Neetel Inside 文芸新都
表紙

Sakiです、歌わせていただきました。
1.

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(みなさん、はじめまして。
京都府のR大学文学部、英文科出身の稲枝咲子(いなえさきこ)と申します、よろしくお願いします。
趣味は読書で、ジャンルを問わず幅広く読んでいます。特に読み終わったあとの余韻に浸ったり、物語の背景を深読みしたり、その後のストーリーを考えることがとても好きです。
 文学部出身でプログラミングはまったくの未経験ですが、いち早く先輩の皆さんのお役に立てるよう、精一杯努力していきます。
 よろしくお願いします!)

 もう何度練習したか、咲子自身覚えていない。数日前から考えていた自己紹介は一字一句間違えることなく暗記できていた。
 咲子は今、舞台の上に立っている。一人だけではない、左右には同じように新品のスーツをぎこちなく着た男女が舞台の端から端までずらりと並んでいた。
 この春、咲子は都内に本社を置くIT企業へ入社することになった。一般企業を対象としたシステム開発や独自の技術を提供するその会社は、世間での認知度は低いものの業界での評価が高い中堅企業であった。咲子は当初、事務員として就職するつもりだったが、募集はシステム開発者のみということを知らなかった。文系出身なのでどうせダメだろうと思っていたが、どういう縁の結びつきか採用されてしまい、今に至る。
 咲子を含む彼らは、晴れて社会人となる新入社員たちだ。この日は四月一日、世間ではエイプリルフールだが咲子たちには入社式という記念すべき社会人一日目、客席には重役だけでなく在籍社員も多く座っており、初めての顔合わせということになる。
 舞台の上では、客席から見て左から順番に自己紹介が行われていた。終わるたびにマイクが隣に手渡される、そんなバケツリレーならぬマイクリレーがまもなく咲子に到着するところだった。
 自己紹介が始まったときから緊張で喉はカラカラに乾き、手と脚が小刻みに震えていることは自分でもわかっていた。気を抜けば後ろに倒れてしまいそうなほど思考は霞んでいて、事前に飲み込んでいた手のひらの『人』という文字はまだまだ足りていなかった。
(大丈夫、何度も練習したんだから……周りには誰もいない、一人きりで壁に向かって自己紹介をする、いつものイメージのまま、すればいいだけ。あとは不慮の事故さえなければ何事もなく終わるはず……)
 月並みな自己紹介だが、なるべく印象に残らず、それでいて最低限の情報を伝えたい咲子には十分な内容だ。時間にすれば一分にも満たない、それなのに当の本人は不安いっぱいで、過剰な練習は少しの自信も与えてくれなかったようだ。
 客席から突き刺さる大勢の在籍社員と少数の重役たちの視線。客席に隙間なく並んでいて、とにかく多い。これまで人から注目を浴びることを避けていた引っ込み思案の咲子にとって、この自己紹介は社会人初の試練と言っても過言ではなかった。
(ああ、いよいよ次だ……)
 すぐ隣の、自分と同年代の男性は物怖じもせず、はきはきとしゃべって自己紹介をしている。咲子にはその姿が眩しすぎた。ありったけの勇気を振り絞ってもそれだけ堂々とはできそうにない。
(……気にしない、気にしない。同じようにはできないかもしれないけど、あれだけ練習したんだもの、無難に印象は残せるはず。緊張したら早口になるから、気持ちゆっくりに話すこと、できる限り全体を見回すようにすること、息継ぎはほどほどにして声がかすれないようにすること……)
 隣の男性の自己紹介が終わり、マイクの柄を向けられる。いよいよ試練のときだ、マイクを両手で持って一呼吸置いてから口元まで運ぶ、そんな咲子に危惧していた不慮の事故が訪れた。
「みなさん、はじめま……え、え?」
 自己紹介を始めようとしたときだった。まるで耳鳴りのような、細く鋭い金属音が響き渡り、マイクを持っていなければ両手で耳を塞いでいるほどに音量を増していった。
 顔を歪ませて不快感をあらわにする新入社員と在籍社員、そして重役たち。咲子はその音の正体と発生の原因がわからず、あたふたとするばかり。あれだけ練習していた自己紹介は砂がこぼれるように記憶から消え始めていたが、今の咲子が気づくはずもない。
「ハウリングが起きてるっ」
 先ほどまで自己紹介をしていた右隣りの男性は言った。しかしハウリングと言われても咲子はそれが意味することがわからない。
「マイクを切って!」
 次は左隣りの、咲子の次に自己紹介をする女性が言った。言われるがままマイクのスイッチに触れて電源を切ると金属音はたちまち消えた。
(マイクが原因だった……? 今のがハウリングっていう現象なのかな……ああでも、静かになって良かった。よし、もう一度最初から……)
「みなさん、はじめまして」
 気持ちを切り替えることに成功した咲子だったが、やはり冷静ではなかった。マイクの電源を入れることを忘れてしまい、自己紹介は周囲数人にしか聞こえなかった。
「あ、あああ、スイッチが……」
 身体をぶるぶると震わせ絵に描いたような動揺を見せる咲子に、舞台の上の新入社員たち、客席の在籍社員と重役たちからどっと笑いが溢れた。咲子の真剣な様子からのイージーミスがよほど滑稽だったのだろう、笑い声が収まる気配はなかった。
「ああ……え、ええっと、はじめまして……うう」
 ハウリングは不慮の事故としても、これは自分のミスである。咲子はそれをわかっていたので強く自分を責めてしまう。そうして、咲子の思考は停止してしまった。

 自己紹介は言うまでもなく散々な出来だった。目は泳ぎ、舌は回らず、まともに聞き取りもできない、もはや自己紹介とは呼べないものになっていた。しかもその後の自己紹介ではハウリングは起きず、咲子だけが貧乏くじを引いたことになる。これが他の新入社員たちより良くも悪くも印象を残すことになり、咲子には不本意な結果になってしまった。
 入社式は午前九時、取締役の挨拶から始まり入社辞令授与、新入社員たちの自己紹介、在籍社員代表の簡単な祝辞、役員の紹介、最後に新入社員たちの記念撮影。以上、一時間少々で終わり、新入社員たちは配属予定の部署ごとに別れて研修が行われる。
 咲子と数人の新入社員たち(咲子にハウリングを教えた男性と対処法を教えた女性は別の部署らしく、この中にはいない)は、教育担当者と思われる配属先の先輩社員に十人入るかどうかの会議室に案内された。そこでまず説明されたことが今後のスケジュールで、初日の今日は社内のルールや事務的な手続き、電話の取り次ぎ方や敬語などの社会人としての最低限のマナー講習をこの会議室で行い、二日目からは実際の職場となるフロアで実務に近い研修に取り組むらしい。
(お昼休みの時間、有給休暇と、病気などによる突発的な休みの取り方、給料日と初任給について……覚えること、多いなぁ)
 自己紹介の失敗をずっと引きずっている咲子は、教育担当者の先輩社員の口から次々に飛び出す話をメモに書き写すことに精一杯で、顔を上げて目を合わせるようにする、なんて余裕はなかった。なるべくフランクな態度で接しようとしている先輩社員の思いやりは咲子にだけ届かず、ユーモアを交えた説明の中で皆が笑うようなタイミングであっても咲子だけは沈んだ表情のまま、なんてこともあった。
 一通りの説明が終わると時間はちょうどお昼時。一時間の昼休みは各自任意に使用するルールとなっているが、この日は教育担当者の先輩社員と共に新入社員たち皆でランチを食べに行くことになった。
 咲子には憂鬱なイベントだった。基本的に一人で食事を摂ることに抵抗はなかったし、むしろ一人静かに自己紹介の失態で傷ついた心を休めようとしていたので、この提案は苦痛に他ならなかった。それは会話をしなければならない、という強迫観念にではなく、大勢いる中でずっと黙ったまま、ということが苦痛なのだ。
 すでに新入社員たちの中でグループが出来つつあった。新入社員同士で会話を繰り広げるグループ、先輩社員から仕事の話をねだるグループ、そのどちらにも属せずにひそひそと交流を深めるグループ。そんな中、咲子はどこにも属せないでいた。
 初めてというわけではない、小学生のころからこんな光景には慣れっこだった。人見知りをしてしまって自分から話しかけることができない、相手がやって来るのを待っているだけ。これまでは友好的な人たちの助けもあって少なからず友人もできたが、どうやら今回はだめらしい。時おり話を振られることはあったが、一言二言返すもそこから会話は発展せず、相手はすぐに別の方向へ顔を向けた。
(やっぱり、こうなっちゃった……)
 咲子は今朝作ったお弁当のことを思い出しながら、ハンバーグランチの付け合せのカリフラワーにフォークを突き刺した。せっかく早起きをして、初日なので気合いを入れて作ったお弁当は無駄にしたくない。夕食にすることを視野に入れ、中のおかずが傷みにくいものだったことを思い出し、安堵した。
 茹で時間の短いカリフラワーはとても硬く、口の中でガリゴリと鳴って咀嚼された。この味気ない時間が早く過ぎてほしいと思い、咲子は何度も時計を確認した。

 昼休みが終わり、マナー講習が始まった。二人一組になって電話の応対や名刺の交換、会釈や話し方などを交代で行い、互いに感想を述べ合いながら実施する、というカリキュラムだ。
 ペアになった相手は同性だったので、まだ気は楽だった。外見こそ髪を薄く茶色に染めた、やや苦手とする外見の相手ではあったが、話をしてみればそれなりに会話が弾み、感想を述べ合うのが楽しく感じられた。充実した時間は過ぎるのも早く、午前中よりも長いはずのマナー講習はあっという間に終わってしまった。
 時刻は定時の一時間前。雇用契約の関係上しばらくは残業代が支給されないため、教育担当者の先輩社員にはその期間は定時退社を推奨されていた。つまり、社会人初日はあと一時間で終わりを告げる。
 残りの一時間で、いよいよ配属部署のフロアへ移動することになった。心なしか咲子を含めた新入社員たちは緊張をしているようで、教育担当者の先輩社員がそれをほぐそうとあいかわらずフランクな口調で社内の案内をしつつ、先導する。
 そうして到着したフロアは、ざっと見て三十人ほどの社員がパソコンに向かい、誰もがゆったりとした空間を持てるぐらいの広さとレイアウトだ。明日からここが自分の職場なのだと咲子の気は引き締まったが、それも束の間だった。
「では改めて、先輩の方々へ自己紹介を兼ねて挨拶をしてみましょう。今日学んだマナーを思い出しながら、顔と名前を覚えて下さいね。と言っても全員は難しいと思うので、定時までになるべく多くの先輩と話をするようにしましょう」
 教育担当者の先輩社員は最後の試練を言い放った。すでに心身共に疲労している咲子には酷過ぎる提案だったが、他の新入社員は言われてすぐに行動していた。
 自己紹介、しかも対面で一対一、自分よりも目上の相手とだ。憂鬱すぎて腰が引けてしまう。他の新入社員の様子を確認すると、すでに打ち解けて笑みを浮かべながら話をしている者も少なくない。咲子はただ一人、出遅れてしまっている。
 自分に喝を入れ、まず役職者の在席状況を確認した。午前中に説明を受けていた通り、部署内にはホワイトボードがあり、そこにはネームプレートが貼られていてその隣には各人の予定が書かれている。部長、課長と呼ばれる、いわゆる上席たちはどうやら打ち合わせ中らしい。重要視するのはその人たちだけで、それより目下の社員の順番に関しては気にしなくてもいい、最低限敬語は必要だがそれほど年功序列が厳しくない。これはマナー講習中に教えてもらったことだった。
 咲子はフロアをぐるりと見渡して、新入社員と話をしていない、かつ忙しそうにしていない先輩社員を探した。だが他の先輩社員たちは皆忙しそうで、パソコンのモニターの前で難しそうな表情を浮かべ、せわしなくキーボードを叩いている。
 ふと、フロアの端のデスクに目が止まった。座席の位置が悪いのか、窓際にもかかわらず薄暗い印象を受ける場所にあるデスクと、そこに座る社員の姿。周囲にはその社員しかおらず他の社員たちのデスクから孤立している。どう見ても普通ではない環境なのだが、咲子はそれを気にするほど余裕がなく、とにかく自己紹介をして交流する、それだけに気が向いていた。
 ぱたぱたと走ってそのデスクに向かうと、咲子はあることに気づき、驚きというよりは恐怖に近い感情を抱いて身体がすくんでしまった。同時に、そこだけが周囲から浮いている理由がわかった。
 そのデスクは『整理整頓』という言葉を象徴するように片づいていた。それは物が置かれていない、というわけではなく、むしろデスクの上は多くのある物が縦横乱さず、碁盤の上に置かれているかのように並べられていた。
 ある物とは、手のひらぐらいの大きさの、いわゆる美少女フィギュアと呼ばれる人形。親指ぐらいの小さなものもある。咲子にはそのフィギュアのキャラクター名や登場作品なんて当然わからなかったが、几帳面な人物ということは見てわかった。
 よく見ればデスクの本棚には資格の参考書、プログラム言語や経営理念などの仕事に関係する文献の他に、マンガの単行本や週刊誌、他にもゲームの攻略本や音楽のコードの教本など、明らかに不要なものも多く入っていた。
「……誰?」
 デスクの環境に圧倒され、そこにいる先輩社員のことをすっかり忘れていた、このデスクの持ち主は、ほっそりとした体型のメタルフレームのメガネが似合う男性だった。スーツを着崩さず、それでいてカジュアルに着こなしているので、デスクの環境のことは忘れて先入観もないまま見ればそれなりに整った容姿をしている。けれど今の咲子には重要なことではない。挨拶をして名前と顔を覚えて交流する、それが最優先事項だからだ。
 できれば別の先輩社員のデスクに移動したかったが、気づかれた上にメガネの奥から細い目で睨まれている。もう成るように成れと咲子は玉砕覚悟で詰め寄った。
「し、新入社員の稲枝咲子です、よろしくお願いします!」
 深く頭を下げる。また噛んでしまったが入社式よりは遥かに上出来、ちゃんと伝わる自己紹介ができた。
 ゆっくり頭を上げると、オタクさん(咲子はこの先輩社員をそう呼ぶことにした)は驚いた表情を咲子に向けていた。
「あの……どうしましたか?」
「……もしかして、入社式の挨拶でハウリングを起こしていた子?」
 ぐさり。忘れかけていた記憶がイガグリのように針を出し、心の内側からちくちくと咲子を突いた。
「はい、そうです……ご迷惑をおかけしました」
「ハウリングなんて事故なんだから、気にしないほうがいいよ。それよりも……同じ部署だったとは。運がいい……これは運命かもしれないな」
 オタクさんは席から立ち、じっくりと咲子を見つめた。咲子は蛇に睨まれた蛙のように動くことができない。そんな二人の様子を新入社員と先輩社員たちは遠巻きに見入っていて、話し声やキーボードを叩く音は消えていた。
「あの……なんで、しょうか……?」
 自分以外の全員の視線を浴びている。それが耐え切れず、咲子は消えてしまうそうな声で尋ねた。するとオタクさんは咲子の手を取って、答えた。
「惚れた」
 オタクさんのこの言葉は、咲子だけではなく他のすべての社員を凍りつかせた。
「……え?」
「やっぱりそうだ、間違いない。惚れた、惚れました。僕は君に惚れた」
「え、え……?」
 オタクさんが何を言っているのか今ひとつ理解できなかったが、咲子は閃いた。今日は四月一日、エイプリルフールだ。
(ああ驚いた……普通に考えれば、こんな非常識な人が会社員をしているはずがないよね……それにしたって、ちょっと悪趣味だなぁ……)
程度にもよるが嘘をついても許される日なのだ。これは新入社員の歓迎の意味を込めたドッキリ企画に違いない。
「あのー、これ、エイプリルフールのイベントですよね?」
「そんなわけがない。僕は」
 そう言いかけたところで二人の間に教育担当者の先輩社員が割って入り、咲子はそのままフロアの外へ連れ出された。そして教育担当者の先輩社員に言い訳のような、慰めのような、歯切れの悪い言葉をかけられた。その様子に咲子は気づいてしまった。
(イベントじゃなかったんだ……)
 先ほどのフロア内の雰囲気、そしてオタクさんの真剣な様子はドッキリ企画ではないらしい。つまりオタクさんも何か意図があって、あんな発言をしたということになる。もちろん意図は不明だったが、入社初日から職場環境の悩みを抱えることになってしまい、咲子はますます気を重くするのであった。

     


 オタクさんは河瀬彰人(かわせあきひと)という名前らしい。
 教育担当者の先輩社員が言うには、彰人は見ての通り趣味が偏っていて、最低限のコミュニケーションしか交わそうとしない人物。上席を含むすべての社員から要注意人物として扱われているのだが、その一方で多くの資格を取得し、仕事は丁寧、正確、迅速で顧客からの信頼も厚く、入社三年目にしては極めて能力の高い人物であるため見て見ぬフリをしている、とのこと。しかし今回の件は新入社員にセクシャルハラスメントを働いたと言えなくもない、目に余る行為だったので上席に報告するらしい。
 少し気の毒には思ったが、咲子がどうこうできることではない。何か言おうにも彰人の罰が重くなることはあっても、軽くなることはそうないだろう。それなら黙って、あとは先輩社員たちに任せるのが無難である。
「お先に失礼します、お疲れ様でした」
 彰人を除く社員全員の席を回り、一人一人に頭を下げてからタイムカードを切った。入社式だったので出社時は切っていないため、出社時刻には九時と手書きされている。そこから定時の十七時半まで八時間半、うち休憩時間を除いた七時間半が働いた時間だ。
 長い、とにかく長い一日だった。入社式の失敗から非常識な告白まで、今日は一年分の落胆と驚きを味わったように思えた。
「あ、稲枝さん!」
 会社を出てすぐのところに同じ部署の新入社員が集まっていて、マナー講習でペアを組んでいた相手が咲子に駆け寄った。
 咲子はその相手の名前を覚えていなかったので『茶髪さん』と呼ぶことにした。
「は、はい……何ですか?」
「今からみんなでご飯食べてカラオケに行こうかって話しているんだけど、良かったらどうかな?」
 この誘いは咲子を悩ませた。親交を深めたいのなら行かなければならない、けれどそうなると帰宅は遅くなる。今日は月曜日なのでまだまだ平日が続く。それに明日からは本格的に仕事が始まるのだ、ここで体力を消耗するのは得策ではない。
「ありがとう、でも、引越しの片付けがあって……ごめんなさい」
 咲子はこの春、一人暮らしを始めたばかりだった。就職先が都内だったので大学卒業から今日までの間に地方から引っ越して来ていた。もう何日も経つはずなのだが、まだダンボールが積み重なり最低限生活に困らないぐらいのものしか取り出していない。
 明日からは女性は私服で良いと言われていたので、着回しと思われないよう少なくとも今週は服装が被らないようにしなければならないが、服の入ったダンボールはほとんど開封できていない。
「そっか、じゃあ次誘うね。おつかれさまー」
「お疲れ様です……」
 小走りで集まりへ戻り、ざわざわと騒ぎながら移動していった。一人ぽつんと残された咲子は、自分の選択が正しかったかどうか疑問に感じていた。もしかしたら、無理をしてでも誘いに乗っておくところだったかもしれない。行ったところで一言もしゃべらず座っているだけ、ということもあり得たが、同時に話しかけられることで親しくなれる可能性だってあったはずだ。
 思えば大学生のころも、特に用事があるわけでもないのにゼミの飲み会を断っているうちに孤立していた。そのときと今の状況は酷似している気がした。
(あーあ……すごいなぁ)
 会ったばかりの人たちと食事や遊びに行ける行動力が羨ましい。比べて自分は相手の名前すらはっきりと覚えていない。つくづく思う、同じ時間を過ごして生きてきた自分が情けない。
 変わりたい。咲子はときどき、そう考える。特に自分は一人ぼっち、と感じてしまうときに考えてしまうことが多い。けれど、咲子自身諦めていた。もし自分を変えるだけの行動力、意志があるのなら、とっくに変わっていたはずだ。努力もした、決意もしたが、その結果が今の自分だ。だから、もう変えることはできない。咲子は自分に悲観さえしていた。
(帰ろう……)
 ぽつぽつと歩き始める。まだ陽は高く、ビジネス街を行き交う多くのサラリーマンたちが帰宅中なのか、それとも外回り中なのか、咲子の知るところではない。早足で歩くサラリーマンたちの波にうまく乗れず、咲子の足取りは危なっかしいものだった。
(こんな日々が毎日続く……そんなの無理、ぜったい無理だ。一週間も耐えられる気がしない)
 咲子は社会人一日目にして心が折れていた。そんな咲子の耳に、ビジネス街の喧騒の中で一際大きな声が飛び込んできた。
「稲枝さん!」
 突然のことに咲子は驚いて身体を震わせた。足を止め、ゆっくり振り返るとそこには彰人がいた。会社から走ってきたのか、ぜぇぜぇはぁはぁと息を切らして肩を大きく揺らしていた。
「……オタクさん?」
 と言った瞬間、口を抑えた。うっかりと自分の中の呼び方をしてしまったが、彰人は呼吸を整えている途中だったので気づかれていない。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、相手は突然告白をしてきた人物なのだ、油断はできない、と身構える。
「えっと、河瀬さん、お疲れ様です……」
「ああ……お疲れ様」
「あの、お仕事は……?」
「終わらせてきた……ああいや、キリのいいところまで進んだから、今日のところはもう終わり、と言う意味ね。はぁー……やっと息が楽になってきた」
「はあ、それは良かったです……で、その、何か御用でしょうか?」
「一言、謝りたいなと思って。さっきの、アレね」
 その発言に咲子は驚いた。先ほどの行為が非常識なものだと認め、反省し、謝罪をしようとしている。彰人に対してはだいぶ悪いイメージを持っていたが、これには咲子も気を許しそうになった。
「いえそんな! ちょっとびっくりしただけです、もう気にしていませんから」
「そう? なら良かった。もう目の前にいると思ったら興奮が抑えきれなくて、ついああ言っちゃって」
「興奮……ですか?」
「入社式なんて面倒だから午前は休暇にしようと思っていたけど、課長が出とけってうるさくってさ。でも出席して良かったよ。ハウリングの印象が強すぎて顔も名前も覚えていなかったから、どうやって探そうかと悩んでいたら……同じ部署に配属だなんて何かの縁かなぁ」
 前言撤回。『興奮』という単語が出たあたりからやや違和感を覚え始めていたが、やはり変な人だ、言っていることが意味不明すぎる。顔も名前も覚えていなかったのになぜハウリングを起こした人物だとわかるのか。
逃げよう。咲子の本能が警告を告げる。
「すみません、今日は用事がありまして」
「それはカラオケの誘いを断るほどの用事なのかい?」
「……どうして知っているんです?」
「他の新人たちが、帰る前からこそこそ騒いでいたからさ。ああいう学生のノリを引きずるのは良くないよね。僕が想像するに、苦手な雰囲気だから断った、と思うけど」
「…………」
「別にバカにしているわけじゃないよ。僕もその気持ちわかるなぁ」
 図星とも言えなくもない。彰人の言う『学生のノリ』は、たしかに咲子は苦手としている。けれど素直に認めるには悔しい。返す言葉が見当たらず黙り込んでしまうが、それは正解と認めているようなものだ。いっそ本当の理由を言おうかとも考えたが、ますます惨めな気分になってしまう。
 咲子は黙ったまま、彰人を拒絶するように早足で歩き出した。が、彰人はすぐに追いついて咲子に並走する。
「待って、ちょっと待ってよ」
「待つ理由がありません、私には、カラオケを断るほどの大事な用事があるんです!」
 ついムキになり、ぴしゃりと叫んで走り出した。慣れないパンプスを履いているのでたいした速度は出ない。それに女性の脚で男性を振り払えるはずもなく、またすぐに追いつかれてしまう。
「稲枝さん、話したいことがあるんだ。一時間……いや、三十分で済むから。どうして僕があんなことを言ったのか、全部説明するよ」
「嫌です、お願いします、付いて来ないでください!」
「お願いだ、僕の話を聞いてほしい」
 逃げる咲子に追う彰人。人混みを掻き分け、するすると進んでいく。行き交う人たちはじろりと二人を見て、すぐに視線を外してしまう。痴情のもつれ、なんて誤解をされているのだろうと考えるだけで、咲子は怒りと恥ずかしさから身体が熱くなってしまう。
 だがこのまま逃げているだけでは埒があかない。自分の住むマンションまでには振り払いたい。そんなとき、横断歩道とその向こう側のコンビニが目に入った。コンビニに入れば事態は好転するかもしれない。恥を覚悟で店員に助けを求めるのも選択肢の一つだ。
 信号はちょうど赤から青に変わった。運が良い、このまま走り切ってコンビニに飛び込むだけ。ラストスパートをかけるように、咲子は大きく脚を踏み出して走った。
 ドサリ
 横断歩道の真ん中に差しかかるところで、鈍い音が聞こえた。嫌な予感がしたので振り返って見ると、彰人が倒れている。通行者は彰人とその周囲に散らばった彰人の荷物を避けるように歩き、奇妙な空間ができていた。
(ど、どうして倒れてるのっ?)
 体調の異変? それともつまづいただけ? まさか気を引くための演技? ともかく、 こうなってしまえば逃げることは容易いが、たとえ逃げようとしていた相手だとしてもこんな状態を放っておくことは咲子にはできなかった。
「河瀬さん! 大丈夫ですか!」
「足が、つった……」
「早く戻ってください! 荷物は私が拾いますから!」
 信号がチカチカと点滅している。ひとまず腕を引っ張って起こし、そしてカバンから撒き散らされた彰人の荷物を急いで拾う。携帯ゲーム機にブックカバーがかかっていないマンガが数冊。携帯ゲーム機はともかく、どのマンガの表紙も美少女が描かれていて、拾うのも躊躇してしまいそうになる。
 そんな予想を裏切らない荷物の中で異彩を放つものがあった。それは『作詞・作曲入門』と書かれた初心者向けの音楽の教本だ。しかもかなり読み込まれていて全体が手垢で薄汚れている。
 そういえばデスクの本棚にもコード進行の教本があったと、咲子は思い出した。デスクと荷物、それぞれ共通する音楽の本が気になったが、信号は赤になっていたので彰人の元へ急いだ。
「あの、怪我はないですか? これ荷物です、たぶん全部拾えていると思いますが……」
「大丈夫……ありがとう」
「スーツ、汚れちゃってますよ、払うぐらいで綺麗になるかな……あ、血が出てるじゃないですか」
 砂利で汚れた箇所を手で払っていると、咲子は彰人の手のひらから血が滲んでいることに気がついた。バッグからティッシュと絆創膏を取り出し、血を拭ってから絆創膏を傷の上に貼った。
「消毒はしていませんので、帰ったらちゃんと洗ってくださいね」
「ああうん……ごめん……ありがとう」
「それでは、私はこれで。お疲れ様です」
 別に恩を着せるわけではなかったが、これで後ろめたくなって遠慮してくれるだろうと打算し、そっけない態度でこの場から去ろうとした。
 ところがそれは甘すぎた。彰人は、咲子の手を握った。
「……どういう、つもりですか?」
「お願いだから……話を、聞いてほしい」
「これはセクハラです。このことは然るべき相手に報告を辞さない覚悟です、それが嫌なら離してください!」
「それはすごく困る……けど、このまま話ができないというのも嫌だ。だから……今日だけでいいから聞いてくれないかな。都合が悪いなら……明日でもいいし」
 彰人には断られるという発想がないらしい。今日が嫌なら明日も嫌に決まっているじゃないか。だが、彰人の真剣な様子が咲子に伝わった。本気だ、それほど相手は自分に話したいことがあるのだ。
 カラオケを断った手前、まっすぐ帰って引越しの片付けをしなければならない。特に服が詰められたダンボールをすみやかに見つけなければならない。しかし真剣な様子の先輩のお願いを無視するのもためらわれる。
それら二つを天秤にかけ、咲子は結論を出した。
「……さっき言っていた通り、三十分だけなら、お付き合いします」
 結局、根負け。まあ三十分ぐらいなら片付く量は微々たるものだ、他のことに使ってもいいだろう――そんな考えが入社後も引越しの片付けが終わっていないという惨状を招いているのだが、咲子が自分の欠点に気づくはずもなかった。

     


「酒は飲めないんだ、コーヒーでも飲みに行こう」と彰人が提案し、二人は少し歩いた場所にある喫茶店にいた。わざわざ遠い喫茶店を選ぶのはなるべく人に見られないようにするための工作らしく、咲子も変な噂が広まることは避けたかったのでそれに了承した。
 お互いコーヒーを頼んで、注文して届くまで二人の間に会話はなかった。咲子は自分から話すことなんてないし、彰人はタイミングを掴みあぐねているようだ。そんな気まずい空気の中にコーヒーが届き、二人はまず一口飲んで一息ついた。
「まずは、話を聞く気になってくれて、ありがとう」
 気が楽になったのか、彰人はこれまでとは違う、柔らかい口調で話し始めた。
「最初に誤解を解いておこうと思う。あのときの言葉なんだけど、あれは少し正しくないんだ」
「正しく、ない?」
「そう、惚れたというのは、稲枝さんという人間にじゃない。声に惚れたんだ」
「……理解しかねるのですが」
「僕は稲枝さんの声に惚れたんだ、一目惚れ、いや、一耳惚れ?」
「ああいえ、声に惚れる云々のことは理解できました。そうではなくって、私が疑問に思ったのは、どうして声に惚れたのか、というところです」
 これまで声を褒められたことなんて一度もなかったし、自分の声なんて今まで意識したこともなく、当然ボイストレーニングもしたことがない。それなのに今日、突然声を褒められた。嬉しいか嬉しくないかなら、もちろん前者。目の前でそんなことを言われたら悪い気はしないが、到底信じられない話である。
「……もしかして、そういうフェチの人ですか?」
「フェチって言うな、フェチって。案外物怖じせず言うなぁ……僕は純粋に、稲枝さんの声が好きなんだよ。顔と名前を覚えていなかったのに稲枝さんに気づいたのは、声を覚えていたからなんだ」
 外見だけならそれなりに整っている彰人が、思わず恥ずかしくなってしまうようなことを真顔で言うのだ、人見知りをする性格が災いして異性との交流が少ない咲子には、どう反応すれば良いかわからず困ってしまう。
「え、えーと……」
「それで、ひとまずこの話は置いておくとして、まずはこれだ」
 咲子からの返事を待たず、彰人はカバンからタブレットPCを取り出してたんたんと指で叩いた。
「稲枝さんは、このサイトのことを知っているかな?」
 くるりとタブレットPCを反転させ、咲子に画面を見せた。そこに表示されたページはウェブ検索、ニュース、ネット通販などが提供されるポータルサイトに似ていたが、どこか違う。『動画』という単語がやけに目に入ったが、見覚えのないページだったので咲子は首を横に振る。
「じゃあ、まずはここから説明しよう。ここは動画投稿サイト、不特定多数のユーザーが自由に動画をアップロードできるサイトなんだ」
「自由に、ですか?」
「そう。最低限の登録は必要だけどね。一口に動画と言っても、アマチュアのバンドが音楽を演奏したり、スポーツなどの特技を披露したり、子供の成長や飼っているペットの日常風景、中には自作のアニメをアップロードする人だっている」
「へぇ……何だかすごいですね」
「で、だ。実は僕も動画をアップロードしているんだ」
 彰人の言葉に今聞いたばかりの『自作のアニメ』が頭をよぎる。やはり彰人のことはそういう趣味を持っている人、というイメージなのだ。
「ところで、このキャラクターのことは知ってる?」
 彰人は再びタブレットPCを叩き、次に咲子が画面を見たときは一枚のイラストが表示されていた。いかにもマンガのタッチで描かれた女の子の立ち姿で、一言では表現できないような近未来的な服装をしている。
 どこかで見覚えがあったが思い出せない。彰人のデスクに飾られていたフィギュアの中にいたのかもしれない。
「いえ、見たことないです」
「そうか……もっと知名度があると思ったけど、まだまだなんだなぁ……」
「すみません……」
「ああいや、責めているわけじゃないから。このキャラクターはマンガやアニメのキャラクターではなくって、ボーカルシンセサイザーなんだ」
 ボーカルシンセサイザー。まったく聞き覚えのない言葉なのでどんなものか想像することができず、咲子は首を傾げることしかできなかった。
「なら、シンセサイザーって知ってる? 電子楽器で、音を合成して音楽を作る機械なんだけど」
「あー……それは聞いたことがあるかもしれません」
「ボーカルシンセサイザーはそれと同じようなもので、音を調整することであたかも人間が歌っているような音楽を作ることができるんだ」
「人工……え、じゃあ曲を作ってそのボーカル……なんちゃらを使えば、BGMだけじゃなくて歌も作れるってことですか?」
「その通り! 僕はそんな音楽を作っているんだ」
 つまり彰人は作曲活動をしていて、自分が歌うわけではなくボーカルシンセサイザーに歌わせている、というところまでは咲子も理解できたが、ふと疑問に思うことがあった。
「……あれ? でもそれなら、動画じゃなくてもいいような」
「ま、まあ確かにそうなんだけど、実際の楽曲でもプロモーション映像とかあるじゃないか、ああいう感じで動画に仕上がっているわけ。もちろん全部が全部ってわけじゃなくて一枚のイラストを映しているだけの動画もあるけどね」
「へ、へぇ……」
「僕は一応絵も描けるし、時間はかかるけどアニメーションも作ることができる。でも音楽を作っているからには、必要以上に別のところで時間をかけるってことはしたくはないんだ。だから映像は別の人に呼びかけたり、あるいは作りたいと言ってくれる人にお願いするようにしている。もちろん中には、動画作成に重きを置いている人もいるから、それは利害の一致ってやつだ。それに――」
「あ、あの、ちょっと話がずれていませんか?」
「ああ、ごめん」
 どうやら一度火がつくと止まらないタイプらしい。今に始まったことではないが、彰人はやけに饒舌だ。無口、無愛想だと聞いていたが、おそらく自分の趣味のことになると口が回るのだろう。好奇心で話に食いついてはいけない、咲子は彰人に対する注意点を一つ見つけることができた。
「で、いよいよ本題に入るんだけど……このボーカルシンセサイザーによる音楽の面白いところは、その曲を歌いたいと言う人がいる、というところだ」
「歌いたい? そのボーカル……シンセサイザーが歌う曲を人が歌うってことですか?」
「そう、何だか不思議な感じだろう? 僕は音楽の歴史のことはまるで知らないけど、人の音楽を人が歌うのはカラオケや歌番組でもあることだ。でも、すごく悪い表現をしてしまうけど、人に似せた機械音を本物の人間が歌うというのはこれが初めてのことじゃないのかな。僕も何曲か歌ってもらったことがあったけど不思議な気分だったよ」
「うーん、そういうもんですか……」
「で、今の話が最初に繋がるってわけ」
「惚れた、というところですか? ……すみません、まだわからないんですが……」
「稲枝さん、僕はね……」
 彰人は大きく息を吸い、それを吐いて、言った。
「僕が作った曲を稲枝さんに歌ってほしい」
 歌ってほしい。彰人の言葉が咲子の頭の中に響く。現実感のないその言葉に咲子の反応が追いつかなかったが、ゆっくりと咀嚼し、意味を理解した瞬間、咲子に今日一番の驚きが広がった。
「え、え、えー! 私が、歌を!」
 ぬるくなったコーヒーを飲んで落ち着こうとする。けれど心臓は痛いほどにバクバクと鳴っていて、カップを皿の上に置こうとしたとき、手の震えでカタカタと音を立ててしまうほどに動揺していた。
「どうして、私に……?」
「それは、声に惚れたからさ」
「信じられません、そんなこと初めて言われました……でも、他にも歌っている人なんていっぱいいるんですよね? 私じゃなくて他の人じゃだめなんですか?」
「だめだ、僕は君じゃないと嫌だ」
 タブレットPCをテーブルに置き、じぃっと咲子の目を見つめる彰人。咲子はその視線から目を逸らすことができない。
「僕はご覧のとおり、根っからのオタクだ。マンガやアニメ、そしてボーカルシンセサイザーが好きなヤツさ。三次元の女性になんて興味はない、二次元ならたった一言聞いただけで声優の名前が浮かぶ僕が、生まれて初めて三次元の女性の声に聞き惚れたんだ。きっとこの興奮は伝わらないんだろうけど……でも、歌ってもらえるのなら、いくら頼み込んでも苦ではない」
 ここで彰人は一呼吸置いて、残っていたコーヒーをごくりと飲んで喉を潤した。
「でもね、稲枝さん。本当に嫌だったら僕のことは気にせず断ってほしい。もちろん、そのときは僕もすっぱりと諦める」
 最後にぽつりとつぶやいて、視線を落とした。
 沈黙は数分続いた。次に口を開いて沈黙を破ったのは、咲子だった。
「正直、困っています」
 これが咲子の素直な気持ちだった。声を好きになってもらったことは素直に嬉しかったけれど、動画だの音楽だの、肝心の話の内容はまだ整理できていない。
「だから、考えさせてください。一度、動画投稿サイトを見てみたいと思います。返事はそれからでもいいでしょうか?」
 それでも、彰人の熱のこもった説明、心からの懇願、そして諦める覚悟。どれも遊び半分ではなく本気ということは伝わった。だからこの場で断るのではなく、少し歩み寄ることにした。
 加えて、もしかしたらこの提案は――と、咲子の中にある思惑が生まれていた。
「あ、ああ! もちろん! いくらでも考えたらいいよ!」
 彰人はカバンからメモ帳を引っ張り出し、さらさらとペンを走らせ、そのページを千切って咲子に渡した。
「そこに、さっきの動画投稿サイトのサイト名と、僕がアップロードするときに使っている名前を書いておいた。それで検索したら僕が作った動画が出てくるよ。あとはネット電話のユーザー名……て、ネット電話は知ってる?」
「はい、これはうちのパソコンにもインストールしています。最初に連絡先の追加申請を送信する、ですよね?」
「そう、それそれ」
 見るからに嬉しそうな彰人。無愛想と言われるその顔は子供のような笑みを浮かべている。まだ了承を出してもいない段階でこの喜び様、つい「やってあげてもいいかもしれない」なんて咲子は思ってしまう。
「いやぁわくわくしてきた。すごく嬉しいなぁ」
「あはは、そうですか……」
「もし歌ってくれるのなら、すばらしい曲を作れるような気がする。稲枝さんの声が完全に生かせるなら、調教だって苦じゃないよ」
 浮かれ過ぎてつい口が滑ったのか、彰人はしまった、という表情で口を閉じたがそれは遅すぎた。
「調、教……? なんです、調教って……?」
 咲子は完全に引いていた。身を守るようにバッグを胸の中に抱き締めて、いつでも飛び出せる準備ができていた。
 築き始めていた信頼関係を、彰人自身の手で崩してしまった。
「え、ああいや、これはそういう意味じゃなくて、専門用語で」
「し、信じられません! やっぱり変人だったんですね!」
「やっぱりって何だよ、やっぱりって」
「知りません! さっき言ったことは嘘です、歌の件はあまり期待しないでください!」
 テーブルを叩くようにコーヒー代の小銭を置き、咲子は怒りで顔を真っ赤にしながら喫茶店から飛び出した。

       

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Neetsha