Neetel Inside 文芸新都
表紙

Sakiです、歌わせていただきました。
1.

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(みなさん、はじめまして。
京都府のR大学文学部、英文科出身の稲枝咲子(いなえさきこ)と申します、よろしくお願いします。
趣味は読書で、ジャンルを問わず幅広く読んでいます。特に読み終わったあとの余韻に浸ったり、物語の背景を深読みしたり、その後のストーリーを考えることがとても好きです。
 文学部出身でプログラミングはまったくの未経験ですが、いち早く先輩の皆さんのお役に立てるよう、精一杯努力していきます。
 よろしくお願いします!)

 もう何度練習したか、咲子自身覚えていない。数日前から考えていた自己紹介は一字一句間違えることなく暗記できていた。
 咲子は今、舞台の上に立っている。一人だけではない、左右には同じように新品のスーツをぎこちなく着た男女が舞台の端から端までずらりと並んでいた。
 この春、咲子は都内に本社を置くIT企業へ入社することになった。一般企業を対象としたシステム開発や独自の技術を提供するその会社は、世間での認知度は低いものの業界での評価が高い中堅企業であった。咲子は当初、事務員として就職するつもりだったが、募集はシステム開発者のみということを知らなかった。文系出身なのでどうせダメだろうと思っていたが、どういう縁の結びつきか採用されてしまい、今に至る。
 咲子を含む彼らは、晴れて社会人となる新入社員たちだ。この日は四月一日、世間ではエイプリルフールだが咲子たちには入社式という記念すべき社会人一日目、客席には重役だけでなく在籍社員も多く座っており、初めての顔合わせということになる。
 舞台の上では、客席から見て左から順番に自己紹介が行われていた。終わるたびにマイクが隣に手渡される、そんなバケツリレーならぬマイクリレーがまもなく咲子に到着するところだった。
 自己紹介が始まったときから緊張で喉はカラカラに乾き、手と脚が小刻みに震えていることは自分でもわかっていた。気を抜けば後ろに倒れてしまいそうなほど思考は霞んでいて、事前に飲み込んでいた手のひらの『人』という文字はまだまだ足りていなかった。
(大丈夫、何度も練習したんだから……周りには誰もいない、一人きりで壁に向かって自己紹介をする、いつものイメージのまま、すればいいだけ。あとは不慮の事故さえなければ何事もなく終わるはず……)
 月並みな自己紹介だが、なるべく印象に残らず、それでいて最低限の情報を伝えたい咲子には十分な内容だ。時間にすれば一分にも満たない、それなのに当の本人は不安いっぱいで、過剰な練習は少しの自信も与えてくれなかったようだ。
 客席から突き刺さる大勢の在籍社員と少数の重役たちの視線。客席に隙間なく並んでいて、とにかく多い。これまで人から注目を浴びることを避けていた引っ込み思案の咲子にとって、この自己紹介は社会人初の試練と言っても過言ではなかった。
(ああ、いよいよ次だ……)
 すぐ隣の、自分と同年代の男性は物怖じもせず、はきはきとしゃべって自己紹介をしている。咲子にはその姿が眩しすぎた。ありったけの勇気を振り絞ってもそれだけ堂々とはできそうにない。
(……気にしない、気にしない。同じようにはできないかもしれないけど、あれだけ練習したんだもの、無難に印象は残せるはず。緊張したら早口になるから、気持ちゆっくりに話すこと、できる限り全体を見回すようにすること、息継ぎはほどほどにして声がかすれないようにすること……)
 隣の男性の自己紹介が終わり、マイクの柄を向けられる。いよいよ試練のときだ、マイクを両手で持って一呼吸置いてから口元まで運ぶ、そんな咲子に危惧していた不慮の事故が訪れた。
「みなさん、はじめま……え、え?」
 自己紹介を始めようとしたときだった。まるで耳鳴りのような、細く鋭い金属音が響き渡り、マイクを持っていなければ両手で耳を塞いでいるほどに音量を増していった。
 顔を歪ませて不快感をあらわにする新入社員と在籍社員、そして重役たち。咲子はその音の正体と発生の原因がわからず、あたふたとするばかり。あれだけ練習していた自己紹介は砂がこぼれるように記憶から消え始めていたが、今の咲子が気づくはずもない。
「ハウリングが起きてるっ」
 先ほどまで自己紹介をしていた右隣りの男性は言った。しかしハウリングと言われても咲子はそれが意味することがわからない。
「マイクを切って!」
 次は左隣りの、咲子の次に自己紹介をする女性が言った。言われるがままマイクのスイッチに触れて電源を切ると金属音はたちまち消えた。
(マイクが原因だった……? 今のがハウリングっていう現象なのかな……ああでも、静かになって良かった。よし、もう一度最初から……)
「みなさん、はじめまして」
 気持ちを切り替えることに成功した咲子だったが、やはり冷静ではなかった。マイクの電源を入れることを忘れてしまい、自己紹介は周囲数人にしか聞こえなかった。
「あ、あああ、スイッチが……」
 身体をぶるぶると震わせ絵に描いたような動揺を見せる咲子に、舞台の上の新入社員たち、客席の在籍社員と重役たちからどっと笑いが溢れた。咲子の真剣な様子からのイージーミスがよほど滑稽だったのだろう、笑い声が収まる気配はなかった。
「ああ……え、ええっと、はじめまして……うう」
 ハウリングは不慮の事故としても、これは自分のミスである。咲子はそれをわかっていたので強く自分を責めてしまう。そうして、咲子の思考は停止してしまった。

 自己紹介は言うまでもなく散々な出来だった。目は泳ぎ、舌は回らず、まともに聞き取りもできない、もはや自己紹介とは呼べないものになっていた。しかもその後の自己紹介ではハウリングは起きず、咲子だけが貧乏くじを引いたことになる。これが他の新入社員たちより良くも悪くも印象を残すことになり、咲子には不本意な結果になってしまった。
 入社式は午前九時、取締役の挨拶から始まり入社辞令授与、新入社員たちの自己紹介、在籍社員代表の簡単な祝辞、役員の紹介、最後に新入社員たちの記念撮影。以上、一時間少々で終わり、新入社員たちは配属予定の部署ごとに別れて研修が行われる。
 咲子と数人の新入社員たち(咲子にハウリングを教えた男性と対処法を教えた女性は別の部署らしく、この中にはいない)は、教育担当者と思われる配属先の先輩社員に十人入るかどうかの会議室に案内された。そこでまず説明されたことが今後のスケジュールで、初日の今日は社内のルールや事務的な手続き、電話の取り次ぎ方や敬語などの社会人としての最低限のマナー講習をこの会議室で行い、二日目からは実際の職場となるフロアで実務に近い研修に取り組むらしい。
(お昼休みの時間、有給休暇と、病気などによる突発的な休みの取り方、給料日と初任給について……覚えること、多いなぁ)
 自己紹介の失敗をずっと引きずっている咲子は、教育担当者の先輩社員の口から次々に飛び出す話をメモに書き写すことに精一杯で、顔を上げて目を合わせるようにする、なんて余裕はなかった。なるべくフランクな態度で接しようとしている先輩社員の思いやりは咲子にだけ届かず、ユーモアを交えた説明の中で皆が笑うようなタイミングであっても咲子だけは沈んだ表情のまま、なんてこともあった。
 一通りの説明が終わると時間はちょうどお昼時。一時間の昼休みは各自任意に使用するルールとなっているが、この日は教育担当者の先輩社員と共に新入社員たち皆でランチを食べに行くことになった。
 咲子には憂鬱なイベントだった。基本的に一人で食事を摂ることに抵抗はなかったし、むしろ一人静かに自己紹介の失態で傷ついた心を休めようとしていたので、この提案は苦痛に他ならなかった。それは会話をしなければならない、という強迫観念にではなく、大勢いる中でずっと黙ったまま、ということが苦痛なのだ。
 すでに新入社員たちの中でグループが出来つつあった。新入社員同士で会話を繰り広げるグループ、先輩社員から仕事の話をねだるグループ、そのどちらにも属せずにひそひそと交流を深めるグループ。そんな中、咲子はどこにも属せないでいた。
 初めてというわけではない、小学生のころからこんな光景には慣れっこだった。人見知りをしてしまって自分から話しかけることができない、相手がやって来るのを待っているだけ。これまでは友好的な人たちの助けもあって少なからず友人もできたが、どうやら今回はだめらしい。時おり話を振られることはあったが、一言二言返すもそこから会話は発展せず、相手はすぐに別の方向へ顔を向けた。
(やっぱり、こうなっちゃった……)
 咲子は今朝作ったお弁当のことを思い出しながら、ハンバーグランチの付け合せのカリフラワーにフォークを突き刺した。せっかく早起きをして、初日なので気合いを入れて作ったお弁当は無駄にしたくない。夕食にすることを視野に入れ、中のおかずが傷みにくいものだったことを思い出し、安堵した。
 茹で時間の短いカリフラワーはとても硬く、口の中でガリゴリと鳴って咀嚼された。この味気ない時間が早く過ぎてほしいと思い、咲子は何度も時計を確認した。

 昼休みが終わり、マナー講習が始まった。二人一組になって電話の応対や名刺の交換、会釈や話し方などを交代で行い、互いに感想を述べ合いながら実施する、というカリキュラムだ。
 ペアになった相手は同性だったので、まだ気は楽だった。外見こそ髪を薄く茶色に染めた、やや苦手とする外見の相手ではあったが、話をしてみればそれなりに会話が弾み、感想を述べ合うのが楽しく感じられた。充実した時間は過ぎるのも早く、午前中よりも長いはずのマナー講習はあっという間に終わってしまった。
 時刻は定時の一時間前。雇用契約の関係上しばらくは残業代が支給されないため、教育担当者の先輩社員にはその期間は定時退社を推奨されていた。つまり、社会人初日はあと一時間で終わりを告げる。
 残りの一時間で、いよいよ配属部署のフロアへ移動することになった。心なしか咲子を含めた新入社員たちは緊張をしているようで、教育担当者の先輩社員がそれをほぐそうとあいかわらずフランクな口調で社内の案内をしつつ、先導する。
 そうして到着したフロアは、ざっと見て三十人ほどの社員がパソコンに向かい、誰もがゆったりとした空間を持てるぐらいの広さとレイアウトだ。明日からここが自分の職場なのだと咲子の気は引き締まったが、それも束の間だった。
「では改めて、先輩の方々へ自己紹介を兼ねて挨拶をしてみましょう。今日学んだマナーを思い出しながら、顔と名前を覚えて下さいね。と言っても全員は難しいと思うので、定時までになるべく多くの先輩と話をするようにしましょう」
 教育担当者の先輩社員は最後の試練を言い放った。すでに心身共に疲労している咲子には酷過ぎる提案だったが、他の新入社員は言われてすぐに行動していた。
 自己紹介、しかも対面で一対一、自分よりも目上の相手とだ。憂鬱すぎて腰が引けてしまう。他の新入社員の様子を確認すると、すでに打ち解けて笑みを浮かべながら話をしている者も少なくない。咲子はただ一人、出遅れてしまっている。
 自分に喝を入れ、まず役職者の在席状況を確認した。午前中に説明を受けていた通り、部署内にはホワイトボードがあり、そこにはネームプレートが貼られていてその隣には各人の予定が書かれている。部長、課長と呼ばれる、いわゆる上席たちはどうやら打ち合わせ中らしい。重要視するのはその人たちだけで、それより目下の社員の順番に関しては気にしなくてもいい、最低限敬語は必要だがそれほど年功序列が厳しくない。これはマナー講習中に教えてもらったことだった。
 咲子はフロアをぐるりと見渡して、新入社員と話をしていない、かつ忙しそうにしていない先輩社員を探した。だが他の先輩社員たちは皆忙しそうで、パソコンのモニターの前で難しそうな表情を浮かべ、せわしなくキーボードを叩いている。
 ふと、フロアの端のデスクに目が止まった。座席の位置が悪いのか、窓際にもかかわらず薄暗い印象を受ける場所にあるデスクと、そこに座る社員の姿。周囲にはその社員しかおらず他の社員たちのデスクから孤立している。どう見ても普通ではない環境なのだが、咲子はそれを気にするほど余裕がなく、とにかく自己紹介をして交流する、それだけに気が向いていた。
 ぱたぱたと走ってそのデスクに向かうと、咲子はあることに気づき、驚きというよりは恐怖に近い感情を抱いて身体がすくんでしまった。同時に、そこだけが周囲から浮いている理由がわかった。
 そのデスクは『整理整頓』という言葉を象徴するように片づいていた。それは物が置かれていない、というわけではなく、むしろデスクの上は多くのある物が縦横乱さず、碁盤の上に置かれているかのように並べられていた。
 ある物とは、手のひらぐらいの大きさの、いわゆる美少女フィギュアと呼ばれる人形。親指ぐらいの小さなものもある。咲子にはそのフィギュアのキャラクター名や登場作品なんて当然わからなかったが、几帳面な人物ということは見てわかった。
 よく見ればデスクの本棚には資格の参考書、プログラム言語や経営理念などの仕事に関係する文献の他に、マンガの単行本や週刊誌、他にもゲームの攻略本や音楽のコードの教本など、明らかに不要なものも多く入っていた。
「……誰?」
 デスクの環境に圧倒され、そこにいる先輩社員のことをすっかり忘れていた、このデスクの持ち主は、ほっそりとした体型のメタルフレームのメガネが似合う男性だった。スーツを着崩さず、それでいてカジュアルに着こなしているので、デスクの環境のことは忘れて先入観もないまま見ればそれなりに整った容姿をしている。けれど今の咲子には重要なことではない。挨拶をして名前と顔を覚えて交流する、それが最優先事項だからだ。
 できれば別の先輩社員のデスクに移動したかったが、気づかれた上にメガネの奥から細い目で睨まれている。もう成るように成れと咲子は玉砕覚悟で詰め寄った。
「し、新入社員の稲枝咲子です、よろしくお願いします!」
 深く頭を下げる。また噛んでしまったが入社式よりは遥かに上出来、ちゃんと伝わる自己紹介ができた。
 ゆっくり頭を上げると、オタクさん(咲子はこの先輩社員をそう呼ぶことにした)は驚いた表情を咲子に向けていた。
「あの……どうしましたか?」
「……もしかして、入社式の挨拶でハウリングを起こしていた子?」
 ぐさり。忘れかけていた記憶がイガグリのように針を出し、心の内側からちくちくと咲子を突いた。
「はい、そうです……ご迷惑をおかけしました」
「ハウリングなんて事故なんだから、気にしないほうがいいよ。それよりも……同じ部署だったとは。運がいい……これは運命かもしれないな」
 オタクさんは席から立ち、じっくりと咲子を見つめた。咲子は蛇に睨まれた蛙のように動くことができない。そんな二人の様子を新入社員と先輩社員たちは遠巻きに見入っていて、話し声やキーボードを叩く音は消えていた。
「あの……なんで、しょうか……?」
 自分以外の全員の視線を浴びている。それが耐え切れず、咲子は消えてしまうそうな声で尋ねた。するとオタクさんは咲子の手を取って、答えた。
「惚れた」
 オタクさんのこの言葉は、咲子だけではなく他のすべての社員を凍りつかせた。
「……え?」
「やっぱりそうだ、間違いない。惚れた、惚れました。僕は君に惚れた」
「え、え……?」
 オタクさんが何を言っているのか今ひとつ理解できなかったが、咲子は閃いた。今日は四月一日、エイプリルフールだ。
(ああ驚いた……普通に考えれば、こんな非常識な人が会社員をしているはずがないよね……それにしたって、ちょっと悪趣味だなぁ……)
程度にもよるが嘘をついても許される日なのだ。これは新入社員の歓迎の意味を込めたドッキリ企画に違いない。
「あのー、これ、エイプリルフールのイベントですよね?」
「そんなわけがない。僕は」
 そう言いかけたところで二人の間に教育担当者の先輩社員が割って入り、咲子はそのままフロアの外へ連れ出された。そして教育担当者の先輩社員に言い訳のような、慰めのような、歯切れの悪い言葉をかけられた。その様子に咲子は気づいてしまった。
(イベントじゃなかったんだ……)
 先ほどのフロア内の雰囲気、そしてオタクさんの真剣な様子はドッキリ企画ではないらしい。つまりオタクさんも何か意図があって、あんな発言をしたということになる。もちろん意図は不明だったが、入社初日から職場環境の悩みを抱えることになってしまい、咲子はますます気を重くするのであった。

       

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