Neetel Inside 文芸新都
表紙

ねむりひめがさめるまで
【一】真崎葵の日常

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   一

「私が居なくなったら、まず新しい相手を見つけてくださいね」

 遺された言葉は、それだけだった。
 ベッドの上で微笑む彼女の真っ白い肌が、窓越しの光を受けてとても輝いて見えた。
 いくつもの薬物が投与され、副作用で洗面器にげえげえと吐き散らし、痛みによる睡眠不足で隈のできた目元に、肉の削げ落ちた頬。寝間着から覗く肉体は骨張り、果物すら喉を通らず点滴生活となった結果が、腕に痕となって残る体なのに、私には彼女がとても美しく見えて仕方がなかった。
 そんな、心身ともに病に侵されきった女性が口に残した言葉が、それだった。
 彼女は確かに私にそう言って、骨と皮だけの枯れ木みたいな細い腕を私に伸ばすと、微笑んだのだった。
 彼女の手を取って、深く頷く私の姿を見て、彼女はよかったと笑った。
 もっと、もっと何か無かったのだろうか。
 忘れないでいて欲しいとか、いつまでも一緒にいてほしかったとか。ずっと愛しているだとか。そういった現世に残るような言葉を、どうして口にしようとしないのか。
 頷きながら、そう叫びたくて堪らない自分がいた。
 彼女は手を私の胸に押し当てると、掌に力を込め、思い切り私を押した。
 その力強さに驚いて私は一歩だけ退いてしまった。
 退いてしまった足に目をやり、それから再び彼女の方に視線を戻すと、私はああ、と吐息のように呻き声を漏らした。
 ベッドの片隅でうつ伏せに倒れ、私を押した手が、だらりと外に放り出されているのを見て、私は彼女がどうなったのか悟った。
 彼女は、まるでこの部屋の一部になってしまったようだった。そう、まるで絵画のように、その光景は、完成されていた。
 布団に埋まる彼女の顔はとても安らかで、投げ出された細い腕と、艶のある黒髪が四方に乱れ流れている。
 余りにも、穏やか過ぎはしないだろうか。
 二度と覚ますことのない眠りに彼女がついたにもかかわらず、私はその最期の姿に、しばらく見とれていた。
 少しして、病室の扉が乱暴に開いた。次々と白衣の男女が雪崩れ込んでくる。
 彼らは懸命に彼女に声をかけるが反応はない。
 彼らがどうにかして彼女の目を覚まさせようとしているのは、理解していた。手を尽くしてくれることに何にも得難いほどの感動と、感謝も感じている。ここまで彼女が永らえてきたのも、彼らのお陰だということも忘れてはいない。
 でも、もういいんだ。
 もう、眠らせてやって欲しい。
 止めてやってくれないか。
 身体の奥底からふつふつと熱が湧いてくる。真っ白で、絵のように見えていた景色がだんだんはっきりとしてきて、それまで遠くの方で鳴っていた彼らの言葉が私に歩み寄り、いたずらに微笑むのだ。
――緊急――
 その幾つかの言葉が白衣の口から出てきた瞬間、私は弾かれたように動き出し彼に飛びかかっていた。それまで呆けていた男が突然の状況に周囲は騒然とし、混乱した。
 ここから先はよく覚えていない。
 興奮状態に陥った私は、何かを打たれ昏倒するまで一人の医師にしがみついて、そして――
 ただ、ひたすらに彼女の死を願っていたらしい。
 眠らせてやろう。
 綺麗なままで逝かせてやってくれ。
 どうしてそんな行動に走ったのか、私にもよく分からない。
 だが、私は無意識に出たその言葉を否定するつもりはなかった。
 妻は、真崎碧はもう、眠りたがっていたのだから。

   ・

 目が覚めると、妻の病室と同じ真っ白な天井が目の前に広がっていた。正面の壁に窓が一つ。照明は落とされていて、窓から差し込む月の光だけが部屋を照らしていた。ベッドの脇には棚があって、中央のくり抜かれた部分にプリペイド式の小さなテレビがはめ込まれてあった。
 病室だということは、すぐに理解できた。
 私はベッドから起き上がって、揃えられたスリッパを履いて立ち上がると、窓の外を覗き込むように見た。下に広がる駐車場はもぬけの殻だった。向かいの病棟の灯りもほとんど消え、月光と、非常灯と防災ランプの光だけが暗い廊下を不気味に照らしている。
 幼い頃恐怖心を覚えた夜の光景も、今となってはただの薄暗い空間だ。服や荷物はそのままであることを確認すると、私は何度か身体を捻り、部屋を出た。
 長く続く廊下の奥にはナースステーションが見えた。私はそこで一人帳簿に向かう女性にそっと声をかけてみる。
 女性は私の顔を見てすぐに状況を察したようで、道の案内を口頭で私に伝えてくれた後、深々とお辞儀をした。随分とそのお辞儀は手馴れていて、彼女がどれだけその不幸を目の当たりにしてきたのかを理解することができた。
 不思議と、何の感情も沸かなかった。
 あるのは、何かが欠けている気持ち。満たされない感覚。真崎葵という存在を構成していた一部だけがそっくり削り落とされてしまったような、虚無感だけだった。
 等間隔に取り付けられた足元の非常灯がリノリウムの床に反射して、時折緑と赤の照明が姿を見せる。
まるで異世界にでも誘われているような感覚を覚えながら、私は伝えられた通りの道順を歩いて行く。果たしてこのような時間に院内を歩きまわっても良いのだろうかと疑問を覚えたが、私の姿を見て、引き止めるよりも見せたほうがスムーズに事が進むだろう考えたのだろう。
 突き当りを何度か曲がって、階段を下りて、照明の降りた病室を幾つも通り過ぎていった先に、その部屋はあった。扉越しに漏れる蛍光灯の明かりが不気味に広がっている。霊安室と書かれたその扉のノブに手を掛けると、私は深く呼吸を一つして、そっと開けた。
 線香の匂いに満ちた部屋の中央に、彼女は横たわっていた。
 無機質なベッドの上に寝かされ、顔と身体にそれぞれ布を被せられ、頭上には焼香が置かれただけで、他には何も無い部屋だ。
 足音も立てずにそっと彼女に歩み寄ると、私は顔に掛かっていた布を両手で持ち上げる。生気の無い、青と白の混った妻の寝顔があった。まるで眠っているようで、少し肩を揺さぶれば目を覚ましそうな程自然な寝顔だった。
私はその頬を撫でる。冷たくて硬い感触が、なんだか私を拒絶しているように感じられ、あの時私を拒絶した彼女の手の感触を思い出した。私はあの手の力に耐え切れずに後退してしまった。
 彼女なりの別れ方だったのだろう。
 闘病生活の中で、自分の時間を止めたいと願い、それは果たされた。
 私は、妻を諦めるべきだ。
 愛しているからこそ、彼女の意図を汲み取らなくてはいけない。
 だからこそ延命治療を続ける医師にしがみついたのだろう?
 頭では着実に彼女の死に馴染み始めている。なのに、胸の奥のほうでどうしてもそれを認めようとできない。目の前の彼女の姿を見ても、だ。
 私は髪を梳いて、そこには彼女がまだ生きていた頃の残り香が確かにあって、顔を近づけて嗅いでみると、酷く安心した。
 背後で扉の開く音がして、彼女に触れていた手をそっと離すと後ろを向く。あの時私が襲いかかった医師だった。疲労の積もった重たい瞼を必死に堪え、光を映さないその瞳に私を映している。今にも倒れそうな様子の彼は、無言のまま横たわる妻の傍まで歩み寄ると、私が外した布を再び彼女の顔に掛け、乱れた長髪をそっと枕元に戻した。
「少し、お話しませんか?」
 私が頷くと、白衣の彼は安堵したようで、疲れた顔に笑みを浮かべてみせた。

   ・

 院内は何もかもが静止しているようだった。
窓越しに覗く下弦月に厚い雲が覆い被さって中庭に影を落とす。赤と緑と、足元に灯る光源に照らされながら、私は医師の白く大きな背中を追いかける。
 耳に掛からないくらい黒い短髪、疲労で血色は悪く、無精髭の残った眠たそうな顔はどこか不機嫌そうな印象を抱いてしまう。だがそれを差し引いても十分に整った顔立ちをしていた。恐らく三十そこらだろう。少なくとも私より三つ四つは歳を喰っていると思う。
 暫く歩き続けると視界が一気に開けた。深緑のソファが幾つも並んだそこはラウンジだった。
私は彼に勧められるまま手前のソファに腰を下ろす。医師は大人しく座る私を見てから、ラウンジの奥へと消えていってしまった。
三人用の、少し深く沈むソファを何度か手で押してみる。ぎゅっぎゅっと革の軋む音が暗がりに小さく響いた。何度かここに妻と座ったことがある。あの頃は、彼女も血色が良かった。そんな心配することでもないのにと微笑んでいた姿を、今でもはっきりと思い出せる。
 暫くすると白衣は両手に缶コーヒーを持って戻ってきた。彼は隣に座り、手にしていたコーヒーを私に差し出す。ブラックと、微糖。私は微糖の方を手に取り軽く頭を下げ、コーヒーを口にした。ここ数日あまり物を食べた覚えが無かったからか、久々に感じる味覚は、とても苦くて、香ばしかった。
「もしかして珈琲は苦手でしたか」
 隣の彼は私の顔を覗きこんでそう尋ねる。どうやら表情に出ていたらしい。
「どうにも苦いのは得意ではなくて……」
「成程、コーヒーを選ぶべきではなかったですね」
「いや、でも頂きますよ」
 彼は私を見て微笑むとごくん、と喉を大きく鳴らす。たった二人だけのラウンジに大きく響いたそれは、何故か私の胸にも波紋を生んだ。
「失礼ですが、奥様とはどのくらい?」
 彼の問いかけに、私は遠くを見つめながら、思い出すように一つ一つを辿っていく。
「……もう、十五、六年は経っていたでしょうね。中学か、高校か、その辺りに気付いたら私の後ろをちょこちょことついて来ていましたから」
「それだけ長くお付き合いしていたのですね。素敵な事だと思います」
 彼の表情を横目に盗み見て、その素直な笑顔に、少しだけ救われた気がした。
「本当に申し訳ありませんでした」
 何か言おうと考えていると、彼はそんなことを口にした。彼の言葉がどうにも呑み込めずにいると、彼は続ける。
「貴方にしがみつかれた時、一瞬ホッとした自分がいたんです。ああ、私はこの患者の命を守り切れなかった口実が出来た、と。可能性の薄い、綱渡りみたいに細い道を選ばずに済むのだと、そう思ってしまった」
「口実?」
「延命することで、彼女は確かに診断よりも二週間は長く生きることができました。でも、現状手を尽くしきっていた。あの時呼ばれた時点で、もう僕達には術はなかったのです。だから、貴方に押し倒された時、開放された気がしてしまった」
 缶を両手で握りしめ、彼は上体を屈めると、呻くように言う。不思議と、その告白を素直に飲み込めた。
 私は俯く彼の背にそっと手を置く。あれほど穏やかな表情で接してくれていたその背は、小刻みに震えていて、私以上に彼女の死に涙を流してくれているのがよく分かった。触れることでその白衣がとても汚れていることを知り、私はそれをなぞるように眺める。
白衣はすっかりよれてしわくちゃになっていて、もう数ヶ月近くアイロンも掛けていないようだ。
 彼は、この場所で必死なのだろう。救えるものと救えないものの責任を背負い、命を繋いでほしいと願う人々の感情を一身に受けて……。
 だからだろうか、私の言葉は、彼の何かを壊してしまったのかもしれない。辞めてほしいという言葉は、彼にとって一番聞きたくなかった言葉であり、選択したくない逃げ道だったのだろう。
 震え続ける彼の背中を擦りながら、私は妻の遺言を思い出す。
「妻にね、新しい相手を作れ、と言われたんですよ」
「新しい相手、ですか?」
「ええ、もう私は長くないからとね。でも、そんな簡単に気持ちを切り替えることができるんでしょうか」
 この問いは、隣の彼に向けられたものではない。私から私への問いかけだ。自分以外に解決できる人間なんていないことは分かっていた。
 彼は暫く手元の空になった缶を弄びながら口を開いたり閉じたりしていた。そんな彼の仕草を眺めながら、返答を黙って待ち続ける。
「……割り切るしか、ないんですよ」
 漸く出てきた彼の言葉には、躊躇いが含まれていた。
「いつか、失った人との記憶は風化していくものです。日常の中で奥さんを思い出す機会も少なくなっていくでしょう。そんな自分に嫌悪感を抱くこともあるかもしれません。でもこれが現実で、失った人は戻ってこないことをはっきりと理解しなくてはいけない」
 暫くして彼は口を噤むと、深々とお辞儀をした。しゃべりすぎたと思ったのだろう。少なくとも、妻を亡くしたばかりの男にするものではないと。
 私は珈琲に口を付ける。黒くて熱い。胸の奥底にまで届きそうな苦味が喉元を通っていくと、一瞬だけ香りが鼻を擽って消え、最後は渋くてべったりとこびりつくような感覚だけが残った。後味の悪さに顔を顰め、私は彼に軽く礼をすると立ち上がり自販機横のごみ箱に缶を放り込んだ。
口直しに水でも飲もうと思い、給水器はないかと周囲を見てみるが、それらしきものは見つからない。頂いた手前別の飲み物を買って戻るのもなんだか悪い。渋味の残る口内で舌を動かしてみるが、結局べったりとこびりついたそれは落ちず、漸く諦めがついた私は再びラウンジへと足を向けた。
 人気の無いラウンジは、奇妙な空間そのものだ。普段人で溢れ返るベンチも、忙しそうに応対している看護師達の姿も、駆け回る児童達の姿もどこにもない。たった一人、蹲る白衣の男だけが座っている。
 彼は、溢れ出る涙と共に小さく嗚咽を漏らしていた。最も辛い筈の私の前では泣かないようにしていたのだろうか。次から次へと出てくるその涙は頬を伝って、拭おうとする両手をすっかり濡らしていた。
 それは、誰の為の涙なのだろうか。
 あれだけ泣きじゃくる彼の姿を見ても、私の胸の内は冷め切ったままだった。あれだけ愛していた筈の妻を亡くしたにも関わらずだ。
 どうしてだろう、何故私は泣けないのだろう。彼があれだけ涙を流せて、どうして私にはできないのだろう。
 次々と生まれる「どうして」を抱えて、私はそこに立ち尽くす。暫く黙って彼の姿を眺めた後、私は踵を返し寝かされていた病室へ戻ろう、と思った。
 夜のラウンジは、普段泣けない人の為にあるのかもしれない。
そう思うと、少しだけ彼が羨ましくなった。
 霊安室に寄ろうかどうかも悩んだのだが、とうとう私は横たわる彼女を見る気になれなかった。
 彼女はもうここに居ない。窮屈なものを脱ぎ捨ててどこかへ去って行ってしまった。
 彼女は今、どこにいるのだろう。どんなところを巡って、何を考えているのだろう。
 偶然でもいいから、会えたら良いのに。自由になれた感想はどうだいなんて事を、少しだけ聞いてみたかった。

       

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