Neetel Inside 文芸新都
表紙

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   三

――願望を映す魚がいる。
 桃村継彦は開口一番そう告げた。
 彼と会話するのはこれで二度目だが、彼はやってきた私を見て何も言わず奥の間に通してくれた。
 私は彼の饗しを受けながら、昨日の魚の正体を教えてほしいと正直に尋ねた。
 彼は知っている限りを話してくれたが、その結果わかったことは「望みを映しだしてくれる魚」であるということだった。俄には信じ難いが、みどりという身元不明の少女が突然現れた事を考えると、その線が一番妥当だ。
「少なくとも私は出会ったことがない。知っているのは尾ヒレが異様に赤くて長いことくらいで、何も詳しい事は言えないよ」
「まるで、都市伝説ですね」
 桃村は頷く。
「私もそう思っていた。まさか私ですら出会ったことのない魚をよく手に入れたものだ」
「私は、あの魚を持ち続けるべきでしょうか?」
 出された饅頭とお茶を眺めながら、私は不安を吐露する。桃村でさえ詳細を知らない魚だ。私個人が手にして良いものなのかすら分からない。
「残念ながら、私にはどうにも判断できんよ」
 桃村は店内の方を見つめ、一口お茶を啜ってから深く息を吐き出す。
「ただ、折角の願望を手放すのは勿体無いと思うよ。こうして孤独になった今、改めて傍にいてくれる存在が現れたら、私は間違いなくそれに依存してしまうだろう」
「依存、ですか」
「全く、私が拾えたら良かったのに」
 彼は肩を竦めて笑う。
「それで、映し出されたのは何だった」
「少女、でした。幼くて、何も知らない」
「奥さんではなかったのか」
「妻は死にました。もう会うことも出来ない存在ということくらい分かっていますから」
「そうか、そうか」
 桃村は何度も頷く。その反応がなんだか不快に思えて、私は唇を噛んだ。
「君がどういった風にその魚を扱うのかはわからないし、私も何も言えない。だが、君の納得する結果をよく考えてみるといい。捨てても良いし、置いておくのも良い。その選択に誰かが介入するべきではないからね」
 それだけ言うと、彼は階段を上がっていってしまった。踏む度にぎしりと軋む音がする。
 彼は二階に上がったまま、それっきり戻っては来なかった。
 私は一人残された居間で饅頭とお茶を平らげ、階段の上に簡単な挨拶の声をかけ、店を出た。
 遠くからチャイムの音がする。
 見ると、色彩豊かな校舎が見えた。遠くからでも活気づいて見える。雪浪通りと交互に見比べても、その空気はまるで違う。
 この商店街は冷たい色をしている。
 そろそろ、学校にも戻らなくてはいけないと、私は校舎の方を眺め思った。このまま冷たいこちら側に居続けたら、凍えきってしまう気がする。
 私は踵を返し、校舎に背を向けた。途中コロッケのいい匂いがして、みどりに買っていこうか迷ったが、結局帰宅を選んだ。

 家に戻るまでの間、みどりをどうするべきかひたすらに悩んだ。
 桃村の言葉が事実であるとして、果たして彼女は「戻る」という選択は可能なのだろうか。もしそれが不可能であったら、私はこのまま一人の少女を捨てる事になる。
 何故私は子供なんて願望をいだいてしまったのだろう。何かもっと、手放しやすいものなら良かったのに。
 いや、手放しにくいからこそ願望なのか。
 帰宅すると彼女はテレビの前に体操座りでいた。おかえり、と口にしつつ目だけは液晶に釘付けのままだった。
 何かを見たり聞いたり知ることに興味があるらしく、ドラマよりもニュースの方が食いつきが良かった辺り、変わった子供ではあるのだろう。
「ねえ、これはなに」
 気になる事が見つかるとみどりはすぐにでも私に尋ねた。まるで知らないことを無くしたいとでも言うかのように知識に貪欲だった。
「君は知ることが好きなのかい?」
 ふと説明の途中で私が問いかけてみると、みどりは戸惑い、首を傾げてみせた。どうやら特に意図しているわけではないらしい。
「なにもないとね、すごくふあんになる」
「不安?」
「わたしがちゃんといるのかわからない」
 テレビに目を向けたままそう言う少女に、私は何も言わず隣に座る。
 彼女が求めているのは知識ではないのかもしれない。彼女は私の前に現れてから何かにつけて尋ねて、手探りで自分の知らない知識を。珈琲や紅茶すら知らない大きな赤子のような彼女は、必死に空っぽの頭を埋めようと必死だったのだろう。
「あおいはちゃんといるって言ってくれたね。あれはどうしてそう思ったの?」
 隣に座るみどりは、抱えていた両膝に顔を埋めると、うーん、と小さく呻いた。
「わたしがね、あおいをちゃんとしってるから。ちゃんと見えてるし触れるから、いるんだよって言ったの」
「そうか」
 ただ一言だけ口にすると、私は少しだけ彼女との距離を縮め、頭に手を置いた。滑らかで、指を入れてもさらりと抜けていく綺麗な髪に何度も触れ、それから頬に手をやる。みどりは小さく震えたが、やがて力を抜くと私に身体を寄せ、目を閉じた。
「触れるし、見えているよ」
「あおいも、さわれるしみえてる」
「君の言う証拠がそれなら、君もこれで証明された」
「わたしは、いるってこと?」
 頷くと、みどりは小さな頭を私の身体に預けた。小さな身体の中で、この少女は自分を探している。知らないことだらけで、恐らく何者かさえ曖昧なままなのだろう。それでも必死で自分がみどりである証拠を探している。
「納得できないなら、納得できる理由をゆっくり探せばいいさ」
 そう言って私はみどりから離れる。
 単なる気紛れだ。色々な物事がハッキリと分からないままで見捨てるのも具合が悪い。
 それに、私の家に残っているのは私だけだ。碧が居なくなって、代わりにみどりが入ってきたようなもので、これまでの当たり前に戻るだけだ。
「ねえ、あおい」
 みどりは袖を軽く引っ張る。
「さっきのたべたい」
「さっきの?」
 キッチンを指さす彼女を見て、ああ、トーストと珈琲のことかと理解した。
 壁にかかった時計は六時を示している。随分と時間が経っている。今から食材を買うのも億劫だし、できれば気分転換に外の空気も吸いたいと思っていた。
「夕飯は外で食べようか」
「ゆうはん?」
「この時間に食べる事を夕飯と言うんだ。朝は朝食、昼は昼食」
「ちょうしょく、ちゅうしょく、ゆうしょく」
「よく言えたね」
 まるでサイズの合わない服をどうにか短く仕立ててみどりに着せ、外に出る。ふとあの魚を拾った向かいに目をやると、マンションは逆行を浴びて俯いたみたいに薄暗くなっていた。
 昨日、あの場所で尾ヒレの長い魚を見つけ、そして今日はこうして突然現れたみどりの世話をしている。
 妻がいなくなってから、どうもこれまで送っていた日常の方がもしかしたら幻だったのかもしれないと感じてしまう。私を軸にしてぐるりと百八十度回ってしまったみたいに、きっかけ一つで何もかもが変わっていく。私の手を握るみどりも、そのきっかけの一つだ。
「こーひーのめる?」
「ああ、飲めるよ」
「とーすとも?」
「夜はもう少しちゃんとしたものを食べよう」
「とーすとはちゃんとしたものじゃないの?」
 どうにもうまく説明できないものは、黙ってやり過ごすことにした。みどりもどうやら尋ねても有益な情報が出ないと理解したのか―知っても知らなくても特に問題ないと判断したのかもしれない―それ以上訊こうとはしなかった。
 
 雪浪通りの奥に喫茶店が一つだけある。
 妻ともよく来た場所で、手先の器用だった調理師が親から店を継いだらしく、大人しい外見とは裏腹にそれなりの料理が出てくるのでよく出向いていた。
 何も知らないみどりの質問攻めに遭うのを避けたくて、私はハンバーグとライスを二人分注文すると、珈琲を先に出してもらい、向かいのみどりの前に置いてもらう。
 彼女はすっかり珈琲を気に入ったようで、興味深くカップを観察してからごくごくと飲み始めた。喫茶店だけあって珈琲の出来も良いらしく、家の物よりも好きだと喜んでいた。あまりにも嬉そうに飲むので私も一口もらったが、何がどう違うのか分からず、結局苦味と酸味にやられて渋い顔をするのみで終わった。
 閑古鳥が鳴いている商店街の一角に店を構えているだけあって、客も全く居ない。カウンター席で知人と思しき男性達が酒を飲み交わし、店員を交えて談笑しているのが見える。恐らく今いる客のほとんどはそういう関係の人なのだろう。もしかしたら私のような知らない顔の方が珍しく見えるのかもしれない。
「お待たせしました」
 店主直々に運んできたハンバーグは、よく熱せられたプレートの上でじゅうじゅうと音を立てていた。よく焼けた肉の香ばしい香りに空腹感を煽られながら、私はプレートを受け取る。店主は何も言わずにお辞儀をしてテーブルの前から立ち去り、カウンターの談笑に戻っていった。
「あつそう」
 振り向くとみどりはナイフとフォークの持ち方に苦戦していた。私は嘆息して、右手にナイフ、左手にフォークを手にし、ふっくらと丸い肉の上にナイフを突き立てて丁寧に切り分けていく。突き立てた先から肉汁が溢れでて、プレートに達して蒸発すると、食欲を唆る音と匂いが広がった。
 切り分ける動作をみどりはじっくり観察した後、ぎこちないながらも見よう見まねで解体した。
「いただきます」
 一語一語のはっきりしたみどりの声に、隣のテーブルの男性がちらりとこちらを見て微笑む。教育の行き届いた子供と父親と思われているのかもしれない。いや、事情を知らなければそう見えるに決っている。
「おいしい」
 切り分けたハンバーグを咀嚼して飲み込むと、みどりは驚いた顔でプレートを覗き込んだ。その一挙一動がなんだか面白くて、思わず笑みが零れた。
「お気に入りの場所でね、私も碧もよくここで食べていたんだ」
「ふうん、碧もすきだったんだ」
「そうだよ」
「碧は、いまどこにいるの?」
 知りたがりの彼女の事だから、いずれは来るだろうと思っていた。
 私は切り分けた肉を口にすると、水で流し込み、それから言った。
「碧はね、もういないんだ」
「いない?」
「会えないってこと」
「あおいと?」
 一瞬、息を飲んだ自分がいた。一呼吸入れてから、そっと頷く。
「わたしもあえない?」
「そう、誰も会えない」
 事実を述べただけなのに、言葉を口にするのに随分とかかった。まだ躊躇ってしまうのか、私は。

 食事を終えると、私達は帰路についた。
 通りは閑散としていて、シャッターで仕切られた道はどこか硬質的で重たく冷たい。
 来訪者を暖かく迎えていた筈のこの場所が、気付けば誰もが避ける畏怖の対象へと変化してしまった事を、この通りに済む住人達はどう思っているのだろう。ただ朽ちていくのを見届けるだけの生活は、どのようなものなのだろう。
 雪浪通りは、やがて死ぬ患者と似ているな、と私は思う。
 いずれ去ることが分かっていても、人はそれを伝える残酷さもなく、ただ眺めることしか出来ない。助かるとも、諦めようとも言えないまま、ただ傍らにいてやるだけ。
  それは幸福なのかもしれないが、終わりが来ることは確かで、残された方にとっては一番辛い結末だ。
「あおい」
 隣の少女に呼ばれ、私はみどりを見下ろす。
 普段と同じ何を考えているのか分からない無表情をこちらに向け、手を差し出している。
「なんで?」
 尋ねた言葉に、みどりは暫く宙を眺めてから再び視線を戻し、それから一言口にした。
「さみしそう」
 簡潔でとても分り易い感想だ。
「そうか、君にはそう見えたんだね」
 そう言ってみどりの手を握り締めた。滑らかで、小さいけれどじわりと奥底から熱を感じる手だ。私は思わず強く握りしめてしまう。
 これが、人ではないとはとてもじゃないが思えない。
「君は、どうしたい?」
「どうしたい?」みどりは繰り返す。
「帰るところも無いのなら、うちにいるかい? あの家はどうも一人じゃ大きすぎてね」
 みどりは暫く私のことを見つめていた。言葉の意図を知識の足りない頭でどうにか飲み込もうとしているようだ。
 多分、この誘いは気紛れだ。彼女の正体は未だに分かっていないけれど、それでもあの部屋は二人が丁度いい。
「あおいといっしょなら、なんでもいい」
 暫く考えた結果生み出された答えは、とても単純で、その単純さが私の胸の隙間を埋めてくれた。
「じゃあ決まりだ。帰ろう、うちに」
 みどりは繋いでいる手に力を込めてきた。
 幼くて弱い力だ。優しく握り返すと、嬉そうに彼女の小さな手が動いた。
「水槽、あのままは勿体無いね」
「わたしのいたところ?」
「そう、君の居たところ。折角だから魚を何匹か飼おうか」
「かう?」
「そう、育てるんだ。餌をやって、水の手入れをして、住み心地の良い環境を作る」
「そうするとしあわせ?」
「ああ、幸せだね。魚は住みやすいし、私達も見て楽しめる」
「じゃあそだてる。しあわせにする」
 何度も飛び跳ねながらみどりは張り切った声でそう言った。
 その姿を見て、もし妻と子供ができたらこんな風に会話をしていたのだろうか、とふと思う。左に私がいて、右に妻がいて、息子か娘か、二人の間に生まれた子供が私達に今度はどこに行きたいとか、夕飯はあれがいいとか、今日学校であったこととか、何気ない日常を報告していく。
 肋の隙間を風が通る音がして、私は身震いをした。
 これ以上は考えないでおこう。その夢は叶うことがない。
 私は右手で、みどりは左手で手を繋ぎ、たった二人で雪浪通りを歩く。
 彼女の右手を握ってくれる相手はもうどこにもいない。




       

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