「酒は飲めないんだ、コーヒーでも飲みに行こう」と彰人が提案し、二人は少し歩いた場所にある喫茶店にいた。わざわざ遠い喫茶店を選ぶのはなるべく人に見られないようにするための工作らしく、咲子も変な噂が広まることは避けたかったのでそれに了承した。
 お互いコーヒーを頼んで、注文して届くまで二人の間に会話はなかった。咲子は自分から話すことなんてないし、彰人はタイミングを掴みあぐねているようだ。そんな気まずい空気の中にコーヒーが届き、二人はまず一口飲んで一息ついた。
「まずは、話を聞く気になってくれて、ありがとう」
 気が楽になったのか、彰人はこれまでとは違う、柔らかい口調で話し始めた。
「最初に誤解を解いておこうと思う。あのときの言葉なんだけど、あれは少し正しくないんだ」
「正しく、ない?」
「そう、惚れたというのは、稲枝さんという人間にじゃない。声に惚れたんだ」
「……理解しかねるのですが」
「僕は稲枝さんの声に惚れたんだ、一目惚れ、いや、一耳惚れ?」
「ああいえ、声に惚れる云々のことは理解できました。そうではなくって、私が疑問に思ったのは、どうして声に惚れたのか、というところです」
 これまで声を褒められたことなんて一度もなかったし、自分の声なんて今まで意識したこともなく、当然ボイストレーニングもしたことがない。それなのに今日、突然声を褒められた。嬉しいか嬉しくないかなら、もちろん前者。目の前でそんなことを言われたら悪い気はしないが、到底信じられない話である。
「……もしかして、そういうフェチの人ですか?」
「フェチって言うな、フェチって。案外物怖じせず言うなぁ……僕は純粋に、稲枝さんの声が好きなんだよ。顔と名前を覚えていなかったのに稲枝さんに気づいたのは、声を覚えていたからなんだ」
 外見だけならそれなりに整っている彰人が、思わず恥ずかしくなってしまうようなことを真顔で言うのだ、人見知りをする性格が災いして異性との交流が少ない咲子には、どう反応すれば良いかわからず困ってしまう。
「え、えーと……」
「それで、ひとまずこの話は置いておくとして、まずはこれだ」
 咲子からの返事を待たず、彰人はカバンからタブレットPCを取り出してたんたんと指で叩いた。
「稲枝さんは、このサイトのことを知っているかな?」
 くるりとタブレットPCを反転させ、咲子に画面を見せた。そこに表示されたページはウェブ検索、ニュース、ネット通販などが提供されるポータルサイトに似ていたが、どこか違う。『動画』という単語がやけに目に入ったが、見覚えのないページだったので咲子は首を横に振る。
「じゃあ、まずはここから説明しよう。ここは動画投稿サイト、不特定多数のユーザーが自由に動画をアップロードできるサイトなんだ」
「自由に、ですか?」
「そう。最低限の登録は必要だけどね。一口に動画と言っても、アマチュアのバンドが音楽を演奏したり、スポーツなどの特技を披露したり、子供の成長や飼っているペットの日常風景、中には自作のアニメをアップロードする人だっている」
「へぇ……何だかすごいですね」
「で、だ。実は僕も動画をアップロードしているんだ」
 彰人の言葉に今聞いたばかりの『自作のアニメ』が頭をよぎる。やはり彰人のことはそういう趣味を持っている人、というイメージなのだ。
「ところで、このキャラクターのことは知ってる?」
 彰人は再びタブレットPCを叩き、次に咲子が画面を見たときは一枚のイラストが表示されていた。いかにもマンガのタッチで描かれた女の子の立ち姿で、一言では表現できないような近未来的な服装をしている。
 どこかで見覚えがあったが思い出せない。彰人のデスクに飾られていたフィギュアの中にいたのかもしれない。
「いえ、見たことないです」
「そうか……もっと知名度があると思ったけど、まだまだなんだなぁ……」
「すみません……」
「ああいや、責めているわけじゃないから。このキャラクターはマンガやアニメのキャラクターではなくって、ボーカルシンセサイザーなんだ」
 ボーカルシンセサイザー。まったく聞き覚えのない言葉なのでどんなものか想像することができず、咲子は首を傾げることしかできなかった。
「なら、シンセサイザーって知ってる? 電子楽器で、音を合成して音楽を作る機械なんだけど」
「あー……それは聞いたことがあるかもしれません」
「ボーカルシンセサイザーはそれと同じようなもので、音を調整することであたかも人間が歌っているような音楽を作ることができるんだ」
「人工……え、じゃあ曲を作ってそのボーカル……なんちゃらを使えば、BGMだけじゃなくて歌も作れるってことですか?」
「その通り! 僕はそんな音楽を作っているんだ」
 つまり彰人は作曲活動をしていて、自分が歌うわけではなくボーカルシンセサイザーに歌わせている、というところまでは咲子も理解できたが、ふと疑問に思うことがあった。
「……あれ? でもそれなら、動画じゃなくてもいいような」
「ま、まあ確かにそうなんだけど、実際の楽曲でもプロモーション映像とかあるじゃないか、ああいう感じで動画に仕上がっているわけ。もちろん全部が全部ってわけじゃなくて一枚のイラストを映しているだけの動画もあるけどね」
「へ、へぇ……」
「僕は一応絵も描けるし、時間はかかるけどアニメーションも作ることができる。でも音楽を作っているからには、必要以上に別のところで時間をかけるってことはしたくはないんだ。だから映像は別の人に呼びかけたり、あるいは作りたいと言ってくれる人にお願いするようにしている。もちろん中には、動画作成に重きを置いている人もいるから、それは利害の一致ってやつだ。それに――」
「あ、あの、ちょっと話がずれていませんか?」
「ああ、ごめん」
 どうやら一度火がつくと止まらないタイプらしい。今に始まったことではないが、彰人はやけに饒舌だ。無口、無愛想だと聞いていたが、おそらく自分の趣味のことになると口が回るのだろう。好奇心で話に食いついてはいけない、咲子は彰人に対する注意点を一つ見つけることができた。
「で、いよいよ本題に入るんだけど……このボーカルシンセサイザーによる音楽の面白いところは、その曲を歌いたいと言う人がいる、というところだ」
「歌いたい? そのボーカル……シンセサイザーが歌う曲を人が歌うってことですか?」
「そう、何だか不思議な感じだろう? 僕は音楽の歴史のことはまるで知らないけど、人の音楽を人が歌うのはカラオケや歌番組でもあることだ。でも、すごく悪い表現をしてしまうけど、人に似せた機械音を本物の人間が歌うというのはこれが初めてのことじゃないのかな。僕も何曲か歌ってもらったことがあったけど不思議な気分だったよ」
「うーん、そういうもんですか……」
「で、今の話が最初に繋がるってわけ」
「惚れた、というところですか? ……すみません、まだわからないんですが……」
「稲枝さん、僕はね……」
 彰人は大きく息を吸い、それを吐いて、言った。
「僕が作った曲を稲枝さんに歌ってほしい」
 歌ってほしい。彰人の言葉が咲子の頭の中に響く。現実感のないその言葉に咲子の反応が追いつかなかったが、ゆっくりと咀嚼し、意味を理解した瞬間、咲子に今日一番の驚きが広がった。
「え、え、えー! 私が、歌を!」
 ぬるくなったコーヒーを飲んで落ち着こうとする。けれど心臓は痛いほどにバクバクと鳴っていて、カップを皿の上に置こうとしたとき、手の震えでカタカタと音を立ててしまうほどに動揺していた。
「どうして、私に……?」
「それは、声に惚れたからさ」
「信じられません、そんなこと初めて言われました……でも、他にも歌っている人なんていっぱいいるんですよね? 私じゃなくて他の人じゃだめなんですか?」
「だめだ、僕は君じゃないと嫌だ」
 タブレットPCをテーブルに置き、じぃっと咲子の目を見つめる彰人。咲子はその視線から目を逸らすことができない。
「僕はご覧のとおり、根っからのオタクだ。マンガやアニメ、そしてボーカルシンセサイザーが好きなヤツさ。三次元の女性になんて興味はない、二次元ならたった一言聞いただけで声優の名前が浮かぶ僕が、生まれて初めて三次元の女性の声に聞き惚れたんだ。きっとこの興奮は伝わらないんだろうけど……でも、歌ってもらえるのなら、いくら頼み込んでも苦ではない」
 ここで彰人は一呼吸置いて、残っていたコーヒーをごくりと飲んで喉を潤した。
「でもね、稲枝さん。本当に嫌だったら僕のことは気にせず断ってほしい。もちろん、そのときは僕もすっぱりと諦める」
 最後にぽつりとつぶやいて、視線を落とした。
 沈黙は数分続いた。次に口を開いて沈黙を破ったのは、咲子だった。
「正直、困っています」
 これが咲子の素直な気持ちだった。声を好きになってもらったことは素直に嬉しかったけれど、動画だの音楽だの、肝心の話の内容はまだ整理できていない。
「だから、考えさせてください。一度、動画投稿サイトを見てみたいと思います。返事はそれからでもいいでしょうか?」
 それでも、彰人の熱のこもった説明、心からの懇願、そして諦める覚悟。どれも遊び半分ではなく本気ということは伝わった。だからこの場で断るのではなく、少し歩み寄ることにした。
 加えて、もしかしたらこの提案は――と、咲子の中にある思惑が生まれていた。
「あ、ああ! もちろん! いくらでも考えたらいいよ!」
 彰人はカバンからメモ帳を引っ張り出し、さらさらとペンを走らせ、そのページを千切って咲子に渡した。
「そこに、さっきの動画投稿サイトのサイト名と、僕がアップロードするときに使っている名前を書いておいた。それで検索したら僕が作った動画が出てくるよ。あとはネット電話のユーザー名……て、ネット電話は知ってる?」
「はい、これはうちのパソコンにもインストールしています。最初に連絡先の追加申請を送信する、ですよね?」
「そう、それそれ」
 見るからに嬉しそうな彰人。無愛想と言われるその顔は子供のような笑みを浮かべている。まだ了承を出してもいない段階でこの喜び様、つい「やってあげてもいいかもしれない」なんて咲子は思ってしまう。
「いやぁわくわくしてきた。すごく嬉しいなぁ」
「あはは、そうですか……」
「もし歌ってくれるのなら、すばらしい曲を作れるような気がする。稲枝さんの声が完全に生かせるなら、調教だって苦じゃないよ」
 浮かれ過ぎてつい口が滑ったのか、彰人はしまった、という表情で口を閉じたがそれは遅すぎた。
「調、教……? なんです、調教って……?」
 咲子は完全に引いていた。身を守るようにバッグを胸の中に抱き締めて、いつでも飛び出せる準備ができていた。
 築き始めていた信頼関係を、彰人自身の手で崩してしまった。
「え、ああいや、これはそういう意味じゃなくて、専門用語で」
「し、信じられません! やっぱり変人だったんですね!」
「やっぱりって何だよ、やっぱりって」
「知りません! さっき言ったことは嘘です、歌の件はあまり期待しないでください!」
 テーブルを叩くようにコーヒー代の小銭を置き、咲子は怒りで顔を真っ赤にしながら喫茶店から飛び出した。