Neetel Inside 文芸新都
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   ニ

 彼女との付き合いが多くなったことで、私は「変な奴に引っかかってしまった不幸な女子」という印象が付いたらしい。早く切るべきだとか、貴方が心配だとクラスメイトから度々忠告されるのだが、私は曖昧な返答を返しながら、今の彼女との関係を続けていた。
 藤紅淡音は良くも悪くもいるだけで周囲の注目を集めた。
 どこか陰のある彼女に惹かれる者も少なくなかったが、歯に衣着せぬ物言いや高圧的な態度から、近寄る生徒はいなかった。
 そのうちあまりにも校内での交友関係が無いことから「男がいる」と噂が立ち、その噂が一人歩きして「夜の街を歩いていた」とか「大人の男とホテルに入っていくのを見た」とくだらない噂にまで発展していた。
 そんな彼女と付き合うようになった結果、気がつけば若苗萌黄という名前も広まり始めてしまった。それも「あの藤紅と交友関係を築ける稀有な生徒」という比較的好印象で、だ。
「ねえ萌黄、今朝のニュース見た?」
 昇降口を入ってすぐに出会った淡音は、泣き黒子のある目を細めると口角を上げた。私が首を振ると、とても残念そうに後ろで手を組んで肩を竦める。
「咲村真皓って男子生徒が行方不明になったんですって。道端で突然消えて、それからもう一週間近く音沙汰が無いらしいわ」
「ああ、それなら見た」
 道の真ん中で突然消えた男子生徒の容姿はよく覚えている。それなりに整った容姿をしていたからというのもあるかもしれない。短髪で鼻筋が通っていて、特につり目が印象的な顔。
 ローファを上履きに履き替えて、玄関傍の階段で三階まで上っていく。その間も淡音は事件に対する詳細を嬉そうに語っていた。
「この高校にね、咲村って性の子がいるのよ。なんでもお姉さんみたいよ」
「その子のところにでも行くつもり?」
「まさか。私にも良心はあるのよ」
 へえ、と適当に言葉を返すと、淡音は少し不機嫌そうな顔をした後私の背中を軽く叩く。彼女は時折子供みたいな反応を見せる。魅力的な物を見つけたらショーケースに張り付いて離れなかったり、順番を抜かされたりしただけでしばらく文句を口にし続けたり。
 容姿や言葉遣いが大人っぽいからか、その言動はなんだか新鮮で、且つ彼女がまだ私と同じ少女であることを確認できる瞬間でもあった。
「しばらくは行かない」
 淡音の言葉を聞く限り、いずれは咲村真皓の姉の前に立つつもりでいるのだろう。
「そう、もう一つニュースがあるの」
「何?」
「今日から真崎先生、出勤するって」
 真崎葵。
 私と淡音も、クラスは違うけれど彼の授業を受けている生徒だった。
「随分経ったしね」
 本来の復帰日から更に休みを延長していたようだけれど、状況が状況であることを思うと仕方のないことなのかもしれない。
「やっと授業が退屈じゃなくなりそうね」
 陽気なステップを踏んで私を追い抜いた淡音の背中を眺めながら、私はふと気になった事を口にした。
「淡音は、真崎先生のこと好き?」
 立ち止まった淡音は、振り返ると不思議そうに首を傾げて、それから「好きよ」と答えた。
「だってあんな教えの良い先生そういないもの。それに……」
「それに?」
「少しだけ貴方にそっくりだから」
 私に? 淡音にそう問いかけようとすると、彼女は目を細めて手を振り、足早に自分の教室へと入っていってしまった。私はその場に立ち尽くしたまま暫く彼女の入っていった教室を眺めていた。

 この雪浪町で何か起こっているのかもしれない。
 ホームルームが始まってふと思ったことだった。最近人の死を弔う機会に遭ったり、淡音と交友を築いたり、咲村真皓が失踪するなんて事が立て続けに起こっているからかもしれない。真崎碧の死と咲村真皓の失踪に結びつく点なんて無い事は分かっているのだけれど、なんとなく勘繰ってしまう。
「じゃあホームルームは終わる。今日は久しぶりに真崎先生が来るからな」
 担任はそう告げると騒ぐ教室内を眺め嘆息を一つついて、そそくさと出て行ってしまった。
 私はいつも通りの笑顔を顔に貼り付けると集まる女子の一人として紛れ込む。非生産的な会話に相打ちをして、その度に心が摩耗していくのを強く感じた。さっさと昼食時間になってくれないだろうか。淡音の顔を思い浮かべながらそんなことを考える。
「真崎先生も不幸よね。まだ新婚のようなものだったでしょう?」
「手術も成功しなかったなんてね」
「ほんと、人生って何があるか分からない。だからこそ今を精一杯楽しまなくちゃいけない……ってことで、今日カラオケに行かない?」
 行くかどうかとか、財布の中身がどうだとか、彼氏と今日はとか会話に熱を上げる女子達の前で悩んだ振りをしていると、言い出した女子生徒が憐れみを込めた目で私を見る。
「なんか藤紅さんに引っ付かれてから萌黄と中々遊べなくなった気がする」
「そう、かな」
 机を両手で思い切り叩くと、彼女はハーフアップの髪を小さく揺らした。
「そうよ! だって前まではもっとしょっちゅう一緒にいたじゃない」
 そうだっただろうか、と記憶を引っ張りだしてみるのだけれど、彼女との思い出はあまり浮かばない。胸の内で謝りながら、私は微笑みを作って肯定の言葉を口にしておいた。
「今日は絶対参加ね。あんな気味悪い人と付き合って鬱憤も溜まってるだろうしさ。何か握られてるんじゃないの? うちらに話してよ。力になるから」
 そうやって浮かべた彼女の笑みは、とても輝いていた。自分は友人を救おうとしていると信じて疑わない、達成感に満ち溢れた表情だった。
 分かっている。多分これは彼女の本心だ。本当に私を救いたい気持ちで、それがまた私達の交流の絆とかなんとかを強いものにできると思っている。
 私はありがとう、と言って笑った。
「じゃあ萌黄も放課後、ね」
 彼女がそう言うと同時に、教室の扉が開いて、椅子を引く音が立て続けに鳴り始める。教卓に出席簿を置いた彼は、おはようございます、と言って教室中をぐるりと見回した。低音のゆったりとしたリズムの懐かしさに目を閉じ、それから教卓の先にいる彼に目を向ける。
「改めて、今日から授業をさせて頂きます。ここ数日間は本当にすみませんでした」
 真崎先生は軽くお辞儀を続けて、それから何事も無かったかのように出席を取って授業を始めた。
 それからの彼の授業は、本当に普通だった。生徒達の言葉に対して的確に答えを返し、重要な箇所では穏やかな表情で教鞭を黒板に指し示す。
 恐らくそれは、「普通」という言葉で合っているのだろう。少なくとも常識という括りの中では。
 約四十五分という短いような、長いような時間の中で彼は坦々と授業を進め、チャイムが鳴ると次回の単元を口にして教室を出て行った。
 クラスメイト達は真崎先生の姿が消えるのを見届けると、思い思いに動き始める。背を伸ばす生徒。書き残した内容をノートに急いで写す生徒、窓を開けてベランダに飛び出る生徒、集団を作って真崎先生について話す生徒。
――真崎先生、なんだか思ったよりも元気そうね。
――もっと奥さんについて悲しんでいると思ってた。でもあの様子だと平気そう。
――前よりも笑うようになった気がする。空元気ってやつかな?
 女子の塊を横目に見ながら、私は葬式での彼の表情を思い出す。
 悲しげにも、喜んでいるようにも見える、あの穏やかな顔を。
 あれは、紛れもなく彼の本当の顔だったと思う。ならば、今ここで幾つもの表情を浮かべる彼は……。

 授業が終わり、雪浪駅から二つほど先を電車で行くと、私を含めたクラスメイト達は駅からすぐ傍にあるカラオケ店に入った。
 雪浪高校の傍で遊んでいる生徒は、正直見たことが無かった。商店街くらいしか見どころもなく、少し電車で揺られればそれなりに遊び場の豊富な街に出ることができる。私も雪浪駅の周辺に関してあまり知らない。
「それにしても真崎先生、びっくりするくらい元気だったね」
 マイクからビニールを取り外し、液晶モニタ付きのリモコンから、私を除く五人が順に曲を送信している。
 しばらくして、ある程度決められたレパートリーの中でだけ歌う私は持ち歌を歌い尽くすと休憩を呟いて回ってきたリモコンを隣に回した。隣の女子生徒は歌いなよと私の肩を小突きながらも私からそれを受け取ると、視線を私から液晶へと移し、好みの歌を探し始めた。周囲の合いの手に混じりつつメロンソーダの入ったグラスを手にとる。
「真崎先生、相変わらず教え方うまかったね」
 丁度一番奥の女子にマイクが渡った辺りで、次の曲を入れ終えた女子生徒はそう口にした。私は半分くらいまで減ったグラスを机に戻し、軽くスカートを払うとソファに背中を付ける。
「でも、なんかいつも通りに振舞ってます感、あったよね」
 大音量の音の隙間で、笑い声が漏れる。
「そうそう、無理してますって感じ」
「葬式でも泣いてなかったしね。結局その程度だったんじゃない?」
「あーやだやだ、私はもっと泣いてくれる恋人作ろう」
「っていうかアンタ今の彼氏とどこまでいった?」
「えー、知りたい?」
「そういえば隣の――」
 グラスの氷がカラン、と音を立てて動く。とても美しく、純粋で、透明で、何者にも汚されることのない澄んだ音だと思った。
 一定の距離を保ち続けること。誰かの気持ちを汲むこと。
 目立たずに日々を平穏に過ごす上でとても大切なことだ。
 なのに、今私の中は酷く混乱している。ぐちゃぐちゃに、何もかもが上手く繋がらなくて、思考がまとまらない。
 うまくやらなくちゃって思う度に、淡音の顔が浮かんだ。
 平穏を求めようと思う度に、あの葬式の真崎先生の姿が浮かぶ。
 酷く胸がざわつく。クラスメイト達のどうしようもない会話を耳にする度に、気分が悪くなっていく。粘液みたいに彼女たちの言葉がこびりついて反響する。
 なんだこれは。
 普段ならうまく溶け込めたって喜ぶところの筈なのに。
 何故私はこんなにも苛立ちを覚えているのだろうか。
 粗雑な作りのサウンドに、エコーでうまく誤魔化された歌声、適当な敵を作っては不快と感じた事に対して同意を求め、それを共感として受け取る周囲の笑顔。
 なんだろう。
 何が楽しいんだろう。
「萌黄、携帯鳴ってるよ」
 隣の声掛けに私はうん、と柔らかい口調で答えるとテーブル上の携帯を手に取る。
 着信は淡音からのものだった。
「誰?」
「……ごめん、人待たせてたの忘れてた!」
 そう言って慌てて立ち上がる。
「誰?」
「……私にも、ちゃんと春は来てるってことよ」
 私の撒いた餌は十分にうまく働いた。
 彼女達は目を見開くと星でも入れたみたいに輝かせた。彼女達の興味の言葉を掻い潜り、今は会いに行くのが先だと告げると、個室を飛び出た。
 明日になったらこの嘘を本当にする必要が出てくるけれど、正直どうでも良かった。とにかくここから出られるなら嘘だって構わない。
 カラオケ店を出た所で再び着信が鳴り始める。なんだ、あの子はどこかから私の事でも見ているのだろうか。なんにせよいいタイミングで私に逃げ道を作ってくれた彼女には感謝しないといけない。
 缶ジュース一本、では納得して貰えないかな。
 しかし、肝心の淡音からの着信は、私が出ようとした瞬間に途切れてしまい、それから何度リダイヤルをしても繋がることは無かった。一体この二度の電話で彼女は何をしたかったのだろうか。本当に私を助け出すためだったとして、その後に顔を見せてくれないのもおかしい。
 再びあのグループと鉢合わせるのもなんだか居心地が悪いので、私は駅に戻って改札を潜ると再び電車に飛び乗った。雪浪駅に比べて乗客の数は多い。実際駅前はごった返しているし誰かの肩にぶつかる事なんて日常茶飯事な場所だ。正直、あまり好きにはなれない。よくあんな密集地帯に好んで遊びに出かけられるものだと思う。
 電車はがたん、ごとんと軽快な音を立てて進んでいく。壁に身を預けていると、その音と振動が響いて、それが心地良かった。
 夕刻過ぎの車内は疲れた目をしたサラリーマンが多くて、皆触れたら溶けてしまいそうなぐったりとした姿で椅子に座り込んでいる。幾つか席が空いていたが、その疲れきって座り込むスーツ姿を見ていると、立っていろと言われている気がしてどうにも座る気になれなかった。
 窓の先は幾つもの景色を映しては横に押し流していく。橙色に染められた町並みはどこか陰があって悪くない。むしろこれくらい褪せた風景の方が見ていて楽しい。
 次々と流れていく景色はやがてトンネルに入って消えてしまった。がたん、ごとん。音と振動を立てながら滑るように電車は変わらず進む。
 トンネルを抜けて校舎が見えた辺りで、私はふと雪浪駅で降りようと思った。
 さっきの町よりも落ち着けるかもしれない。
 少しだけ、深呼吸の出来る場所に行きたいと思ったのだ。

 改札を抜けると、すっかり陽の落ちた薄暗い町が広がっていた。辛うじて残った橙色の陽光がビルを横から照らし、向かい側に濃い陰を落とす。
 街灯には人工的な灯りが立ち始めている。私は歩道を渡って商店街に向かう。
 「雪浪通り」と書かれた看板の下を潜る。夕刻を過ぎてピークを終えたからか、それとも気分が悪くなるような人混みを見てきたからなのか、帰宅途中の会社員がちらほらと見えるだけのこの場所は、私には随分と丁度いい環境に思えた。
 そういえば、この商店街を通るのなんて何時ぶりだろう。高校からとても近いけど、あまり雪浪生は立ち寄ろうとしない。多分辛気臭いとかそんな見てくれを第一にした考えなのだろう。勿論私も商店街に居着く高校生というのもなんだかカッコが悪い気がしてしまって、あまり近寄ろうとは思わなかった。
 両手を後ろで組んで、一歩、二歩、三歩と歩数を数えるみたいにして商店街の通りを歩いて行く。そういう時代なのか、シャッターが閉まって人の気配のしない場所も幾つかある。それでも魚屋は声を出して客を呼び込み、反物屋のショウウィンドウを覗くと着物姿の店主が老女と穏やかな表情で談話をしている。狭い店内にこれでもかと詰め込まれた玩具屋の前にはランドセルを背負った少年達が買ったばかりのカードゲームの封を開けてキラキラしたカードを見つけては盛り上がり、ドラッグストアの店員は暇そうに欠伸をしながら在庫補充をしている。
 店頭に出てきた彼は制服姿の私を見て物珍しそうな顔を見せた。本当に雪浪生は寄り付かないのだろう。私は彼にはにかんで見せてから、足早にそこを離れた。
「はい、お嬢ちゃん」
 丁度商店街の中頃だろうか。十字路になった通りに位置する精肉店の前で、オーバーオールを来た少女が店主から袋とレシートを受け取っていた。多分お使いだ。
 あとこれはおまけだから、と少し強面の店主は微笑むとコロッケを一つ彼女に差し出した。オーバーオールの少女は暫くじっとそれを見つめた後、ぺこりと小さなお辞儀をしてコロッケを受け取り、十字路の奥に駆けて行ってしまった。
 多分年長から小学生くらいの子だった。少し茶色がかった髪がさらさらしていて、小さな足でちょこちょこと頑張って走る姿は愛らしく思えた。
 そういえば、あの頃ってお金を使うのが嬉しかったなあなんて私は思い出に耽る。
 五百円握らされて近所の駄菓子屋にお菓子を買いに行って、持っている金額ギリギリまで頑張って計算して買っていた。丁度ぴったり使いきった時は父や母に胸を張って自慢していた覚えがある。
 あの頃は、なんにも苦しくなかったんだけどなあ。
 幼少期を懐かしみながら、私は精肉店に足を運ぶと少し強面の店主にコロッケを一つ、と伝えた。店主はその顔からは想像も付かないくらい柔和な笑みを浮かべると、揚げたてをあげよう、と言ってくれた。
「学校帰り?」
「あ、はい」
「下校の時ってなんであんなにお腹空くんだろうなあ。夕飯まで待てなくて俺もよく買って帰ったよ」
 店主は歯を見せて笑う。その笑顔がとても魅力的で、私もつられて笑った。
「さっきの子、いつも来るんですか?」
「ああ、お使い頼まれたって商店街をよく駆け回っているよ。あんな小さいのにメモ帳に書かれたものちゃんと買っていくんだ。優秀な子だ」
 店主は腕を組んで感心するように頷く。私は駆けて行くオーバーオールの少女の後ろ姿を見ながらコロッケを一口齧る。香ばしい衣の奥から出てきた熱々の餡に身体を強ばらせてしまう。そんな私のみっともない姿を見て店主は笑った。
「待ってな、水持ってきてやるから」
 お礼を言う前に彼は店の奥へと消えてしまった。まだ舌先がじりじりと滲みるように痛い。下唇を噛みながら痛みに顔を歪ませ、精肉店傍にベンチを見つけるとそこに腰を降ろした。
 痛み続ける舌先をどうにかしようと唾液が沢山出てくる。そんなことしてもどうにもできないのに馬鹿だなあと自嘲気味の笑みをこぼしてみると、なんだか少し気が楽になった気がした。
 言葉で取り繕ってどうにか自分の丁度いいポジションを探し続けて、でも疲れて逃げ出して、そして舌を怪我するなんて、私が一番馬鹿なのだろう。
「ほら、飲みな」
 裏の戸から出てきた店主は、油で汚れた白衣とサンダルという出で立ちで飛び出してくると、水で満たされたグラスを差し出す。私は小さくお辞儀をしてからグラスを受け取ると水を口に含む。よく冷えたミネラルウォーターが傷む私の舌先にそっと触れてくれる。
「すみません……」
「いいって、姉ちゃんがそんなに熱いの苦手だなんて思ってなかったから」
「別に猫舌では無いんですけど……」
「そうかい? さっきのお嬢ちゃんは嬉そうにさくさく食べていったんだけどなあ」
 あの小さい女の子は、こんなに熱いものを全部平らげられたのかと思うと、なんだか負けた気がして少しだけ悔しくなった。こんな部分で勝敗を、しかも幼い子どもと争って何になるかという話ではあるが……。
「偉い子ですね。私にはとてもじゃないけどこんな熱いの無理ですよ」
「だよなあ、俺も正直少し冷まさないと辛くてねえ」
 店主はそう言うと私に向けて悪戯な笑みを浮かべてみせた。私は少し不機嫌そうに頬を膨らましてから少し冷めたコロッケに齧り付き、あっという間に平らげてみせるとベンチから腰を上げた。
「またおいで」
 その言葉に返事を返そうと口を開いてみたが、私は深くお辞儀をして踵を返すと、少女の駆けて行った先へと歩き出す。

 空が紺色に塗り変わり始め、雪浪通りも先ほどよりも大分人が増えてきた。大抵は主婦と仕事帰りのサラリーマンで、制服姿なんて私くらいしか見当たらない。近くに学校があるのに、皆驚くくらい寄り付かないんだな、とこの人混みを眺めながら私は思う。
 コロッケをもう一つくらい食べるのもいいかな、とも思ったけど、また戻るのは少し恥ずかしい気がして、結局迷った末に精肉店から数十メートル程先の個人経営の喫茶店に入ることにした。ガラス越しに見た店内がとても落ち着いていたのも理由の一つだった。少し歩き疲れたし、家族には友人と食べてくると言ってしまったからご飯も無いし、何よりさっさと帰宅しても退屈するだけだ。
 砂糖とミルクの一杯入ったコーヒーを飲みながら、奥の方の席で私はぼんやりと店内を詮索していた。壁に掛かったビートルズとか古いロックバンドのレコードジャケットはどれも古い。カウンター前でコーヒー作りに没頭する白髪交じりのマスターの年齢からして、自前の物なのだろう。店内に掛かっている曲も洋楽で、時々歌ったことのある曲が流れては懐かしさを感じた。イエスタデイとかヘイ・ジュードとか。
 椅子やテーブルやカップまで拘っているようで、棚に並んだ食器はどこか上品さすら感じられる。別にチェーン店が良くないわけでもないし、気楽に入れるとしたら断然あちらなのだけれど、不思議とこういう落ち着いた空気の中でコーヒーを飲むのも悪くないなと思えた。
 淡音からの着信はあの一度きりで、結局それから待ってみたけれどかかってくる気配は無かった。折角抜け出せたのに、遊び友達がいないと退屈だ。
 結局なんだかんだ言いながら、私は淡音と居る時が一番リラックスしているようだ。向こうは向こうで好きなことを口にしてくるし、私も時には反発的な意見を言った。時には喧嘩じみた会話もしたけど、不思議とあの感覚は嫌いじゃなかった。
 化粧まみれの自分も必要な事は分かっているけれど、素顔を愛してくれる人はやっぱり必要だ。
「淡音に今度、何か奢ってあげようっと」
 テーブルの上に放り出された携帯電話を指でつつきながら、私は微笑む。そうだ、今度この喫茶店に連れてくるのもいいかもしれない。彼女、こういう落ち着いた静かな場所が好きそうだし。
 甘ったるいコーヒーを口にしながらそんなことを考えていると、入り口の扉が開くのが見えた。扉に括りつけられた鈴がりん、と音を鳴らす。
 コーヒー作りに没頭していたマスターは顔を皺だらけにしながら笑った。
「おや、いらっしゃい、みどりちゃんにあおいくん」
 入ってきた主は、マスターに挨拶をしてから部屋の隅のテーブルの座る私を見て顔を強ばらせる。その顔を見て、私の身体も緊張で固まった。
 真崎先生だった。
 隣で、あの時のオーバーオールを着た少女が彼の手を握っている。
「どうも、真崎先生」
 私の挨拶に、彼は一瞬で作っていると分かるぎこちない笑みで応えてくれた。


       

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