まとめて読む

 当時、近所の学校で深夜に騒いでいる連中がいて、町内会でも問題になっていた。
 そこで地元の大人たちが何人かで見回りをして不良たちを取り締まろうという話が決まった。その学校のすぐそばに住んでいた僕も、人事ではなかったので巡回のメンバーに参加することにした。
 夜の学校ってのは結構怖いイメージあるけど、僕らが見回りする学校はすぐ近くに駅があって、まわりは街灯やお店の看板でかなり明るかった。巡回することになった時間帯は二十三時頃だったけど、人の気配がなくなるような通りでもなかったので恐怖心よりも、悪餓鬼どもを捕まえて懲らしめてやろうという気持ちの方が大人たちには強かった。
 なにしろその悪餓鬼どもは夜な夜な深夜の学校に侵入し、食べ物を食い散らかしたり花火をしたり、運動場に大量のごみを残していくので、この件に関しては学校側もかなり神経質になっていた。
 だけど巡回をいくら強化しても、この悪餓鬼どもの逃げ足は速くて捕まえることができなかった。それどころか彼らの行為は日増しに悪質さを増していって、ガラスが割られたりすることもよくあり、警察沙汰にもなっていた。
 そこで、巡回する時のリーダーが学校の門の鍵を預かって、学校の中も一通り巡回することが決まって、いよいよ悪餓鬼を捕まえるための環境が整ったある日のこと、いつもの通り僕は、初期の頃からこの巡回に積極的に参加していたOさんと他二名のメンバー四人で巡回していた。
 Oさんは昔青年団の団長をしていたこともある人で、とても頼りがいのある人物だった。
 そのOさんが学校の門を入ったところで足を止めて言った。
 「今、人影が見えたような気がする。――――あいつら校舎の中にいるぞ」
 めずらしく高揚した様子で声をあらげていた。
 なにしろ責任感の強い人だから、こういった悪事がいつまでも続くことが自分の中でも許されないのだろう。
 僕たちは二手に分かれて、進入した彼らを挟み撃ちにするように計画した。
 僕はOさんと裏手の校舎の外側に面している非常階段からまわっていくことにし、あとの二人は彼らの影を追いかけるように、校舎の入り口から追跡することにした。うまく追い込んでくれたら、僕とOさんが悪餓鬼を取り押さえることができるはずだ。
 どうやら、先の二人は校舎の中の中央階段を使って二階に上がったようだ。
 あわせるように僕とOさんも校舎端の非常階段から二階の踊り場へと出る。踊り場から二階の校舎内の廊下へと続く鉄扉は内側から鍵がかかっていて、それは外側から開けるにはOさんのもつ学校の鍵が必要になってくる。内側からはロックをまわすだけで鍵がはずれるので特に何もいらない。
 僕とOさんが二階の踊り場に上がると廊下側から足音が聞こえてきた。
 鉄扉には二枚のすりガラスがあって半透明なのだが、ガラスが厚めのせいか、それとも逆光のせいなのか、その向こうにあるはずの影は映らなかった
 僕とOさんは少し緊張した面持ちでその鉄扉が動くのを待った。
 廊下から聞こえる何人かの足音が目の前の鉄扉の向こうで止まり、静かになった。
 僕はOさんを見て、判断をゆだねた。ここで一気に突っ込むのかそれとも待機するのか。
 Oさんはじっと鉄扉を見据えて動かなかったが、やがて痺れをきしらしたのか足音を殺して鉄扉に近づいた。足音が消えてから気配もそこで消えたような錯覚を二人とも味わっていた。
 Oさんがゆっくりと鍵を取り出し、シリンダーを回して一気になだれ込んだ。僕もそのあとに続く。
 だけどそこには誰もいなかった。

 足音はたしかに中からしたはずなのに、中には誰もいなかった。念のため、その廊下沿いの教室も見て回ったが、すべて鍵がかかっていたし、こじ開けたような跡もなかった。
 「どこに逃げたんだ、畜生」
 めずらしくOさんが怒りをあらわにした。普段は温厚で笑顔を絶やさない人なのに。
 二人を探してくる、と言い残してOさんが行ってしまったので、僕は開かれた鉄扉を内側から施錠して廊下をもう一度巡回することにした。
 一度、廊下を往復したところで入ってきた鉄扉を背に廊下をまっすぐ見渡した。何度も言うが、このあたりは街灯が明るいのでこの時間でも、特に懐中電灯を照らさなくても光が差している。
 僕は手にしていた懐中電灯の明かりを消して、気配を殺してみた。それでも廊下は十分に見渡せる。五感は耳だけに集中し誰かの気配を探した。
 万が一、悪餓鬼が飛び出してきたら大声で仲間を呼べばいいだけだ。それに僕の真後ろは鉄扉が閉まっているのだからわざわざ袋小路に飛び込んでくることもないだろうと思っていた。
 「…………」
 え、誰――――!?
 僕は背後から声が聞こえたような気がして思わず振り向いた。
 だが、そこは当然のように鉄扉がしまっているだけだった。
 それから今気がついたのだが、この鉄扉のすりガラス、内側からだと外にある影がわりとはっきり移るのだ。外から見たときには中の様子は影もうつらなかったのに、内側から見た状態だと踊り場の手すりの影まで写っている。
 そこに人影らしきものは写っていなかった。
 だけどたしかに聞こえたのだ。その声は――――

 ――――笑え。

 と。
 耳の後ろで囁かれたような不安。
 僕は少し不気味になって、あとの三人を探すことにした。
 だけどよく考えたらあとの三人が階段をあがったのか下りたのかすらわからない。四階建ての校舎だからこの棟に関して言えばそんなに広い範囲でもない。
 僕は少し迷って、階段を降りることにした。最初に分かれた二人が登っていったはずの中央階段を逆に降りることにしたのだ。
 最悪でも玄関のところで待っていれば誰かと出会うだろうという根拠のない予想もあった。
 「笑え」
 階段の一階と二階の途中の踊り場のところでその声が聞こえた。
 振り返ったが誰もいない。
 死角に誰かいるのかもしれない。
 だけど死角から誰かが語りかけたのではないということは僕自身が一番はっきりとわかっていた。
 なぜならその声は、

 僕 の 頭 の 後 ろ あ た り か ら は っ き り と 聞 こ え た の だ か ら。

 今いるこの踊り場には誰もいない。
 あたりを見回す必要もない。それほど狭い空間。
 僕は急に息苦しくなって、ぜいぜいと呼吸を乱しながら一気に階段を駆け下りた。後ろは振り返りたくなかった。そして玄関の方向へ走っていき、いや、走っているつもりで一生懸命歩いた。どうしても歩く以上のスピードがでなかった。
 「笑え」
 きゃははは、と小さな子供が笑うような声が遠く、そして笑いを強制するその声はすぐ近くで聞こえた。
 僕は振り返らなかった。
 そのかわりに足を早めていた。
 するとなんとまぬけなことだろう。気がつけば僕は玄関をいつの間にか抜けて、最初に僕とOさんが向かった校舎端の非常階段のすぐ近くまで来てしまった。
 僕は深く考えることもなく、その非常階段を上がった。深く考える余裕などなかった、といった方が正しかったかもしれない。
 耳にまとわりつく何かを追い払うように、僕はただ足だけを早めて階段を登り、二階の踊り場に戻ってきた。
 二階の廊下は突き当りまで見渡せるのは変わりなく、僕はひとまず安心した。
 だけど僕はふと大事なことを思い出した。
 僕が今いるこの場所。
 ここと廊下を繋ぐ鉄扉は僕自身が鍵を掛けたんじゃなかったのか!?
 そう――――鉄扉は全開に開かれていた。

 誰が。
 何のために?

 僕はそれは悪餓鬼どもが逃げ出した跡だと無理にでも思うことにした。
 そうだ、あの時、あの足音がした時、やつらは教室の中に隠れたに違いない。僕もOさんも教室の中までは確認しなかった。ただ鍵がかかっていたから見なかっただけなのだ。
 もし、彼らが教室に隠れていたら当然内側から施錠するだろう。そして僕らがいなくなったところで逃げ出したのだ。
 そういえば僕が聞いたあの変な声も、もしかしたら彼らの悪戯か囁き声が静かな校舎内に反射して変な風に聞こえたのだろう。僕はあの時、耳に集中していたし、彼らの声がかすかに聞こえたのかもしれない。それを僕自身の無意識な感情が妄想を膨らまして、勝手にびくついていただけなのだ。
 そう思うとやけに自分が小心者だと自覚する。
 ありもしないことを想像して、一人で恐れていただけなのだ。
 ふう、とため息をつく。
 握り締めた懐中電灯に汗がびっしりとついている。
 汗で濡れたせいだろうか。スイッチを何度入れなおしてもライトはつかなかった。
 僕はそれでももう一度校舎の中からでるのはちょっと嫌だったので、鉄扉は開放したまま非常階段を引き返した。
 またあとでOさんらと閉めにくればいいと思っていた。
 もう一度玄関の方へまわると、少し違和感がある。
 何かが気にかかった。
 一階の方が二階より街灯の明かりが届きにくくて少し暗い。
 よく見ると、玄関の側の部屋の扉が少し開いていた。
 扉の上のプレートには用務員室と書いてある。はて、この扉は最初から開いていただろうか。
 恐る恐る近寄ると中の様子を伺った。
 だが、この部屋には外部の明かりがまったく届かず、中の様子は見えない。
 その時突然笑い声がした。
 Oさんの声に間違いなかった。
 声は二階の方から聞こえる。
 「Oさん!! Oさんっ!!!」
 僕は廊下に出て何度も大声を出してOさんの名前を呼んだ。Oさんの笑い声は聞こえなくなった。
 耳をすますが何も聞こえない。
 もう一度Oさんの名前を呼ぼうとしたその時、
 「わははははは!!」
 と一段と大きな笑い声がした。
 だけどそれはOさんの声ではなかった。他の二人の声でもなかった。
 誰の声でもない。だけど、僕はそれはどこかで聞いたことのある声だった。
 「笑え」
 例の声が聞こえた。またも僕の背後から。
 だけど当然僕の後ろは、用務員室で誰も……?
 僕は後ろを振り返った。
 そこには少しだけ開かれた用務員室の扉があった。
 「…………」
 隙間からのぞく闇の中は耐え難いほどの恐怖心を僕に与えた。
 震える膝を抑えることもできぬまま、僕は扉と向かい合った。
 そこは闇だった。
 「うわははははは!!」
 突然Oさんの笑い声が上から聞こえた。間違いない。Oさんは二階にいる。だけどそれがなんだというのだ。二階にいるOさんは僕の知っているOさんではない。
 Oさんは冗談でもこんなつまらないことはしないし、どうやったらこの状況で笑う場面があるというのか。
 もうこれは悪餓鬼たちの悪戯でもなんでもないと悟った。悪餓鬼たちの悪戯でOさんが気がふれたように笑うなんてことはない
 それは例の声の主。やつが命令しているのだ。Oさんに。
 
 ――――笑え、と。

 激しいめまいと吐き気を催した。だが、なんとか踏みとどまって僕は闇の扉を見据えた。
 数歩あるけば、そこは表にでる玄関、門がある。
 だけど――――と、僕は思った。
 このまま何もわからずに帰っていいのか。
 それにOさんや、行方のわからない後の二人も放っておくわけにもいかなかった。
 そこにいる。何かがそこに――――。
 それをたしかめずに帰ってなるものか。
 震える足を―――― 一歩踏み出した。用務員室の方へ。
 扉に手をかける。
 ゆっくり扉をスライドさせて開いた。
 僕は部屋へ一歩だけ踏み込んで、手探りであたりの壁をまさぐった。おそらく――――。
 その思いは好機へと変わった。
 パチン、という小気味良い響きと共に光が瞬き、蛍光灯の明かりが用務員室の全体を映し出した。
 そこには簡素なテーブルと工具類が無差別に転がっており、見回すと壁には学校の鍵を入れていると思われる鉄のボックスが開かれていた。
 他には瞬間湯沸かし器のついた流し台、鏡、ガラクタをいれたダンボール。そして奥のふすまの部屋に続いていた。
 明かりがついて少し気持ちが軽くなった僕は、そのままふすまの部屋の前に行き、一気にふすまを開けて奥をのぞいた。
 そこには二畳ほどの畳の部屋があるだけで、他には何もなかった。
 気合をいれたわりには何もなかった結果にちょっと拍子抜けした気持ちと共に、安堵感が広がっていった。
 やっぱり気のせいだったのだろうか。
 「 わ ら え 」
 パン、という弾けた音と共に、蛍光灯の明かりが消えた。
 一瞬で闇になり、上下の感覚を失ったような気分になった。
 「 笑 え よ 」
 頬がぴくりと引きつるのがわかった。
 「 そ う だ 笑 え 」
 笑っているのではない。僕はそう訴えたかった。
 しかしこんな闇の中ではどうすることもできなかったし、誰に向けてそれを言うのかもわからなかった。
 僕が見えているのか。お前にはこの闇の中で僕が見えているのか。
 「 見 て い る か ら 笑 え 」
 僕はおかしくもないのに声を出して笑いそうになった。
 僕は一言も発していない。なのにやつは答えてきた。何故見えている? いや、そうではない。そういうことじゃない。心の中を直接覗き込まれているような不快感。
 暗闇に目が慣れてきて、開けられた扉の外からうっすらと光が漏れている。
 明かりがついていた時の状態を思い出しながら、そのわずかな光をたよりに僕は扉へと進んだ。
 扉に手を伸ばし触れようとしたその瞬間に奇妙なことに気がついた。
 僕は扉の隙間から外部の明かりが漏れているものと思い込んでいた。だけど……だけど今は扉の隙間であることは違いないが、完全に扉は閉まっていた。隙間はそのわずかな数ミリの間隔。
 僕は閉めていない。
 いや、閉めただろうか。
 よく覚えていない。
 記憶があやふやになり、感情がコントロールできなくなりつつある。
 よろける足取りで、僕は近くの台に捕まった。よく見るとそれは流し台だった。
 流し台の前には鏡がある。
 そこには相当悲惨で絶望している顔があるだろう。
 僕は鏡をみた。
 「笑え」
 あはははは。おかしいおかしい。
 僕は狂っているのか?
 僕はこの声の主を思い出した。
 この声は僕が良く知っている人物だ。簡単な答えだった。
 僕はもう一度鏡をじっくりと見た。
 そしてそこに写る人物が『わらえ』と言っていた。
sage