Neetel Inside 文芸新都
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   三

 私の隣に彼らはやってきた。真崎先生はマスターに声を掛けると「いつもの」と普段通りの落ち着き払った声で告げ、上着を傍のハンガーに掛けてから椅子に座る。彼がそうするのをじっと見つめた後、オーバーオールの少女も椅子に座った。小さな少女には少し辛い高さだったが、どうにか登ると短い足を椅子から投げ出すかたちで座っていた。テーブルからちょこんと顔が見える。その姿に愛らしさを感じながら、しかしそれではどうにも居心地が悪いだろうと思うのだが、少女は気にする様子もなく両足を交互に揺らしている。
 コーヒーを持ってきたマスターは椅子に座るというか、乗っかっている少女を見ておやおやと穏やかな声で呟いてから奥へと再び戻り、幼児向けの椅子を持ってきて彼女をそこに座らせる。
 ようやく丁度いい高さに座ることができたからか、少女はとても機嫌良さそうに真崎先生に笑みを投げかけた。彼はそれに笑みを返し、続いてやってきたハンバーグのプレートにナイフとフォークを置く。
「お子さん、ですか?」
 二人の一連の光景を見届けた後、私は恐る恐る問いかける。
「姪なんだ。親戚が数日ほど預かって欲しいと言われてね」
 そう言うと彼は手元のナプキンにペンで「みどり」と字を書いてみせた。
 彼はブラックコーヒーを口にする。そんな苦いものをよく飲めるなあと思いながら見つめていると、彼は私の視線に気づいたのか苦笑しながらカップを置く。
「ちょっとでも気が紛れたら良いと思われてるみたいでね。そんなに悲しんでなさそうな姿を見て、我慢していると思われてしまったみたいなんだ」
 真崎は頭を掻きなが言った。
「ねえ、あおい、それのみたい」
 みどりという少女は突然そう口にすると彼の手にするコーヒーを指差す。私の手で包めそうなくらい可愛らしい手だ。
 よく見ると、彼女の瞳はとても素敵に見えた。くりんとした丸い目に水晶みたいな瞳が輝いている。柔らかそうな肉のついた頬が真崎に声を駆ける度にふにふにと動く。指でつついてみたいなあと思いながら、しかしそんな事を出来るほど付き合いある教師でもないので、心の中に留めておくことにした。
「ハンバーグ食べたら頼んであげるよ」
「いまがいい」
 みどりは首を精一杯左右に振ると両手を伸ばす。どうしても飲みたいらしい。真崎はやれやれといった風に持っていたカップを彼女に手渡し、それから手持ち無沙汰になった手をポケットに手を突っ込むとデジタルカメラを取り出し、カップに口を付ける彼女を一枚撮った。
「おいしい」
 みどりの感想を聞いた真崎はそっと微笑むと、そうか、と一言。それから再びカメラでコーヒーを飲む彼女の姿を一枚撮った。
「ブラックが飲めるなんて、みどりちゃん、大人ですね」
 みどりは私の方を見てから「飲めないの?」と聞いてくる。人見知りはしない子のようだ。私が頷くと、美味しいのに、と残念そうに言ってから再びコーヒーを飲み始める。
「ええと、すまない。あまり生徒の名前は覚えられなくてね。確か私の受け持ったクラスにいたのだけは覚えているんだが」
 やっぱり。と私は思った。この人は生徒に関心がまるでない。
「若苗萌黄です」
「若苗さんか、覚えておこう」
 彼はそう言うと悪びれもせずに一度だけ頷き、みどりからカップを返してもらうとコーヒーを口にする。
「すごいなあ」
「何がだい?」
「二人共ブラックで飲めるところが。私なんてミルクと砂糖入れないととても無理だから」
 私がそう言うと、彼はああ、と笑った。
「ブラックは、私も苦手なんだ」
「じゃあ、何故?」
 飲んでいるの、と言う前に彼は私の言葉を理解し、腕を組むと暫く唸る。コーヒーを飲む事についてこんなに悩む人なんてはじめて見た。
 真崎は暫く考えた後、もう一度その『苦手な』ブラックコーヒーを飲むと、言った。
「はっきりするから、かな」
「はっきり、ですか?」
「そう、はっきり。自分がちゃんとここにいる感じがするんだ。とても苦くて、舌に残るけど、それのお陰で自分に自信が持てるというか……」
「先生って、わりと詩的なことを言う人なんですね」
 うまく説明できないと腕組みをして悩む真崎先生にそう言うと、彼は少し恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いてしまった。なんだ、彼にも人間らしいところがあるんだな、なんて思いながら、私は続ける。
「つまり、刺激が無いと生きてる気がしない、と?」
「ああ、そうだね。それが一番簡潔かもしれない。試験だったら模範解答にできるかもしれないな」
「なら次の試験で是非」
「もう答えを知っている生徒が一人、ここにいるからなあ」
 私と真崎は顔を見合わせて笑った。
 ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーを飲んで、私は暖かくて甘い液体がじわりと身体中に広がっていくことに心地良さを感じる。
「それ、おいしい?」
 みどりは椅子から身を乗り出して言った。私はどうぞ、とカップを差し出す。彼女は手を伸ばして受け取って飲んだが、顔を顰めてカップを私に突っ返した。どうやら好まなかったらしい。
「あおいのすきそうなあじがする」
 だから嫌い、と彼女は言った。真崎先生は彼女の言葉を聞いて少し寂しそうな顔をした後、じゃあ私には好物だ、と言って微笑んだ。
「飲んで、みます?」
 私がそう言って差し出すと、彼はそっと首を振った。
「甘い物は暫く我慢しようと思っていてね」
「どうしてです?」
「どうして、か……。気分じゃないって答えが簡潔なのかな。今は刺激が欲しいから」
 彼の言葉を聞いて、私は差し出したカップをテーブルに戻す。
「それにしても雪浪生が珍しいね。古臭いって寄り付かない子がほとんどなのに」
 真崎先生は不思議そうな顔をしてこちらを見つめてくる。この話題に対してどう答えようか、彼の言うように簡潔に答えるとしたならば、どんなものが適当なのだろう。
 暫く考えてから、私は口にした。
「ちょっと逃げたくなって」
 あまりにも抽象的な言葉だと我ながら思う。言ってからなんだか恥ずかしくなってきて、私は思わず俯いてしまった。どうしよう、顔が少し熱い。
 だが、真崎先生は一度ふうん、と言ってから暫く黙りこみ、それから俯く私の頭に手を置いた。
「強がるって、辛いからね」
 核心を突いた一言だった。
 でもそれを認めると、簡単に言い当てられてしまったようで、それが少し悔しかった。
 それで、つい感情的になって、頭を撫でる彼の手を振り払ってしまった。
 真崎先生は、怒ることも驚くこともせず、穏やかな表情のまま私をじっと見つめ、それからブラックコーヒーを口にし、みどりの頭を撫で始める。少女はくすぐったそうに目を閉じながら、しかし拒むことはせず、むしろ嬉そうに微笑んだ。
「だからこそ、全てを曝け出せる相手が欲しくなる。このままじゃ自分が壊れてしまうのが理解できているから……。きっとその逃げ出した理由も、そうできる相手がいたから思いついたんだろう?」
 その通りだと思った。
 私の表情で察したらしい。彼はそっと微笑む。
「手放さないようにしなさい」
 私は頷く。
「もえぎ」
 みどりが声をかけてくる。名前を覚えてもらえた事が少しうれしくて、私は彼女に向かってはにかんでみせた。みどりは不思議そうに首を傾げている。
「なあに?」
「がんばって」
 ありがとう。そう言うとみどりはどこか嬉そうにして、再び真崎先生からコーヒーを奪うと飲み始めたのだった。

 一時間近くも喫茶店に居着いてしまった。
 随分と長居したと思っていたけど、マスターからすれば「短い方」らしい。長い人はそれこそ開店から閉店まで帰らない人もいるそうだ。一体何をしているのかは知らないけれど。
「マスターはああ言っていたけど、随分と長居させてしまったね」
「いえ、本当に暇していたので」
 そうか、と真崎先生は呟いてからみどりの手を握る。
 みどりは顔を上げると何度か周囲を見回して、それから握った彼の手を二度引いた。
「じゃあ行こうか」
 みどりの言葉に頷くと、先生は私に向き直る。
「じゃあ、また明日、学校で」
「はい、また明日」
 微笑む真崎先生にお辞儀をして、私はその場を後にした。
 閉店した店と、一日中営業しているドラッグストアやコンビニ、ファストフード店の光を横切りながら歩いていき、やがて通りから出ると雪浪駅の改札口前に辿り着いた。これ以上彼と顔を合わせるのもなんだか気恥ずかしいし、家の近くにある何かで夕飯は済ませてしまおうと思った。
 ふと思い立って、私は振り返ると雪浪通りの方を見た。すっかり人通りも少なくなって閑散とした雰囲気を漂わせている。一時間前の盛況ぶりが嘘みたいに捌けてしまった。
 改札口を抜け、上りのプラットフォームに出ると電車を待つ。待ちながら、私は再び携帯を手に取ると淡音に電話を掛ける。
 だが、その電話は取られることは無かった。暫くして留守番電話に変わったのを確認すると私は通話を切って溜息を一つ、吐き出した。
――手放さないようにしなさい。
 私の中で次第に淡音の存在が大きくなっている。彼女なら私の事を全て話せる。私の想いを理解してくれる。そうやって、思わず乗っかりたくなる何かが彼女にはあった。
 できることなら今日だって、彼女に会いたかった。会って、どんな居心地の悪さを体験したか愚痴って、そして彼女の皮肉じみた言葉でその出来事を嘲笑って欲しかった。
 携帯に映る名前を見つめていると、突然胸がぎゅうと強く締められるような感覚を覚えて、思わずその場にしゃがみ込んでしまう。
「電話くらい出てよ」
 なんで出てくれないの、と苦しくなる胸に手を当てて私は弱々しく呟いた。

 結局、藤紅淡音はその日一度も私からの着信を受け取らなかった。夜も、寝る前に電話しても彼女に繋がることは無かった。
 そして同時に、カラオケボックスでの着信が、藤紅淡音がこの世にいたという最後の痕跡にもなってしまった。

 藤紅淡音は消えてしまったのだ。
 その言葉通り雪浪高校からも、私の下からも。


       

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