Neetel Inside ニートノベル
表紙

夜の確率
1-2. 対象

見開き   最大化      

 女の名前はアンジェリーナ・ウェルズ。ココに殺される女、アン。病歴データから彼女は今年で45歳。3年前の測定記録をみると身長157.8センチ、体重91.4キロ。まあ、かなり太ったおばさんだ。このおばさん、3年前から面白い治療を受け始めている。彼女は進化の恩恵を受けたのだ。
 遺伝子、生命の設計図であり、工場でもある分子の連なり。絡まり、時にらせんを描き、最後には解きほぐされる。その工場はアミノ酸を合成し、アミノ酸の連なりはそのまま生命という荘厳な城の建材であるタンパク質へ姿を変える。ちょっとかじった連中はこれを立体構造形成(フォールディング)と呼ぶ。ある遺伝子はネジとなるタンパク質を、また別の遺伝子は柱となるタンパク質を、といった具合に遺伝子群は多様な機能をもつタンパク質を創造し、種々のタンパク質が互いにぶつかり合いながら生命は形作られるのだ。
「まさに柱のネジ穴にネジが差し込まれ、城が建造されていくようなものなのです。」
 まるで見てきたような教官の大げさな語り口を学生のココはうつらうつらしながら聞いていた。データを見るとき、何か考え事をするとき、ココはいつでも学生に戻る。大抵は壇上で、またある時は傍で分子進化学の教官であるタクマ師の穏やかな声が聞こえてくる。
 進化とはこの遺伝子の配列パターンの変化を指し、遺伝子配列パターンの変化はそのままタンパク質の姿の変容を指しますね。頭の中のタクマ師が続ける。フォールディングが変化するのです。想像してみてください、ほんちょっと、そう分子2、3個分のわずかな変化でその姿、能力が変容してしまう儚げで不思議な物質のことを。そしてこの変化は遺伝子という工場が複製される、まさに子孫に遺伝する際の複製ミスによって生じるのです。
 タクマ師は「まさに」やら「それこそ」といった副詞を使って話を膨らませるのが好きだった。その誇張した話し口のせいで学生から小馬鹿にされていたが穏やかで優しい、良い人だった。ある日彼は物盗りに襲われ、大事な教本となけなしの400ヤェンを奪われた挙句にブラスターで頭を吹き飛ばされた。
 遺伝子の複製ミスはごくごく小さな確率で発生しますが、この地球の歴史、生命の歴史46億年の歳月を考えてください。一体何回の遺伝子の複製、繁殖が行われたのでしょう。どんなに小さな確率でもサイコロを振り続ければ当たりは出るものです。ましてや無限に近い回数サイコロを振れば当たりは何回出るでしょうか。
 46億年分のセックス。ココの思考が脇道に逸れた。タクマ師がちょっと眉をしかめる。
 気を取り直してタクマ師は続ける。これら小さな確率の積み重なり、神様がサイコロを振って振って振りまくった結果がこの世界であるわけです。

     

 ...そして神様の気の遠くなるようなサイコロ遊びの結果、私たちホモ・サピエンスが現れました。この生物は幸運なことに500年前、神様からサイコロをくすねることに成功しました。もちろん神様ほど達者にゲームに興じることはできませんでしたが、何はともあれ新しい遊びを手に入れた私たちはそれを使って新しい技術、概念の地平を開拓するに至ったのです。君が学んだ薬物設計(ドラッグ・デザイン)もこれらの技術を基盤に発展してきたんですよ。
 そうっすね、タクマ師。それじゃそろそろアンを殺す段取りについて話しあいましょう。ココが話を遮ると、もの憂げなため息をついてタクマ師はアンの資料に目を向ける。女性、45歳、肥満症、なるほど遺伝性ですか。CDKAL1遺伝子、ホルモン代謝系遺伝子の点突然変異、インスリン分泌系に異常が生じているわけですね。しかしCDKAL1遺伝子の変異は東アジア人集団に特徴的なものですが、アンは純粋なアングロサクソンではないということでしょうか。それは余計な推測だな、それに今どき純系なんていやしないよ。
 頭の中のタクマ師を脱線させないようにしながらココは資料を読み進めた。アンがもつ遺伝子配列パターンはさして珍しいものでもない。この変異(ミューテーション)自体が肥満症の唯一の原因ではないのだ。肥満関連遺伝子群の中では比較的大きな役割を果たす、といったところだ。例に漏れずこのおばさんもひどい食生活のせいで太ったのだろう。ジャンクフードをドカ食いする中年女を想像して、やおらココは殺気立った。いいぜ、この女なら殺せそうだ。
 この女、この歳になってようやく自分のぜい肉がそのまま自分の死因になることが気になりだしたようだ。3年前からアンはテーラーメイドの治療を受け始めた。ドラッグ・デザイン、またはテーラーメイド・メディシン。当代最先端の医療技術、若き日のココが学び、挫折したハイ・テクノロジー。
 遺伝子組換え技術で配列パターンをいじくるとして、どういじれば神様のごとく新たな機能をもつ遺伝子を創りだせるかですが、「カタログ」を利用することでこの問題は解決されました。調子に乗ったタクマ師がまた語りだす。500年前の遺伝子組換え技術の勃興と同時に人類はこの星のあらゆる生物の遺伝子配列を収集してきました。先史の研究者たちは人間から昆虫、細菌まで全生物の遺伝子配列を眺め、あることに気づきました。それは遺伝子レベルでみれば人間も昆虫もそこまで大差ない配列パターンで構成されているということだったのです。まさに、私たち全ての生命が遺伝的に、物質的につながっていることが疑いの余地なく示された瞬間でした!。人間も昆虫もある祖先から出発して少しずつ独自の配列パターンを獲得したものの、その遺伝子構成の大部分は似通っています。科学者たちが必死になって集めた生物の配列パターンのカタログは、まさにそれ自体が巨大な生命の系譜であり、地球規模の実験プロジェクトの結果だったのです。この「カタログ」を参考に、ちょっと配列パターンに変化を加えるだけで昆虫に特有な遺伝子機能をヒトの遺伝子に組み込み、新たな、例えばある病気に対する耐性が向上した遺伝子とタンパク質製の薬を精製することが可能となったのですよ。
 アンは自身の遺伝子欠損を補うため、正常なCDKAL1遺伝子が創りだすタンパク質と、マウス由来の脂肪分解を促進するALK7という遺伝子を基に設計されたタンパク質製剤を服用していた。アン個人の代謝系にこれらの薬をぶち込み、円滑な代謝サイクルが維持されるためのその他諸々の補助製剤。これらの製剤はアンの遺伝子配列を網羅的に解析し、「カタログ」と照らしあわせてゼロから設計される。まさにアン自身の、アンのためだけにテーラーメイドされた治療なのだ。「カタログ」という生命の進化パターンデータベースを利用すれば、アンのごとき中年オバンの肥満解消など造作も無いのだ。とはいえこの治療は高額で、しめて300万ヤェンはかかるだろう。イリマ区の住民なら10年は生活出来る額だ。
 この女、ネリマ・セントラルの住民に違いない。金持ちで、自分の怠惰な食生活のツケも払わず、いまさら健康な身体を取り戻そうとしている、醜い、太ったババアだ。わかった、殺してやるよ。あんたのスリムな身体に乾杯、だ。つまんねえことでテーラーメイド・メディシンなんて受けやがって。俺がこれからあんたの結末を仕立ててやるよ。
 殺す前にこの女とオトモダチにならなきゃいけないことをココは完全に忘れていた。

       

表紙

ホドラー 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha