Neetel Inside 文芸新都
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(……どこで再生するんだろう)
 咲子は何度かネット上で動画を見たことがあったので、読み込みのあとに再生ボタンを押して視聴するというプロセスを知っていた。ところが、開いたページにはそもそも動画が見当たらなかった。
「うーん……ん?」
 ページの下部へスクロールすると『アカウント新規登録』と『ログイン画面へ』というリンクがあることに気づいた。どうやらアカウント――先ほどのネット電話でいうところのユーザーの登録をしなければならないようだ。これが彰人が言っていた『最低限の登録は必要』なのだろう。
 咲子は『アカウント新規登録』をクリックし、会員規約を読んだ。どうやら無料会員と有料会員があるらしい。有料会員の待遇の良さは規約を読んでわかったが、その待遇の良さがどう影響するのかわからなかったので無料会員の登録にすることにした。
 続いて登録するメールアドレスを入力する画面が表示された。これはネット電話のユーザーの新規作成と同じだ。ネット電話で使用しているメールアドレスを打ち込み、決定。これでサイトから確認メールが送信され、そこに記述されているリンクを辿って本登録を行う。
 あとはプロフィールとパスワードの設定だ。公開する、しないに限らず、咲子は最低限の情報しか入力をしない。ここでもユーザー名は「Saki」、パスワードも同じものを設定した。
 これで登録が終わったようだ。もう一度最初のページから先ほど再生できなかったページまで戻ると、中央に動画が表示されていた。咲子も知っている、ネット上の再生可能な動画だ。
 改めて見ると様々な情報が書かれている。動画説明欄には簡単な挨拶のあとに『今回もテンポの早い曲にしてみました』とショウジン――彰人が書いたと思われる文章があり、他には投稿された日時、登録タグと呼ばれるその動画を一言で表す紹介文のようなものがあった。
(登録タグというところの『いつものショウジン』……? 河瀬さんらしい曲ってことなのかな)
 再生ボタンにマウスポインタを合わせクリックしようとしたとき、その右に書かれていた再生回数に咲子は驚かされた。
(い、一万……!)
 彰人が作った動画の再生回数は優に一万回を超えていた。それよりもずっと少ない数のコメント、マイリストがあったが、それらが意味するところはわからない。
 再生ボタンを押すと、動画の再生が始まった。電子音のピコピコ、という音が小さく鳴り始める。知り合い、それも会社の先輩が作った動画がネット上で再生される。妙な緊張感で咲子はじっと見つめた。
 電子音は次第に大きくなり、他にも小さなノイズ音、耳に引っかかるような金属音が響き速度がどんどん増していく。咲子の緊張も高まり、今にも破裂しそうなほどに心臓が鳴っている。
 そして、歌が始まった。人間の声のようで、どこか機械的に感じる声――ボーカルシンセサイザーが歌い、時には低く、時には甲高くトーンを変えて感情を表現する。
 それは咲子の耳には入ったものの、少しも聴き取れずにすり抜けていった。早い。曲が、歌が、声が、どれもこれも早すぎる。早口言葉のような歌声は何を歌っているのか聴き取れなかったし、倍速再生のように早いテンポに頭と耳が追いつかない。肝心の動画はマンガやアニメのキャラクターが入り乱れて争っていて意味がわからない。その動画の中に歌詞が書かれているが、あまりにごちゃごちゃとしていてとても見辛い。
 それ以上に、動画の右から左に流れる様々な色、サイズの文字列。これが気になってしまい動画に集中できなかった。目に止まったものを読む限りでは称賛と非難の内容が半々ぐらいで、これがコメントと呼ばれるものだろうと咲子は思った。
 一番が終わったのか、ボーカルシンセサイザーの音は消えていた。咲子は間奏中に画面を少し上にスクロールした。適当に選んだ動画だったのでタイトルを確認していなかったのだ。
『誰も知らない二次元戦争』
 ようやく動画の意味がわかった気がした。どうやらそういう内容の曲らしい。
 その後、咲子はこの曲を二回聴いた。途中でコメントを非表示にする方法がわかり、動画に集中することはできたが、やはり今ひとつ良さがわからない。趣味の読書ほどではないが、絵や音楽でもそれなりに感情移入することはできる。それでも、彰人の曲には何も感じない。
 途方に暮れていると、動画説明欄に『前回作った曲はこちら』という文章のあとにリンクが書かれていることに気がついた。別の曲なら、と思いクリックして再生すると、次の曲はボーカルシンセサイザーの音がいくつにも重なって聴こえる不思議な曲で、まったく違う印象は受けたがやはりテンポや歌声が早すぎる。
(河瀬さんは私にこんな曲を歌わせようとしているの……? 無理、ぜったい無理。こんな早口、できるはずない)
 咲子は最初のページへ戻り、新着動画をさかのぼってボーカルシンセサイザーの曲を探すことにした。他の人が作った曲を聴きたかったからだ。全体的にそんな曲が多いのか、聴いた二曲が偶然そんな曲なのか、それが知りたかった。
 せっかくなので他の動画も最初の触りだけは見ることにした。彰人が言っていた通り、音楽を演奏したり、ダンスをしたり、ゲームで遊ぶ様子を映したりと、自由に動画が投稿されている。その中でもボーカルシンセサイザーの曲は多く、すぐに見つけることができた。早口な曲もあったが、スローテンポで絵本を読んでいる気分になれる動画が多くあった。これならしっかりと聴き取れ、加えて歌詞も読みやすいので頭に留まってくれた。
 ボーカルシンセサイザーの曲の多くは、全体を通して小説のように物語性を重視していて、例えるならミュージカルのようだ。読書が好きな咲子には聴き取りさえできればすんなりと感情移入することができた。
(……これは? 『歌わせていただきました』?)
 新着動画の中の、ある動画に目が止まった。それをクリックすると、普段なら投稿者による説明が書かれている動画説明欄に投稿者の自己紹介とその動画に対する感想、最後の一行に別のページへのリンクが貼られていた。
 彰人が言っていたことを思い出した。きっとこれがボーカルシンセサイザーの曲を人が歌っている動画で、この最後のリンクは元のボーカルシンセサイザーの動画のページなのだろう。そして彰人はこれと同じことを自分にさせたいのだ。
 咲子はその動画を再生し――歌い始めを聴いて、愕然とした。すぐに停止し、ボーカルシンセサイザーの曲を人が歌っている他の動画を探し、再生した。それを何度も何度も繰り返し、毎回同じ理由で愕然としてしまい、ついには打ちひしがれてしまった。
 咲子はそれら動画の、人の歌声にショックを受けていた。想像していたよりも遥かに上手いのだ。自由に投稿することができるサイトなので、てっきり下手でも騒いで楽しむ、ぐらいのものだと思っていたが、実際は違った。テレビで聴くような、アーティストさながらの歌声だったのだ。それも一曲だけではなく、咲子が見たすべての動画がそんな歌声なのだ。
(なんで……)
 あの日に感じた疑問が、咲子の中で再び生まれた。
(……なんで、私、なんだろう……)
 声が良い、と彰人には言われてはいたが、自分ではそうは思わない。彰人を除く第三者にも言われたことがない。ネット上にはこんなにも上手な歌を披露する人が多くいるではないか。なのに、なぜ彰人は自分を選んだのか。ちゃんとした答えがほしかった。このままでは疑ってしまう。彰人は、本当は声なんてどうでも良くて他に企んでいることがあるのでは、と。
 そのとき着信音が鳴った。携帯電話ではない、ネット電話の着信音だ。呼び出し元は先ほど申請を送ったユーザー、ショウジンだ。この受信に反応していいものか、咲子は悩んだ。彰人ではないかもしれない、という不安もあったが、何より彰人に不信感を抱いているからだ。
 少し考えてから、咲子はヘッドセットのプラグをノートパソコンに差し込み、通話ボタンを押して通話を開始した。
「……もしもし?」
『もしもし、河瀬だよ』
 このショウジンが彰人だった。ふっと緊張の糸が緩み、落ち込んでいることもあって目が潤んでしまいそうになった。
「はい、稲枝です……お疲れ様です」
『ごめん、他にも同じ名前のユーザーがいたよね、うっかりしていたよ』
「いえ、プロフィールの画像でわかりました」
『それなら良かった。ついに動画を見てくれたのかな? 僕の動画、わかった? 誰も知らない二次元戦争、という動画が最新なんだけど……』
「ああ、あの動画でしたか……はい、見ました。それと、タイトルは忘れましたが一つ前の動画も……あとは他の人の動画と、人がボーカルシンセサイザーの曲を歌っている動画も見ました」
『そんなに見てくれたのか! どうだった?』
「……河瀬さん、今思っていることを、正直に話してもいいですか?」
『う、うん……』
 咲子は深呼吸をした。このまま思っていることを吐き出してしまったら、どんなことを言ってしまうかわからない。ただでさえ感情が不安定なのだ、最悪、感極まって泣いてしまうかもしれない。言葉を選び、心に蓋をしなければならない。
「先ほども言いましたが、河瀬さんが作った動画、見させていただきました」
『ど、どうだった?』
「よくわかりませんでした……あんな早口、理解しかねます」
 やはり閲覧者からの感想は気になるのだろう、彰人が緊張していることが口調からわかった。コメントなどの顔が見えない相手ではなく、ネット電話越しに、しかも名前と顔を知っている相手からなのだ、その重みはまるで違う。しかし咲子には感想を言うことはできなかった。結局、よくわからなかったのだ。
『うん、最初は僕もそうだった。でも慣れてくると、あの早口が心地良い刺激になるんだけどね』
「無理ですよ、あんなの……」
『え……?』
「私……あんな早口で歌えませんよ……」
『そ、そりゃそうだ! 別にあんな早い曲を歌ってほしい、なんて言わない!』
 ようやく彰人は咲子の落ち込んでいることに気づき、取り繕うように叫んだ。
『あれはボーカルシンセサイザーだからこそできる歌い方なんだ。僕は稲枝さんにボーカルシンセサイザーになってほしいわけじゃない。それにもし歌ってくれるとなったら、最近作った僕の曲は早い曲ばかりだから、新作を考えるよ』
「新作……?」
 一曲を作る労力がどれほどのものか、咲子は想像することができない。ざっと考えるだけで作詞、作曲、編集、他にもあるかもしれない。そんな簡単にできるようなものでもないだろう。
「わざわざ新作にしなくても、昔作られた動画で、ゆっくりな曲を選べばいいんじゃないですか?」
『うーん、昔の曲は出来が悪いから、新しく作りたいかな』
 そう言われてしまうと咲子からは何も言うことができない。ともあれ、ひとまず一つの不安は解消したが、咲子にはもう一つ、解決させなければならないことがあった。
「あと、他の人の歌も聞きました……なんで、私なんですか?」
 それはボーカルシンセサイザーの曲を歌っている人たちについてだ。ネット上では、あれだけ多く歌う人がいて、しかも自分よりも圧倒的に上手い。なのに、彰人はなぜ自分を選んだのか。その疑問が解消されない限り、どれだけ彰人が頼み込んでも咲子は歌うつもりはなかった。
『え、どういう意味?』
「他の人、すっごく上手じゃないですか。まるで本物の歌手みたいに……私、歌なんて高校生のクラス別の合唱コンクール以来、まともに歌ったことないんですよ。自信ありません……」
『ん? 稲枝さん、勘違いしているね?』
「勘違い……?」
『僕は稲枝さんの声に惚れたと言ったけれど、歌については何も言っていないよ』
 彰人の言葉に咲子は我に返った。たしかにそうだ、褒めてもらったのは声だけで歌については何も評価されていない、聴かせたことなんてないのだから当たり前だ。咲子は自分の早とちりに恥ずかしくなりながらも、揚げ足を取られたことにわずかながら苛立ちを感じてしまう。
『不特定多数のユーザーが自由に動画をアップロードできる、と言ったけれど、温度差は人それぞれだよ。本当に趣味ぐらいの人もいれば、中にはプロを目指している人もいる。例えば毎日ボイストレーニングをしたり、体力作りのためにジョギングをしたり、カラオケに通って練習したり……マイクなどの機材を揃える人もいるだろう』
「すごいですね……」
『この温度差に引いてはいけないよ。興味があるもの、本気になれるものがたまたま、それだっただけなんだから。だから機材はともかくとして、稲枝さんは歌の技術や知識は他の人たちには到底及ばないと僕は思っている』
 紛れもない事実だったので咲子は落ち込まなかった。むしろ安易に慰めたりお世辞を言わない正直な意見を聞けて嬉しかったぐらいだ。
『僕も、いろんな人の歌声は聴いてきた。それがプロだったり、アマチュアだったり、ボーカルシンセサイザーだったり……でも、僕は稲枝さんの声がいいんだ』
「どうして、そこまで……」
『声に惚れた、としか言えない。それしかわからない。自分でももどかしいよ』
 前と同じ返事に、結局疑問は晴れないままだ。けれど、声を好きでいてくれることには違いない。完全にしこりが消えたわけでもなかったが、咲子の気持ちはすっきりした。
「河瀬さん」
 咲子は決めた。返事に一週間近くかかってしまったが、ようやく決まった。
「私……自分が、どれだけのことをできるかわかりませんが……私で良ければ、歌わせてください」
 声を好きだと言ってくれた彰人に、自分の声を使ってみたいと思った。咲子にも思惑はあったけれど、それは口にしない。わざわざ言うようなことではないからだ。
「……河瀬さん?」
 彰人からの返事がない。通話は繋がっているのでネット回線の不具合というわけではなさそうだ。
『……ああ、聞こえているよ。その、驚いてさ……ほんとに、承諾してもらえるとは思っていなかったから……』
「それは大袈裟ですよ」
『そんなことない。僕の作った曲を歌ってくれ、だなんて、誰だって怪しむに決まっているじゃないか。自分でも変なことを言っていると思うよ』
「私も最初は半信半疑でしたよ。でも河瀬さん、すごく一生懸命だったから……」
『なんだか恥ずかしいな。嬉しいよ、ありがとう』
 彰人の言葉が咲子に響いた。心から嬉しく思っている様子が伝わってきた。歌うことへの不安はないわけではなかったが、咲子はひとまず承諾して良かった、と思った。
『そうだ、一つ提案があるんだ』
 湿っぽくなった二人の雰囲気を元に戻すように、彰人は一際大きな声を出した。
「提案、ですか?」
『うん。もし良ければ、他の人の曲を歌ってみたらどうかな?』
「他の人、ですか?」
『新作を出すとは言ったけど、そう早くできるものじゃない。せっかくの稲枝さんのやる気に水を差すのもあれだし、僕自身、稲枝さんの歌を聴きたい』
「そうですか……? ですが、まだ少ししか聴いてなくって……他にどんな曲があるか、知りませんよ?」
『そう思って、おすすめの曲を選んできたよ』
 ネット電話の機能として備えられているチャットに、彰人からのメッセージとしてアドレスが書き込まれる。それをクリックすると動画投稿サイトの画面が表示された。
「これ、一回聴いてみて」
「わかりました、一旦、通話を切りますね」
『見終わったら通話、よろしく』
 ネット電話の通話を切り、動画を確認した。タイトルは『赤ずきんの幕間劇』。童話で有名なあの赤ずきんのことだろうか。再生回数は優に十万回を超え、その動画につけられているコメント、マイリストの数は彰人の曲を遥かに上回っている。
 彰人の曲よりも人気で有名な曲なのだろう。少しずつボーカルシンセサイザーの曲に魅力を感じ始めていた咲子は、わくわくしながら再生ボタンを押した。

       

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