Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 咲子が目を覚ましたとき、時刻はすでに十三時を過ぎていた。寝ぼけた目を擦り、ベッドの中でぐいっと伸びをすると手と脚にだるさを感じ、喉は風邪のときのようにいがいがとして痛い。よほど疲労が溜まっていたのか、ぐっすり眠ったはずなのに全身が気だるかった。
 咲子は前日のカラオケを思い出した。休憩を挟みながらフリータイムを使い切るまで歌ったが、結局最初に録音した歌が最も良い出来だった。実際に自分の声を聞いてみると印象がまったく違い恥ずかしくてたまらなかったが、雑音や音割れもなく録音ができていたことを確認できた。
 カラオケを出るとすでに日が暮れていた。夕食ぐらい一緒に、なんて思った咲子に対して彰人は「すぐに編集して完成させたい」と言って駅で解散となってしまった。考えてもみれば、歌ってほしいと頼み込んだ相手の歌声のデータがあり、あとは編集するだけで完成するのだ。彰人が気持ちを抑えられないのも無理はないのだが、咲子は腑に落ちなかった。
 顔を洗って服を着替えた。手と脚の痛さは長時間立ったままマイクを持っていたことによる筋肉痛、喉は酷使しすぎて痛めてしまったのだろう。少しでも潤うようガラガラとうがいをして、今日はなるべく外出は控えることを決めた。
 お湯を沸かしている間にノートパソコンの電源をつけ、ネット電話のアプリケーションを起動させた。曲の編集がどれほど時間を要するのかはわからないが、彰人なら徹夜で終わらせかねない。もし完成させたとしたら、必ず連絡をくれるはずだ。
 カリカリに焼いたベーコンとしっかり火を通した目玉焼き、いつもより濃い目のコーヒーを遅い朝食にして、引越しの片付けを始めることにした。毎日こつこつと片付けていたので残すはダンボール一箱、しかも中身は半分だけだ。今日中に終わらせられる目処が立っているので咲子は気合いを入れた。
 ダンボールから取り出したものをロフトベッドの棚やクローゼットに入れ、不要と感じたものは捨てる。特にこちらですでに購入してしまったものは、潔くすべて捨てるようにした。
 ダンボールの底が見え、長かった片付けもいよいよ終わろうとしていたが、咲子の意識はノートパソコン、ネット電話に向いていた。編集の状況がわかったところで何かできるわけでもないが気になってしまう。けれどこちらから連絡を取ろうとすると邪魔をしかねないので彰人の連絡を待つしかない。なんだか相手を信じて待っているばかりだ――と、咲子は苦笑いを浮かべてしまう。
「おわったー……」
 空が夕日でオレンジ色になり始めていたころ、、最後のダンボールが空になった。達成感よりも疲労を感じながら、カッターナイフで切り裂きテープでぐるぐるに巻いた。
朝食のときに余ったコーヒーを温め直し、お茶請けのクッキーを持ってノートパソコンの前に座った。会社からのメールを確認したあとは動画投稿サイトだ、手当たり次第再生して映像やコメントを見るだけでも楽しいのだが、やはりボーカルシンセサイザーの動画を見ることが多かった。
(うーん……)
 最近は彰人が作った動画を新しいものから順番に再生していた。やはり、初めて聴いた曲のように早口言葉のような曲が多い。他の動画でも早い曲は聴いていたので耳が慣れて聴き取れるようにはなっていたが、どうしても良さがわからない。
 それは早い曲の良さがわからない、という意味ではなく、彰人が作る曲の良さがわからなかった。初めて見たときはボーカルシンセサイザーへの理解がなかったということもあったが、今は違う。ボーカルシンセサイザーの曲を聴き始めて日は浅いが、『赤ずきんの幕間劇』の他に好きな曲も増え、理解しつつある。それなのに、彰人の曲は咲子の心を揺さぶらなかった。
 彰人の曲の完成度は高い。伴奏もさることながら、ボーカルシンセサイザーの微調整(専門用語で言うところの調教)もすばらしく、まるで人が歌っているように聴こえる。どの曲にもテーマ性は感じられ、おおよそ非の打ち所がない。それなのに動画投稿サイトでの知名度、再生回数は今ひとつで、もっと評価されてもいいぐらいだと感じていた。
(……そういうことか)
 多くのボーカルシンセサイザーの動画を見て、彰人の動画についたコメントを読み、咲子は心が揺さぶられない理由と彰人の動画の再生回数が今ひとつ伸びない理由に気がついた。それは実に単純なことで、彰人がどうしてこのことに気づかないのか不思議なぐらいだった。
(もしかして、知らないフリをしているのかな……?)
 だとしたら黙って見過ごすわけにはいかないが、あいにく推測の域を出ていない。確信に至る理由が必要だった。
 クッキーを頬張りながら考えていると、ネット電話の着信音、彰人から通話が入った。慌ててヘッドセットを取りつけ、口の中のクッキーをコーヒーで流しこんで通話ボタンを押した。
「はい、お疲れさまです!」
『ああ、お疲れだよ……』
「大丈夫ですか……?」
 彰人の声は張りがなく、マンションの隣の道路を走る車の音で掻き消えてしまいそうなほど小さかった。初めて聞く彰人の弱った声に、咲子は心配でたまらなくなった。
『どうにか無事だよ。仮眠はしたんだけど……さすがに徹夜はきつかった。動画じゃなくて一枚絵、歌詞を合わせるだけだから、まだマシだったよ……』
「えっと、それってつまり……!」
『ああ、できた。曲、できたよ』
 その声は弱々しくも、達成感と充実感に満ちていた。一方、咲子は夢を見ているような気分だった。自分が歌った曲が動画になることに、どこか半信半疑だったのだ。
「ど、どうでしたか……?」
『良かった。すごく良かったよ。僕の目……違う、耳だな。僕の耳に狂いはなかった。仮眠前の子守唄にしたぐらいだよ』
「うう、恥ずかしい……」
『それにしても驚いたよ。正直、歌のほうはほとんど期待していなかったんだ。でもリズムや音程がバッチリじゃないか、もしかして音楽経験あるの?』
「今まで言う機会がなかったので言ってなかったのですが、子供のころにピアノを習っていたことがありまして……本当に、ちょっとだけですが……」
『そりゃあ上手なわけだ。ああそうだ、データ送るから見る?』
「いえ、結構です!」
 カラオケでは確認のために聴いていたが、顔から火が出るほど恥ずかしかった。彰人が完成させたのだから、きっと良い出来なのだろう。なので確認するまでもないと咲子は即答で断った。
『そっか、残念。で、これどうする?』
「え?」
 質問の意図がわからず、咲子は思わず聞き返した。
「どうって……何がですか?」
『いや、投稿のことなんだけどね。僕としては投稿したいと思うんだけど、稲枝さんがどう思っているのかなって。抵抗があるならこのまま僕だけが保有して、投稿しないと誓おう。最初から僕の自己満足に付き合わせたようなものだからね』
 彰人の目的は『咲子に歌を歌ってもらう』ことであり『動画の投稿』ではない。つまり彰人の目的としては達成(自分が作った曲ではないが)していると言える。動画の投稿という次のステップは、咲子に委ねられることになった。
 咲子は部屋の隅、先ほどまでダンボールがあったところに置かれている紙袋――マイクとレコーダーをちらりと見た。結局貰ってしまったので、後ろめたさもあるから彰人の意向に沿わすようにしたいが、抵抗がないと言えば嘘だ。声とはいえ、個人と特定できる可能性のある要素をネット上に公開するのだ、不安が尽きない。
 しかし咲子には、無視できない欲求が湧き上がっていた。
「河瀬さん、ぜひ公開してください」
『いいの?』
「他の人に、みんなに聴いてほしいなって……変ですか?」
 それは多くの人に自分の歌を聴いてほしいという願望。それがネット上に公開することへの不安を上回っていた。
『いや変じゃない、それは正常なことさ。わかった、今から投稿する。稲枝さんの投稿用のアカウントを作るから……ユーザー名はそれでいいかな?』
「Saki、ですか? 私もこれにしているんですが、大丈夫ですか?」
『わかりやすくていいんじゃないかな、重複しても問題ないし。よし、登録終わり』
「え、早くないですか?」
『実は登録の直前まで進めていたんだ。投稿してもいいって言われたらすぐできるようにね』
「なんて用意周到な……ところで、知っている人にバレませんよね……?」
『バレないバレない。職場の連中どころか、君の友達が見たってわからないよ』
「そうですか? ならいいのですが……」
『投稿できたらもう一度仮眠するよ。何かあれば連絡してくれたらいいよ』
 彰人は通話を切った。咲子は新着動画一覧のページを表示させて、穴が開くように見ながらカチ、カチ、カチ、カチと何度もクリックし続けた。まもなく自分の声が入った動画がネット上に公開されるのだ、居ても立ってもいられなかった。
「……」
 カチカチカチカチ。なかなか投稿されない。すぐに、とは聞いたが、もしかしたらアップロードには時間がかかるのかもしれない。咲子はぬるくなってしまったコーヒーを飲み干し、おかわりのためにキッチンに戻った。一杯分のお湯しか作っていなかったため、また沸かすところからだ。そのついでにクッキーも減っていたので新しい皿に補充した。
 コーヒーを入れ、クッキーを齧りながら戻って更新ボタンを押した瞬間、新着動画一覧に目が釘づけになった。

【Saki】赤ずきんの幕間劇【歌わせていただきました】

 十分も前に投稿されていた。口元からぽろりと落としてしまったクッキーを皿の上に戻し、クリックした。動画説明欄には当たり障りのない曲の感想と、元の動画へのリンクが書かれている。肝心の再生回数は、二回。五分で一回という計算になる。コメントは一つもついていない。
 いざ投稿されたら気が緩んでしまい、お腹が鳴った。少し早い時間ではあったが夕食を作ることにした。食材に余裕がなかったので冷凍していたベーコンと半端に余った野菜を炒め、半分だけ残っていたお揚げで味噌汁を作り、そして昨日の冷や飯をレンジで温めた。もう一品、サラダがほしいところではあったが、これ以上野菜を使うと後に響く恐れがあったのでぐっと我慢する。
 完成した夕食をテーブルに置いたときには、投稿から一時間近く経っていた。更新ボタンを押すと再生回数は六回、やはりコメントはない。彰人の一万回という数字を見ているだけにもう少し再生回数が伸びているかと期待していたが、あっけなく裏切られたことにため息をついた。
 知名度は当然ない、歌だって平凡かそれ以下なのだろう。これでは再生されるはずもない。いい加減拘束されていては家事がままならないので、咲子は電源を切らずにノートパソコンの画面を折りたたみ、見えないようにした。
 夕食を食べ終わり、食器を片づけてシャワーを浴びた。動画のことを忘れようといつもよりも念入りに身体を洗うと長めの入浴になってしまい、少しのぼせてしまった。冷やしたお茶を身体に流し込んで、ロフトベッドに上がって横になる。そのままごろごろとしたり、携帯電話を触ったり、眠気が訪れるまで待ち続けた。
 ところが、いつまで経っても眠くならなかった。もちろんこれは動画のせいだ。気にしない、無視しようとしても無理なことだった。時計を見るたび、投稿からどれだけ経っているのか、どれだけの再生回数が期待できるのか、頭の片隅で考えてしまっている。
 しかし、寝るとしてもノートパソコンの電源が点きっぱなしだ。電源を切ろう、ならそのついでに、最後に再生回数を確認しておこう――と、咲子は自分に言い訳をする。かれこれ投稿から数時間、順当に伸びれば二桁は再生されているはずだ。咲子は先ほどのような落胆を少しでも軽減しようと、低い目標を描いてから更新ボタンを押した。
カチリ
「嘘……」
 咲子は言葉を失い、目を疑った。
 再生回数が三桁を超えている。
「なに、なにこれ!」
 咲子は音量を下げ、自分の声が聞こえない状態で再生した。すると彰人が言っていたように一枚絵で、黒い背景にオオカミと赤ずきんのシルエットが白抜きになっていて、その両者の間に筆記体の英字で『Saki』と赤い文字で書かれている。そして同じように歌詞が赤文字で下に表示され、曲の進行と共に変わっていった。
 コメントの多くは咲子の歌唱力の絶賛と期待の新人への応援で、少数ではあったがオオカミの境遇に対する内容が書かれていた。思い出だけで満足するオオカミに称賛、非難は入り乱れていたが、咲子にとってそれこそが狙いだった。
(わかってもらえた、私の世界観が届いている……!)
 思わず叫んでしまいそうなほど咲子は嬉しかった。動画を巻き戻し、何度もコメントを読み返した。称賛のコメントも嬉しかったが、読んでいて楽しかったのは非難のコメントだった。非難されるということは自分の世界観とは違ったということで、その相手がどんな世界観を持っているのか、それはとても興味深いことだった。
 それでも、再生回数には疑問を感じていた。更新ボタンを押すと再生回数はさらに増え続けていて、まるでカウンターが壊れたような上がり方だ。
嫌な予感がした。何らかのネット上のトラブルに巻き込まれたのかもしれない。咲子は震える手で彰人にネット電話をかけると、呼び出し後すぐに彰人が通話に応じた。
『もしもーし。もう動画見た?』
「見ました! 何ですか、これ、これ……!」
『投稿して、しばらくしてからボーカルシンセサイザーの曲を歌う人たちが集まる掲示板に書き込みをしたんだ、自己紹介と動画のアドレスをね。探すのに時間がかかったから、最初のほうは伸びが悪いね』
「そうだったんですか……なら、これだけの再生回数も不思議じゃないですね……」
『ん、勘違いしてもらったら困るよ』
 彰人は低い声で刺すように言った。
『たしかに僕は掲示板に書き込んだ。悪く言えば宣伝だね。でも、ただ宣伝しただけではここまで伸びない。僕が言っていること、わかるかい? 稲枝さんの歌が、世界観が、みんなに認められているんだよ。再生回数は当然見ているよね? コメントは読んだ? あれがすべてだよ』
「そんな、こんなの……」
 咲子はある感情が生まれていることに気づいたが、それを無視して『恐怖』で蓋をしようとした。
「すみません、これ、消して、消してください!」
『おいおい、どうして? 今消したら大ひんしゅくだ。さっきからいろいろ調べているけど、僕が書き込んだ掲示板から動画を見たユーザーが他の掲示板、あるいはSNSを通じてこれを拡散しているようだ。もっともっと再生されるよ』
「怖いです、どうして、こんな……」
『怖い? 本当に?』
 今度の彰人の声は、この状況を楽しんでいるような声だった。
『もう気づいているんじゃないの? 公開してくださいと言ったのは、自分の歌を聴いてほしいと思ったからだ。そして今、稲枝さんは予想以上に多くの人たちに聴いてもらっている。すごく嬉しいはずだ。漫画でも、小説でも、音楽でも、表現したものを知ってもらいたい、評価されたい、これは当然の欲求だ。恥ずかしいことじゃない、落ち着いて自分の感情を理解するんだ。今、どんな気分?』
(あっ……)
 彰人が言ったことのすべてが正しかった。再生回数とコメントの内容を見るたび、自分が、自分の歌が、世界観やイメージが大勢のユーザーに知ってもらえた。そのことは咲子の身体を熱くし、高揚させた。
『恐怖』で蓋をしていた感情――『快感』が勢い良く噴き出して、咲子を包み込んだ。
「すごく、すごく気持ちいいです。これが表現する、ということ……こんな世界があったなんて……」
『その快感、癖になるだろう? まだまだこんなもんじゃない、もっともっと伸びる。今夜だけで四桁に届くんじゃないか? はは、楽しくなってきたよ』
 彰人の声はすでに咲子の耳に入っておらず、咲子はカチ、カチと更新ボタンを押し続けた。動画に集中するあまり次の日が仕事ということ、就寝時間をとっくに超えていることを忘れていた。

       

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