Neetel Inside ベータマガジン
表紙

投げ作供養塔
涙の海

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    『Sea of tears,Tears of sea』

 私は、14歳の夏の全ての出来事と、その思い出をささげる。
 大切な友達、そして今も私の近くにいる彼女へ。
 
                         2020年11月3日 森里 楓



 プロローグ.
 
 夏が終わろうとしていた。
 別に悲しいという訳じゃない。宿題はみんなで協力するし、楽しい思い出にも事欠かない。でも、私の心ははどこか物足りなさを感じていた。
 カーテンの外から雀のさえずりが聞こえる。
 ふと、机わきのカレンダーの写真が目に入った。
 私はベッドに寝転がり、暗い天井を見つめながら、小さくつぶやく。
 「海」
 海で泳ぎたい。
 そういえば、夏休みの初めに行ったっきりだった。あの時はまだ(泳ぐには)寒くて、海水浴と呼べるものは出来ていない。
 私の家は海の近くで、通学の度に海を見る。よく、海の近くにすんでる人は海水浴はしないなんていうが、私はそうでもないと思う。たまには泳ぎたくなるもんだ。
 私はぐしゃぐしゃのベッドから飛び起き、窓のカーテンをわざと音が立つようにあけた。
外は薄暗くて、少し曇っている。暗いのは当然だろう。枕もとの時計の針は、まだ4時半を示していた。
「はぁ、・・・することないなぁ」
 普段の私ならこんな時間に起きてはないだろう。人にあげてもお釣りがくる位の低血圧な私なのだ。しかし、今朝は事情が違った。
  悪い夢でも見たのか、早々に目が覚めてしまった。べとべとした汗を体中に掻いて、飛び起きたのだ。手は、聞きたくない事があったのか、耳に(それもめいっぱい)当てられていた。お陰で腕も耳も変になりそうだ。
 私はベッドの上で半回転し、枕もとのケータイを手繰り寄せる。
 何とステレオタイプな目覚め方をしてしまったのだろう。それも悪夢を見た時の。でも、1つ違うところがある。肝心の夢の中身を一切憶えていないのだ。これでは本当に悪夢を見たのかすら分からない。しかし、早く目が覚めたのは曲げようのない事実だ。それに値する何かがあったことも。
 私はケータイを開くと手馴れた操作でEメール画面を起動していた。複数のアドレスへ一括送信。タイトルは無し。本文の所に゛海いく?"とだけ入れ、その流れで送信ボタンを押す。しかし、新聞配達のバイクの微かな騒音が私を現実に引き戻した。私は慌てて中止ボタンを押す。そう、今はまだ早朝なのだ。真っ当な女子中学生が起きているはずがない。大切なメールなのだから、適切な時間に、確実に送信しなければいけない。遊ぶならたくさんのほうがいい。それに、無理やり起こして機嫌を悪くされたらたまらない。
 少し時間を潰さなくては。
 その後私は、部屋にある漫画雑誌を読んだり、小雨が降る空の雲の数を数えて過ごした(雲は一つだった)。
 狭い部屋の中をゴロゴロしてるうちに緊張の糸がが解れ、うつら、うつらと眠気がやってきた。

 それ以降は憶えていない。ただ、漠然と海のことを考えていたような気はする。



     


1.海辺の風

 夏の盛りはとっくに過ぎたはずなのに、日差しは真夏のそれと大差なかった。お天道様は、水着やボディースーツしか着ていない観光客にもっと薄着をさせたいのだろうか。
 あれから私は、いつもどうり母に起こされ、朝食を食べてから3人に連絡を入れた。早いかとも思ったが、三人とも起きていた。4人の中で、朝が弱いのは私だけだったようだ。しかし、暇なのは皆同じらしく、こうして4人そろって季節外れの海水浴に足を運ぶことができた。
 私達は今、海沿いの国道を自転車で走っている。火照る体に海風が心地いい。すると三人のうち一人が、やや不満そうな声で言う。
「てかさー、ウチ一昨日家族で海行ったばっかなんだよねー。」 
 彼女の名前は「ヨシ」、染井ヨシ。同級生で、クラスは隣。去年同じクラスのときに仲良くなって以来、今でもよく遊んだりする。根はいい子なのだが、少し跳ねっ返りでがさつなところがあるので勘違いされがちだ。かくいう私も最初は怖い人だと思っていた。
 気のせいかもしれないが、クラスが変わって半年、彼女は少し変わったような気がする。それは、成長した、大人になったというのとは少し違う。クラスが違うからなんともいえないが、彼女自身の立ち位置そのものがが大きく変わってしまっているのではないか、と思う。確かめるすべは無いが、このまま彼女が私から離れていってしまうと思うと、少し寂しい気持ちになる。
「いいじゃん、二日連続で泳げて」
 彼女は「実莉」。本名は松平 実莉。去年に引き続き私と同じクラスだ。こいつはいわゆる運動馬鹿で、頭も筋肉になってしまっている節がある。よく言えば裏表がなく、単純。それはヨシにもある意味共通することだろう。
 ヨシとみのは仲が良い。似た気質のもの同士、気が合うのだろう。そこに文子も加わる。
「えっ、ヨシちゃんふやけてクラゲになっちゃうよ!」
こころの底から(何の疑いもなく)こんな台詞が言える人間はそう居まい。彼女は岩波 文子(フミコ)。通称フミ。こいつが何か言うとかなりの割合で会話が中断する。あの強烈なマイペース(天然とも)は他の3人には無いものだろう。ほんと凄いと思う。
 そうこうしているうちに、サーファーや海水浴客の集まりが見えてきた。
「うわっ、夏休みも終わりだって言うのに・・・」
というか、お盆過ぎなのにいいのだろうか。
「罰当たりどもめ」
 実莉ちゃん、それは私たちの言えることじゃないよ。
 私達は国道をそれて海岸とは逆の防砂林に入っていく。国土地理院の看板が目印だ。海から離れてどうする、と思うかもしれないが、これでいいのだ。
 私達は、松やら竹やらが無造作に生えている防砂林の中を歩く。足場が悪いので自転車からは降りている。
 薄暗い防砂林は、徐々に上り坂になっていく。私達は海沿いの山を登っているのだ。
「はー、しんどい・・・」
ヨシが弱音をはいたところで下り坂が途切れ、海岸線が見下ろせる開けた場所に出る。
「おおー、結構登ったねぇ」
 ヨシが今までの苦労を忘れたように言う。
 この高台からは、海水浴客とサーファーで混雑した国道沿いの海岸が見える。目的地はまだ木の陰だ。
「さ、早く行こう。後は下りだけだよ」
 海への期待が私の胸を高鳴らせ、口を動かした。
 登りに比べて、くだりは余りにも短かった。登山家なら満足しないだろうが、今はそれでいい。
 私は自転車で坂を駆け下りる。ブレーキは掛けない。少しでも早く、海を見たいから。後ろの3人がついて来なくても関係ない。
 頭上を覆っていた松の枝がなくなり、タイヤが砂に埋まった。砂浜の砂だ。
「・・・・・うみ」
 生まれてから今日まで何度も見ているはずなのに、なぜだろう。海がこんなに愛しく見えるなんて。

 私は文字どうり、海に見とれていた。

「て、あ、危なーい!!」
 美しい海岸に実莉の声が高く響く。・・・実莉の声?
『邪魔ぁぁぁぁ!!』
 海の余りの美しさに忘れてしまっていた。実莉が私のすぐ後ろを走っていたことを。
 私は吹き飛ばされ、実莉も飛んだ。冗談にならない"ぐきっ"という着地音がした。下が砂浜でなかったら死んでいたかもしてない。いや、自転車と人間が上に乗っかっているのだから実際あまり助かっていない。
「あいたたた・・・楓ったら、急に止まるんだもん」
『その前に、どいてくれると・・・うれしいな』
「あ、ごめん!・・・・・よっと」
『ほあぁぁっ、ハンドルがっ、腰にぃぃっ!!』
 凄い声が出てしまった。隣の海岸にも響いたかもしれない。

 何だかんだあったが、とにかく海岸には着いた。予想どうり人は殆ど居ない。というか誰も居ない。空いているのにはそれなりの理由がある。まず狭いこと(ドラえもんの映画に出てきた砂浜を思い出していた頂ければ)。パッと見普通の小さな砂浜だが、不気味なことに何かを祀っていたであろう朽ち果てた祠(ほこら)らしきものがあるのだ。山を背にしているせいか、朽ちてもなお威厳を失っていない。話によると、海岸沿いに国道を作る話が持ち上がったときも、ここは最初からよけて通るコースになっていたらしい。小さい頃はこれが恐ろしく見えたものだ。いや、今も少し怖い。地元民が寄り付かないのはこの祠のせいが大きい、と私は思う。
「お盆過ぎだから心配したけど、泳いでも心配なさそうだね。」
 文子が言っているのはクラゲの事だろう。例年どうりなら水温が下がってクラゲが出てくるのだが、今年は心配なさそうだ。水着だけで泳いでいる観光客が何よりの証拠だ。
 私達は自転車を一箇所に置くと、水着とバッグを持って林の中に入る。普通の浜なら、観光収入目当てに最低でも一つは海の家などがあって、そこに脱衣所なんかがまとめて入っているだろうが、何せここはプライベートビーチだ。そんなものはない。中学生にもなる身としては不本意だが、この砂浜を独占できるのならこれぐらい何でもない。そもそも独占しているのだからのぞかれる心配がない。こんな閑散としたところで覗きもないだろう。

 私が一番に着替え終わった。(服の下に水着を着ていたので、厳密には着替えではないが)着替えそのままの勢いで林を飛び出し、砂浜を駆け抜け、海へ飛び込む。
「ひっ!冷たいぃっ!」
 一気に突っ込みすぎたのがまずかった。幸い心臓は止まってないが、危なかった。だが、冷たいのは一瞬だった。慣れてくると分かる。なんて気持ちがいいんだろう。海が私を包んでくれているようだ。
「楓ちゃーん。まってよー」
 文子がこっちに走ってくる。
「早くきなよー。きもちいよぉー」
 うん。と言いたかったのだろうが、足がもつれて彼女は転倒した。
 後ろから歩いてきたヨシと文子が実莉に声を掛ける。
「大丈夫!?」
「ぶmm。わひzぷn。」
 言葉になってない。彼女の顔は砂だらけで、まるでイムホテップだ。
ヨシがお茶の入ったボトルを渡してあげる。念入りに口を漱いだフミは、すーっと深呼吸をする。
「ふーー。ありがとう。そういえば人間って消化のために砂が必要なんだって、テレビで言ってたよ。」
 何を言い出すんだこの娘は。
「え?」
「健康にいいのかな?」
「いや・・・」
「長生きしちゃったりして!」
「多分、それ・・・鳥の話・・・だと思う」
 砂肝のことかな。
 相変わらすスゲーな。本にまとめたら売れそうだ。


 海は暖かく透き通り、泳ぐのに不自由はなかった。
 文子と実莉は砂のお城を作っている。文子が砂で姫路城をつくろうと言い出した時は、子供っぽくて恥ずかしいと言っていた実莉だったが、いざ始めると無口になるぐらい真剣になっていた。案外楽しいのだろうか。
 ヨシは『散歩』と言い残し何処かへ行ってしまった。
 私はと言うと、砂の姫路城の屋根裏に名前を彫っても良かったのだが、『海に来た以上泳がなきゃ』と言うことで海を泳ぐことにした。何より今日の穏やかで優しい海に浸かっていたかった。


 全く海は素晴らしい。傍から見れば荒々しくて恐ろしいが、本当はとっても優しいのだ。潜ってみれば波はなく、微かな流れがあるだけで、何とも心地いい。海水にもテレビ(噂の東京マガジンとか)で見るような濁りはなく、柔らかい日差しが注ぎ込んでくる。場所によっては魚と戯れることすらできる。さすがに南国のようなカラフルな魚はいないが。詩的な表現を使えば、『流れが奏でる歌に合わせて、私は海とダンスを踊った』と言ったところだろう。本当に来てよかったと思う。

 私が水面から顔だけ出して呼吸を整えつつまどろんでいると、ブルルッという震えが体を駆け抜けた。近くにニュータイプがいたわけではない。
「トイレ・・・」
 あれからどれだけの時間泳いでいたかはわからないが、太陽の加減から考えて二時間弱はたっているはずだ。しかもずっと水の中に居たのだ。むしろ今まで催さなかったのが信じられないぐらいだ。そこまで楽しかったのだろうか。
「ここで・・・いや、だめだめ」
 自分が潜っているところでってのは、あまりいい気がしない。それに、何かが『ダメだ』といっているような気がする。第六感みたいなものが働いてるのだろうか。
 とにかく私は岡に上がることにした。あまり時間的な余裕がない。といっても、荷物がある場所はBとCに会ってしまうので気まずい。だから私はそこから少し離れた岩場に向かうことにした。
「よっこら・・・っ!・・・・・これが、地球の重力なのか(カミーユ)」
 陸に上がる瞬間、全身に重力がかかることを考えてなかった。それに、外圧も半分になる。危うく間抜けな失敗を犯すところだった。
 重力にも慣れたところで私は周りをたしかめる。誰かいたらこっちに来た意味がない。
「・・・・・うわ、どうなんだろこれ・・・」
 人がいた。一組の男女が。しかし、遊んだりしている風ではない。男が岩に腰掛、女がそれにまたがってる。始めは抱き合ってるように見えたが、違った。
「ってこれ!・・・・・」
 男女は、(真昼間だけど)夜の営みを営んでいた。用はビーチセックスだ。場所が場所だけにそう珍しいものでもないと思うが、それとは別に私には気になることがあった。なんと、女のほうに見覚えがあるのだ。
「・・・・・ヨシ?」
 いや、間違いない。あの水着と髪留めには見覚えがある。そういえば、姿を消す前Aは携帯で電話をしていた。ああ、まずいものを目撃してしまった。なんとも気まずい。これは中身が中身だけに誰にも相談できそうもない。いや、そもそも誰かに相談する必要があるのだろうか。Aに彼氏がいるのは本人の口から公表済みだ。いやいやそうじゃなくて、私の精神安定のために・・・とりあえず落ち着こう。

 
それからは、海を楽しむどころではなかった。あの光景-ヨシが見知らぬ男の人と激しく-が、頭から離れなかった。もう泳ぐ気にならなかったので、休憩がてら安土城(姫路城は海に沈んだらしい)の装飾を手伝って残りの時間を過ごした。何をやったかは殆ど憶えてないけど。
 それから程なくして、ヨシが戻ってきた。何ともなさそうなので、ひとまず安心する。全くもって杞憂と言うものだと、自分に言い聞かせるが、14歳の少女には仕方がないのだとも思う。
 その後はやることがなくなったので、もう帰ることにした。お開きである。
「・・・・・」
 疲れと、ショックが相まって喋る気がしない。帰り道、私とヨシはほとんど無言だった。方や文子と実莉は、お城の完成度の話で盛り上がってた。
「私としては、万里の長上がいいとおもうなぁ。ね、楓ちゃん」
 文子が話を振ってくる。
「・・・え、ああ。そうだね。」
 生返事しか出来ない自分が情けない。そんなに凹むことじゃないと思うのに。
「楓、よっぽど疲れたんだね。あれだけ泳げば無理もないか。」
 実莉の配慮だろう。どういう意図かを度外視してありがたい。
「そういえば、ヨシちゃんは散歩どこまで行ったの?」
 それは!・・・いや、今ここで私が動揺したら、ヨシは私が見ていた事に気付いてしまうかもしれない。文子と実莉がそれを不振に思うのはなお悪い。私はただ、知らないふりに徹すればいい。
「そんなに遠くには行ってないよ。」
 そうだ。当たり障りのない返答をしていればいい。
「そうなんだ。連続じゃ泳ぐ気しないもんね。楓ちゃんはどの辺りで泳いでたの?」
 文子が再び話を振ってくる。ヨシの話口から気まずさを感じ取ったのだろうか、それとも偶然か。どっちでもいい。
 「うん、結構沖の方まで行った。」
 と、ここで分かれ道だ。私はここからは一人でかえる。いつもならみんなについて行くところだが、今日はとてもそんな気分にはならない。実莉と文子は何か言っていていたが、憶えていない。

 とにかく、早く帰りたかった。

     


2.夕日と闇と

 海沿いの町というのは、夏になるとほぼ例外なく観光客がやってくる。老若男女問わずたくさんの人間が訪れるので、異様なほどの熱気を感じることができるが、シーズンが終わると彼らは帰っていく。残るのは地元民と、観光客が置いてていった残骸だけで、またいつもの寂れた街に戻ってしまう。だからこの時期はいつも、少し寂しい気持ちになる。
 私は海沿いの道を自転車を押して歩いている。夕日が海岸を照らす情景が、私をいっそう寂しい気持ちにさせる。
 夕暮れ時の海はは急速にその姿を変化させる。潮風は冷たさを増し、水面は光の加減で黒く濁ったように見える。波は高くなり、動物達は寝床に隠れる。先刻までの優しさは一転、禍々しく恐ろしい面を生き物に見せ付ける。私には、それが単に日暮れのせいだけには見えなかった。
 私は自転車に乗って、家路を急ぐことにした。
 これ以上海を見ていたくなかった。もしこのままここに居て海を眺めていたら、海が怪物に姿を変えて私を飲み込むような気がして、それが恐ろしかった。
 遊びつかれた観光客の車のヘッドライトが、道路を、ガードレールを、そして私を撫でて、過ぎ去っていく。無機質な光が冷たい。車内では和やかな家族の会話が交わされているのだろう。子供は眠っているかもしれない。
 少し走ると見慣れたT字路が見えてきた。やっとこの怪物から離れられる。私の家は海岸から300メートルぐらいの住宅街にある。ここを曲がって二分も走れば家に着く。今日はもう眠ってしまいたい。シャワーを浴びたらさっさとベッドに入ろう。
 そう思った時だった。私は急に自転車を止めて、光のない海を眺めだした。
「!・・・・・!?」
 自分でも何をしているか分からない。金縛りという具合ではない。心が勝手に体を動かしているのだ。抗えない。抗う気が起こせない。
 不気味な静寂があたりを包み込むなか、私は20秒ほど海を見つめていた。いつの間にか体は(心は)自由になっていた。
 私はふと、海がこっちを見ているような感覚に襲われた。怖くなって、私は急いでその場を離れた。

「おかえりー。随分遅かったけど、こんな時間まで何してたの?」
 玄関のドアをくぐると、母の声が台所から響いてくる。
「ちょっとねー」
 適当に答える私。母の声を聞いて安心したのか、先程の感覚は薄くなっていた。
「どうせ男とでもあってたんだろ」
 兄の声である。いつもなら鬱陶しい兄だが、今日はとても頼もしく感じる。今は居間でお茶を飲んでいる。
「僻んでるんでしょ。自分が彼女作れないからって。高校生にもなって、情けないなぁ」
「う、うるせー!彼女ぐらいそのうち3,4人いっぺんに・・・ってお前も彼氏居ないジャン!」
 私は水着を洗濯機に放り込みながらいう。
「私はいいのよ。まだ中学生だし」
 そうだ。これだ。こういう馬鹿馬鹿しいやり取りがしたかったのだ。不安で今にも泣き出しそうだったが、だいぶ落ち着いた。
「お母さん、私お風呂はいっていい?」
「ご飯は?」
「いいや、なんか疲れちゃった」

 湯船に浸かっている間、私はヨシのことを思い出していた。最初は乗り気でないかったのに、途中から素直になったのは、きっと彼氏のことを思いついたからだろう。乗り気でないなら、最初から参加しなければいいのに。いや、そもそも私がいけなかったのかも知れない。誘ったときのメールの文面を思い出してみる。確かに少しプッシュが強い・・・いや、はっきりいおう。断りづらかった。そうだ、全部自分で蒔いた種だったのだ。思えばあの時自分はは周りが見えてなかった。まるで小さな子供のようだと思う。

 髪を乾かすと、私はベッドに入った。本当に疲れているだけあって、夢の世界に飛び込むには然程時間がかからなかった。



 私は海で泳いでいた。いや、私が泳いでいるのを見ていたというのが正しい。では私は誰だろう。すべてを肌で感じ、すべてを抱いて、包み込んでいる。
 そうか、私は海だ。
 私が私自身の中で楽しそうに泳いでいる。私も楽しい。母が子と遊んでいるような感覚だ。私は優しく波を起こして私を戯れさせる。
 この時間がずっと続けばいいと思う。
 すると泳いでいる私は、私から離れ岩場の方へ泳いでいく。
「行かないで・・・」
 私の思いは声にはならなかった。海は喋れない。
 岡に上がった私は、何かをじっと見ている。

 私(人)が見ているのは女の子だった。見覚えのある髪留めをしたその子は、男の人と抱き合ってる。その瞬間、私(人)の意識が私(海)から離れていくのを感じた。私(海)の心は大切なものを無くしてしまった時のような、耐え難い悲しみで満たされていた。
 私(人)はその後私と遊んでくれることはなかった。
 やがて日は沈み、私は闇に沈んでしまう。私(人)がもう二度と手に入らないと思うと、心のどこからか強い怒りが込み上げてきた。怒りの矛先はあの女の子に向いている。あれのせいで、私(人)は向こうに行ってしまった。そう思えば思うほど、彼女に対する怒りは増していく。
 やがて、四人は帰っていってしまった。だが、私(人)はまだ海から見えるところを走っている。
「いかないで!こっちを向いて」
 そう強く念じると、なんということだろう。私がこっちを向いたのだ。
 私と私はしばらく見つめ合ったが、私(人)は走り去っていってしまった。
 私の中には、あの女の子に対する憤りだけが残っていた。



 私は真っ黒だった。
 底が見透かせない。月明かりでは、私を透かすには不十分だ。しかし、陸を照らすには十分だ。
 私は海岸を見ている。暗い海は私の心を表しているようだ。
 砂浜にはあの女の子が立っていた。彼女はこちらに歩いてくる。ゆっくり。ゆっくり。ふらつく足どりで。それでいい。こっちへおいで。
 私は少し身を引き、彼女が普段は海に沈んでる場所まで歩いてこれるようにしてあげる。そして、彼女が十分近くに来たのを確認して、私は、

 女の子を飲み込んだ。




昨日と同じ、最悪の目覚めだった。私は乱れた髪をかきあげる。
「やな夢・・・」
 ひょっとしたら、昨日より悪いかも知れない。夢の中身を憶えているんだから。それも克明に。今だって、あの楽しいひと時やあの女の子に対する形容しがたい怒りが体に残っている。いや、そうだ。夢の中では意識していなかったが、あの―私が今しがた飲み込んだ―女の子は間違いなくヨシだった。なんてことだろう。そう思っても、今目の前にヨシがいたとしたら、冷静でいられるか自信がない。
 自分が怖かった。
 自分はあの時、ヨシを大波で飲み込んだとき、何の躊躇(ちゅうちょ)もしなかった。それどころか、いい事をしているような清々しい気分になっていた。目を覚ました時自分は、笑みを浮かべてさえいたのだ。
 自分が怖い。
 私は人殺しなのだろうか。そんな疑念が頭をよぎる。
 大した理由もなしに人を殺し、それに悦楽を覚える。もはや人を殺すことに躊躇は無くなり、息をするかのごとく殺人を犯す。やがて人の死にすら関心が持てなくなり、ただヘラヘラ笑ってよだれを垂らすことしか出来ないものになって、死んでいく。私はそんな風になるのだろうか。もしかしたら、もうなってるかも知れない。子供の無知から来る残虐性が大人になっても抜けないと、狂った殺人者のような行動をとると聞いたことがる。表面上は違っても、私がそうでないと言う保障はどこにも無い。そう思うと、世界が急に冷たく見えてくるから不思議である。
 私はベッドから出て、朝の準備を始めた。今日は登校日だ。
 休み前までは毎日着ていたはずの制服も、重く冷たい物に思えてくる。ナイロンに見えるのは実は革の甲冑で、私が殺した人の血が染み込んでいる。いつもの下げ鞄の中には、教科書ではなく私が殺した死体の断片がビニール袋にくるまれて入っているのだ。鞄の樹脂越しに人の頭が断末魔の形相でこちらを見つめている。
 私は階段を下っていく。居間の時計は六時半をさしていた。今日は早めに学校に行くことにする。何か愉しいことがありそうな予感がするのだ。私の中の殺人者が『ぐるるぅ』と、腹の底まで響き渡る唸りをあげる。私は笑みを浮かべながら玄関を開ける。世間の風はジメッとしていて冷たかった。その風が家、そして私のすさんだ心に容赦なく吹き込んでくる。今にも群集の嘲りが聞こえてきそうだ。
 私はそれを無視した。おまえ達はいずれ殺してやる。一人ずつではなく、みんな一片に。混沌とした大波で、全部飲み込んでやる。
 私は自転車に跨る。この自転車よくみると馬の骨で出来てる。というか馬が骨になっただけの姿(ギャートルズで死神様が乗ってたやつ)だ。馬の骨とは、頼りないものに使われる言葉だが、こいつはなんとも逞しい。今日からお前は黒王号だ。
 私は黒王号に乗って登校した。なんだか飛べそうな気がしたので、飛んでやった。黒王号が張り切りすぎるもんだから、衝撃で校舎は吹き飛んでしまった。
「いい子だ、黒王号。でも、次は気を付けような。」
 黒王号は、骨と骨が擦れ合うぎしぎしという音を出した。答えているのだろう。
 世界は海に沈み始めていた。私はノアの箱舟を見つけると、黒王号に体当たりさせて船を沈めてやった。黒王号は喜びのあまり粉々になった。少し気が晴れた。


「うぎゃぁぁ!!」
 昨日と同じ、最悪の目覚めだった。私は乱れた髪をかきあげると、鏡を見た。そこにはぼさぼさの髪をした自分がいた。これは現実だ。
「・・・朝っぱらからなんて夢」
 ひょっとしたら、まだ夢の中かも知れない。この現実はさっき見た夢の冒頭と寸分と違わない。いや、止めよう。ホントに夢だったら困る。
 私はまだ目覚めてない頭を揺すって学校に行く準備をはじめる。今日が登校日であることまで再現するなんて、リアルな夢だった。お陰でその前の夢、その前の前の夢まで忠実に覚えてる。それについて考察しうることは夢の中でし尽してしまったので考えることは無い。最後の夢の後半をもう一度やる気にはならない。
 私は髪を整えて、もう一度鏡を見る。身支度を終えた自分が映っている。
「うん。完璧。」
 私は階段を下りると、居間に転がり込む。パンが焼ける匂いが私の意識を鮮明にさせる。目玉焼きもあるな。
「あ、それお兄ちゃんが食べなかったやつだから、食べていいわよ。」
 残り物かよ。母さんそりゃ無いよ。まぁ、食べれればなんでもいいや。
「それより、時間大丈夫なの?」
「あ、大丈夫。今日はいつもより10分遅くいけるの」
 口一杯にトーストを頬張りながら喋るのは、マナー違反だが、この瞬間が一番幸せなのだ。エチケット爺さんも許してくれるだろうよ。
「ってあんた、30分以上遅れてるよ。」
「な゛!」
 朝食はキャンセルになった。私は鞄を手に取ると急いで玄関をでて、黒王号ではなく自転車に跨っる。残り半分も無いトーストには口の中に退避してもらうことにした。
 私は自転車を力いっぱいこいだ。初夏のような清々しい風が体中を抜けていく。あの憎たらしい猛暑は去り、秋が顔を出そうとしていた。朝日(といっても7時過ぎ)が海に反射してまぶしい。あんなに恐ろしかった海も、今見れば怖くない。私は海沿いの国道を走りぬける。残然ながら、情景を楽しむ余裕は、今の私には無い。今日は特登日、夏季休業中特別登校日なのだから、遅れるわけにはいかない。こういう特別な日には決まって集会がある。もし遅れれば、校長先生が熱弁を振るっている校庭なり体育館なりに、一人で途中参加しなくてはいけない。こんな拷問があろうか?アメリカ軍やKGBはこういうのをプログラムに取り入れるべきだろう。拷問対象が死ぬことも無い、クリーンでピースフルな方法だと思うのだが、駄目か。

 結局私が学校に着いたのは五分遅れだった。20分を五分にしたのだから大したもんである。
 私は汗だくになって肌にくっ付いたシャツの内側にパタパタと空気を送りながら廊下を進んだ。五分とはいえ遅刻は遅刻だ。覚悟は出来ていた。しかし、僅かでも可能性があるならそれに賭けてみない手は無い。私は教室に向かっている。二年生は二階だ。
「やった!」
 二階から声が聞こえたのだ。一人や二人ではない。中学生特有の、あのけたたましさ。私は喜びのあまり、涙を流していたかもしらない。
 私は強い足取りで教室に入っていく。
「あ、きたー」
 予想通り、私に視線があつまる。しかし、全校生徒の前と比べたらこんなもの。
「森里、今日はどうしたんだ?」
 担任の男性教師が尋ねる。
「すいません、寝坊しちゃいましたぁ。」
 片手を頭にのせて、林家三平のようにおどけて見せる。こういうのが一番早く私からの注目を外せる。逆に、恥ずかしがってウダウダしてるのが一番注目を集めてしまうのだ。
「まぁ、森里が寝坊すんのはいつものことだしな。」
 担任教師としてそれでいいのかはおいといて、間に合ったことは素直に嬉しい。早速この喜びを隣人と分かち合おうではないか。隣人を愛せ(キリスト教徒ではありませんが)、だ。

「え、今日集会ないよ。」
 実莉である。(私と実莉は同じクラスで、席が隣なのです)これには言葉を失った。私の苦労は!?、朝食の目玉焼は!
 それだけでは飽き足らず、私は他にも間違いを犯していたらしい。すべてを実莉が語ってくれた。まず登校時間。私は10分遅くと言ったが、本当は10分早かったそうだ。つまり私は15分遅れたことになる。
 なんと言うことだろうか。私は配布されるプリントを後ろに回しながら呟いた。

 結局登校日は、プリントの配布やら新学期の予定確認などの当たり障りの無い内容でおわった。その後私は、実莉と一緒に帰ることにした。
「楓さあ、ヨシがどうなったか知らない?」
「え!?」
 唐突な質問に戸惑ってしまったが、深い意味は無い、本当の質問だったようだ。
 彼女によると、ヨシに連絡がつかない状態が昨日から続いているらしい。クラスが違うから何とも言えないが、そういえば今日は見ていない気がする。
「具合でも悪いんじゃないかなぁ」
 私とは関係ない。きっとそうだ。
「やっぱそうかな、だけだといいんだけど」
 だが、思い当たる節があった。一つはあの岩場での出来事。体調を崩しているということはありうる。もう一つは、私の夢の中での出来事。そんなわけないのは分かっている。でも、こちらには不気味な信憑性があった。私が体験しているからだろうか。
 何にせよ、どっちも話せないのが歯がゆい。

     


 3.確信

実莉分かれた後、私は少し遠回りして帰ることにした。
 ヨシのことを思い出したせいで、昨日の事までも思い出してしまっていたのだ。帰り際に見たあの恐ろしい海。考えただけで悪寒が走る。あんなのはもうごめんだ。だからもう、しばらく海は見たくない。それが遠回りの理由だった。
 私は、商店街大通りから一本入った道に入る。商店街の大通りは、交通量が多い割りに歩道が未整備で危険なのだ。だか一本脇にそれてしまえば閑散として住宅街があるだけだ。ここを使うと車なんかに神経を使わずに帰ることが出来る。と説明したはいいが、ここを通るのは初めてだったりする。入学以来ずっと海沿いの道を利用してきた私である。だが今は、あの道を使う事は考えられない。
 世間は今昼時だ。住宅街の家々からは食べ物の匂いが漂って来る。普段なら腹の虫をうならせながら急いで変えるところだが、大きな懸案事項を抱えている今は、それどころではないと体が言ってるようだ。あまり食欲が湧かない。
 帰る途中、個人経営と思しき医院を私は見つけた。真新しいが、それ以外には何の変哲も無いと言えるものだった。しかし、医院として、というより医療機関としての常識から逸脱したものがそこにはあった。
『喪中』
 病院なのに人が死んだ時いちいち喪に服すのだろうか。いや、これは患者ではなく、病院関係者かその家族が死んだということなのだろう。よく見るとこの医院、自宅もかねているようだし、そういうことなのだろう。どっちにしろ病院に喪中は良くない。
 私は再び走り出した。ふと隣の公園に目がいく。そこには黒いスーツを着込んだ男性が立っていた。喪服だろうか。私が彼を見ていると、彼も私のことを見た。私が公園の前を通り過ぎる一瞬、二人の眼が合った。違ったかも知れないが、少なくとも私にはそう思えた。
 私は混乱しているのだろう。
 

 外は雨だった。
 今日は9月1日。夏休みが終わった日の次の日、つまり新学期最初の日。
 例年より少し早い大型台風接近のために、降ったり晴れたりの天気が続くそうだ。私の心境を表しているようで、いい気持ちがしない。
 私は、疲労の溜まった頭を揺さぶりながらベッドから起きあがる。本当は夜の明ける前から眼は覚めていたが、することも無かったので今までベッドの中にいたのだ。どうやら私の精神状態は、自分が想像しているよりも深刻な位置にいるらしい。登校日以来の不眠症がそれを証明している。
 私は、自分の包まっていた布団を跳ね除け、ベッドから起き上がる。もしこの動作を第三者が見ていたとしたら、私を老人か何かと勘違いするだろう。寝不足で体の自由が利かない自分が苛立たしかった。
 私の頭の中には、登校日に実莉から聞いた言葉が、吐き捨てられたガムのようにこびりついていた。夢の中で見たあの一コマ。それを思う度に「あり得ない」と否定するのだが、あり得ない保証もない。この数日間、そんな自問自答を繰り返していた。でも、それも今日で終わる。今日学校に行けば、行ってヨシの元気な姿を見れば、すべて無かったことになる。それがどんな結果でも、進展が無いよりはマシだと、意思に反して感じ始める自分がいた。
 私はのスカーフを首に巻く。
 ヨシが来てなかったら?
 ありえない。常識的に考えて起こり得ない。必死に意識で否定する私。そうだ、ヨシのことだから、登校日のことを忘れていたに違いない。サボったのかもしれない。どっちにしろ彼女は無事なんだ。連絡がつかないのはただのトラブルなんだ。不安に思う度にこうして理由をこしらえて自分を落ち着かせる。もう何度も繰り返したことだ。
 私は初日の用意を鞄に詰めると、階段を降りて玄関のドアをあける。朝食はとらない。折からの不眠症で胃の調子も良くないのだ。無理して食べようとすれば戻ってくるだろう。ずっとこんな調子だ。
 私は深くため息をつき、自転車に跨る。今日も街中を通って学校へ向かう。もう何日も経っているというのに、あの時の感覚―金縛りにあったとき―が忘れられない。体は何ら異常は無くて、一見すると自分の意思で動いているようだが、その行動は本当に自分の意思なのか後から分からなくなる。あれは本当に自分なのだろうか。もしそうなら、自分とは私が今まで思っていたようなものではないという事になる。自分を区切り、決定付ける枠が壊されたような感覚。その思考過程自体が私の精神に有害な影響を与える。精神がカルシウムで出来ているなら、今頃はスカスカだろう。
 私は小雨の降る住宅街通り抜ける。雨に濡れたせいで自転車のタイヤからきいきいと嫌な音がする。
 こんなに長い期間精神的に追い詰められたのはいつ以来だろう。
 乗用車が、雨に濡れた道路を走り抜けていく。
 幼稚園の時、割った花瓶を砂場に隠したとき以来か。あの時は母と相談して自白しに行ったんだった。花瓶を割ったことより、それを砂場に隠したことを怒られたのが不思議だった。
 今は誰に相談すればいいのだろうか。

 そんなことを考えているうちに学校に着いていた。私は教室への階段を駆け上る(疲労があるので、本当に走れていたかは分からない)。そして自分の教室に鞄を置き、ヨシのいるであろう教室に向かう。ヨシと私はクラスが違うので、確かめにいく必要がのあるだ。中に入り、辺りを見回す。
 彼女の姿は見えない。いや、見落としがあるかもしれない。寝不足で集中力が切れているのだから。
 私はもう一度。一人ひとり数えながら彼女を探した。
「やっぱり居ない・・・」
 やはり彼女の姿は無かった。
 そうだ、まだ来ていないんだ。ヨシはいつもチャイムぎりぎりに来るから。
 私がそう思い至った瞬間、チャイムが鳴った。
 遅刻かもしれない、などと思うほどの余裕は私には無かった。言葉が出なかった。
 私が教室に戻ると、授業が始まろうとしていた。授業担当の教員はすでに教卓に就いている。私も席に着き、今後の対応を考えようとしたその時、担任が教室に入ってきた。
「森里、松平、ちょっと」
 どうやら私と実莉に用があるそうだ。ヨシの身に何かあったのは、誤魔化しようのない事実らしい。
 外はまだ雨が降り続いている。厚い雲のせいで、空は日没後と大差ない。風に当てられガタガタと音を鳴らす窓が、蛍光灯の白い光を反射している。
 私たちはしばらく廊下を歩くと、空き教室の前で止められた。すると担任は私たちに説明を始めた。
「いま染井のことで警察が来てる。お前ら、登校日の前の日に染井と海行ったよな。そのときのことを正直に話すんだ。先生はお前たちのことを疑ってる訳じゃないが、偽証罪ってものが・・・」
「先生!!」
 力の入った声が薄暗い廊下に響く。担任の説明を遮ったのは実莉だった。
「ヨシは!?ヨシは大丈夫なの?」
 大丈夫じゃないよ。ヨシは死んじゃった。もう分かってるから。私の心の中にそんな言葉が浮かんでくる。
 担任は、沈痛な面持ちで、私たちに顔を向ける。「俺だって辛いんだ」とでも言いたそうな目だ。
「きのう、隣町の海水浴場で、中学生らしき女の子の水死体が発見された。」
 実莉が、その場に崩れ落ちた。
「染井である可能性が高いそうだ」
 廊下に彼女の嗚咽が響く。私は以外にも冷静で居られたので、涙を流すことはなかった。多分、ピークはとっくの昔に過ぎていたのだろう。しかし、ケロッとしていては不自然(怪しい)なので、下を向いて泣いている振りだけでもしておくことにした。それに、悲しくない訳でもない。
 水死体かぁ。あの夢は本当だったんだだ。私がやったのかなぁ。分かってしまうと、大したことはない。肩の荷が降りた気分だ。自暴自棄なだけか。
 担任は実莉の背中をなでている。教員も大変だな、と思う。すると担任は私のほうを向いて、説明を始めた。
「今、岩波が来賓室で警察と話をしてる。先生と平松は後から行くからお前先行っといてくれ」
「はい」
 私はいかにも辛そうな声で答える。
「あと、岩波に伝言してくれ。この後のことは担任の指示に従ってくれればいい。もし辛いようなら授業には参加しなくていいって。森里、お前もだぞ。」
「分かりました」
 私はまた、辛そうな声で答える。
「あと、このことは他の生徒は知らないから、黙っててくれ。後で先生たちの口から伝える」
「はい」
 これ以上ここに居ると無限に説明が追加されそうなので、私はさっさと来賓室に向かう事にした。
 来賓室は職員用昇降口のすぐ近くにある。
 外は相変わらず、雨が吹き荒んでいた。予報では帰りまでには止むらしいが、どうにも怪しい。
 来賓室の前には、職員が一人立っていた。理科の補助教員で、普段一番暇そうな職員だ。暇だから、こういうときには真っ先に使われる。
「今は岩波が聴取をうけてるところだから、ここで待っててくれ」
 この男が“聴取”という言葉を使ったのが気になったが、私はただ返事をするだけに留めておいた。
「はい」
 状況に反して、私の心は軽くなって来ていた。今の私には―使うのがはばかられる言葉だが―『爽快感』という言葉が当てはまるだろう。
 すると来賓室のドアが開き、中から、文子が出てきた。
 文子は沈んだ表情で俯いていた。そして、職員に促されるままに教室のほうへ歩き出していってしまった。しかし彼女は曲がり角の直前で立ち止まり、二秒ほど私をみつめた。私には、彼女がほんの僅かに、微笑んでいたように見えた。「大変なことになったね」と言とでもいたかったのだろうか。彼女なりの気遣いと取っておこう。
「入っていいですよ」
 来賓室の中から催促がきた。聞きなれない声は警察のものだろう。
 私は来賓室に入ることにした。


 外はいつの間にか晴れていた。
 今は午後四時過ぎ。そしてここは保健室のベッドの上。枕もとから射した西日で目が覚めたのが、二分前のことだ。
 私は体を起こすと、レースのカーテン越しに外に目をやった。運動部の掛け声や、下校する生徒の笑い声が聞こえる。ややオレンジ色の太陽が眩しい。
 警察の聴取(というより聞き取り)は20分程で終わった。刑事達は、私に疑いの目を向けるようなことはしなかった。むしろ優しく接してくれた。警察の態度が私の予想と違った事が、私に告白の決心をさせてくれた。
 警察風に言えば、私は洗い浚い吐いたことになる。岩場であのとき見たことも、すべて。言ってないのは夢の事ぐらいだ。警察の反応が薄かったような気もしたが、どうでもいい。
 聞き取りが終わった後の私は、今までの苦悩が無かった事になるぐらい心が軽くなっていたし。それと同時に、今までの分の疲れが私を襲った。
 別にこの機会だからという訳じゃないけど、私は保健室で休ませてもらうことにした。それが六時間前。
 懸案事項が取り除かれたことで、久しぶりの安眠を堪能することができた。お陰で体の方は快調そのものだ。
 改めて考えてみると、とんでもないことが起こったと思う。
 私はカーテンを少し開けて外の様子を見る。陽はさっきよりも傾き、より濃いオレンジが私の眼をさす。
 本当に、“大変なことになった”と思う。 友人が死んで、私はその友人を夢の中で殺しているのだ。いや、夢で見ただけど、でもそうとしか考えられない。彼女の死因は溺死で、私は大波でさらったのだ。偶然にしては出来すぎている。でも、分からない。私は彼女を殺す理由が無い。彼女は親友で、ちょっと雑なところがあるけど、本当は優しくて・・・・・
 そこまで考えると、急に涙が溢れてきた。
「!?・・・・・」
 そうだ、ヨシは死んでしまったんだ。
 一眠りして、複雑に絡まっていた思考がほぐれたせいで、急に実感が湧いてきた。
 私は泣いた。のどの奥の腹の底から湧き出してくるこの悲しみを、抑える事はしなかった。大切な友達が死んでしまったのだ。少しぐらい涙を流したっていいじゃないか。


 20分位たっただろうか。一通り泣いて落ち着いた頃、保健室のドアを短くノックして、私のクラスの担任が入ってきた。
「悪いな。もう少しゆっくりさせてやりたかったけど、先生急用が出来ちゃって、すぐ行かなきゃいけないんだ」
 それって、今まで外に居ってこと?
「まだ辛いだろうが、連絡しとかなきゃいけないことがあるから」
 外で待ってるなら行ってくれればいいのに。知ってたらこんな号泣してない。
「先ず松平のこと。あいつは特にショックが大きかったみたいだから、先に家に返しておいた。お前は寝てたから分からないだろうが、もう下校時刻だ。岩波ももう帰ったと思う」
 それぐらいは分かりますよ。横隔膜が痙攣していてうまく喋れないから、せめて心の中では反論しておく。
「あと、他の二人にも言っておいたことだけど、カウンセリングを受けてもらうことになった。話すのが辛いって言うならまだ先でもいいけど、一応説明しておくよ。この近くだと、並木診療所ってところでうけられるみたいだから」
 カウンセリングか。確かに今の私には必要かもしれない。ヨシが死んだことは悲しい。涙が引いても、この悲しい気分は心の中で尾を引くだろう。次第によっては涙が引かないかもしれない。
「辛ければ無理して学校来なくてもいいからな。それじゃあ、先生はもう行くから」
「さようなら」
 私の少ししゃがれた別れを半分も聞かないうちに担任は出て行った。
 仕方が無いので私も帰ることにした。私の荷物は保健室に運び込まれていたので、人気の無い教室に戻る必要は無かった。私は職員室に寄ってもう帰る旨の話を伝えると、校舎を後にした。
 日没後の、紫色の空は透き通っていて美しいと思う。雨上がりは特に。それはどこか、涙を流した後の清々しさに似ている。下校時刻は既に過ぎているため、学校正門前のロータリーにいるのは私一人だけだった。
 空には一番星が輝き始めていた。
 私は校庭を出ると、商店街方面へ向かう道を進んだ。海の見える道は避ける。ヨシは、彼女は海で死んだ。海を見ているだけでそのことを考えてしましそうで、怖かったし、それ以上に辛かった。現実の辛い出来事を少しでも忘れるためには、自然よりも人の喧騒のほうがいい。
 自転車のかごに載せた鞄が腕に重い。私は坂道を歩いて下っている。自転車があるのになぜ乗らない、と思うかもしれないが、そんな気分になれない。ただそれだけのことだ。悲しいことや辛いことがあったあとは、歩いて帰りたくなる。
 雑木林の木々の葉がゆれだした。少し、風が出てきたようだ。風は海のほうから流れてくる風はかすかに、潮の匂いがした。
 忘れようとしても、忘れられるものではない。ほかの事を考えようとしても、ふとしたきっかけで彼女のことが頭を覆ってしまう。『彼女とは二度と会えない』そう実感する度に泣き叫びたくなるのを、必死にこらえなければならないのは辛い。


 日暮れ後の町は案外静かだった。メインの通りから外れれば尚更である。私が登校日の時と同じ道を歩いていると、また例の診療所が見えてきた。もう喪中ではないらしい。この前は分からなかったが、内科業務の他にメンタルヘルスケアというのもやっているらしい。
「ここ・・・なんだ」
 というか、ここが例の診療所だった。看板の上のほうに小さく“並木診療所”と書かれている。営業時間より小さい文字だもんで分からなかった。
 普通カウンセリングというと、専門のカウンセラーが行うものだろうが、こんな診療所にそのカウンセラーが居るとは思えない。だが、そんなことはどうでもよかった。今は、ヨシのことで頭が一杯だ。思い出すと、また悲しい気持ちになってきて、今にも泣きそうだ。だが、私の頬を濡らしたのは涙ではなかった。
「・・・・・」
 突然雨が降ってきた。さっきまでは晴れていたのに。


 点滅する電灯の光が私を照らす。道の真ん中に立ち尽し、雨を浴びる。濡れたって気にしない。それよりも、悲しかった。頬を伝う冷たい雨粒には、いつの間にか熱い雫が混ざっていた。
 もう、いやだ。
 全てを放棄してしまいたい。みんな無かったことになるんだったら、元に戻れるんだったら、今の私なんかどうなっても良い。
「・・・なんで、なんでこんなことになったの?」
 だれに問うでもない質問をする。当然返事はない。いつもなら、ヨシやフミが隣にいて答えてくれるのだろう。本当にそうだっただろうか?もう思い出せない。それどころか、ヨシの顔もよく思い出せない。毎日あっていたはずなのに。
 悲しくて、淋しくて、限界だ。
 そんな時だった。
「うわ、・・・どうしたの!?」
 そんなとき、後ろから男性の声がした。私は散漫な動作で振り向く。本当はどうでもいいが、一応答えておこう。
「君、中学生?こんな時間に・・・・・ああ、びしょびしょじゃないか」
 そこには男が立っていた。歳は二十代後半、インテリっぽい雰囲気で、雨で濡れた白衣を着込んでいる。医者か。
「僕はそこの医院の医師で・・・ええと、とりあえず中入って。ここに居たら風引いちゃうし」
「・・・・・」
 私は無言で頷くと、言われるがままに診療所のドアをくぐった。本当なら断るべきかも知れないが、どうでもよかった。なるようになればいい。

「ココア、飲む?」
 私は無言で頷くと、鞄に入っていたジャージに袖を通す。少し湿っているが、制服よりは濡れていない。
「いやー、いきなり降り出すんだもんね。参っちゃったよ」
 男がやかんを火にかけながら言う。
 結局、私が想像していた様なことは何一つ起こらなかった。自暴自棄になって雨に濡れた女と若い男、なんてのはよく聞く話だが。お互い微妙に年齢を外していたこともある。
 男の話によると、男はこの診療所の(経営者兼)医師で、並木克人というらしい。本人によると、専門は病理心理学で、それ以外も一応一通り出来るのだという。想像とは逆だった。ここに着くなり乾いたタオルが出てきたことや他の対応を見るに、かなりマメな人物であることがうかがえる。
 私たちが今居るのは診療所の三階で、生活スペース(彼に言わせるところの城)にあたるところだ。
 制服を乾かすハロゲンヒーターの無音が部屋を包み込んでいる。
「その制服は浜中のだよね。名前、教えてくれないかな」
 静寂は男の声で断ち切られた。浜中とは私の通う中学のことだ。ひねりの無い名前だと思う。
「・・・森里、楓」
 私の名前を聞いた男の動きが一瞬止まったように見えた。
「ああ、君か」
 男は続ける。
「学校から聞いてるよ。なんていうか、辛いだろけど、・・・・・気持ちは判るよ」
 男は私の前にココアのカップを置くと、自分のカップを啜りながら言った。もう連絡が来ていたのか。
 男はやや悲しそうな顔をこちらに向けてくる。
 ブラウン管越しにしか見たことの無い本物のカウンセラーだが、彼らなら患者を励ますなり何なりするはずだ。少なくとも、患者が理解できないような行動をとって患者を混乱させるようなことは避けるはずだ。しかし、男の表情から明確な意図を読み取ることは出来なかった。
 私がそんなことを考えている間、男は一言も口にしようとはしなかった。結果的に、長い沈黙が発生していた。
 ココアの入ったカップを眺めながら、男は話始めた。
「実はさ、僕もつい最近弟を亡くたんだ。だから、僕にはしばらく仕事が回って来ないって話だったんだけど・・・」
 そういえば、数日前までこの診療所には喪中の張り紙がしてあった気がする。
 私は熱いココアをすする。ふと、男と目が合う。
 男は悲しそうな顔の上に笑顔をつくろうと、再び話し始めた。
「こめんね。なんか暗い空気にしちゃってさ。これじゃカウンセラー失格だよな」
 “ふぅ”と溜息をつくと男は、立ち上がって干してある制服に触れた。
「もう、乾いたみたいだね。」
 私はさっきから黙っているが、実のところそんなに沈んでる訳ではない(沈んでないといえば嘘になるが)。今日はもう十分泣いたし。そういう意味も含めて、今度は私から彼に話しかけてみることにした。
「ありがとう、・・・ございます」
「親御さんにはさっき電話しておいたから・・・・・え?ああ、いやいや、どういたまして。あ、いや、どういたしまして。」
 私たちは目を見合わせると、一拍置いて笑い合った。特に言葉は無かったが、今の二人には丁度いい潤滑油になっただろう。
「雨も止んだみたいだし、私そろそろ帰ります。親が心配してるかもしれないし」
 雨はいつの間にか止んでいた。その代わりか外は真っ暗だ。
「そう・・・だね。もう暗いし、送っていくよ。」
「そんな、大丈夫ですよ。こっから家近いし」
「近いならなおさら・・・・・」
「今日はありがとうございました。助かりました」
 多少強引だが、会話を閉じることにした。ぼちぼち帰らないと、母親に本気で心配されそうだ。当然学校から連絡を受けているのだろうから。捜索届けなんか出されたらたまらない。
「それじゃ、また今度来ますね」
 私は荷物を持って、振り返って言う。男は弱々しい笑顔で手を振った。
「なんだか、僕がカウンセリングを受けたみたいだね」
 階段を降りている私の耳に、そんな台詞が聞こえてきた。
 私は一瞬だけ立ち止まると、またすぐ歩き出した。

     


4.平日の休日

 空が青い。
 私は大の字に寝そべって空を見ていた。視界には空しかない。それも入道雲が立ち上る夏の空だ。強い青ときつい日差し。モワッとした海風が私の呼吸を邪魔する。海風?ここは海なのか。私は地面に広がる熱い粒を握り取り、感触を確かめる。確かに砂だった。
 私は地面に腕をつき、ゆっくりと起き上がる。背中についた砂の落ちる感触が自分の動作を自覚させる。姿勢を起こすにつれて視界に空以外のものが入って来る。水平線、海岸線、地面、自分の体。
驚くべきことに、私は服を着ていなかった。しかし、羞恥心も動揺も私の頭には浮かばない。私の心と体は、裸であることを自然だと捉えていた。私にはこれが酷く不自然であると感じられた。
 私は立ち上がり、とにかく歩くことにした。首を回して見る辺りの景色は酷く妙なものだった。ひたすら真っ直ぐな海岸線が続いているだけで、あとは何も無い。海には島など一切無く、船も浮かんでない。陸も砂浜が地平線まで続いてるだけの平坦な地形で、山や建物などは見えない。砂や日差し、風といった感覚は本物なのに、それ以外のものは現実感が欠如してしまっている。歪な場所だと思う。
 歪な場所だというのに、違和感やストレスを感じない自分に私は気付いていた。何だろう、記憶には一切無い場所なのに、いるだけで落ち着く。懐かしさとは違うが、親しみとも遠いこの感じは。
 いや、ひょっとしたらここに私は来たことがあるのかも知れない。丸っきり記憶には無い場所だが、砂を踏む感じも、流れてくる海風も初めてのようには感じない。かといってこの砂浜が他のそれと大きく違うのは事実であり、そこに謎が残る。
 数十メートル歩いた辺りだろうか、突然私の視界の中に私が入ってきた。というより視界がパンしたというのが正しいだろう。まるで幽体離脱のように、体から意識が抜けていった。体はその場に崩れ、すぐに意識は遠のいていった。
 完全に意識を見失う直前、頬に当たる砂の感覚が消えていくのを感じながら私は、ここがどこだか思い出していたような気がした。


 目が覚めると、朝になっていた。
 私は汗で重くなった布団をのけると、ベッドに腰掛け窓のほうに顔を向けた。外は相変わらずの曇りだ。枕もとの時計は午前六時前を指している。
 次第に鮮明になっていく意識が、今の夢が4回目であることを私に思い出させる。
 ヨシが死んだのを知ったのが金曜日。帰宅後すぐにベッドに入った私は、疲労とショックで次の日まで起き上がることはおろか、食事を摂ることも出来なかった。その間ずっとベッドに入っていた私は、先ほどの様な夢を何度も見たのだった。しかし、その夢が全て同じだったわけではない。最初は動くことも感じることも出来なかった。次に視界が動かせるようになり、匂いや感触を感じられるようになった。そして起き上がれるようになり、ついさっきは歩いていた。夢にはありがちなことだが、夢を見ているそのときの私は、これが前に見た夢であることを思い出せないのだ。
 動けないなりに、私はこの夢の意味を考えてみることにしていた。前見た占いの記事によると、夢は自分の内面を表現しているものが多く、特に繰り返し見る夢の場合それが顕著なんだそうだ。しかし、もしこれが内面の表現だったとして、私には夢の内容に思い当たる節が一切無かった。どんな解釈をしようとしても、意味不明になるか、辻褄が合わなくなるのだ。だから私は、内容から何か分析することを日曜の朝には既にあきらめていた。だが、もしこれを、自分の内面表現で無いとするならば、話は変わってくる。それには、一つ確かめておかねばならないことがあった。
 今日は月曜の朝である。学校があるが、それよりも優先しなくてはならないことがある。
 私は起き上がって、机に向かった。適当な紙に鉛筆を走らせる。

『お母さんへ。今日は学校はお休みします。悪いけど、連絡入れといてください。私は散歩に出かけてきますが、お昼までには必ず帰って来るので、心配しないでください。P.S お昼はおいしいものが食べたいです。』
 私は部屋を出て軋む階段を慎重に降りると、メモをリビングのテーブルの上に置いた。これまた軋む廊下を通り、私は朝の街へ踏み出した。



 暖かくも冷たくも無い風が私に吹き付ける。空が灰色の雲に覆われているのだから、仕方が無いことだが。
 ここは海からそう遠くない防砂林沿いの道路だ。防砂林があるのにも関らず、歩道は砂が溜まっている。
 家からここまで、私は自分のメモのことについて考えていた。
 このタイミングで早朝の散歩をするなんて、家族を心配させる以外の何者でもないが、私はそれをあえてした。そうせざるを得なかった。メモを残してきたのもあるし、心配されるようなことにはならないと思うのだが。
 磯の匂いがする冷たい風を浴びながら私は、乾いた涙の跡をこすった。彼女は、ヨシは私の前から突然去っていってしまった。私には、それが意味のあること、具体的には何かの結果起こったと、思えてしまうのだ。それが何なのか今は分からないが、いずれ分からなくてはいけないのだろう。
 この三日、私はもう十分涙を流したと思う。もし流し足りなかったとしても、それは後回しだ。今は泣いているよりも、やらなくちゃあいけないことがある。
 砂浜の砂とコンクリートブロックで作った土手を登ると、もうそこは海岸だ。
 海は時化っていて、観光客もサーファーも居ない。私は、防波堤に腰掛けると、一人海を眺めることにした。心が寒いと感じたのは、厚い雲が邪魔をして、朝日を拝むことが出来ないからだけではない。
 今私の目の前に広がる海は、間違いなく本物の海だ。ここは現実であって、夢の中ではない。では、今朝の夢の、あの海はどうだろうか。
 私は、今朝見た夢を鮮明に覚えている。そこにも海が出てきていた。といっても、こんなリアリティのある海ではなく、殺風景で歪な場所であったが。しかし、私にはその海に見えないような場所が、本当に自然な海に思えて仕方が無かった。あのひょっとしたらまだ寝惚けているだけかも知れないが、ここ数日ずっと、何度考え直してもそう感じてしまうのだから、信憑性が無いわけではないだろう。
 空を覆っていた厚い雲の合間から、太陽が少しだけ顔をのぞかせた。僅かな日差しは海面を照らし、水平線に近い辺りがきらきらと輝かせる。薄暗い空に馴れた私の目には、それが眩しかった。
 ふと、「何かが起こっているなんてのはただの幻想に過ぎないのではないか。友達を亡くしたショックで混乱しているだけではないのか」という疑念が私の頭の中に浮かんだ。しかし、私はこれを否定する。この一連の思考はもう何度も繰り返してきたことで、今更何を思うようなことでもない。最初のうちこそ私も、幻想であればいいと思っていたが、その都度、私の身の回りに起こる出来事によってその願いは否定されてきた。
 じっと座っているだけでは何にもならないので、私は海岸線を端まで歩いてみることにした。海岸に端が無いのは分かっている。でも、それでもずっと向こうまで行けば、あの海にたどり着けそうな、そんな気がしたのだ。なにより、じっとしているとヨシのことを思い出してまた悲しくなる。悲しくなれば、彼女の死の真相どころではなくなって、何があったのか分からないまま事態が風化していってしまう。何かがあったのは確実なのだから、そんなことにはしたくない。私は一時たりとも止まれない。

 海は静かだった。聞こえてくる音といえば、広い防砂林の向こうをたまに通る車の音か、波の「ざぁ、ざぁ」という音だけだ。
 歩き続けるうちに、海岸線が途切れる“端”についていた。ここから先は岩場になっているため、徒歩では危険だ。そう思って立ち止まった瞬間、脳裏でこの場所と何処かが繋がった気がした。ここはあの夢で見た海なのだろうか。しかし、その事実を確かめるために辺りを見回している過程で、その予測は裏切られた。見覚えのある景色。ここはあの時の海水浴場だ。夏休みの終わりに4人で行った海水浴で、人で一杯だったから、他の・・・。そうだ、あの時私たちは岩場に挟まれたあの狭い海岸で泳いだのだ。
 ほんの数日前の出来事なのに、私は忘れていた。全てはあそこから始まったのだということを。
 気がつくと私はあの海岸に向かって、防砂林の中に足を踏み入れていた。
 あの場所には何かがある。私の探している答になる何かが、確実に。そう考えると、足に力が湧いてくる。思えば前来た時も、こんな風に何かを一心に歩いていた気がする。
「あれ・・・・・?」
 私の前に広がっていたのは、朽ちた祠のある狭い海岸ではなく、本来防砂林の丘の向こうにあるはずの県道であった。
「・・・なんで」
 おかしい。
 私の記憶が(間違うとも思えないが)正しいのであれば、あの海岸に向かう道は一本道で、分岐点など無かった筈だ。しかし、その一本道は海岸ではなく、県道に私を導いた。通路として道を増やしたのだろうか。でもそれではあの海岸への道が無くなったことが説明できない。ここまで来る途中、道をふさいだ痕跡らしきものは一切見なかった。見ていれば不審に思っている筈だし、そもそもいままでそこにあった道を数日で消すことなんてできるわけが無い。そんな強気な弁解とは裏腹に、私の脳裏では「もう二度とあの場所に行けないのではないか。そもそもそんな場所は最初から存在しないのではないか」という疑惑が浮上し始めていた。私はその疑念を否定しきれない。それではあの時の海水浴は何だったのか。ひょっとするとあれも全部幻覚の類なのか。その戸惑いが不安に変わり、私の心を一瞬で包み込んでしまう。強い不安が恐怖になり、私を掻き立てる。私は居ても経っても居られなくなり、その場から逃げるように走り出す。しかし、逃げたわけではない。確認しなくてはならないのだ。あの場所が、あの海岸が本当にここにあるということを。
 私は松と下草で茂った防砂林の中の道を走り抜ける。今にも体勢を崩し転びそうになるが、止まることができない。もし止まったら、あれが全部幻覚であることが本当になってしまいそうで、恐ろしい。
 松の森の出口が見えてくる。やはり一本道であった。残る場所はひとつだ。
 私は防砂林を抜け、海水客用の細い道路を渡ると、海岸に向かった。砂浜に降り立った私は、靴を脱ぎ飛ばすと、海のほうへと駆け出す。道が無いのなら、海から行くしかない。すぅ、と息を吸い込み、私は9月の海へ飛び込んだ。

 かえでちゃん。
 誰かが私のことを呼んでいるような気がした。でもよく聞こえなかった。

 飛び込んだ海は、いつかの海とはだいぶ違うものだった。汚れてこそ居ないもの、かつての華やかさや賑わいはそこにはない。というか、そこには生き物がいなかった。動いているものは何も無い、薄暗くて不気味な海。たった二週間足らずであの美しかった海がこんなになってしまうとは、私には信じられなかった。しかし、重要なことはそこではない。
 私は暗く陰気な海から、海面へ顔を出す。
 意外なほどにあっけない結末が、そこには転がっていた。あの海岸は存在した。
「え・・・・・・・」
 それだけならよかったのだが、もう一つ、私を絶句させるものがその場にはあった。いや、居た。
「ヨシ・・・・・!?」
 そこには、強い日差しに照らされるヨシがいた。彼女は砂浜にへたり込んで、ぼぉっと明後日の方向を向いている。
 居るはず無い。彼女は死んだのだ。待て、そもそもこの場所は変だ。さっきまで曇っていた空はカンカンに照っているし、遠くから蝉の音のような音が聞こえる。高い雲は太陽に照らされ白く輝いてる。これでは夏ではないか。
 曇り空に馴れた私の目に、真夏の太陽が入り込む。
 いや、そうだ。これはあの日だ。4人で海にいったあの日だ。じゃあここは、一体何なんだというのか。もう何も、訳が分からない。
 私の混乱が頂点に達したとき、ずっと空を仰いでいるだけだったヨシが、不意にこちらの方向を見つめ始めた。そして、私が海に浮かんでいることを認めると、立ち上がって手を振ってくるのである。
 頂点すら跳び越した混乱に私が対応しかねていると突然、私の居る辺りの海底に穴が開いたような勢いで海水ごと私が飲み込まれていった。風呂がまの栓を抜いたようでもあった。
 驚くべきことが多すぎて、どう反応していいか分からい。海中深くに飲み込まれた私は、沈む瞬間に息を吸わなかったことを酷く後悔した。海は、海岸からそう距離がある訳でもないのに、恐ろしいほど深かった。強い流れの中で、上も下も分からないまま浮かぼうとするには、酸素が必要だったが、もうそんな量の空気は肺の中には残っていない。ただじっとしているだけでも、息は苦しくなる。そして、いくらも待たずにそのときはやってきた。体に力が入らなくなり、口を閉じ続けられなくなった。大粒の泡は、上に向かって流れていってしまう。私の肺は、失った分の空気を求め、大角膜を動かす。しかし、口の先に空気は無い。あるのは海水だけ。肺に海水が流れ込んできて、咽ようとするのだが、水は空気より重いため思うように行かない。そして、脳に酸素が回らなくなり、視界が暗くなってゆく。私の体は、遥かに深い海底へと沈んでいった。ヨシはどうなっただろうか。それが最後の意識だった。


 私は空気を、海面を目指し両手で上に向かってしがみついた。しかし、私の手には空気や海水にしては確かすぎる手ごたえがあった。私は硬く閉ざした目を開けると同時に、自分の体が水中に無いことに気がついた。開かれた私の目には、暗い海底の景色ではなく、白い天井と私に首を掴まれた男がひとり居た。私は即座に自分の置かれている状況を理解しようと努めた。視界から分かることは、目の前に見えるのが天井であるということ。つまり私は上を向いているのだろう。もう一つは、私が男の首を力いっぱい絞めているということ。つまりどういうことだろうか。
 次第に頭に血液が回っていく。いま私が自宅のものと違うベッドに横たえているということと、それは恐らく病院のもので、ここも病院であろうこと、先ほどから男が必死にやっているジェスチャー(自分の首の辺りを指して指を激しく回している)の意味を理解する。
「・・・・・・・あ!!」
 私はとっさに腕の力抜き、男の腕から手を離す。
「ふへぇ・・・はぁぁー」
 男は久しぶりの新鮮な空気を力いっぱい吸い込んだ。よく見ると目には涙を浮かべている。そんなに苦しかったのだろうか。いや、苦しかったはずだ。彼の首には丁度私の手の形の真っ赤な跡が残っている。
 喉の赤くなっている辺りをさすりながら、男が言う。
「かえでちゃん、案外力あるんだね・・・」
「あの、すいません!私、溺れているかと思って…」
 大きな声で言った積もりだったが、予想に反して声は小さいものだった。どうやら喉の調子がおかしいらしい。
 大分意識が鮮明になってきたところで、私の頭の中に一つの疑問が浮かんだ。なんでこの男が私の名前を知っているのか。しかし、その疑問は一秒足らずで解決されることになる。
「いや、間違ってないよ。君は溺れかけていた。僕が見つけなければどうなっていたことか。そういえばかえでちゃん、僕のこと覚えてる?」
 憶えてる。様な気がするだけで思い出せない。
「酷いなぁ。ついこの前あったばかりなのに。並木克人だよ。カツヒト。思い出した?」
 私は体を起しつつやんわりと答える。
「ああ、・・・はい。憶えてます」
 記憶が鮮明すぎて思い出せなかった。リュックサックを背負ったままそのリュックサックを探すようなことをしてしまった訳だ。しかし、彼のほうにも非はある。今日はめがねをかけてるし、白衣も着ていない。ほぼ別人だ。
 壁掛けの黄ばんだ時計が、午前11時を示している。
 彼はベッド脇のパイプ椅子に腰掛けると、もう一度深呼吸をして話し始めた。声の調子も、表情も先ほどとはちがう、真剣なものだ。
「にしても、カウンセリングを必要としている人間が、学校休んで9月の海に飛び込むなんてのは、どう考えても異常なことだ。」
 違う、これは、と言おうとしたが、その言葉は克人の言葉に遮られた。
「僕はそのつもりだが、このことは学校に報告することになるだろう。そうなれば君は不自由な思いをすることになるだろうね。」
 確かにこれは頭がおかしいと思われても仕方が無いかもしれない。事実、ここ数日の私の精神状態は自分でも判るほど荒んでしまっている。本当は頭が変なのかもしれない。少なくとも、今の私にはそれを否定することができない。
「でももし、君が報告に待ったをかける気があるなら、僕はやめてもいいと思っている。」
 私は一瞬自分の耳を疑った。この人は何を言っているのだろうか。カウンセリングが必要なほどに精神を参っている人間に、こんな重要な選択をさせるなんて、どうかしているとしか思えない。それとも、これは検査の一部なのだろうか。確認をこめて私は直接聞いてみることにした。
「患者であるわたしに、そんな選択をさせていいんですか?正常な判断は出来ないと思います」
 私はしゃがれ声で彼に尋ねた。しかし克人は、やはりそう来たか、という顔をこちらに向け来るだけだった。これは予想外だ。
「信じられないかも知れないが、僕の診断では君はほぼ異常なしなんだ」
「私が正常な訳ない!!」
 自分の思っていることが口をついて出てきてしまった。彼の言うことが真実であるはずが無い。現に私は・・・
「そう。誰だって君は異常だと思うだろう。現に君はまるで自分が深刻な患者であるかのような行動を取った。あれは誰が見ても自殺だ。でも、僕にはそうは見えなかったんだ。君には、その、患者特有の“気”のようなものが感じられなかった」
 そんな適当な理由で決め付けられていいはずがない。そもそも彼はいつ私を診断したのだろうか。
「診断なんてしてもらった憶えはないです」
「昨日したじゃない。あれも立派なカウンセリングだ。昨日見た限りでの君は、少なくとも自分について把握していた。自分がどういう精神状態なのか分かっているうちは、まだまだ安全だ」
「だからって私が・・・」
「ひょっとして、君は何か目的があってこんな奇怪な行動をしたんじゃないか?」
 一瞬呼吸が止まりそうになる。彼の唐突な言葉は、見事に的を射ていた。
「少なくとも僕には、飛び込む瞬間の君の目は、他の患者と違って見えたよ。何か大きな目的を抱えている、強い目だ。多分今の僕より」
 返す言葉が無いので、必然的に無言になってしまう。
「今は話しづらいだろうし、無理に話す必要は無いけど」
 会話が途切れるのは気まずいので、私は気になっていることについてきいてみることにした。
「並木さんは、なんであの時あそこに居たんですか」
 私の質問に彼は、ほんの少し躊躇しているかのような目で答えた。その目には深い悲しみが浮かんでいたが、口元は笑っているようにも見えた。
「僕は君を患者と見なしていない。だからこそ言うけど、あれは癖みたいなもんだよ。ここ最近のね」
 彼の顔には依然として悲しみと笑みが同居しているようにみえる。笑みのほうは自嘲というべきかも知れない。
「癖、ですか?」
「ここ最近、悲しいことが重なってさ。夜眠れないことがあるんだ。そんなときは海岸で朝まで過ごす」
 そういえば彼は、最近弟を亡くしたとあの時いっていた。身近な人を失ったのだから、私と境遇が近いのかもしれない。いや、肉親を亡くしたのだから、悲しみは私以上だろう。
「確か君には弟のことは話したよね。」
「はい」
「聞きたくないかもしれないが、弟死んだのがあの辺りの海なんだ。死因は溺死だそうだ」
 溺死だそうだ、という言葉には聞き覚えがあった。数日前の学校で、私は担任の教員に全く同じことを言われた。
「ほんとに参っちゃうよね。あんなに海が嫌いだった弟が、海で溺れて死ぬなんて。海には一生近づかないなんて言ってたくせにさ」
 克人は、何かを紛らわすように、笑いながら言った。
「弟さんは海で、何をしていたんですか」
 聞くべきではない、掘り下げるべきではない話題であることは承知していたが、私は聞くことを選んだ。私には、彼の弟の死と、ヨシのそれがどうしても重なって見えてしまうのだ。もし共通の事件だったとしたら、彼の弟の死について知ることで、ヨシの死の真相に近づけるかも知れない。そんな期待が、私の口を動かした。
「それが、よくわからないんだ」
 そんなに間単にゴールに近づける訳は無い、ということか。まぁ予想はしていた。
「弟に最後に会ったのは彼の友人の大学の友人なんだけど、彼と別れる時弟は“彼女に会いに行く“と言っていたそうだ」
「彼女って、つまりガールフレンド?」
 只の怨恨殺人ではないか。
「普通はそう思うだろう。でも弟にガールフレンドなんていないのは皆が知ってることだし、警察も秘密の交友関係を見つけることは出来なかった」
 話が謎めいてきた。2時間ドラマあたりで受けそうな展開だ。
「じゃあ彼女って一体誰なんですか」
 一度は諦めたが、これは案外期待できそうだ。気分は船越英一郎あたりか。
「さあね。警察も分からなかったみたいで、結局弟の死は事故として処理されたよ」
 現実に船越英一郎のような人間は居なかったようだ。
「でも僕は諦めていない。弟は、多少暗いところがあったが死ぬような人間ではなかったはずだ」
 彼は強い眼差しをこちらに向けて続ける。
「誰かの恨みを買うような奴でもなかった」
 彼は深く息を吐くと、再び話し始めた。
「僕は思うんだ。弟は、何か大きなことに巻き込まれて死んだんじゃないかって」
 私は思わず息を呑んだ。
 おかしいと思っていたのだ。彼が何故私の考えていることをズバッと言い当てられたのか。いくら精神科医とはいえ、そんな仏様みたいな芸当ができるはずがないのだ。しかしそこには、どんなトリックも存在しなかった。ただ同じことを考えていた。それだけのことだ。
「昨日もそのことについて考えていたんだ。あの海岸でね」
「・・・・・」
「そしたら君が現れた。君は裸足で海岸を走っていて、海に飛び込んだんだ」
 そうだ。そこで私はあの信じがたい光景を目にしたのだ。
 ヨシはあの場所で何をしていたのだろうか。自分が死んだことに気付かずに一定の場所を漂ってしまう霊というのが稀に居るそうだが、彼女もそうなのだろうか。だとしたら、私は彼女に何をしてあげればいいのだろう。だが、私の見間違いであったという可能性も捨てきれない。
「あれには驚いたよ。遂に幻覚が見えるようになったかと思った程だ」
 彼は軽い調子でいう。確かに、傍から見たらさぞ不可解なことだっただろう。
「でも、本当に驚いたのは君が全く泳げなかったってことだよ。飛び込みもきれいなフォルムだったし、てっきり泳げるのかと思ったけど・・・」
「・・・え?」
 違う。私は泳げる。現に数時間前も、溺れはしたもののしっかりと泳いでいた。
「だって楓ちゃん、飛び込んだらすぐ浮いてきて、打ち上げられちゃうんだもん。最初は遊んでんのかとも思ったけど、打ち上げられた楓ちゃんが全く動かないから心配して駆け寄ってみたら、案の定意識がないんで、病院まで送ってきたって次第さ」
「そんな・・・」
 そんな馬鹿なことがあるか。私は確かにこの目で、この二つの目で見たのだ。あの海岸、そしてヨシを。
「ん?どうしたの」
「すぐ浮いてきたんですか、私!」
 自分でもわかるほどの動揺が私を焦らせる。
「え、なに、ああ・・・えっと」
 話し相手の調子が急に変わったことに、彼は対応できない。苛立たしい思いの私は再び尋ねる。
「どうなんですか!!」
「う、うん、そうだよ。飛び込んですぐに浮いてきて、波に押し返されてた」
 私の体に、今日何度目かの衝撃が走る。もしベッドに入っていなければ、膝をついて首を垂れていたことだろう。
 私が見たものは何だったのか。また“見た”と思っていただけだったのか。だとしたら、あの海岸はどこにあるのだろうか。そもそも皆で海水浴に行ったことすら夢ではなかったのか。そう思い至った瞬間、私の心に恐怖心が湧き出てくるのを私は感じた。
 あれが全部幻覚だったら、一連の流れである今もその一文なのだろうか。だとしたら、私が一緒に海に行った彼女たちも存在しないことになる。どこからが夢で、どこからが現実なのか。いやそもそも、最初から全部夢だったのか。

「大丈夫!?」
 克人の声に、私は我に帰る。私の手は、耳に当てられ、額には一筋の汗が流れていた。
「ええ、はい・・・大丈夫」
 心臓はまだ早い鼓動をやめていない。汗も止まらない。
「落ち着いた?」
 克人は紙コップに入ったお茶を私に差し出すと、優しい声で言った。
「どうも・・・・・。もう、大丈夫・・・ありがとう」
 私は差し出された冷たいお茶を一口飲むと、ふぅ、と息を吐いた。頭に響いていた心臓の鼓動が収まっていくのを感じた。
 部屋に時計の秒針の音が響く。
「落ち着きました」
「そう、よかった」
 彼はそう言うと、またパイプ椅子に腰かけた。
 体も落ち着いてきたところで、頭にも平穏が思ってきた。
 そうだ。海に飛び込んでから目が覚めるまでが夢だったからと言って、私の人生全部が夢になるものではない。しかし、これであの海岸には遂にたどり着けなかったことになる。今度は文子たちと一緒に探してみよう。彼女たちにあの海岸の記憶があればの話だが。
 克人が続けて話す。
「楓ちゃん、疲れてるんじゃないか。睡眠は取ってるちゃんと取ってる?」
 彼の目は医者の目に変わっていた。忙しい人だと思う。睡眠について私は相談すべきと思う点がいくつもあったので、この機会を利用させてもらうことにした。
「最近あんまり眠れてませんね。」
「それはまた、どうして」
「夢を、見るんですよ」
 夏休みの終わり辺りから、私は睡眠が楽しめなくなっていた。
「夢か・・・・・」
 克人は何か話そうとしたが、時計を見て話すのをやめた。医者の目は何処かに行ってしまっていた。
「ああ、もうこんな時間だ。病院に戻らなくちゃね。君の家にも連絡を入れといたから、そろそろお母さんが来るんじゃないかな」
「え、でも・・・」
 せっかく始まったカウンセリングはどうなるのか。
「続きは診療所でやろう。いつでもいいからさ。待ってるよ」
 そういって彼は病室から出て行った。
「さよなら、って行っちゃうの!?」
 既に彼は病室を出て行ってしまった。
「いいのかよ一人にして・・・」
 私は一人呟いた。本当に一人になってしまった。
 不思議なのは、彼が居なくなった事で、ここが病院であることを急に実感し始めたことだ。壁一枚挟んだ廊下では、看護師や医師が忙しく歩き回っている。人の声も聞こえる。医師の説明、面会の声、カートを走らせる音。部屋の中もそうだ。所々ペンキが剥がれひびが入った白い壁は、どう考えても清潔の象徴にはなり得ない。昭和何年寄贈と黄土色のインクで書かれたふるい壁掛け時計も、ホラー的な演出をしている。まぁ判ると思うが、私は病院が先天的に嫌いなので、どんどん気分が悪くなっていく。緊張と、不安と、恐怖と、ネガティブな感情を缶に詰めたような気分だ。何故さっきは平気だったんだろうか。ひょっとしたら、彼には人を安心させる才能のようなものがあるのかもしれない。だとしたら精神科医など天職ではないか。
 思えば、精神科医とは随分特殊な職業だと思う。精神科医というか、彼のことだが、彼はかなり変わっている。彼は、私が彼にとって理解できない行動を取っても、それについて私に聞こうとはしない。そのありがたい配慮が、精神科医ゆえなのか、それとも彼自前のものなのかは判らないが、今まで私はそんな人間にあったことがない。
「お?」
 ふと、静かになってしまった病室に彼の声が聞こえてくる。誰かと話しているようだ。
「いえいえ、ほん・・・・・したまででして」
「そん・・・・かいなく・・・・」
 全くと言うわけではないが、殆ど聞こえない。病院の壁なんてベニヤ板程度だと思っていたのだが。仕方ないので私は少し音源に近づくことにした。
「んしょ・・・」
 壁に耳を当てていると、盗み聞きしているようだが、これはそうではない。私が部屋の中に居るのだから、盗み聞かれるべきは私で、その私が盗み聞き行為をしたとしても罪には問われない、筈だ。さてさて、彼は誰と話をしているのかな。
「いや、お母さん、そんなお気遣い無く。」
 お母さん?ということはつまり・・・
「このお礼はいつかかならずさせていただきます。娘の命を救ってくださった恩人ですから」
「それじゃ、仕事がありますんで私はこれで・・・」
 私は戦略的偵察行動をそこで切り上げた。話が終わったということは、母がこっちに来るということだ。早くベッドに戻れなければいけない。何故?いや、理由を考えるのは後だ。
 私がベッドに滑り込んで布団をかぶったと同時に病室のドアが開いた。
 私は戦慄した。

     


 5.秋の始まり

 フロントガラス越しに景色が流れていく。並木、対向車、人。私は助手席に座り、その景色を眺めている。
 先ほどから降りだした雨は、次第にその勢いを強めていた。ガラスに当たって広がった雨粒が流れる景色を歪めて、流れる景色の像を奇怪なものに変える。いや、ただの雨粒越しの景色を、私の心の奇怪さがそう見せているだけなのかもしれない。

 数十分前、私は病院のベッドでいかに本物らしい寝息を立てられるか苦心していた。つまるところの狸寝入りというやつだ。病院に来た母に、どんなお叱りを受けるか恐れてのことだったが、我ながら無駄な努力だったと思う。
 部屋に母が入ってくるなり、私は小細工が無駄であると悟り、起き上がって謝る体勢に入った。何時か誰かが“子供にとって母親は神である”といっていたが、全くその通りで、真美の前ではどんな策略も小細工も通用しないのだ。神を前に嘘を突き通せる人間などこの世には居ないし、居てもそれはもはや人間ではない。最も、私にとっては神というより閻魔だが。
 出会い頭で平手打ちの一つでも飛んでくるのではないかと思っていたのだが、事実はそうではなかった。
 母は私の顔を見るなり、私に抱きついてきた。これは驚くべきことで、母は泣いていたのだ。
 完全に面食らった形になる私は、体を硬直させることしか出来なかった。聞こえてくるのは母の嗚咽と、病院の壁掛け時計の秒針の音だけだった。

 母の無言の抱擁は数分続き、さらにその後数分間で病院を出る手続きを済まし、車に乗って帰宅の途に就いて現在に至るのだが、ここに至るまで母は殆ど言葉を発していない。その殆どというのも、病院の手続きや、最小限の意思表示程度のもので、ほぼ無いに等しい。こうも寡黙で居られると、私としては後に何かあるのかと勘ぐってしまい、逆に恐ろしい。
 フロントガラスの水滴をよけるワイパーの音が、車内を支配している。母の無言が作り出す空気に乗せられたワイパーがいつもより大きな稼動音を出しているせいだ。いつもは剥がれかけのゴムからブブゼラのような音を出しているくせに、こんなときに限って真面目にはたらくなんて虫が良すぎる。いづれ完全撥水コートをして報いてやろう。
 私の考えを読んだかのようにワイパーの音は普段の調子に戻っていく。というより、雨の降る音がワイパーをかき消したというほうが正しいだろう。ちょうど病院を出た辺りで降りだした雨は、時間に比例して強さを増していく。まるで私たちの帰宅を阻んでいるようだ。
 そう思った瞬間、私は一瞬だけ思考流れから引き上げられた気がした。
 特に意味の無い直感的な思いつきであったが、案外的を射ているような気がする。直感に対する直感が、一方通行の思考の流れを一瞬乱し、私の意識を喚起した。それはあたかも、川の底に沈んだ石が流れでもってひっくり返り、
そこにできた凹と凸で流れが乱れる様を見ているようであった。簡単に言ってしまえば、考え事をしていてさっきまで考えていたことが思い出せなくなったときの感じ、というだけのことではあるが。
 強くなる雨脚に流されてしまったかのように、道路から通行人と対向車が消えた。
 考えてみれば、今回の母の対応も母親としては普通のものなのかもしれない。娘が海で溺れて死にそうになったら、私も頭がごちゃごちゃになってしまうだろう。しかし、子供の立場から見て重要なのは、怒られるか怒られないかだけである。もし今後母が心の平穏を取り戻したら、と考えるとまだ安心は出来ない。
 激しい雨を物ともせず、車は家に向かって走る。隣から見る母の目は、まだ少し潤んでいるように見えた。

 私たちが家につく頃には、雨は嵐と呼べるほどの規模になっていた。また台風が来ているのだろうか。
 家に着き、ここ数日間一日の大半を過すようになった私の部屋に戻ろうとした私を、母が呼び止めた。
「楓、後で居間に来なさい。あなたにとって大切な話があります。」
 母はやや沈んだ声で私に言った。
「は、はい・・・」
 思わず敬体で返事をしてしまった。ああ、遂にこのときが来たのだ。
 私はひとまず部屋に戻った。母は“後で”と言ったのだから、別に悪いことをしている訳ではない。心の準備ぐらいしなくては、心臓が止まりかねない。
 部屋に戻った私は、バクバクと鳴る心臓を爆発しないよう押さえ込みながらベッドに倒れこんだ。凍り付いているはずの背筋背中は、汗で濡れていた。
 しかしながら、改めて考えてみると今回はおかしな事ばかりである。私はこれまでの人生で、今回を遥かに越える危険な行為を散々やってきたつもりである。母はその都度、私の頭がアフロになるほどの雷を落とすのであり、拳骨が付いてくるときもある。しかし今回は違う。普段の母なら、短絡的と思えるほどの速度で雷を落とすのだが、今回はどうだ。病院でのあれはまぁ仕方ないとして、車内でも何も言って来なかったのだ。この後にそれが控えていると考えるのが自然だが、先ほどの母の態度からは必ずしもそうは言い切れない。あの母の表情は、私の見たことの無いものであった。
「だぁー!!」
 ここでいくら考えても結論は出ないだろう。それよりは、覚悟を決めて居間に降りていくのが5、60年先の心臓の健康を見据えた考えというものだ。
 私は力のこもった動きでドアノブに手をかける。ドアノブを握りしめ、回す。ここまでの動作は、かなり散漫なものになっているが、これが限界の早さだ。数値で表すと、行きたくない気持ちが49で、行かなきゃ行けないという気持ちが51と、ほぼ拮抗してしまっている。これだと、私は全力のたった2%しか力を使えないことになる。どちらも恐怖心からくる感情なのに、打ち消しあうとはどういった調子だろうか。
 私の体はガチガチに固まり、幼稚園児が作った切り紙細工のようだ。
 ドアノブは回した。しかしあと一歩が、ドアを引くことができない。一度ドアを開けたら後戻りは出来ないという気持ちが、私の心の中の二つの気持ちを完全に拮抗させてしまったのだ。まずい。この状況は非常にまずい。何よりまずいのは、このまま時間が経ってしまうことだ。しかし、このままいけば確実にその最悪のシナリオを踏んでしまう。
 私は深く息を吸うと、決心を決めた。こういう時は、あれをやるしかない。
 私は一時的に心の中の“行かなきゃ行けない”気持ちを抑える。パーセンテージが一気に変化し、私の体は完全に動きを止める。“行きたくない”の割合が上がってのことだ。しかし、押さえ込まれた“行かなきゃ”は、その力を確実に蓄積させている。
 何拍かの時間が経った。ほんの一瞬だったかも知れないが、十分だ。心の片隅で抑圧され、鬱積した“行かなきゃ”の精神エネルギーは、その箍を外され、私の心の全体へと溢れた。心の中の“行かなきゃ”の割合が、一時的に九割を越す。私はその莫大なエネルギーを力に換えて、ドアを力強く引いた。
 ドアは開いた。先ほどまで硬く重く閉ざされていたのが嘘であるように、大きく開いたそれは、私を廊下へ、階段へと誘う。私はその誘いと、残ったエネルギーを使い階段を降りる。降りた先は、玄関に続く廊下だ。
 何のことはない。私は勝ち誇ったという感慨と、これから起こるであろう事態に対する武者震い(実質は只の震え)をかかえ、深く息を吸った。
「お茶?」
 その廊下と言う場所を満たす妖気の匂いに、私は覚えがあった。緑茶の匂いである。
 その不可解さが、私の決心と、勢いを乱す。爽やかな緑茶の匂いは、頭を冴えさせると同時にリラックスさせるという矛盾した効果を持つらしいが、今の私に対してはどちらでもない効果を示した。
 一体何なんだと言うんだ!!説明の付かない母の態度に、今度は場に似つかないお茶の匂い。また訳が分かんなくなってきた。
「楓、お茶入れたよ。おいで」
 廊下の先の、私にしか見えない瘴気の発信源から、唐突にお声がかかった。不思議なことに、というかやはり、その声には険がない。優しくも、どこか悲しげな弱々しい声。こんな母の声を、私は数える程しか聞いたことが無い。
「・・・・・」
 私は母に言われるがまま、今に足を踏みいれた。
 軋む廊下を進み、今の敷居を跨いだそこに居たのは、声に相応しい淋しげな母だった。母は椅子に腰掛け、こちらに物憂げな視線を向けている。テーブルにはカップが二つとティーポットが一つ置かれており、白い湯気の柱を作っている。片づけが行き届いて、人気が無い居間は妙な感じだ。南向きの出窓からの日差しのみが光源の、照明のついていない室内がその感覚に拍車をかける。普段母しかいないこの時間帯はいつもこんな感じなんだろうが、私には、殊この一瞬だけでは馴染めそうになかった。
 私は意を決して“大切な話”について尋ねてみることにした。なるべく平穏な調子を心がけなくては。
「話って、何?」
 私は、私が思う普段の私と変わらない、軽い調子で尋ねた。積もりだったのだが、自信はまるで無い。
「まずは座って、お茶を飲んで、落ち着きなさい」
 その口調は、さっきまでの暗い物より幾分か普段の母に近いものだった。そのほんの少しの違いに、私は安心を感じた。
「うん。・・・・・ズズ」
 椅子に腰掛け、啜ったお茶は熱かった。九月の始めだというのに盛大に湯気を上げているのだから、当然ではあるが。
 カップに並々と注がれた緑茶は、軽度の猫舌の私に飲める代物ではなかった。
「昔ね」
 私が口内で舌先をいたわっていると、母の話はいきなり始まった。
「ちょうど楓が生まれたての頃、お坊さんに見てもらったことがあるのよ」
 母や父、それに兄とも14年以上の付き合いになるが、こんな話は聞いたことが無い。しかし、この衝撃性の薄い真実が、大切な話と一体どうつながるのか、私には検討がつかなかった。
「楓の名前、そのときに決めたのよ。お兄ちゃんのときもそうしたの。」
「お坊さんが決めたんだ・・・私の名前」
 だからどうしたと言うのだ。私の世代の子供にしては珍しいことだが、子供全体で見ればままあることだろう。
「その時ね・・・」
 母が徐に取り出したのは、色褪せた茶封筒だった。
「“この子が相応しい年齢になったら渡してください”って、これを預かったの」
 八十円切手で送れる程度の大きさを持つそれは、口に糊で封がされていて、その様は今まで一度も中身を見られていない事を自慢するようであった。色褪せ具合から、これが今日まで大切に保管されていたことが伺える。私はそれを受け取り、手に取ると、封を切らずに見つめた。
 もしこの中に、今私が探している“明確な答え”があるのなら、私はこれをあけるべきなのだろうか?

 その“答え”は、何をどう変えてしまうのだろうか。

 私はどうなるのだろうか。

 きっと、知ってしまったらもう元には戻れない。全くの無根拠だが、そんな気がする。
「読むべきか、読まざるべきか。それを決めるのは本人。考えて、答が出るまで考えて決めなさい」
「・・・え?」
 まるで私の思考を読んだかのような母の問いかけに、私の思案は中断された。
「これを渡してきたお坊さんが言ってたのよ。私には意味分かんないけど」
 窓の向こうから雀のさえずる声が聞こえる。レースのカーテン越しに見る外は明るく、雨はいつの間にか止んでいた。だが、当面のお天気なんかよりも重要なことが目の前には転がっている。
 考えろ、と漠然と言われても正直なところ困る。
 
「」


大変申し訳ないことだが、小説というものに対して意欲を失ってしまったようだ。続かないと思う。

       

表紙

マダム・タッソー・ミュージアム 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha