Neetel Inside 文芸新都
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   ニ

 ホームルームを終えて、私は幾月絵美に今日は美術部に行くと伝えた。
 彼女は酷く驚いたようだったけど、そろそろ気分転換に何かしたいと言うと納得してくれたようだった。
 一人で事を進展させるのにも限界があり、若苗さんとの会話以降何も進んではいない。
ただ、少なくとも犯人はまだ雪浪町で何かするつもりだと思っていた。確証は無いけれど、少なくとも「美味しそうな」私をこのままにはしないだろう。
 電話で部活に出る旨を父親に伝えると、大体の帰宅時間についての確認と、部活後に連絡を寄越すようにと言われた。友人も一緒だと言うと、ならその子も乗せて帰ろう、と半ば強引に話をまとめられてしまった。
「なんか、お父さんがごめんね」
 ホームルーム後の廊下を二人で歩く。当たり前だったことがなんだか遥か昔の出来事みたいに懐かしく感じてしまう。非日常から日常へ。少なくとも絵美といる時の私は、とてもリラックスしている。
 開いたままの廊下の窓から風が吹き込んで、絵美の髪が揺れる。ふわり、と彼女からシャンプーの匂いが香った。
「シャンプー、変えた?」
「いつものだけど、変わったように感じた?」
 絵美はおかしそうに首を傾げる。
「朱色が褒めてくれたのをずっと使ってるんだけどなあ」
 残念そうな彼女に私は必死に弁解する。
 最近会ってなかったからとか、色々とあって落ち着く暇もなかったから、なんて言葉を沢山並べていると、絵美はくすりと笑った。
「大変みたいだもんね、今」
 その言葉に私は頷く。
 絵美は私のことを見て立ち止まると、突然後ろから私の背中を押した。
「こういうこと言っちゃいけないと思うけど、多分朱色なら怒らないって勝手に決めつけて言うよ」
「何?」
「慣れるのも、悪いことじゃないよ」
 絵美はそう言って後ろから私を抱きしめる。
 彼女の横顔に目を向ける。シャドウが微かに塗られた二重。きりりと上を向いた長い睫毛に潤んだ瞳が見える。
 彼女から目を逸らすと私は俯いて、一呼吸置いて頷いた。
「私は何も知らないけど、朱色が今頑張ってるって事だけはわかるよ。真皓君、探しているんでしょう?」
「……うん」
「がんばれ」
 単純な一言だった。
「がんばれ」
 でも、その単純な一言が、今の私にはとても救いになっていた。
「……ねえ、絵美」
「なあに、朱色」
 絵美との出会いに感動的なエピソードなんて無いし、絆を確かめ合うような出来事だって存在しない。ただなんかいいなって思って、隣にいて安心したから一緒にいただけだ。
 それでも、私は彼女のことを親友だと思っている。これはおかしいことだろうか。

「もし私が死んじゃったりしたら、絵美は悲しんでくれる?」

 私の言葉に、彼女はしばらく考えた後、眉根を寄せた。
「勝手に死んだりしたら、怒るよ」
 その返答は予想していなかった。
「怒るの?」
 絵美は頷いた。
「なんでそうなる前に一度も相談しなかったのかって怒る。事故とか理不尽なものならともかく、貴方の言い方、なんとなく分かっていて死ぬつもりっぽいから」
「別に死に方を指定は……」言いかけたところで、彼女はしてる、とぴしゃりと私の言葉を断ち切った。
「自分の行動がきっかけでしょうね。なんにせよ、私を頼ってくれなかったことを怒るわ。もしかしたらそれで私も死んじゃうかもしれないけど、まだそっちの方が納得できる」
「そんなこと言って、実際にそうなったら『ついてくるんじゃなかった』とか文句言うんでしょう?」
「当たり前でしょ、だって死の危険に晒されてるのよ? 幸せだった出来事を一つ一つ確認して幸せだったって死んだほうが良い? そんな感動シーンは要らない」
「本当に? なんだかんだ文句言いながらも最後まで見て泣いちゃうのが絵美じゃない」
「別にどうでもいいでしょそれは! とにかく、貴方と私の最期があるとしたら、感動で終わらせたりなんてしてやらない」
 そう言ったところで、絵美は私の頬にそっと触れた。くすぐったさに身を捩らせると、彼女は私を向き直らせ、正面から私を抱きしめる。絵美の身体は柔らかくて、暖かくて、気持ちが良かった。
「親友でしょう?」
「……うん」
「ちゃんと言葉にして」
「絵美は、私の親友だよ」
 よろしい、と耳元で彼女は嬉そうに言った。
「ねえ、一つお願いしてもいいかな」
 そう言うと、「何?」と彼女は言った。
「化粧、してくれない?」
 絵美は喜んでと言って私から離れると、にっこりと笑った。

 美術室の隅で絵美はポーチを取り出すと化粧品を一つ一つ並べていく。チークがどうだとか、グロスはこれが一番良いとか、マスカラ、化粧水はこれ以外譲れないと説明に押され気味になりながら、でもその一方的な彼女の言葉に安らいでいる私がいた。
 全て並べ終えると机の前に鏡を置き、絵美は私に化粧を施し始める。鏡の前に映る私の顔が少しづつ変わっていく。その変化がなんだか怖くて思わず目を背けてしまうのだけれど、その度に絵美は強引に私の顔を鏡に向けた。
 ある程度終えると、今度は髪を弄り始める。根本から毛先まで真っ直ぐに落とされる櫛の感触は、擽ったくて、でも気持ちが良かった。元々頭を触られるのは嫌いじゃなかったし、あとは絵美に触られているというのもあるかもしれない。ただ普段からそれほど手入れをしていない私の髪は処々で引っかかって、その度に頭が傾いた。
 ファウンデーションを塗った顔は滑らかなで均一な肌色になった。目元にブラウンのアイラインが引かれ、その上にさり気なくラメが散りばめられる。よく見ないと分からない位のものだけど、あると大分印象が違うんだなあなんて人並みな感想を抱いて感心してしまう。
「つり目の子って、目元弄るだけですごく印象的になるんだよ。むしろ折角ある特徴なんだから、前に出してあげないと」
「そうかな。この目、私はあまり好きになれないんだけど」
 でも、化粧を施した今の目は悪くないと思えた。
「その目で見つめられたら、皆きっと貴方の事が忘れられなくなる」
「そう、かな?」
「朱色はさ、名前もそうだし、目元もそうだし、誰かに憶えてもらうには良い武器を持ってる。男の子って、印象に残るといつの間にかそれを好意と勘違いしちゃうとこあるから」
「そう?」
「目だったり、髪だったり、色んなところを見て印象的な部分を探してるように思えるの。まあ必ずしもその部分が見られて気分良くなる場所でもないけどね」
 こことか、と絵美は私の胸に触れる。驚いて思わずその手を掴んでしまうと、彼女は楽しそうにあははと声を上げて笑った。
 大分櫛が通りやすくなって、鏡越しに見てもおかしくない真っ直ぐになった髪を見て私は感心した。こんな私の髪、見たことがない。
「うん、大分綺麗になった」
 最後に彼女は前髪を髪留めでぱちんと止めて、満足そうな顔をして両肩に手を置いた。
 鏡の中の咲村朱色は、まるで別人だった。
 苦手だったつり目も、見ていてそれほど悪く見えない。
 絵美は最後に紅色のリップを出すと私の唇に引いた。口紅程主張はしないが、引いただけで血色がよくなったように見えた。
「誰か見せる相手がいたらもっと楽しいんだけどなあ」
「残念ながら」
「好きな人とかいないの? 朱色はそういうところ淡白だから」
「そういう絵美も浮いた話ないじゃない」
 絵美はにっこり笑った後、ポーチに化粧品を詰めていく。
「実はこの間振られたばっかりなの」
 私が驚いて振り向くと、絵美は変わらず笑っていた。
「他校の美術部の子で、コンクールで知り合ってから定期的に遊んでたんだ。最近はしょっちゅう二人で遊びに行ってたかな。朱色とも中々会えなかったし……。で、一昨日かな。告白したら振られた。友達以上には見られないってさ」
 絵美は淡々と言った。
 窓から夕陽が差し込んできて、絵美の顔に陰が落ちる。もう随分な時間ね、と彼女は言った。
 こんなときどうしたらいいのか分からなくて、再び鏡の中の私を見つめる。化粧で変わった私は、私をじっと見つめていた。
「二人きりでしょっちゅう遊びに行って、“そういう”雰囲気にも何度かなって、でもそれ以上は重たく感じるんだってさ」
「重たく?」
「そう、重たく」
「それから、どうしたの?」
「そっかって言って、今は連絡取ってないなあ。彼はどんな距離が好ましいのかよく分からないし、私もなんで好きになったのか分からなくて、ぐちゃぐちゃになっちゃった」
 ポーチを鞄にしまって、鏡を閉じる。そこに映っていた私がいなくなると、自分はもしかしたら元に戻ってしまったのではないかと途端に不安になった。
「さあこれでおしまい。朱色、とっても可愛くなった」
 不安を抱く私に勘付いてか、単純に思ったことを口にしただけなのか。絵美は後ろから私に抱きつくと耳元でそう囁いてくれた。
「人の心って不思議。ほんと底が見えなくて、全部知りたくても息が続かなくてどんどん苦しくなっちゃう」
「まるで水の中みたいな表現ね」
「うん、水の中っていうか、海とか湖みたい。恋なんてその人に溺れてるみたいでさ、その人の事知りたくて、でも距離を縮めてく度に呼吸もつらくなるくらい胸がきゅってなって……。ロマンチスト過ぎるかな、私」
 恥ずかしそうに俯く絵美を横目に見て、私は首を横に振る。
「素敵な表現だと思う。私は好き」
「ありがとう」
 さて、と絵美は言った。
「これからどうする?」
 そう尋ねる絵美に、私は首を振った。
「どうしても、行きたいところがあるの」
「私も付いて行こうか?」
 いい、と一言。
「それは、さっきの問いかけと関係があるの?」
「問いかけ?」
「もしも私が死んだらっていう。さっきのあれ」
 そう言って見つめる彼女の目はとても素直で、返答次第ではきっと無理矢理にでも連れて行こうとしているのが分かった。
 下手な嘘はつけないと分かっていたから、私は正直に頷いた。
「死ぬかもしれない事?」
 もう一度頷く。
 モッズコートの青年は私のことを「美味しそう」だと言っていた。これ以上踏み込む事に対しても警告していた。
「納得したいの」
「何に対して?」
「真皓が消えたことに対して」
 その言葉がするりと出てきた事に少し安心した。大丈夫、ブレてはない。そう思うと自分の言葉に自信を持てた。
「犯人とか、犯行理由とか、方法とか、そんなのどうでもいい。私は、真皓の行方さえ判ればそれでいい。生きているのか、死んでいるのか。もう記憶の中だけの存在なのか、また触れることができる存在なのか……」
 そして、何よりも――
 俯いたまま、両拳を強く握りしめる。
「ごめんって言いたいの」
「そっか、じゃあ私はここで絵を少し描いてから帰るよ」
 残念そうな絵美の顔に罪悪感を感じたけれど、私は手を振った。彼女は笑顔で手を振り返すと、準備室の方に消えていった。
 私は彼女の後ろ姿を見送ってから美術室を出て携帯電話を取り出す。
 通話記録を開いて、真皓が失踪した日の履歴を呼び出す。
 あの日打ち込まれた番号は、すぐに出てきた。
 発信ボタンを押して耳に当てる。
 ひとつ、ふたつ、みっつとコールが鳴るのを、私は息を呑んで聞いていた。誰もいなくなった美術室から少し離れた廊下の隅に座り込んで待ち続ける。
『もしもし』
 電話が、繋がった。
「突然のお電話すみません」
 私の言葉に、彼は暫く沈黙する。
『……君か。以前私に電話してきた子だね』
「はい、咲村朱色と言います」
 スピーカーの奥で溜息が聞こえた。
『それで、今度は何の用かな』
「できれば、直接お話しがしたいのですが、お時間をいただくことはできませんか?」
『話とは?』
 彼の問いかけに、私は息をごくりと飲み込む。
 足が震える。心臓の鼓動する音がやけに大きく聞こえる。胸元に手を当てて、私はもう一度深呼吸をしてから、あの日、葬式の時の真崎先生の姿を思い出しながら、言った。
「ねむりひめに関する事です」
 返答は帰ってこない。
 私は続ける。
「ねむりひめは、人の記憶を糧にする生物だそうです。どういった原理かは分かりませんが、彼らは餌を見つけるとそれらを引きずり込んで食べてしまう」
 無言
「先日、私も被害に遭いました。なんでも彼らはマイナスな感情を強く持っている人間の記憶を好むとか。『悲劇』とかそういう類の体験者なら尚更危ない」
 返答は無い。
「それで、ふと思ったんです。失踪者である弟を探す私に魅力を感じたのなら、私よりも更に大きな別れを迎えた人はどうなるのだろうって」
『……妻を失った私も襲われたかもしれない、と?』
 漸く彼は言葉を口にする。
「そうです。私はこの原因を探って、ねむりひめを地上に引きずり出したいと思うんです。真崎先生のここ数日間の出来事を知ることができたなら、何かつかめるかもしれない。協力、して頂けませんか?」
 暫くの間、再び真崎先生は沈黙した。彼の返答次第で状況は変わっていく。
 危険は承知の上だ。安全を確保したままで何かを成せるほどこの事件は簡単じゃない。ましてや一介の女子高生にそんなことできない。
 飛び込むしかないのだ。私にできることはそれくらいだ。
『……校内にまだ残っているのかな?』
「はい」
『なら屋上に来なさい。普段は開放していない場所だ。そこなら誰かが来る可能性も少ないだろう』
 それだけ告げて、彼との通話は切れてしまった。番号だけの表示されたディスプレイをじっと見つめるながら、私は無意識に入っていた肩の力を抜く。
――可能性は二分の一。
 吉と出るか凶と出るか。鬼が出るか蛇が出るか。少なくとも、真崎葵はなんらかの形でこの件に加わっていると思う。失踪事件を執拗に追い続ける私が餌として認識されたにも関わらず、奥さんを亡くした真崎先生に何も起こっていないとは考えられない。
 預かった姪の存在もそうだ。ここ数日間、あまりにも偶然が横行しすぎていて気持ちが悪すぎる。この中のどれが偶然で、どれが必然的であったのか。その一つ一つをうまく繋ぎ合わせた先に、真皓がいる。
 突然の体調不良からの欠勤。
 大幅に遅れての出勤。
 あの間に、何かあった筈だ。いや、そこで何も無かったならもうそこまで。真皓にもねむりひめにも辿りつけず、いつ喰われるかを気にし続ける生活を送るしかなくなる。
 携帯の電源を切って、ポケットにしまい込む。父から連絡が入る可能性だってあり得なくはない。部活に行く口実だっていつまで通用するか分からないし、念には念を入れておきたい。
 私は屋上への階段へ向かうために立ち上がると、踊り場への道に目を向けた。
「やあ、朱色」
 モッズコートの青年は私の名前を呼ぶと、壁に身体を預けながら手を振る。上げそうになった悲鳴を手で抑え、私は思わず身構える。
「貴方、なんで」
「君に会いに来たわけではないんだが、どうにも僕が向かう先と君が向かう先は交じり合う事が多いみたいでね。全く不思議な縁だ」
 彼はポケットから手を抜く。その手に握られているのは、一丁の銃だった。
 彼は私に銃口を向けた。あまり武器の類を知らない私でも分かる。あれは恐らく本物だ。彼なら持っていてもおかしくない。引けば、私の身体はいともたやすく撃ちぬかれて、当たりどころが悪ければ死ぬかもしれない。
 どうする、この状況で私は一体どうすればいい。手元には鞄しか無いし、投げつけたとしてもダメージはおろか、怯ませることもできるか怪しい。いや、むしろ投げる動作に入る前にきっと引き金は引かれる。彼は自分にとって都合の良いことだけを行うと言い続けている。私の死によって彼の都合が良くなるのなら、迷いなく私を殺すだろう。
 ならば、今ここでただ銃口を向けられ、威嚇されているだけの状況はなんだろう。私は思考を巡らせる。
 威嚇に留まっているのは、まだ彼にとって私の死が一番都合の良い状況にはなっていないから。
「私を、撃つ気ですか?」
「そうだな、君が僕の邪魔になる可能性も今は捨てられない。かといって互いに望んだ結果を手に入れることができる可能性も無くはないんだ。状況によるね」
 やっぱり彼は、まだ私を殺すつもりではない。
「じゃあ、何故私にそれを向けるんです?」
 私が問いかけると、彼は微笑んだ。
「ねむりひめという存在は、記憶を餌に行動するところまでは説明したね」
「はい、聞きました」
「ねむりひめは記憶を喰ってその身に蓄えると、それらを自由に引き出せるようになる。例えばパスワード、恋人との秘め事、生まれてから現在まで起こった出来事を自由にね」
「そんな事まで……?」
 銃口は決して動かさないまま、彼は頷いた。
「ねむりひめは知識を蓄えていない状態では最弱だ。餌の狩り方も知らない、襲い方も分からない。だから、その際に彼らは宿り主を探すんだ」
「人間、ですか?」
 肯定。
「彼らはその際に『人間が自分に貢ぎたくなる』ような姿で現れる」
 大体話が見えてきた気がする。しかし、そうするとやはり真崎葵は――
「なんで、そんなことを私に教えるんですか?」
 私は率直な疑問を彼に向ける。青年は何も言わず手にしていた銃をポケットに突っ込み、嘆息して右の爪先で地面をこん、こんと打ち鳴らした。
「君は、美しさってなんだと思う?」
「え?」
 突然の彼の問いがどうにも理解できずに立ち尽くしていると、彼は微笑んだ。
「僕はね、美しいものを愛したいんだ」
 彼はそう言って肩を竦める。
「外見的なものでは決して無いよ。分かっていると思うけど」
「それは、自分の欲に解放的な人って事ですか……?」
「大体あってる」
 彼は銃を突っ込んだ手を再びポケットから出した。その手にはシガレットケースが握られていて、彼はそこから一本取り出すと咥える。
「煙草、吸うんですね」
「ああ、そういえば君と会った時はいつも出してなかったっけ。煙は嫌いかい?」
「いえ、別に気にしませんけど……。一応ここ、学校ですよ?」
「生憎ここの生徒ってわけでもないから多目に見てくれ」
 彼は煙草に火を点けて大きく吸い込むと、濁った白色の煙を吐き出す。その煙は薄暗い廊下にふわり浮かぶと、やがて霧散して消えた。
 煙草を吸う彼の姿は、どこか淋しげで、しかし画になった。絵美が見たら早速題材にして書き出すかもしれない。
「なんで私に、銃を向けたんですか」
「死ぬって実感をちゃんと感じさせたかったんだ。でも効き目が無くて残念だ」
「どうして」
 続けて言った私の言葉を、彼は理解しているようだった。吸って吐くだけの喫煙を終えると彼は吸殻を窓の外に投げ捨て、煙草のケースをしまった。
「僕が言うのもなんだけれど、君は今とても狂っている」
 突き付けられた言葉に、私は奥歯に力を込めた。
「きっと色んな非現実を見てきたせいで感覚が麻痺しているんだ。死ぬつもりは無いように見えるけど、どこかで君は『きっと死にかけても助かる』と思っている。あの時助かったみたいにね」
 何か言おうと思うけど、言葉がうまく出てこない。狂っているという一言に思いの外ショックを受けてしまっているみたいだ。
「真崎葵に会いに行くのは構わない。でも彼はきっと待ってくれるだろう。先に僕の問いかけに対して応えては貰えないかな」
 私は後ずさる。なんでいけないのだろうか。姉が弟を探し出したい。喧嘩したことを謝りたくて、彼の結末を納得したくて。
「君はここまで色んな人から色んな言葉をもらってきた。けど、それが活かされるのは、君が『まとも』であった場合だけだ。今の君はとても歪んでいる気がするんだ」
 なんだ、私は何故突然追い詰められた気分になっているのだろう。いつも通り、他の人に尋ねられたみたいに言えばいいだけじゃないか。喧嘩した弟に謝罪したいと、それだけの理由だと。そう言えば良い。
 彼のその全てを見透かしたみたいなその言葉に私は酷く動揺している。何故彼はこんなにも私のことを知っているのだろう。
 彼が開けた窓から冷たい風が吹き込んで、私の顔を撫でる。刺さるように冷たかった。
 彼はもう一本煙草を取り出し、火をつける前に一言、私に告げた。
「君は、僕になってしまいそうだから」


       

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