雪のかけらが降りたつ。
 明日、小鳥ちゃんは降り積もった白い大地を見るだろう。そうしたら、きっと一年前のことを思いだすに違いない。
「登ー校ー、登ー校ー、登校サンバ」
 よっちゃんは変な歌をうたいながらハンドルを切る。「いいよ」と断ったのに、よっちゃんは車で小鳥ちゃんを拉致した。
「どうせ同じところいくんだからさ」
「そうだけど」
 ところどころ雪かきをしている人たちに躊躇いもなくクラクションを浴びせながら、でこぼことした雪道を進んでいく。
 小鳥ちゃんは寝起きでちょっと気もちが悪かった。
「元気ないなー」
「どうだろうか。そうかもね」
「また朝飯抜いてきたんだろ。私に任せな」
「さ寒い」
 小鳥ちゃんが思わず身体を丸めてしまったのは、よっちゃんが窓を開けたからだった。冷たい風が車内に吹きこんでくる。
 車が路肩にとまった。
「よし食え。イチゴシロップあるぞ」
 よっちゃんは助手席にある物をしまえるところを指さした。本当にありそうで怖かったから小鳥ちゃんは開けなかった。
「よっちゃんは馬鹿なのか」
「あ、メロンシロップがよかった?」
「いいから発進させたまえ」
 小鳥ちゃんは「GO」と腕を伸ばす。それからゆっくりと道路を走っていく。本当は学校なんて行きたくなかった。たまえなんてよく出てきたなー、と感心するよっちゃんの隣で、小鳥ちゃんは白い息を吐きながら身体をシートに深く沈める。
 反面、小鳥ちゃんは学校では浅く座る。騒がしい教室のなかひとりで本を読む。会話だけの小説を目で追っていく。
 人を好くということは愉しいものです、というセリフを読んでいるときに視線に気づいた。斜め前の席の佐西さんだった。小鳥ちゃんが顔を上げると、佐西さんは顔をそむける。ささいさえこ。さが三つもあるな、と小鳥ちゃんは思う。
 中学生になって半年以上経つのにお互いに会話はなかった。
 小鳥ちゃんは小学生のときに佐西さんと少しだけ話したことがあった。でも、小鳥ちゃんは忘れている。
 すべてを思いだすのは佐西さんがさささちゃんになるくらい仲良くなって、色んなことを喋るようになってからだった。
 佐西さんと仲良くなる前と同じように、ランドセルを背負った小鳥ちゃんは通学路を一人で歩いていた。いつもは車で送ってくれるお母さんはいない。
 ふらふら歩くから名札もいっしょになって揺れる。休み休み行きなさい、というお母さんの言葉を小鳥ちゃんは守っていた。
 小鳥ちゃんは足をとめた。視線の先には野良犬がいた。どこかから逃げてきたのだろうか。首輪があったかどうかはわからない。大きな犬だった。
「ワン」
 犬の鳴き声を真似して、先に攻撃をしかけたのは小鳥ちゃんだった。「なめられたらあかんのよ」とはお姉ちゃん語録である。
 それが変に刺激してしまったらしく、犬がめちゃくちゃ吠えてくる。
 いきがってごめんなさい、と心のなかで謝りながら目を閉じた。
 小鳥ちゃんの横からにゅっと影のようなものが現れる。女の子だった。佐西さんだ。そのころはおさげだった。大学生になって佐西さんはまたおさげになる。
 佐西さんはゆっくりと犬に近づいていく。
「あ、あぶないよ」と小鳥ちゃんがいう。
 佐西さんが犬の前で座りこむ。犬は吠えなくなっていた。いつの間にか佐西さんは犬の頭を撫でていた。小鳥ちゃんも触ることができた。あたたかい匂いがした。
 小鳥ちゃんは学校へ行き、帰りは車に揺られて帰ってきた。玄関にはよっちゃんの靴があって、真っ先に小鳥ちゃんはよっちゃんを探した。
 和室の襖があいていて、その窓の向うによっちゃんの背中が見える。
「よっちゃん、わたし犬にさわったよ」
「そっか」
 なんでよっちゃんは縁側にいたんだろうか。家には誰もいなかったから、よっちゃんだけ小鳥ちゃんの家にいるのはおかしい。
 同じ日のような気がしたけど、同じ日じゃなかったのかもしれない。それでも、そのころ大学生だったよっちゃんが他人の家に勝手にいるのは変だ。
 でも小鳥ちゃんは自慢をすることに夢中で気づかない。
「らくしょうだったよ」
「嘘をつけ」
「マジらくしょうだった」
 よっちゃんの甘い匂いと、乾いた砂の匂いが混じっている。よっちゃんは遠くをぼんやり眺めている。
 小鳥ちゃんは、なんだかここにいてはいけないような気がして、二階にある自分の部屋に向って階段を駆け上った。
 水槽にいる魚たちと、金魚にエサをあげる。
 そしてまた縁側まで戻ってくる。よっちゃんは何も言わないでぼんやりしている。小鳥ちゃんは報告する。
「今日はラスクがいっぱいエサを食べてたよ。はやいんだ」
「うん」
「でも。メロンパンはこのまえ死んじゃったんだ」
「うん」
「よっちゃんも死ぬの?」
「ひでぇ」
 いままで無表情だったよっちゃんが急に笑いだした。小鳥ちゃんもなぜだか笑ってしまう。
 よっちゃんが言う。
「まだ死ねないなー。こう見えて若いんだぜ」
「じゃあどっか行っちゃうの?」
「えーネガティブだな、たぶん。どこも行かないと思うよ。どこも行けないなのかな。面倒くさいし、大学も近いし。それに」
 よっちゃんが珍しく饒舌に語っているのに小鳥ちゃんは庭に現れた蛙を見ている。だからよっちゃんの言葉の後半は永遠に失われた。
 蛙は目ん玉をぎょろぎょろとさせている。
「かえるってお魚さんのエサ食べる?」
「知らんわ」
 小鳥ちゃんが蛙を見るのはたぶん二度目だった。一度目のときも、近くによっちゃんがいた。
 ちょうど一年くらい前に、よっちゃんと小鳥ちゃんとお姉ちゃんは夏祭りに来ていた。
 神社の近くの長い坂道に提灯の光がどこまでも続いている。小鳥ちゃんはよっちゃんと何度か顔を合わせたことがあるだけで、こうして一緒に外へ出歩くのは初めてのことだった。
 よっちゃんは笑顔を浮べていたと思う。そういうすべてが水中から外の世界を眺めているみたいにぼやけてしまっている。嫌だなと思う。もちろん小鳥ちゃんはお祭りを楽しんで笑っている。
「蛙がいる!」
 発見したのはお姉ちゃんだった。お姉ちゃんはわたあめを頬張りながら、草むらにいる蛙を見ていた。小鳥ちゃんも同じように蛙を眺めている。
「気をつけろよ。食われんぞ」
 小鳥ちゃんはびくっとなって後ずさる。お姉ちゃんが「馬鹿だな。そんなわけないよ」と言う。よっちゃんは楽しそうに笑いながら、りんご飴を食べている。
 浴衣を着ているよっちゃんはこのころ髪が長かった。
 人がたくさんあふれていて、気をつけないとすぐに見失ってしまう。だから、小鳥ちゃんも一回迷った。でもいつの間にかよっちゃんとお姉ちゃんのところにいた。小鳥ちゃんは迷わないようによっちゃんの手を掴む。
 そろそろ帰ろうかとなったとき、小鳥ちゃんの足が金魚すくい屋さんの前でとまった。
「やってみる?」
 よっちゃんが聞く。小鳥ちゃんはずっと大きなプールのなかにいる金魚を見つめていた。出目金もいた。
「もらえるの?」
「もらえるよ」
 横にいるお姉ちゃんが口をはさんできた。
「飼えるの? ことりクソ弱だよ。すぐやられるよ」
「やられないよ。わたしオニ強だもん」
「金魚は吠えないし、噛みつかないから大丈夫。くそみたいな課題とかも出さないし。そうだ明日までだ。うあー」
 よっちゃんが叫んだので、小鳥ちゃんは横を向く。そのときパシャンという音がして小鳥ちゃんの身体に水がかかる。
 金魚が跳ねたんだ。
 見ていないはずなのに記憶にある。
 燃えているみたいに真っ赤な金魚が宙で一回転している。ハサミみたいな尾ひれで水面を切り裂くように水へ飛びこんでいく。水しぶきがあがる。泳いでいた金魚たちが迷惑そうに遠ざかっていく。
 坂道をのぼりきって遠くから見ると提灯の光は密集してみえた。お祭りが終わってしまうと寂しくなるのはどうしてだろう。小鳥ちゃんは最後までよっちゃんの手を握っている。
 その温かさはいまでも残っていて、大人になった小鳥ちゃんは小さい女の子の手の平にそれをちゃんと伝えている。
「わたし逆上がりできるようになったんだよ。見せてあげるね」
「そっか」
 小鳥ちゃんと女の子は公園に向って歩いている。近所の女の子だった。大学生になった小鳥ちゃんが暇つぶしにいった将棋教室で出会った。笑うと八重歯が見えるところが小鳥ちゃんは気に入っている。
 二人は「渡部」が「渡部」のままの家を通りすぎ、坂道を下っていく。女の子に引っ張られ小鳥ちゃんは早足で進む。その横を一台の車が抜き去っていく。いま、左に折れた。
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