Neetel Inside 文芸新都
表紙

ねむりひめがさめるまで
【五】真崎葵/レイニーブルー

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   一

 呼吸をする度に胸が痛んだ。
 身体は緊張したままで、何もかもが麻痺してしまったみたいに鈍く感じられる。一体私はどうなってしまったのか。
 この数日間が瞼の裏を走馬灯のように横切っていく。
 あれは、果たして現実だったのか。いや、むしろ今ようやく「帰ってこれた」のではないか。水槽をぶちまけたあの日から今日まで、私は夢を見ていたのかもしれない。
 みどりがあんなことをするなんて。あんな……あんな「奇怪なこと」を。
「あおい、どうしたの?」
 みどりはしゃがみ込む私を覗きこみ、不思議そうに首を傾げた。少し大きめのオーバーオールを着た、丸い目のあどけない顔をした幼い少女。
「だいじょうぶ?」
 伸ばされた手を、反射的に私は握り締め、強引に引き寄せ抱きしめた。
 柔らかく壊れてしまいそうな程華奢で、未発達な身体が軋むのが分かった。流れる髪から香るシャンプーの匂いも、服の洗剤の匂いも、全て私の家のもので、出会ってから一緒だった事を示している。
 そう思えば思うほど、彼女を抱き締める腕に力が篭った。
「いたい」
 呻くみどりに構わず強く抱き続ける。少しだけ抵抗して、けれど敵わないと知ると諦めたようにみどりは、私の身体に腕を回した。
 最早、感触を証拠にするしか術が無かった。「みどり」を「みどり」と認識するために、この手で、頬で、胸で、全身で触れ続けなくては……。
「かなしいの?」
 腕の中でみどりは囁く。
 私は頷いた。
「なきそうなの?」
「泣きそうに見えるかい?」
 みどりはじっと見つめてから、私の胸に顔を強く押し付ける。そんな彼女の艶のある髪を何度も撫でる。
「泣くことが出来たら、もっと楽なんだろう。だがそれがうまくできなくてね」
 私は、涙をどこに落としてきてしまったのだろう。葬式か、それとも妻が死ぬ少し前か。何にせよ、今更取りに戻れる場所ではないから、きっとこれからも私はこの目で現実を見つめ続けるしかないのだろう。
「さっきのは、だめなことだった?」
 みどりは尋ねる。ああ、と私は言う。
「おなかがすいても?」
「お腹が空いてもだ」
「きになっても?」
「気になってもいけない」
「なぜ?」
 そう言われて、少しだけ考えてから、改めて胸の中の彼女に言った。
「お前は、『みどり』だからだ」
「みどりだと、いけないことだったの?」
「ああ、ずっとみどりでいたかったら、我慢し続けなくちゃならない」
「あれをしたら、わたしはみどりじゃなくなっちゃうの?」
「そうだよ、お前はみどりじゃなくなる」
「じゃあ、なんになるの?」
 問答は、そこで止まった。私が止めた。
 暫く黙り込み、どうして、と問い続けるみどりの頭に顔を埋めると、目を閉じる。ああ、碧そっくりの髪だ。何度も触れたあの感触とよく似ている。
「なんになるの?」
 埋めていた頭から顔を上げ、胸に飛びついたままのみどりと引き剥がすと、彼女の目を見つめ、それから一呼吸置いて口を開く。
「……なんでもなくなってしまう」
 漸く出てきた言葉は、酷く弱いものだった。
 だが、みどりにだけは有効だった。いや、「みどり」だからこそ通用する言葉なのだろう。
「そうすると、どうなるの?」
 みどりは首を振り、再び私の身体に両手を回すとシャツをぎゅっと強く握り締めた。表情は見えないけれど、多分、彼女なりにみどりでなくなる意味を考えているのだろう。
「もう珈琲が飲めなくなる」
「それはやだ」
「目玉焼きも食べられない」
「やだ」
「なら、我慢できるようにしなさい」
 私の言葉に、みどりは数秒ほど沈黙し、やがて腕の中でそっと頷く。
「わかった。もう【たべない】」
「そう、それでいい。もう【人をたべようと】してはいけないよ、いいね?」
「うん」
 素直に頷くみどりの声で、身体中の緊張がすっと解けていくのが分かった。冷え切っていた全身に熱い血が通って、自由が戻っていく。私は深く熱い吐息を腹の底からおもいきり吐き出すと、みどりから離れた。
 みどりは顔を埋めたまま動かない。どうやら私の緊張に少なからず彼女も動揺を覚えていたらしい。
 みどりの頭を撫でつつ、私は周囲を見渡した。
 商店街を少し外れた舗装のされていない裏路地に私達はいた。細い路地の先で商店街の騒がしい光と、車道を横切るライトが見える。この先の道を歩けば雪浪高校に繋がっている。
 私達は高校から帰路に着くその途中で、予想だにしない出来事に遭遇してしまった。みどりがみどりでなくなる光景を……。
 夢だったと思いたいが、紛れもなくそれは現実で、一人の少女を危うく殺しかけたというのも事実であった。
 ふと、空を見上げてみた。
 眩く輝く月が、水面に映った夜空みたいに揺れている。近くを流れる雲も同じだ。そのどれもが揺れ、時折雫を一滴垂らしたみたいに波紋を広げる。

――まるで、水中にいるみたいだ。

 私は、もしかしたら今溺れているのかもしれないと、腕の中のみどりを見ながら思った。深く息を吐き出したら、もしかしたら他人からは泡でも吐いているみたいに見えているのではないだろうか。
 水面に映る夜空の景色に暫く見惚れた後、私は再びみどりの頭に顔を埋めると、目を閉じた。


「今日は月が綺麗だね」
 突然聞こえた声に目を開くと、揺れる月を背に一人の青年が立っていた。
 ファーの付いたフードを深く被り、コートのポケットに両手を突っ込んで、右に重心を乗せて少し傾いた立ち方をしている。
「溺れてしまいそうなほど、良い夜だ」
「君は……誰だ」
 フードの影から覗く口元が笑みを作った。
「安心してほしい。何かをしようってわけじゃないから」
「じゃあ、どうしてここに?」
「簡単に言えば、貴方に興味が湧いた」
 興味、という言葉に私は顔を顰める。
 胸元のみどりにそっと目を向けると、彼女はじっとモッズコートの青年の姿を見つめ、それから再び私に抱きついた。
「特に何もするつもりは無いけど、まあ当然か」
「当然?」
「状況や環境は違えど、僕は君らと同じ立場にある。そう、さっきのような事が起こりうる立場に」
 生唾を飲む音が大きく響いた。解けた筈の緊張が再びじわりじわりと全身を支配していく。
「ねむりひめ、って言葉を知っているかな?」
――ねむりひめ?
 私の顔を見て知らない事を察知したのか、彼は肩を竦める。
「悲劇を好物とし、誰かの願いを反映させて虜にする。そうして自らの肥やしにすることでより美しく、魅力的な存在へと変化していくものの通称が、ねむりひめ」
「自らの、肥やしに?」
「さっきの光景、貴方にはどう見えた?」
 そう問いかけられて、私は下唇を強く噛み締める。

――一人の女子高生が、硬い筈のコンクリートに飲み込まれていく姿と、それを嬉そうに眺め舌舐めずる【みどり】。

 あれは、間違いなくみどりがやったものだ。その後の問答でも彼女は「たべる」という言葉を利用していた。
「つまり、みどりは……」
 彼は頷いた。みどりは未だに動く気配が無い。
「これはきっと、貴方にとっては残酷な真実なのだろうけど、知っておいて欲しい」
 青年はみどりを指差す。フードの奥の表情は分からないが、少なくとも笑っている様子は無かった。
「それの本質は決して変わらない。空腹に耐えかねた結果は、恐らく……」
「恐らく?」
 言葉を繰り返す私の頭は何故だか冷静で、緊張に固まる身体とは裏腹に柔軟に彼の言葉を理解できていた。だからこそ、その先も容易に予測ができた。
「こんな状況な時に限って冷静な自分の頭が嫌だな」
「だが無知と理解はまるで違う。貴方はちゃんと理解した上で選択ができる人だ」
 彼は一呼吸置くと、再び口を開く。

「このままいけば、貴方に待つ結末は【肥やし】だ」

 不意に、脳裏をみどりとの日々が駆け巡る。深く、深く私の中に刻まれたその記憶達は、恐らく妻が、真崎碧が死んだ先に残った日常だった。
 もう失いたくないと思うほど、重要な――


       

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