【四】咲村朱色/スカーレット


   一

 保健室は昔から好きだった。
 消毒液のつんとする匂いとか、触り心地の良いシーツの感触とか。後は人が少なくて、騒がれることも少ない事とか。誰かが騒いでいても、そっとベッドに潜り込めば空気を読んでくれるとか。
 別に病人ではなくても、私はよく一人になる手段としてこれを使った。
 最近は特にそれが頻繁だった。
 真皓が居なくなってから教室が息苦しくなったのもあった。
 普段からよく話すし、よく会話するグループは私を気遣って黙りこんでしまうし、逆に普段私と疎遠だったクラスメイトはよく声をかけてきては生ぬるい微笑みをかけてくるようになった。彼らもそれなりに心配してくれていることは分かっているのだけれど、私には鬱陶しいだけだ。
 壁掛けの時計は十二時前を示している。私は秒針の動きに合わせて呟く。
「ご、よん、さん、に、いち」
 十二を指し示すと同時にスピーカーからベルが鳴って、一斉に椅子が床を擦る音が聞こえた。
 保健室の前を横切る人影が扉の曇りガラス越しに見えた。
 横切るシルエットを眺めながら、しかし茅野先生も、件の生徒も来ないので、先に昼食を取ってしまおうと傍の机に持参したサンドイッチと魔法瓶を広げた。
 雪浪高等学校から失踪者が出てから、既に一週間が経っていた。
 警察は教師達を相手に連日聴取を続けているし、特ダネ狙いのフリーライター、記者達は登校中の生徒達に声を掛けては何か美味しい情報を手に入れようと躍起になっている。
 当然私にも食い付いてきた。弟が失踪したばかりのところにこの事件だ。食いつかないわけがない。それまで家庭に問題があったのではと論じてきた液晶の向こうのコメンテーター達は掌を返して悲劇の家族扱いを始めていて、私が今どんな場所に立っているのか分からなくて気持ち悪かった。
 保健室通いが増えるのも仕方ないことだと呟きながらサンドイッチを齧って魔法瓶に入れてきたお茶を啜る。一時は学校を長期的に休む話を母から提案されたが、私は断った。
 真皓を発見するには学校に行かなくてはならない。協力してくれている茅野先生の下に行く必要がある。そう思うとどうしても母の提案は受け入れることはできなかった。母は首を振る私に最後まで食い下がり続けたが、「登下校は俺が送る」という父の言葉でようやく話がついた。
 私を家に閉じ込めたがる母に恐怖を抱きつつ、同時に私は少し安堵もした。それなりに大事にしてもらえていたという事をここ数日で実感したからなのだろう。
 母が落ち着くのは、恐らく真皓の行方がはっきりした時だけだ。多分、父も考えは同じだと思う。本来なら真皓が見つかるまでは危険な目に自ら足を踏み入れるべきでは無いのだろうけれど、今更一人家の中にいたくはなかった。
 あの喧嘩が発端なら、この状況はきっと私にも原因があるし、もしあの時真皓にもっとまともな言葉を返していたら、咲村家は今も失踪事件を客観的に見ている立場にいたのかもしれない。
 だから、私は私なりの結末を探して動かなくてはいけない。
「大丈夫、私はいなくならないから」
 ベッドの上で膝を寄せながら、私は呟く。

 扉が開いた。
 食べかけのサンドイッチをテーブルに置いて、カップの中を飲み干してベッドを降りると、カーテンを開く。
「お待たせ」
 茅野先生はポケットに突っ込んでいた手をひらひらと私に振る。
「わざわざありがとうございます」
「いいのよ。危ないことならともかく、これくらいなら私にもできるからね。さあ入って」
 茅野先生は扉の向こうにそう言って手招きする。
「失礼します」
 保健室に入ってきた女子生徒は私を見て小さく礼をする。
 彼女の話で、もしかしたら何かが変わるかもしれない。私は生唾をごくりと飲み込むと拳を強く握り締めた。
「突然呼んでごめんね若苗さん。こっちの子は咲村朱色ちゃん。苗字で分かると思うんだけど、失踪した弟さんを探していて、少しでも何か足取りを掴みたくて、話を聞いてみたかったの」
 茅野先生の丁寧な口調は、多分彼女を慮ってのものなのだろう。刺激せず、柔らかい物腰で彼女に取り入る。私一人であったなら、きっと率直な言葉を投げかけて場を乱して終わったかもしれない。何より私の目は、あまり人によく思われないみたいだから、尚更だ。
 若苗と呼ばれた女子生徒は用意された椅子に座ると、暫く下を向いて何か考えているようだった。
「本当に申し訳ないんですが、実は私もよく分かっていないんです」
 申し訳なさそうに俯いたまま彼女は力無い声で言葉を口にした。私と先生は互いに顔を見合わせてから、首を傾げる。
「失踪した日は会っていなかったの?」
 茅野先生が尋ねると、彼女は上目遣いで先生を見てから、首を横に振った。
「学校で会っただけです。あとは……他の友人といる時に電話がかかって来たくらいで、それ以降は会っていません」
「その電話って、どんなものでした?」
「さあ、たった一度だけ着信があっただけで、それ以降は私から掛けてもまるっきり出てくれませんでした。だから一体何のためだったのかはさっぱり分からないんです。まあその電話のお陰で私は私で助かったんですけどね」
「助かった?」
 彼女は息を飲んだ。つい口が滑って知られたくない部分まで口にしてしまったらしい。
「私は弟を見つけたいだけなから、貴方の事情を誰かに告げ口する気は無いわ。そう簡単に信じられる言葉ではないかもしれないけど、貴方さえ良ければ、その「助かった」って言葉の理由も一緒に話してもらえないかしら」
 若苗さんは俯いたまま暫く考えているようだった。詳細は分からないけれど、彼女にとってはどうしても知られたくない部分だったことだけは理解していた。
 ただ、あの時モッズコートの青年が教えてくれたねむりひめの生態がもし正確だったとすれば、彼女の人となりも知っておくことは必要である気がした。
 大切な人を失った一人と考えると、彼女もまた私と同じように餌として認識されてしまう可能性だってあり得る。
 茅野先生はすっかり黙りこんでしまった彼女の両肩にそっと手を添えた。若苗さんはびくりと反応すると振り返って先生の顔を見つめた後、嘆息すると漸く頷いた。
「その日、クラスメイトにカラオケに誘われたんです。最近付き合いが悪いって言われたらなんだか断れなくて、私淡音を置いてそっちに行ったんです。正直、気乗りしなかったけど断った後が怖くて……」
「そんな時に、藤紅さんから電話が来たのね」
 先生の言葉に、若苗さんは頷いた。
「いい口実が出来たから、私はそれを利用して逃げたんです。簡単な嘘のせいで後が大変だとは思いつつ、一秒でも早くそこを出たかった。淡音に会いたかった。でも、口実を作ってくれた彼女に電話しても反応は無くて、結局その後行方知れずになってしまって……」
 彼女は携帯を取り出すとディスプレイを見つめながら、下唇をぎゅっと噛み締める。
「淡音がどこに行ったのか、私が知りたいくらいです」
 肩に手をやったままの先生は、私に目を向けると首を振る。ここまでだ、と彼女の顔は言っていた。
「色々ありがとう。大事な昼食の時間にごめんなさいね」
「いえ、教室は教室で同情ばかりでちょっと息苦しいから。むしろ気が楽でした」
 そう言って笑う彼女に共感を覚えながら、私は一度伸びをすると、再びベッドに腰を下ろす。緊張が一気に解れていく。
「咲村さん」
 突然呼ばれたことに驚いて、私は慌てて彼女の方を見た。その反応が面白かったのか、彼女は笑みを零す。
「私よりもっと近い人がいなくなったのに、そうやって自分で探そうって思えるの、すごいです。私なんてずっと落ち込んで、うじうじしてましたから」
「ああ、でも多分、それが普通なんだと思います」
 そう言って微笑むと、若苗さんはそうですかね、と首を傾ぐ。
「私、弟が……真皓が居なくなったって聞いた時、一人だけ泣けなかったんです。もう帰ってこないかもしれないって言われた時も、一滴も涙が出なかった。お母さんは毎日泣いて、お父さんも私達のことを心配しながら、時々寝室で泣いてたりして。涙が枯れそうなくらい泣いていたのに、私だけどうしても涙が出なかった」
 吸い込んだ息を吐き出して、私は髪を掻き上げる。
「多分、私が真皓を探したいと思ったのも、それが理由なんです。私はきっと現実を突き付けられないと駄目みたいだから、弟の行く末をちゃんとこの目で見ないと納得ができそうにない。泣けそうにないんです」
 言い終えて私は口を閉ざした。
 蛇口を捻る音、水が濁流のように流れ落ちる音がして、私達は水道の方に目を見やった。
「ごめんなさい、折角だから何か淹れようと思って。若苗さんも朱色ちゃんも何飲みたい? といっても珈琲か紅茶くらいしかないのだけれども」
「私、紅茶で」
 若苗さんは手を上げて言う。
「私は珈琲で」
 次いで私がそう言うと先生は頷いて、水で一杯になったポットの電源を入れた。次にティーパックとインスタントのドリップパックに、マグカップを三つ用意する。
「珈琲が好きなんですか?」
 若苗さんはそう私に尋ねる。私は頷いた。
「その子ブラックしか飲まないのよ。砂糖もミルクも絶対に入れないの」
「甘いのが駄目なんですか?」
 茅野先生の話を聞いて彼女は更に興味を持ったようだった。目を泳がせながら、どう言うのが一番良いだろうと頭の中で必死に言葉を纏める。
「駄目っていうか、ブラックはなんだかハッキリしている気がして、飲んでいて気が楽なの」
 前にも先生に対して説明しようとした事だ。でもやっぱり今回のうまく説明できない。
 私があたふたしていると、若苗さんはくすくす笑い始めた。そんなに面白おかしかったのだろうかと怪訝な顔を浮かべていると、彼女はそれに気がつき、「違うんです」と慌てて首を振る。
「この間似たような事を言う人がいたから、同じ考えの人っているんだなあって思ったら少し面白く感じちゃって」
「似たような事?」
 私が首を傾げると、若苗さんは補足するように言った。
「真崎先生ってわかります? 真崎葵先生」
 その意外な人物の名前が出てきた事に驚いた。
「ブラックは苦手で甘いものが好きだけど、ブラックを飲むと、自分がここにいる感じがするって言ってました。はっきりするからって。不思議ですよね」
「はっきりするからって、本当に言っていたんですか?」
 若苗さんは頷いた。
 真崎葵に向けての電話も、今となっては随分と前の出来事だが、それでも鮮明に思い出すことができる。
 あの時、葬式の時に一度も泣かなかった彼を私は見ていた。だから弟を失っても泣けなかった時、思わず衝動的に彼に電話をかけた。

――泣くこと、できましたか?

 あの時彼は返事をはぐらかして電話を切ってしまった。だから彼の答えは未だに知らない。結局ちゃんと涙を流すことができたのかさえ知らない。
 でも、私と彼は同じ気持ちだったのかもしれない。
 若苗さんの言葉を聞いて、私の中の冷たい塊が溶けていくのを感じた。
「そっか、あの人も、そんな理由でブラックを」
「大切な人を失って間もないですもんね。それに葬式も泣いてなかったし、多分咲村さんとどこか似ているのかも」
 そうかもしれないと笑う私を見て、若苗さんは安心したのかほっと一息つくと、お湯の注がれたマグカップを先生から受け取り、ふうふうと紅茶に向かって息を吹きかける。
 私も先生から珈琲を受け取ると、芳ばしい匂いを嗅いで一息ついてから啜った。
 苦味と香味が口の中で広がって、じわりと染みこんでいく。喉の奥へと流れ落ちていく黒くて熱い液体を感じる。でも辛くない。むしろ心地よかった。
「そういえば」
 一息ついたところで、若苗さんは再び口を開く。
「淡音から電話が来た日に、雪浪通りで真崎先生に会ったんですよ。なんとなく入った喫茶店で会って。その時に珈琲の話を聞いたんですけどね」
 耳を傾けながら私は再び珈琲を啜る。
「姪の子が来ているらしくて、そのおかげで大分気が紛れてるって言っていました」
「真崎先生に姪ね。奥さんも子供が出来る前だったし良い機会なのかもしれない」
 頷く若苗さんを見て、茅野先生は微笑んだ。
 でも何故だろう。二人の話を聞いていて何かが引っかかった。けれど理由がどうにもはっきりしなくて、それがまた気持ち悪い。
「なんにせよ、ありがとうね若苗さん。お友達の安否が心配な時なのに」
「いいえ、探したくなる気持ちは、分かりますから」
 若苗さんの言葉に私が顔を上げると、彼女はこちらを見て微笑み、それから時計を見て時間だと呟く。
「ねえ、先生」
 保健室を出る直前で、彼女は私達を見た。
「何かしら」
 先生はポケットに手を突っ込んだまま首を傾げる。
「淡音は戻ってくると思いますか?」
 その言葉は、淡くて触れればぱちんと割れてしまいそうな、泡沫みたいな問いだった。
 茅野先生は、口を閉ざしたまま彼女を見つめている。若苗さんはじっと言葉を待っている。私はどうにか言葉を探すけれど、暫く考え続けて、それはむしろ私が欲しいくらいだという事に気づいて、やがて考えるのをやめた。
 先生は、この問いになんて答えるだろうか。
 その先生の言葉に、私は何を思うのだろう。
 静寂が流れる。生温い粘液みたいな静けさが部屋を満たして、三人の間を埋めていく。酸素が消える。口を開けても、呼吸の仕方を忘れてしまったみたいでうまく息が吸えない。秒針でさえも動きを躊躇うほどの重たい静寂が私達の間に横たわっている。
 あまりにも苦しくて私は俯いてしまった。とても耐え切れない。
「……そうね」
 音を忘れた部屋に、漸く言葉が姿を現す。
 先生は微笑を口元に浮かべていた。
「貴方がそう信じたいなら、それで良いと思うわ」
 私に答えは出せないもの、と付け足すように彼女は言う。
「私が決めること、ですよね。やっぱり」
 若苗さんはそう言って目を細めて笑う。
「慰めが欲しかったなら、ごめんなさいね。私はそういうの好きじゃないから、正直に言うことにしてるの」
「いえ、こっちで良いです。嬉しいです」
 そう、と先生は笑った。
 ええ、と彼女も笑った。
 分針がかちん、と動いて、スピーカーからチャイムが鳴り響いた。
「では、授業がありますので」
 若苗さんはそう言うと深く丁寧なお辞儀をして、保健室から出て行った。
「彼女に必要なのは、結果じゃない」
 チャイムが終わった頃に、先生は窓の外を眺めながらそう口にした。じゃあなんですと私が問いかけると。彼女は一度大きく背伸びをしてから息を深く吐き出す。
「納得することよ」