Neetel Inside 文芸新都
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 携帯電話に登録していたアラームが鳴り、咲子は目を覚ました。どうやら泣き疲れていつの間にか眠っていたようだ。開いたまぶたがすぐに閉じてしまうほど、睡眠が足りていなかった。
 ロフトベッドから下り、点きっぱなしのノートパソコンを覗いた。あれから何度か彰人から通話がありチャットにも文章が残っていたが、咲子はそれを見ることもなく電源を落とした。洗面台で鏡を見ると目は充血してひどく腫れていた。いくら顔を洗ってもすっきりせず、シャワーを浴びても効果はなかった。
 ジャムを塗ったパンと、昨日の夜に作っていたコーヒーを温めて朝食にした。睡眠不足なのか、頭が回らず身体がとても重い。朝食を食べ終わるころには普段ならすでに外へ出ている時間になっていた。
 始業時間から逆算すると、遅刻するか、ぎりぎり間に合うか、難しい時間だった。けれど咲子は慌てた様子もなく職場に電話をかけた。
「おはようございます、稲枝です……申し訳ございません、本日体調が優れないので、休ませていただきます……はい、はい……失礼します」
 電話を終え、咲子は重いため息を吐いた。仮病を使ってしまった。学生のころでもそんなことはしたことがない。『お大事に』という言葉がひどく胸に突き刺さった。ゴールデンウィーク明けに体調不良だなんて、まるで五月病を患い嘘をついているようだ。信じてもらえたのか、それとも疑われているのか、どちらにしても憂鬱だったが彰人に合わせる顔がない。これが正しい選択だと自分に言い聞かせることにした。
 九時、始業の時間を示すころには咲子は時間を持て余していた。咲子の住まいにはテレビがなく、動画投稿サイトを見る気分にもなれない。日曜日のうちに家事は一通り終わらせてしまったので手持ち無沙汰だった。すっかり目は覚めていたが、もう一度ベッドに潜ることにした。皆が働いている時間にこうしてベッドの中にいることに、咲子は罪悪感で胸がいっぱいだった。
「……ん、んんっ」
 いつの間にか眠っていたようで正午になっていた。咲子は今日のお弁当にするつもりだった具材を皿に盛りつけ、ご飯は茶碗にいれて昼食とした。
もそもそと食べながら、咲子はふと思った。
(カラオケ、行こうかな)
 休日こそ混んでいたけれど平日なら空いているだろう。しかし外でばったりと同じ会社の人間に遭遇するかもしれないので、いつもの服装とは少しイメージを変え、クローゼットの奥から冬用のニット帽を引っ張り出して目深にかぶった。初めてのズル休みにしては手際が良いことに、咲子は自分のことながらに呆れて苦笑いを浮かべた。
 出かける直前にマイクとレコーダーに目が止まった。機種ごとの配線の方法はすでに彰人から教えてもらっていたが、とてもそんな気分にはなれず置いて行くことにした。
 恐る恐る外に出て、なるべく人通りの少ない道を使って駅に向かう。駅のホームや電車に乗る瞬間さえも周囲を警戒し、ずっと俯いてやり過ごした。目的の駅に到着して降りてしまえば多少は気が楽だったが、咲子の心が休まる瞬間はなかった。
カラオケまでの道は覚えていたため、迷うことなく行くことができた。平日のカラオケは空いていて、順番待ちもない。受付で会員証を作り、簡単にシステムの説明を受けたのちにドリンクバーで烏龍茶を注いで部屋に向かった。
 その部屋は、前に使っていた客の煙草の臭いが残っていた。
(うぅ、やだな……)
 ソファーに座り、リモコンで曲を選ぶ。世界観の構築まではできていないが、歌いたい曲が多くあった。
(投稿するわけじゃないから、気楽に歌ってみよう)
 そうして咲子は何曲が選び、歌った。やはりストーリー性が高い歌詞の曲が多く、烏龍茶で喉を潤し、休憩を挟みながらカラオケを満喫する。仮病で休んでしまったことへの罪悪感はもうなかった。
 けれど、咲子の気持ちは満たされない。もちろん歌うことは楽しめていたが、決定的にある要素が足りていない。
(自分で歌って……それだけ。この歌は、誰にも届かない……)
 誰かがいるわけでもなく、録音をしているわけでもない。今自分が歌っている歌を聴く者はどこにもいない。他の人に聴かれるという快感を一度でも味わった咲子には、自分で歌って自己満足ということができなかった。
 咲子は途中で演奏を止め、帰り支度を始めた。フリータイムはまだ三時間以上も残っていたが、もう歌う気分にはなれなかった。
(やっぱり、休まなかったら良かった……)
 帰宅するころ、咲子は罪悪感で押し潰されそうだった。こんなことなら無理をしてでも行ったほうが良かったかもしれない、とさえ思った。
 ノートパソコンをつけ、最近の習慣でネット電話を起動させた。すぐに閉じようかと考えたが、まだ勤務時間中なので彰人に見つかる心配はない――と思っていた咲子は目を疑った。
 彰人がログインをしている。しかも通話が入ってきた。
(え、え……?)
 出ていいものかどうか。一瞬悩んだが、ここで無視するのは不自然すぎるし、問題を先延ばしにしているだけだ。目を閉じ、一呼吸置いてから、通話に出た。
「……もしもし」
『もしもし。今日休んだそうだね』
「河瀬さんこそ、どうして……」
『今日出社したら、いきなり夜勤に出ろって言われてね。一度帰って、自宅待機しているんだ』
「私は、その……仮病、でした」
『ごめん、僕も嘘。仮病使って休んだ』
 恐る恐る告白したのに対して、悪びれもなく言い返した彰人がおかしくて、思わず咲子は笑ってしまった。彰人も咲子につられ、声を出して笑った。
『僕は滅多に休まないから大丈夫だろうけど、稲枝さんは確実に五月病患者だと思われているよ?』
「ああー、やっぱりそうですかー……」
『と、脅してみたけど、うちの職場はいちいち疑うような人はいないよ』
 二人は抱いていたわだかまりが晴れていくことを感じていた。感情を剥き出し、本音をぶつけ、傷つき、落ち込んだ。それが今、こうして笑い合っている。もう気を病む必要はなく、あとは誠意を持って謝るだけだった。
「……私、本当に傷ついたんですからね」
『うん、ごめん。感情的になり過ぎていた。録音も投稿も、苦痛と感じたことなんて一度もないよ。そこは誤解しないでほしい』
「いえ、私も売り言葉に買い言葉でした……ごめんなさい、私も言い過ぎました。でも、昨日言ったことはすべて本音です。そこは取り消しませんからね」
『うん、稲枝さんの言う通りだよ。僕はずっと、誰かの曲のオマージュ……いや、盗作をしていたようなもんだ』
 彰人はぽつりぽつりと話し始めた。
『初めて作った動画、あれを作っていたとき、本当に楽しかった。ああもちろん今も楽しいけど……なんというかな、本当に好きなものを作った、という意味で』
「わかります、それが伝わってきます」
『でもそのころは音楽の知識なんてほとんどなくて、自分の好きな音の組み合わせしか考えてなかった。だから、ひどいものだったよ』
「そうでしたね。再生回数もすごく少なかったです」
 その曲はお世辞にも完成度が高いとは言い難かった。ただデタラメに音が鳴っているようにも聞こえ、コメントも思わず非表示にしてしまうような内容ばかりだった。
『二曲目もそうだった。そのときのことはよく覚えている。ちゃんと音楽のことを勉強して、ボーカルシンセサイザーの使い方もしっかり調べた。でも、だめだった。再生回数も伸びない、つけられるコメントは非難ばかり。そのとき、心が折れてしまったんだ。一生懸命作った曲があんな扱いを受けて、すごくショックだった。まあ、甘えなんだろうけどさ……』
「言わないでください、そんなこと……」
『そして三曲目のとき、魔が差した。有名な曲、人気な曲に似たものを作れば認められるかもしれない、と』
「再生回数が増え始めたのは、そのころですね」
『この一曲だけ、と思ったんだ。良くも悪くも注目を浴びることはできた、これなら作りたいものを作っても見てもらえるはず……けど、一度覚えた快感から逃げることができなかった。そして、今に至るというわけさ。もちろん知っていたよ、コメントでずっとパクリだの盗作だのと言われていることは。でもずっと無視していた、僕は間違っていないと思い込むようにしていた』
 何も知らない者が彰人の行動を見た場合、きっと良い印象は受けないだろう。だが咲子も自分の身に置き換えて考えた。もし次に歌った曲がマイナーな曲で再生回数が少なかったとしたら、その次はメジャーな曲を歌うに決まっている。咲子も聴いてもらうことへの快感を知っているから、彰人の気持ちは理解できた。
 咲子は何もわかっていなかった。あのときは彰人を否定していたが、今日のカラオケですら満足できなかった。結局、同じ立場なら同様のことをしていたのだ。
『だから昨日、僕は自分自身が許せなかった。自分でも気づいていたことを、見ないふりをしていたことを、稲枝さんに指摘されて。だから八つ当たりだったんだよ……ごめん、いくら謝っても足りないぐらいだ』
「そんなことありません。私も、きっと同じです。考えが足りませんでした。それに、私は……河瀬さんに言わないといけないことがあります」
 相手がすべてを話したのに、自分だけが黙っているのは不公平だ。咲子はずっと黙っていた思惑のことをすべて話すことにした。
「私、引っ込み思案で、人とコミュニケーションを取るのがあまり上手じゃなくって、自分に自信が持てなくって……そんな自分を変えたい、そう思っていたんです。でも、ずっと変えることができませんでした」
『……そんなとき、僕に出会った、と?』
「声を好きだと言われて、困りもしましたが、すごく嬉しかったです。同時に、チャンスだと思いました。この性格を変えることができるかもしれない、そう思いました」
『なら、別に僕じゃなくても良かったし、僕の曲である必要もなかったってことか』
「……はい、そうです」
 言おうとしたことが言われてしまった。咲子は震える手を握り締めて、ネット電話の向こうにいる彰人へちゃんと届くように答えた。
『しかも僕なら、曲の編集やサイトへの投稿もして、しかも自分で書いた歌詞を曲にすると言っている。利点はそこか』
「……否定はできません。でも今は違います、私は歌いたいです、河瀬さんの曲を、河瀬さんが作りたいと思って作った曲を、歌いたいんです! これで変わることができなくっても、何も後悔はありません!」
『まあまあ、落ち着いて』
 つい熱が入り、興奮してしまった。彰人の静かな声に、咲子は体温が急激に下がったように感じられた。
『僕が思うに……どこに問題があるの?』
「……え?」
『別に大したことじゃないよ』
「ど、どうしてです?」
 咲子にとってそれは一大決心の末の告白だった。打算的な自分に自己嫌悪を感じていたし、彰人からも幻滅されると思っていた。それなのに、彰人は何も気にしていない様子だった。
『利害の一致だよ。僕は稲枝さんの声を求め、稲枝さんは編集から投稿までの作業をお願いする。どちらが欠けても完成はしない、良い関係じゃないか』
「あは、あはは……そうですかぁ……」
『まあでも、それを聞いたからには黙っていられないな』
「え……?」
 彰人がそれだけで終わるはずがない。これが小言が始まる前兆だということを咲子はすぐにわかった。
『コミュニケーション能力なんて、意識の持ち方一つだよ。僕だって元々は人見知りもするし、人と話すのも苦痛だったよ』
「え、そんなの嘘です!」
『本当だよ、会社の先輩に聞けばわかる。最初の半年間、今よりずっと愛想の悪い僕を知らない人はいないよ。でも仕事に不都合が出てきたから、僕は少しずつ意識をしてコミュニケーションを取るようにした。だから今では普通に話せるようになったんだ』
「河瀬さんは、もともとコミュニケーションができる人なんですよ……」
『弱音は禁止。できるよ、稲枝さんなら。まずは一ヶ月、がんばってみよう』
「自信ないです……」
『わかった、なら明日一日、意識してみよう。別にできなくてもいい、変わりたいと思うだけでいい。まだまだ遅くない、今日決心できて良かった、明日にならなくて良かったと思うんだ。僕も、もう他の人の曲に依存するのをやめる、いっしょにがんばろう』
 いっしょに、と言われても、咲子からすれば勝手な提案である。そう簡単に変われるはずがない。けれど、彰人ができると言うのならできるのだろう、咲子は彰人を信じた。それに二人なら心強い。根拠はなかったが、今度こそ変われるような気がした。
「わかりました、私もがんばります。自分を変えていくことと、作詞を……もちろん仕事も。河瀬さんにはこれからも助けてもらうことが多々あると思いますが、よろしくお願いします」
『こちらこそ、よろしく』
 まずは明日、テストで困っている同期に声をかけてみよう。きっと怪訝な顔をされるだろう、自分も挙動不審になってしまうかもしれない。けれど、それでもいい。少しずつでも変わろうとすればいい。
 今までは変われなかった。でも明日からは変われるかもしれない。咲子はそんな期待で胸がいっぱいだった。

       

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