Neetel Inside 文芸新都
表紙

Sakiです、歌わせていただきました。
3.

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 歌わせてください――彰人にそう言ったあの日から、咲子は時間さえあれば『赤ずきんの幕間劇』を聴くようにしていた。というのも『赤ずきんの幕間劇』は投稿者が無償で動画を配布していたので、携帯電話へ取り込む方法を彰人に教えてもらったのだ。勤務時間中はもちろん無理だったが、通勤中は立ち止まりさえすればずっと見続けていた。
 他にも、歌唱力を上げる方法を検索していた。腹式呼吸、発声練習、基礎体力向上など多くのページが表示されたものの、これまで興味がなかったことなので目が滑ってしまい少しも頭に入らなかった。
 彰人と約束をした収録の日まで二週間しかない。技術や知識は一朝一夕で身につくものではないことを咲子もわかっていたので、付け焼刃になるぐらいならと歌唱力の向上を諦めて自分にできることを考えた結果、世界観の構築を思いついた。
『赤ずきんの幕間劇』はストーリー性の高い、まるで小説のような歌詞である。咲子はまず歌詞が載っているページを検索し、それをメモ帳にコピーして印刷した。A4用紙に横書きにプリントされた歌詞はまるで詩のようで、紙媒体で文章を読むことに慣れている咲子は小説を読むように目で追うことができた。
 伴奏が流れていないので自分の好きな速度で歌詞を追い、飛び込むようにその世界観の中に深く潜る。次第に想像力が膨れ、物語が動き始めた。咲子は就寝前の日課として毎日歌詞を読むようになり、睡眠時間は減ってしまったが少しも苦ではなかった。
 咲子は自覚していなかったが、歌に取り組む生活は充実していた。初めての一人暮らしや社会人生活に神経を擦り減らし、絶えず緊張している日々を送っていたが、他に意識を向ける先ができたことで適度に力が抜けるようになった。
「うん、いいと思う。特にこのロジックはよく考えられているね」
 その証拠に咲子は近ごろ仕事が楽しくなってきていた。あいかわらず彰人とのマンツーマンは続いていたが、最近では彰人が口を出す機会も減り、咲子が独力で研修に取り組んでいた。
 研修は後半に差しかかり、咲子を除く新入社員たちは作成したプログラムのテストを行なっていた。咲子の進捗遅れは解消されておらず、今日ようやくプログラミングを終えたところだった。
「ほ、本当ですか!」
 仕事では初めて彰人から褒めてもらえた。嬉しさよりもまず驚きが先行し、咲子は目を丸くした。
「うんうん、あれだけプログラミングが苦手だったのに、ちゃんとできている。理解して作っているというのが感じられるよ」
「ありがとうございます。良かった……ようやく、テストに入れます……」
「そうだね。ここからは早いと思うよ」
「ですが、まだ遅れていますし……少しでも追いつけたらいいんですが……」
「んー、なら、いいことを教えよう……実は、他の人はほとんど進んでいない。稲枝さんは皆に追いついたんだ」
「えっ、嘘っ」
「静かに……」
 思わず声を張ってしまう咲子に、彰人は人差し指を自分の口元に当てた。
「本当だよ。マンツーマンとはなっているけど他の子の進捗も確認しているんだ、暇だからね。僕の知る限りでは、一番進んでいる子との差は半日ぐらいかな」
「じゃあ、テストがすごく難しいんでしょうか……?」
「最初は手間取ると思うけど、慣れたら機械的にできるようになる。皆が遅れている原因はプログラミングにあるんだ」
「プログラミング、ですか?」
「そう。プログラミングは少しでも齧っていれば案外すぐできるものなんだ。でもそれは学生の課題までの話で、企業の業務となるとそうはいかない。これは研修だけど内容は業務レベルだ、しっかり考えてプログラミングをしないと簡単にバグが発生する」
「どうしよう、私のプログラムにもあるかもしれない……」
「そうかもね」
 あっさりと肯定する彰人を咲子はじろりと睨む。あれから何度かネット電話でボーカルシンセサイザーの曲の感想を言い合って親交を深めつつあったものの、彰人からしばしば飛び出すデリカシーのない言葉がいちいち癪に触った。
「ああ、違う違う。誤解されたら困るけど、バグというのは意図せず出てしまうものなんだよ。むしろテストで見つかって良かった、と思うべきだ」
「なら、また遅れるかもしれないんですね……」
「そこが少し違うかな。よほどレアケースじゃない限りは簡単に発見できるんだ。ただ、その原因を探すのが難しい」
「たしかに、期待している動きをしなかったらバグ、それはわかりますが……原因を探すのが難しい、というのは?」
「どれだけプログラムを理解しているか、かな。僕が見ている限り、稲枝さんはプログラムを理解しながら作っている。他の人は手癖、感覚、あるいは実績のない経験、先入観で作っている。ここが大きな差だよ。稲枝さんなら、きっとバグが出てもすぐに解決できるんじゃないかな?」
 そう言われても咲子は困ってしまう。彰人の期待は嬉しかったが、勝手にハードルを上げられても飛べる自信なんてない。彰人には根拠があるかもしれないが、それを自覚できない限りはプレッシャーにしかなりえないのだ。
 そんな咲子の様子を察し、彰人はメモ帳代わりに使っていた付箋を胸ポケットから取り出し、一枚剥がして咲子のデスクに貼りつけて数行、短い文章を書いた。
 咲子はその内容に見覚えがあった。
「……テストの確認事項ですか?」
「そう、さっき印刷して渡したよね? でも僕がここに書いたのは、それとは違うことを書いている。想定される動きは、Aというデータが入ればBに、Cというデータが入ればDになる。でも僕が書いたように、Aというデータが入ったときDという結果になった場合、それはなぜか?」
「なぜって、データ投入後、プログラム開始直後の条件分岐に問題があるとしか考えられません」
「ほら、すぐに原因がわかったじゃないか」
「そりゃあ、これぐらいなら誰だって」
「これぐらいって言うけど、最初はできなかったはずだよ」
 咲子は何も言い返せない。たしかに入社したばかりの、彰人からマンツーマンの指導を受ける前ならわからなかったことだ。
「でも、それは河瀬さんの指導が良かっただけでは……」
「どれだけ優秀な指導者も、教わる気のない生徒に知識を与えることはできない。稲枝さんにやる気があった、その結果だよ」
「あ、ありがとうございます……!」
「まあでも、僕の指導も良かった、というのもあるだろうね」
 真顔でそんなことを言う彰人に、苦笑いを向けるしかできない咲子。わずか一ヶ月にも満たない付き合いではあったが、咲子は皆が敬遠する彰人のことは嫌いではなかった。デスクの上の美少女フィギュアは擁護できなかったが、仕事は真面目で優秀、趣味の作曲を真剣に取り組む姿には尊敬さえしていた。
「そろそろ定時だね、片付け始めたほうがいいんじゃない?」
「はい、今日はこの辺にしておきます」
 パソコンの電源を落とし、帰宅の準備を始める咲子に彰人は周囲の目を盗んで囁いた。
「今夜、ネット電話かけるから。明日のことについて、ね」
 今日はあの日から二週間後の金曜日、つまり明日が約束していた収録の日だ。職場には二人の関係を知る者はいなかったし、わざわざ知らせるつもりもない。不用意に目立たないよう勤務時間中は私語を慎んでいた二人だったが、彰人がそれを破ったのは初めてのことだった。
「勤務時間中は仕事に集中しなくちゃいけませんよ?」
「それは前に僕が言ったことか……言うようになったね。で、大丈夫?」
「はい、ログインしておきます」
 いよいよ明日、歌うことになる。この二週間で歌詞の暗記や世界観の構築に不安はなくなったが、ちゃんと声は出るのか、しっかり歌えるかが心配だった。
 そして何より、咲子は明日着る服をまだ決めていない。そのことに最も頭を悩ませていた。

 その次の日、咲子は最寄りの駅から数駅隣りの、新幹線の駅も併設している近隣では最も大きな駅にいた。世間は休日ということもあり、歩くことさえ困難なほどに人で混雑している。咲子は人の波に流されながらも、待ち合わせ場所に指定されていた大きな時計台の下に到着した。
 人波に揉まれ、乱れてしまった服や髪を整えて時計台にもたれかかった。
(少しぐらい、おめかししたほうが良かったかな……?)
 手鏡で前髪を確認しながら、咲子は朝から悩んでいた。結局、服装は普段から職場で着ているものに落ち着いた。髪型もメイクもまったく同じで、違うところはリクルートバッグではなく花模様のトートバッグを持っている、ということだけ。多少華やかには見えるものの、おめかしをしているとは言い難い。
 時刻は十二時五十七分、待ち合わせ時間の三分前だ。咲子は腕時計と人混みを交互に見るように、せわしなく顔を動かしていた。
(もしかして、場所を間違えた……?)
 時計台がここにしかないことは事前に調べていた。それにネット電話では念押しで時計台の正面、側面、後ろ側のどこで待てばいいのか確認したくらいだったが、それでも咲子は不安でしかたがなかった。
(うぅ、早く来てよぅ……)
 ネット電話や動画投稿サイトのユーザー名は知っているものの、携帯電話の電話番号やメールアドレスはいまだに交換していないので彰人を信じて待ち続けるしかなかった。
 ついに待ち合わせ時刻の一時になった。咲子は背中にどっと嫌な汗が吹き出したのがわかった。きょろきょろと周囲を確認するが、彰人の姿はどこにも見当たらない。
そんな咲子の後ろ、死角からこっそりと近づく男がいた。
「稲枝さん、お待たせ」
「うわっ」
 突然のことに声を上げて驚く咲子。慌てて振り返り聞き慣れた声――彰人を見つけた。彰人は普段スーツに合わせている白いシャツに履き古されたジーンズという、学生のような格好をしていたが、カジュアルな革靴を履いていたのでいつもよりも若い、まるで新入社員のように見えた。そして手には家電量販店の大きな紙袋が下げられている。
 ところどころ寝癖が立っている髪を見て、今日という日を少しも意識されていないことに咲子は脱力してしまい、同時に服装で悩んでいた自分が滑稽に思えた。
「おつ、お疲れさまです……」
「お疲れさん。勤務時間外、しかも休みの日なんだからタメ口でいいよ。年齢だってそこまで変わらないし」
「ダメです、うっかり仕事中に出るかもしれませんので……」
「僕は別にそれでもいいけど、他の人の目が痛いよね……さて、ここで話をするのもなんだし、行こうか」
「は、はい!」
 歩き出した彰人を追う咲子。向かう先は知らない、待ち合わせ場所しか聞いていなかったため、もしはぐれてしまったら一大事だ。
(いい加減、連絡先を知っておいたほうがいい気がするけど……うーん)
 仕事の関係を除けば、作曲する側と歌う側、それだけでしかない。その関係の間に電話やメールで伝え合うようなことがあるとは思えない。そもそも同じ職場なので、注意さえすれば口頭で連絡を取り合うことができる。もちろんネット電話でも可能だ。
 抵抗があるわけではないが、わざわざ知る必要性が低い。それが理由でいつまで経っても連絡先を交換することができなかった。
「あの、ところで今日はどこに行くんですか?」
「ん? カラオケだけど?」
「それは知っています。カラオケならどこにでもあると思うんですが、わざわざここまで出てきたのはどうしてですか?」
「理由はいろいろあるけど、まず絶対条件として『赤ずきんの幕間劇』が配信されている機種があること、これを押さえなければならない」
「機種、ですか?」
「曲を流す機械のことだよ。機種によっては曲が入っていたり、入ってなかったりするんだ」
 カラオケの経験が少ない咲子も、それはなんとなくは知っていた。その昔、カラオケに行ったとき曲数が少ないと怒っていた友人のことを思い出した。
「それは重要ですね……伴奏もなしに歌うなんて不可能です」
「で、次に、録音することを許可してくれる店舗。これはしらみ潰しに連絡をして見つけることができた」
「許可がいるんですか?」
「配線を変える必要があるんだ。事前に確認しておかないと、万が一のことがあったときに困るからね」
「配線……?」
「ああ、これだよ」
 彰人は手に持っていた紙袋を咲子の目線まで上げて言った。
「気にはなっていましたが、それは何ですか?」
「マイクとレコーダーだよ。前の休みに買ったんだ」
「そうですか、マイクとレコーダー……」
 レコーダーとは、歌声を録音する機械のことだろうと想像できた。しかしマイクと聞くと、それはたった一つのものしか思いつかない。
「マイクって……買ったんですか……?」
「そりゃそうさ。マイマイクを持っている人なんて、そうはいないだろう?」
 彰人は紙袋から長方体の箱を取り出すと、それは紛れもなくマイクだった。それを見た咲子は引いてしまった。彰人は作曲に並々ならぬ意欲があるのかもしれないが、咲子は彰人ほど意欲が高いわけではない。彰人に誘われ、気に入った曲があり、彰人には言えない思惑があって、だから歌ってみようぐらいの気持ちだったので、わざわざマイクを購入する彰人が信じられなかった。
「そうだ、今日これ持って帰りなよ」
「う、受け取れません! そんな高そうなもの……」
「いや、そこまで高くないよ。ポイント交換で買えるぐらいのものだし。それに僕が持っていても使う機会ないしさ」
「ですが……」
「もし今回歌ってみて、それで楽しかったら貰ってほしい。今日以外でも歌って、録音してくれたらいいと思う。楽しんでもらえたら僕も嬉しいし」
 咲子は「考えておきます」と言葉を濁し、保留することにした。その後二人の間に会話がなくなり居心地の悪い空気が流れかけたが、まもなく有名なカラオケチェーン店に到着した。
 休日ということもあり、店内は人が溢れて順番待ちができていた。まずは並ぶのか、それとも座って順番を待つのか、咲子はそれすらわからないが彰人はさっさとカウンターに向かい、店員に一言二言話して空のグラスを二つ、両手に持って戻ってきた。

       

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