三

 短髪で、鼻筋も通っていて、私と同じつり目でもむしろその鋭い視線が魅力的だった。家族にも献身的で情も厚い。運動好きで、興味を持ったことには努力を惜しまない。
 咲村真皓は、好青年という言葉をそのまま形にしたみたいで、私を含めて父も母も皆、彼の事をとても愛していた。
 私からしたら彼はどこまでも魅力的で、自慢で、だからこそ大事な存在だった。
 ただ貧乏くじを引く事が多く、その結果努力が無下になる事も少なくなかった。受験だってそうだ。些細な事で彼は雪浪高校を落としてしまい、一つ下のランクの高校に彼が行くことになってしまった。
 どうして私より容量の良い弟が、私よりも下にいるのか。運の良し悪し一つで決まっていい事じゃないと悲しむ私に、彼はただ「仕方ないことなんだ」と笑っていた。一番悔しいのは自分なのに、彼は決して悲しむ姿を見せようとはしなかった。
 入学後も真皓は腐ることは無く、勉学も学校生活も精一杯楽しんでいた。父も母もそれを見て安心していたし、私もとても安堵した。
 そんな彼に、恋人が出来た。
 一つ上であることは教えてくれたが、それ以上は彼女の方からまだ秘密にしてほしいと言われたようで、どんなに私や家族が尋ねても口を割ることは無かった。家でそうなのだから、多分校内でも秘密にしていたのだろう。いや、もしかしたら恋人すらいない体で過ごしていたのかもしれない。生真面目な真皓なら無くはない話だ。
 どんな状況に置かれても精一杯生き抜く彼を私は尊敬していたし、願わくばこれを機に彼の進む先が明るい方向になる事を願った。

――けど、その願いは容易く裏切られてしまった。

 普段より少し早く起きた私がリビングに降りて行くと、既に着替えた真皓がソファに座っていた。何時も時間一杯まで寝ているのに、珍しいなと思いながら、まあ少し早起きしたい日もあるのだろうと思って、おはようと声をかけてコップ二つ取り出すとオレンジジュースを注ぎ入れて、ソファに座ってテレビに視線を向けたままの彼の前に置いておいた。テーブルには既にミルクを飲み終えたコップが置いてあって、私はしまったな、と思いながらも気にせず置いておいた。
 よく見ると真皓の目元は酷く腫れていて、目も充血しているのが分かった。思い切り泣かないとならないくらいの腫れだ。
 私は驚いてどうしたのかと尋ねた。
 けれど真皓はちらりと私のことを見て、それから再びテレビに視線を戻すと、なんでもないとだけ言った。でも、それだけ目を腫らしておきながら何でもないわけは無いだろうと、私はもう一度、本当に何もないのかと確認してみた。
 真皓は暫く私の事をじっと見つめ、首を振った。
 彼の異変に首を傾げながら、今はきっと、そっとしておくべきなのだろうと思いそれ以上は何も言わなかった。
 彼女と喧嘩でもしたのかもしれない。なら私に入る余地は無いし、相手の事も知らない私には何も言えない。
 そう思って隣に座ると、彼はそういえば、と話題を切り出した。
「真崎葵の奥さんが亡くなった時さ、葵さんだっけ、あの人は全然泣いてなかったよね。あれはどうしてなんだろう」
「そんなの、私にわかるわけないじゃない」
 そう答えると、彼は更に質問を口にした。
「もし自分が同じ状況に立ったら、自分の親しい人間が死んだら、姉ちゃんは泣ける?」
「突然どうしたの」
 突然の問いかけに私が戸惑っていると、彼は微笑み、それからあの一言を口にした。

「俺が死んだら、姉ちゃんは泣いてくれる?」

 気がつくと、私は思い切り弟の右頬を叩いていた。全くそんなことするつもりなかったのに。
 暫く呆然としていた真皓は、私をちらりと見て、それから自分の頬に手を当てると、しばらく目を閉じて、それから立ち上がってリビングを出て行ってしまった。
 私はハッとして閉じていく扉に駆け寄り、廊下へと顔を出す。真皓は玄関で靴を履いているところだった。私は、手に残るじんじんとした熱をぎゅっと握り締めると、真皓に向かって吠えた。
「馬鹿なこと言わないで!」
 その言葉に、彼は動きを止め、振り返り、それから哀しそうに俯くと私から目を逸らした。
「死ぬなんて、冗談でも言うな」
 言いたいことは沢山あるのに、それしか出てこない。私に罵倒されている間真皓は何も言わなかった。
 彼は玄関を開ける。紺色のブレザーを纏った黒髪の短髪。肉付きがよく服越しにも体格の良さがわかる。
「いってきます」
 彼は、こちらを振り向かないままそう告げた。
「……うん」
 私が頷くと、彼は玄関の扉を閉めて、行ってしまった。
 結局、真皓はこれ以降ただいまと言って玄関に戻ってくることは無かった。何度電話を掛けても、両親が探しまわっても、連絡はおろか高校にも登校していない事がわかり、やがて失踪事件として警察の管轄となった。

 真皓は、道の真中で消えた。

   ―――――

 全てを話し終えると、モッズコートの彼は小さな拍手をする。素晴らしかったと言う彼の顔は満足気だった。
 どうしてこんな話をすることになったのかは分からない。けど、多分必要だと感じたからしたのだろう。青年の「僕になってはいけない」という意味を知りたかったのもあった。この出来事の中で、私が本当に彼になる可能性があるのか判断して欲しかったのかもしれない。
「君は真皓くんの事が好きだったんだね」
 その言葉に、少し顔が熱くなった。
「でも今の話で分かった。君と僕は似ていただけだ」
「そっか」
 彼の言葉に、少しだけ安堵している自分がいた。
「真崎葵に会ってくるんだろう? 行ってくるといい」
 彼はそう言って背を向けた。窓越しに差し込む月のひかりを浴びた彼の後ろ姿は、儚げで、抱きしめたくなる背中をしていた。でも多分その役目は私ではない。
「ねえ、貴方の名前って……」
 私の言葉に彼は振り向くと、笑っているような、泣いているような、そんな判別しにくい表情を浮かべる。
 それ以上先は言うべきじゃないと思った。きっとそれは事実なのだろうけど、彼に確認すべきことではない。
 私は踵を返すと踊り場へと走り出す。

「その化粧、僕は好きだよ。特に目元がね」

 振り帰ると、彼の姿はもう無かった。月夜に照らされた廊下が続くだけだ。
 自分の顔に手を触れる。ファウンデーションのざらりとした感触があった。
 窓に映る自分をじっと見つめて、彼女に向かって私はにこりと笑いかけてみた。映る彼女も私に笑い返してくれる。薄く塗られたチークと、紅色をした唇がきゅっと上がる。
 大丈夫、今の私なら大丈夫。
 窓から目を離し、踊り場へと向かうと、階段の先を見つめる。切れかけた蛍光灯がちらちらと光っている。下校した道の街灯も、確かこんなふうになっていたなあと思いながら、私は一度深く深呼吸して、一段目に足を掛けた。
 その時、甲高い悲鳴が聞こえた。
 階段の先からだ。私は一段飛ばしで階段を駆け上がる。手すりを掴んで身体を引っ張りあげるように力を込めて二階、三階と上がっていく。流石に息が切れて途中の踊り場で私は立ち止まってしまう。荒い呼吸をどうにか整えようと背中を丸めて身体を揺らす。
――そういえば、あの声って。
 突然脳裏に若苗萌黄の顔が浮かぶ。もし悲鳴を上げたのが彼女だとしたら、藤紅淡音の件も真崎先生と関連していたことになる。
 あの先で、何かが起こっている。階段の先の、屋上へと繋がる扉を見上げ、私は一度深く呼吸をすると再び階段を駆け上がる。
 重たく佇む扉のノブに手を掛け、私は全身を使ってその扉を押し込んだ。錆びついた蝶番が呻くように軋む。
 冷たい風が吹き込んでくる。私は突風じみた風に目を細めながら屋上に飛び出した。
 
「今日はお客さんが多いのね」
 それは、私の想像していた光景とは少し違っていた。
 若苗萌黄が、地面に呑み込まれている。
 まるで液体のように波打ち波紋を起こしながら、コンクリートの床に彼女が消えていく。
 そんな若苗萌黄を見て、向かいに立つ少女は腕を組んだまま笑っていた。真崎葵は萌黄を気に掛けながらも、彼女からは決して視線を外さない。
 少女は風で乱れた髪を掻き上げると、にやりと私に笑みを向ける。
「ああ、叶わないものにしがみ付いてる人ってほんと素敵……こういうのって儚いって言うのよね。真っ黒くて甘くて、それでいて胸が苦しくなるくらい濃厚で……とても美味しそう」
「藤紅、淡音……」
 真崎葵の言葉に、私は目を見開く。
 あれが、藤紅淡音? 
 真皓と同じ被害にあったとばかり思っていた。
 少女は真崎先生に呼ばれるととても嬉そうに目を細め、顔を傾いでみせる。
「君は、咲村朱色さんかな」
 私が頷くと、彼はどこか安心したようだった。
「君とは一度深く話をしておきたいと思ったんだが、どうにもそんな時間は無さそうだね」
 なんだ、一体何が起こっているのか。
 私の描いていた真相と、何もかもが違っている。
 何故藤紅淡音が居るのか。
 何故真崎葵の方が襲われているのか。
「みどり、彼女のもとへ行ってくれ」
 傍でじっと藤紅淡音を見つめていた少女は、真崎葵の顔をじっと見つめると、小さく頷いた。
 次の瞬間、まるで若苗萌黄の消えていった波紋の中に飛び込むと、ずぶずぶと沈み込んで消えてしまった。 
「何、これ……?」
 非現実的な出来事に思考がついていけない。
 確かに私も同じ目にも遭ったけれど、こうして客観的に見てしまうとやはりどうにも信じ難い光景だった。
「せん、せい……」
 私の言葉に、真崎先生は頷き、そして、口を開いた。
「そうだよ、みどりは、君の言うねむりひめだ」
 真皓、真皓は一体今どこにいるのだろう。
 私は右手をぎゅっと握り締めると、胸に当てる。あの時衝動的に弟を殴ったこの手に、まだ彼の熱が残っているような気がする。
 モッズコートの青年。
 笑う淡音。
 消えた萌黄
 ねむりひめと真崎先生。
 どうして、真皓だけここにいないんだろう。
 私は、真皓に会いたいだけなのに……。