◆ ◇ ◆ ◇

 これは一つのおもちゃと、一人の職人を描いた歌だ。
 最初のパートはおもちゃの視点。それはおもちゃ屋に売れ残ったブリキの人形。古臭くて今の時代には合わず、誰からも見向きもされない、手にも取ってもらえない。周りのおもちゃはどれも魅力的ですぐに売れていく。そんな様子をすぐ近くで何年も見続けていたが、ブリキの人形はそれで満足していた。ショーウィンドウの中から他のおもちゃを見つめる子供を、他のおもちゃを手に取る子供の楽しそうな姿を見ているだけで良かった。
 誰かに買ってほしい。自分も笑顔を与えたい。そんな気持ちはすでに消えていた。
 ある日、若い男がやってきた。その男はぐるりとおもちゃを見回し、ブリキの人形を手に取った。ブリキの人形は驚いた、そして人の温もりに触れ、忘れかけていた気持ちが呼び起こされた。
 自分は誰かのためのおもちゃなのだ。売れ残って他のおもちゃに向けられる子供の笑顔を見るために存在するわけじゃない。誰かを笑顔にしたい、楽しんでもらいたい。この男はそれを思い出させてくれた、救ってくれた。
 男はぜんまいを巻いた。ブリキの人形はようやく動くことができた。ぎしぎしと軋む手足を動かし、一歩、また一歩と歩くたびに嬉しさが込み上げてくる。
 きっとこの気持ちは伝わらない。相手に届くわけがない。けれどブリキの人形は言わずにはいられなかった。
 ブリキの人形に意志があるかどうかは、わからない。しかしブリキの人形は心から言った。
「ありがとう」

 ここで間奏に入り、曲調はがらりと変わる。これまでのブリキの人形のパートは機械的な音源が使われていたが、ここからはピアノや弦楽器が中心の柔らかなメロディとなる。
 こんな曲調の変化は初期の彰人の曲に多く見られた。一つの曲の中で何回も、しかも劇的に変わり、他にも不協和音を好んで使い、テンポも一定しないことが多かった。咲子がコメントを見る限りでは、これらの理由で彰人の初期の曲はまったく受け入れられなかった。
 彰人は自分を押し殺して、多く称賛を浴びることのできる曲を作るようになった。その結果、多くのユーザーが彰人を評価した。だが、自分が好きなものを作っていないことを彰人はわかっていた。
 咲子はそんな彰人の曲の欠点に気づいたが、お互いの関係が壊れることを恐れ言い出すことができなかった。けれどあの日、感じていたことをすべて言い放ち、お互い傷つき合った。それを乗り越えてできたのがこの曲なのだ。
 咲子は彰人の初期の曲が好きだった。それは単純に二人の感性が近かっただけかもしれないが、この曲はもちろん、初期の曲を称賛している人はいた。どんな曲でも認めてくれる人は必ず存在する。

 次のパートは若い男の視点。彼はおもちゃの職人だった。幼少のころからおもちゃを作り続け、数年前に才能が開花し子供の笑顔のためにおもちゃを作り続けた。
 けれど、あるとき彼は欲を持ち始めた。名声のため、お金のため、つまりは自分が満足するために、おもちゃを作るようになった。次第に子供は離れていったが、彼を認めてくれる大人が多くいた。彼はそのことに満足していたが、自分に疑問を感じながらおもちゃを作り続けた。
 ある日、彼は何気なく入ったおもちゃ屋でブリキの人形を見つけた。数多くあるおもちゃの中で一つだけ古臭いブリキの人形を見て、子供のころ初めて買ってもらったおもちゃがブリキの人形だったことを思い出した。
 ぜんまいを巻くと、ブリキの人形はぎこちなく動く。ただそれだけのことなのに、彼は高揚を抑えきれない。初めておもちゃを手にしたときのような、わくわくとした気持ちが溢れた。
 そのとき、聞こえた。幻聴ではなく、たしかに彼の耳はブリキの人形の声を聞いた。
 彼は思い出した。その昔、子供たちに言ってもらったその言葉。もうずっと聞いていなかった。
 最初は、その言葉さえ聞ければ良かった。それがいつの間にか、他のものを欲するようになっていた。そのことをこのブリキの人形は思い出させてくれた。
 この気持ちは伝わらないかもしれない。けれど、彼はブリキの人形の声を聞くことができた。だからこちらからも伝わるかもしれない。男はブリキの人形を抱きかかえ、心から言った。
「ありがとう」

 伴奏は次第に音が小さくなっていく。ここから先の歌詞はない、つまりこの曲はこのまま終わる。多くの場合、ここで間奏が入り物語を終わらせるパートへと続くのだが、咲子はそうしなかった。
 咲子自身、歌詞としては中途半端ということはわかっていた。コメントにも指摘されていたし、彰人にも同じことを言われたが、咲子はここで終わらせたかった。ここから先の物語は、この曲を聴いた一人一人に考えてほしい、想像してほしいと思ったからだ。
 この曲の主役はブリキの人形なのか、それともおもちゃの職人なのか。おもちゃの職人は今後どんな気持ちでおもちゃを作るのか。そしてブリキの人形は何を思うのか。作詞者の咲子の手を離れ、どのようなエンディングを想像されるのか。自分だけの世界観を表現するのではなく、視聴者に世界観を構築してほしいという咲子の想いがあった。

 伴奏は消えて、曲は終わった。

◆ ◇ ◆ ◇

「ありがとう」

 まず彰人が気づき、その次に咲子が気づいた。最後に言った「ありがとう」は歌詞にはない、しかも伴奏が消えてから言った、咲子自身の言葉だった。
 つまり、失敗。咲子はマイクの電源を切り、レコーダーの録音を止めた。
「……あはは、ごめんなさい。何とかなりますよね……?」
 歌の出来自体は申し分なく、これをやり直すというのはもったいない。最後の部分だけカットしてもらえるよう、咲子は彰人の編集に頼ろうとした。だが、彰人は何も答えなかった。
「あ、あの……?」
 完璧を追求する彰人のことだ、この失敗で機嫌を損ねたのかもしれない。俯いている彰人の顔を覗き込むと、咲子は驚きのあまりに言葉を失った。
 彰人が涙ぐんでいたのだ。
「ど、どうしたんですか!」
「いや、嬉しくってさ……嬉しい、すごく嬉しいよ」
「そんな大げさな……」
「大げさじゃないさ。あの日、僕は稲枝さんと出会えて良かった。声をかけて良かった。歌ってもらえて本当に嬉しい。途中、喧嘩もしたけど……それで僕の目が覚めた。本当に良かった。ありがとう、いくら言っても足りないぐらいだ」
「私だって同じですよ……河瀬さんがいなければ、今の私はいなかったです」
 一年前のあのころ、ここまで自分が変わっているだなんて思ってもいなかった。もちろんきっかけは彰人で、歌を通して変化したことには違いない。けれど変わろうと決意し、努力したのは咲子自身だ。咲子一人なら、きっと今までのように変わることができなかった。彰人がいたからこそ変わることができたと、咲子は思っていた。
「そう言えば、河瀬さんが私の声を好きになった理由、わかったかもしれません」
「え、理由?」
「はい。変なことを言うようですが、彰人さんの作った曲のボーカルシンセサイザーと私の声、似ているんです。イントネーションとか、間の取り方とか」
 ボーカルシンセサイザーの曲を歌おうとしたとき、声の高低や息継ぎなど、どうしても無理をしなければならないところがある。しかし、二人で作ったこの曲を練習しているとき、咲子は少しの負担も感じなかった。他の曲を歌ったときよりも、遥かに歌いやすかったのだ。
「たしかに、声はぜんぜん違うけど……言われてみれば、似ている気がする」
「ほんとに、少し似ているってだけですけどね。でも、河瀬さんは私に気づいてくれました。さっきも言いました、これからも何度も言ってしまうかもしれません、河瀬さんが気づいてくれたから、今の私がいます」
 咲子の目元にも涙が溜まっていた。あと少し、彰人が涙を見せれば咲子の涙も決壊してしまう。咲子はハンカチで涙を拭き取り、無理やり笑顔を作った。
「やっぱり、声フェチじゃないですか」
「ど、どうしてこのタイミングでそれを言う……」
「せっかくひさしぶりに会えたんですよ、しんみりしたくありません。でも、声フェチには違いないですよね?」
「そうだね……まだ認めたくはないけど、否定もできないな。僕は声フェチで、稲枝さんの声萌えだ。もっと聞かせておくれよ」
「どんなセリフを言えばいいですか?」
「君って、そんなに積極的だったっけ?」
 咲子の反応は予想外だったのだろう、彰人は困った顔を見せ、ようやく笑みを見せた。咲子はそんな彰人の様子に、子供がいたずらを成功させたように笑った。

 一時間はあっという間に過ぎ、二人がカラオケを出るころには陽は落ち、空が暗くなり始めていた。
「んー、一時間ぐらいなら疲労も良い感じです。河瀬さんも歌えば良かったのに」
「僕は音痴なんだ。それに聴いているほうが楽しい」
「そうですか。ちょっと聴いてみたかったんですけどね」
 大きく伸びをして身体をほぐした咲子は、すたすたと駅に向かって歩き始める。そんな咲子の後ろで、彰人はそわそわとしていた。そんな挙動不審の彰人に気づき、咲子は振り返って不思議そうに見つめた。
「……どうしました?」
「い、稲枝さん?」
「はい?」
「そろそろ、十九時だね」
「ああ、そうですねぇ」
「遅くもなく、早くもない。ほどほどの時間帯だ」
「……何の話ですか?」
「えーと……稲枝さんは、お腹、空いていないかな?」
 咲子は彰人のその言葉を察した。一年前、収録後はすぐに帰宅した彰人から夕食を誘われているではないか。
「もしかして、夕食のお誘いですか?」
「ま、まあそんなところだよ。一人で食べるのもなんだしね」
「そうですねー、私もこのあとの予定はありませんし……」
「い、行く? 行かない?」
「んー、なら、行きます。私、いい店知っているのでそこに行きましょう。あ、でも、その前に電話してもいいですか?」
「予約するの?」
「いえ、異性と食事に行くので、彼氏に一言連絡を入れておこうかなと思いまして」
「えっ!」
 彰人は信じられない、と言った様子で目を丸くした。そんな彰人の様子があまりにおかしかったのか、咲子は声を上げて笑った。
「なんだよ、笑うなよ……」
「冗談ですよ、冗談」
「そ、そうか。なら安心だ……」
 しばらく歩いたところで彰人はあることに気づき、咲子の前に回り込んだ。
「ちょっと待て。冗談というのは、彼氏がいる、という点か? それとも彼氏に連絡をする、という点か? どっちだ?」
「ふふ、どっちでしょうね」
「軽く流すな、これは大きな問題だぞ……そうだ、手だ、手を見せてくれ。主に指が、薬指が見たい」
「えー、セクハラですよ、それ。そんなことより、次の曲のことを考えましょうよ。そろそろ歌詞が完成しそうです。曲に合わせて作るって大変ですねー」
「それは楽しみだが、まずは指をだな」
「先にご飯! 次に曲ですよ! ほら、行きますよ!」
 必死な様子の彰人に笑いながら、咲子は両手を隠して走り出した。もう少し、せめてお店の中に入るまで焦らしてみよう。そして手を見せたときの、彰人のほっとした顔を想像すると咲子は楽しくてしかたがなかった。