オタクさんは河瀬彰人(かわせあきひと)という名前らしい。
 教育担当者の先輩社員が言うには、彰人は見ての通り趣味が偏っていて、最低限のコミュニケーションしか交わそうとしない人物。上席を含むすべての社員から要注意人物として扱われているのだが、その一方で多くの資格を取得し、仕事は丁寧、正確、迅速で顧客からの信頼も厚く、入社三年目にしては極めて能力の高い人物であるため見て見ぬフリをしている、とのこと。しかし今回の件は新入社員にセクシャルハラスメントを働いたと言えなくもない、目に余る行為だったので上席に報告するらしい。
 少し気の毒には思ったが、咲子がどうこうできることではない。何か言おうにも彰人の罰が重くなることはあっても、軽くなることはそうないだろう。それなら黙って、あとは先輩社員たちに任せるのが無難である。
「お先に失礼します、お疲れ様でした」
 彰人を除く社員全員の席を回り、一人一人に頭を下げてからタイムカードを切った。入社式だったので出社時は切っていないため、出社時刻には九時と手書きされている。そこから定時の十七時半まで八時間半、うち休憩時間を除いた七時間半が働いた時間だ。
 長い、とにかく長い一日だった。入社式の失敗から非常識な告白まで、今日は一年分の落胆と驚きを味わったように思えた。
「あ、稲枝さん!」
 会社を出てすぐのところに同じ部署の新入社員が集まっていて、マナー講習でペアを組んでいた相手が咲子に駆け寄った。
 咲子はその相手の名前を覚えていなかったので『茶髪さん』と呼ぶことにした。
「は、はい……何ですか?」
「今からみんなでご飯食べてカラオケに行こうかって話しているんだけど、良かったらどうかな?」
 この誘いは咲子を悩ませた。親交を深めたいのなら行かなければならない、けれどそうなると帰宅は遅くなる。今日は月曜日なのでまだまだ平日が続く。それに明日からは本格的に仕事が始まるのだ、ここで体力を消耗するのは得策ではない。
「ありがとう、でも、引越しの片付けがあって……ごめんなさい」
 咲子はこの春、一人暮らしを始めたばかりだった。就職先が都内だったので大学卒業から今日までの間に地方から引っ越して来ていた。もう何日も経つはずなのだが、まだダンボールが積み重なり最低限生活に困らないぐらいのものしか取り出していない。
 明日からは女性は私服で良いと言われていたので、着回しと思われないよう少なくとも今週は服装が被らないようにしなければならないが、服の入ったダンボールはほとんど開封できていない。
「そっか、じゃあ次誘うね。おつかれさまー」
「お疲れ様です……」
 小走りで集まりへ戻り、ざわざわと騒ぎながら移動していった。一人ぽつんと残された咲子は、自分の選択が正しかったかどうか疑問に感じていた。もしかしたら、無理をしてでも誘いに乗っておくところだったかもしれない。行ったところで一言もしゃべらず座っているだけ、ということもあり得たが、同時に話しかけられることで親しくなれる可能性だってあったはずだ。
 思えば大学生のころも、特に用事があるわけでもないのにゼミの飲み会を断っているうちに孤立していた。そのときと今の状況は酷似している気がした。
(あーあ……すごいなぁ)
 会ったばかりの人たちと食事や遊びに行ける行動力が羨ましい。比べて自分は相手の名前すらはっきりと覚えていない。つくづく思う、同じ時間を過ごして生きてきた自分が情けない。
 変わりたい。咲子はときどき、そう考える。特に自分は一人ぼっち、と感じてしまうときに考えてしまうことが多い。けれど、咲子自身諦めていた。もし自分を変えるだけの行動力、意志があるのなら、とっくに変わっていたはずだ。努力もした、決意もしたが、その結果が今の自分だ。だから、もう変えることはできない。咲子は自分に悲観さえしていた。
(帰ろう……)
 ぽつぽつと歩き始める。まだ陽は高く、ビジネス街を行き交う多くのサラリーマンたちが帰宅中なのか、それとも外回り中なのか、咲子の知るところではない。早足で歩くサラリーマンたちの波にうまく乗れず、咲子の足取りは危なっかしいものだった。
(こんな日々が毎日続く……そんなの無理、ぜったい無理だ。一週間も耐えられる気がしない)
 咲子は社会人一日目にして心が折れていた。そんな咲子の耳に、ビジネス街の喧騒の中で一際大きな声が飛び込んできた。
「稲枝さん!」
 突然のことに咲子は驚いて身体を震わせた。足を止め、ゆっくり振り返るとそこには彰人がいた。会社から走ってきたのか、ぜぇぜぇはぁはぁと息を切らして肩を大きく揺らしていた。
「……オタクさん?」
 と言った瞬間、口を抑えた。うっかりと自分の中の呼び方をしてしまったが、彰人は呼吸を整えている途中だったので気づかれていない。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、相手は突然告白をしてきた人物なのだ、油断はできない、と身構える。
「えっと、河瀬さん、お疲れ様です……」
「ああ……お疲れ様」
「あの、お仕事は……?」
「終わらせてきた……ああいや、キリのいいところまで進んだから、今日のところはもう終わり、と言う意味ね。はぁー……やっと息が楽になってきた」
「はあ、それは良かったです……で、その、何か御用でしょうか?」
「一言、謝りたいなと思って。さっきの、アレね」
 その発言に咲子は驚いた。先ほどの行為が非常識なものだと認め、反省し、謝罪をしようとしている。彰人に対してはだいぶ悪いイメージを持っていたが、これには咲子も気を許しそうになった。
「いえそんな! ちょっとびっくりしただけです、もう気にしていませんから」
「そう? なら良かった。もう目の前にいると思ったら興奮が抑えきれなくて、ついああ言っちゃって」
「興奮……ですか?」
「入社式なんて面倒だから午前は休暇にしようと思っていたけど、課長が出とけってうるさくってさ。でも出席して良かったよ。ハウリングの印象が強すぎて顔も名前も覚えていなかったから、どうやって探そうかと悩んでいたら……同じ部署に配属だなんて何かの縁かなぁ」
 前言撤回。『興奮』という単語が出たあたりからやや違和感を覚え始めていたが、やはり変な人だ、言っていることが意味不明すぎる。顔も名前も覚えていなかったのになぜハウリングを起こした人物だとわかるのか。
逃げよう。咲子の本能が警告を告げる。
「すみません、今日は用事がありまして」
「それはカラオケの誘いを断るほどの用事なのかい?」
「……どうして知っているんです?」
「他の新人たちが、帰る前からこそこそ騒いでいたからさ。ああいう学生のノリを引きずるのは良くないよね。僕が想像するに、苦手な雰囲気だから断った、と思うけど」
「…………」
「別にバカにしているわけじゃないよ。僕もその気持ちわかるなぁ」
 図星とも言えなくもない。彰人の言う『学生のノリ』は、たしかに咲子は苦手としている。けれど素直に認めるには悔しい。返す言葉が見当たらず黙り込んでしまうが、それは正解と認めているようなものだ。いっそ本当の理由を言おうかとも考えたが、ますます惨めな気分になってしまう。
 咲子は黙ったまま、彰人を拒絶するように早足で歩き出した。が、彰人はすぐに追いついて咲子に並走する。
「待って、ちょっと待ってよ」
「待つ理由がありません、私には、カラオケを断るほどの大事な用事があるんです!」
 ついムキになり、ぴしゃりと叫んで走り出した。慣れないパンプスを履いているのでたいした速度は出ない。それに女性の脚で男性を振り払えるはずもなく、またすぐに追いつかれてしまう。
「稲枝さん、話したいことがあるんだ。一時間……いや、三十分で済むから。どうして僕があんなことを言ったのか、全部説明するよ」
「嫌です、お願いします、付いて来ないでください!」
「お願いだ、僕の話を聞いてほしい」
 逃げる咲子に追う彰人。人混みを掻き分け、するすると進んでいく。行き交う人たちはじろりと二人を見て、すぐに視線を外してしまう。痴情のもつれ、なんて誤解をされているのだろうと考えるだけで、咲子は怒りと恥ずかしさから身体が熱くなってしまう。
 だがこのまま逃げているだけでは埒があかない。自分の住むマンションまでには振り払いたい。そんなとき、横断歩道とその向こう側のコンビニが目に入った。コンビニに入れば事態は好転するかもしれない。恥を覚悟で店員に助けを求めるのも選択肢の一つだ。
 信号はちょうど赤から青に変わった。運が良い、このまま走り切ってコンビニに飛び込むだけ。ラストスパートをかけるように、咲子は大きく脚を踏み出して走った。
 ドサリ
 横断歩道の真ん中に差しかかるところで、鈍い音が聞こえた。嫌な予感がしたので振り返って見ると、彰人が倒れている。通行者は彰人とその周囲に散らばった彰人の荷物を避けるように歩き、奇妙な空間ができていた。
(ど、どうして倒れてるのっ?)
 体調の異変? それともつまづいただけ? まさか気を引くための演技? ともかく、 こうなってしまえば逃げることは容易いが、たとえ逃げようとしていた相手だとしてもこんな状態を放っておくことは咲子にはできなかった。
「河瀬さん! 大丈夫ですか!」
「足が、つった……」
「早く戻ってください! 荷物は私が拾いますから!」
 信号がチカチカと点滅している。ひとまず腕を引っ張って起こし、そしてカバンから撒き散らされた彰人の荷物を急いで拾う。携帯ゲーム機にブックカバーがかかっていないマンガが数冊。携帯ゲーム機はともかく、どのマンガの表紙も美少女が描かれていて、拾うのも躊躇してしまいそうになる。
 そんな予想を裏切らない荷物の中で異彩を放つものがあった。それは『作詞・作曲入門』と書かれた初心者向けの音楽の教本だ。しかもかなり読み込まれていて全体が手垢で薄汚れている。
 そういえばデスクの本棚にもコード進行の教本があったと、咲子は思い出した。デスクと荷物、それぞれ共通する音楽の本が気になったが、信号は赤になっていたので彰人の元へ急いだ。
「あの、怪我はないですか? これ荷物です、たぶん全部拾えていると思いますが……」
「大丈夫……ありがとう」
「スーツ、汚れちゃってますよ、払うぐらいで綺麗になるかな……あ、血が出てるじゃないですか」
 砂利で汚れた箇所を手で払っていると、咲子は彰人の手のひらから血が滲んでいることに気がついた。バッグからティッシュと絆創膏を取り出し、血を拭ってから絆創膏を傷の上に貼った。
「消毒はしていませんので、帰ったらちゃんと洗ってくださいね」
「ああうん……ごめん……ありがとう」
「それでは、私はこれで。お疲れ様です」
 別に恩を着せるわけではなかったが、これで後ろめたくなって遠慮してくれるだろうと打算し、そっけない態度でこの場から去ろうとした。
 ところがそれは甘すぎた。彰人は、咲子の手を握った。
「……どういう、つもりですか?」
「お願いだから……話を、聞いてほしい」
「これはセクハラです。このことは然るべき相手に報告を辞さない覚悟です、それが嫌なら離してください!」
「それはすごく困る……けど、このまま話ができないというのも嫌だ。だから……今日だけでいいから聞いてくれないかな。都合が悪いなら……明日でもいいし」
 彰人には断られるという発想がないらしい。今日が嫌なら明日も嫌に決まっているじゃないか。だが、彰人の真剣な様子が咲子に伝わった。本気だ、それほど相手は自分に話したいことがあるのだ。
 カラオケを断った手前、まっすぐ帰って引越しの片付けをしなければならない。特に服が詰められたダンボールをすみやかに見つけなければならない。しかし真剣な様子の先輩のお願いを無視するのもためらわれる。
それら二つを天秤にかけ、咲子は結論を出した。
「……さっき言っていた通り、三十分だけなら、お付き合いします」
 結局、根負け。まあ三十分ぐらいなら片付く量は微々たるものだ、他のことに使ってもいいだろう――そんな考えが入社後も引越しの片付けが終わっていないという惨状を招いているのだが、咲子が自分の欠点に気づくはずもなかった。