Neetel Inside 文芸新都
表紙

ねむりひめがさめるまで
【六】若苗萌黄/メロウイエロウ

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   一

 淡音を失ったという喪失感と後悔は、日を追う毎に私の中に蓄積されていった。
 自分の本質を唯一見抜き、その上で距離を詰めてきてくれた初めての友人は、それこそ泡のように消えてしまったのだ。
 失踪という事情が発覚すると途端に私の周囲には人だかりが出来た。付き合いがまるで無かった淡音と親しかった私は最も重要な人物として捉えられていた。
 マスコミのインタビューの様子から、校内の人間は淡音との付き合いに対して「萌黄だから仲良くできるのだろう」という見解を見せる者が多く、三日も放っておくとそれは「友人の居ない彼女を救おうとしていた女子高生」にまで底上げされ、称えると同時に同情の目で見られるようになった。普段から絶妙な距離感を保って過ごしていた私の生活は一変し、校内の知名度も上がったせいで、私が一番嫌う地位に気がつけば祭り上げられてしまっていた。
 保健室で咲村さんと茅野先生と保健室で会話したのは私にとってかなり支えになった。
 だが気が楽になると同時に、校内で私に対して反感を覚える人間が出始めた。
 ただの目立ちたがりだの世話焼きだの、若苗萌黄をプレッシャーに感じて不登校になったとまで噂を立てられて、いつの間にか私の周囲を見えない疑惑が取り巻いた。
 会話をしてもどこか同情じみた目をされ、反感を覚えたグループには妙に突っかかられ、同情を恋と勘違いした男子からは呼び出される。
 何故、こんなことになってしまったのだろうか。私は普通が良かっただけだ。そしてその普通を目指すことが一番根気がいると知っているからこそ、必死になって動いてきた。お陰で漸く手に入った安息はどこか遠くへと散ってしまった。
――淡音、貴方はどこにいるの。
 群れる女子達の横を一人抜けて私は校門を出る。そこら中から視線を感じた。あれが失踪者と仲が良かった子らしいとか災難だなあとか。
 聞こえないくらいの大きさで話してくれれば良いのに。私が面を上げて周囲を見回すと、彼らはこちらにぎこちない笑みを浮かべた後、気まずさを覚えてか早々に立ち去ってしまう。同情の先にあるのは孤独であり、形だけの友情は塵に等しい。
 私の作ったハリボテの小屋は、少し風が吹いただけで壊れてしまう脆いものだった。ただそれだけのことだ。

「お嬢ちゃん、何かあったのかい」
 下校中の事だった。
 俯いたまま一人校門を潜り、街灯の並ぶスクール・ゾーンを歩いていると、一人の老人に声を掛けられた。
 黒いニット帽に緑色の分厚い眼鏡。身に着けている作務衣は真赤で、私はその奇抜な服装に思わずたじろいでしまう。
 だが老人はそんな私に構わずにっこりと笑みを浮かべると首を傾いだ。
「良くないことでもあったようだ」
「……わかりますか?」
 老人は頷く。
「つい最近もお嬢ちゃんみたいな悲しい顔をしたのに会ったからねえ」
「私の他……」
 私の中で浮かんだのは咲村朱色の事だった。弟の失踪事件でここ最近よく取り上げられていた子だ。多分学校でも何度かすれ違ったことがあるかもしれない。つり目の、気が強そうな女の子。
 私が思考を巡らせているうちに、老人は踵を返すと商店街へ向けて歩き出す。彼の背中を暫く眺めていると、彼は私に向けて手招きをする。
「お嬢ちゃんこっちおいで。少し茶でも飲もうじゃないか」
 突然の誘いに戸惑いながら、しかし気がつけば老人の隣を私は歩いていた。

 甘い物は好きかな、と聞かれて私は頷く。とっても良いお菓子があるんだと老人、桃村継彦―自宅に招き入れてくれた際にそう名乗ってくれた―は機嫌よく私に言って、傍の棚から大福餅を二つ取り出すと、小皿にそれぞれを乗せて、私の前に置いた。
 それをつついてみると、米粉のざらりとした感触、餅の弾力が感じられた。ぎっしり餡が詰まっていてとても美味しそうだ。
「甘い物は好きかな?」
「大好きです。コーヒーとかもお砂糖とかミルクを入れないと飲めなくて」
「それは良かった。ならたんと食べておくれ。まだまだ沢山あるからね」
 そういって微笑む桃村さんに頷いてから、私は大福餅をつまみ、一口齧った。餡のざらりとした食感と、口の中でむぎゅうと締まる餅の感触、そして丁度いいくらいの甘さに幸福感を感じ、もう一口、もう一口と次々と口にしていく。手にしてみると意外と大きいそれは、私の口が小さいのもあるけれど、五口はかかった。
 食べ終わると桃村さんは淹れたてのお茶を湯のみに注いで私に置いてくれた。透き通った緑色の中で茶渋が舞いながら底へと沈んでく。
 時々息を吹きかけながら冷めるのを待っていると、桃村さんは空の小皿にもう一つ大福餅を載せて笑いかける。
 ふと私は入ってきた方、水槽の並ぶ店内に目を凝らす。
 店内は、薄暗くて、でも不思議と悪い気はしなかった。横に取り付けられたポンプがぶくぶくと泡立ち、じいじいと駆動する音が客のいない店内に寂しげに響いている。
「雪浪生はこの商店街を嫌うからねえ」
 切り出したのは、桃村さんの方だった。私が黙っていると、彼は別に責めるつもりは無いんだと慌てて付け足した。
「君くらいの歳になるとやっぱり現代らしさのある町並みに憧れるだろう。こんな商店街よりも大きなショッピングモールだってある。この商店街もね、昔は学校帰りの生徒で賑わっていて、登下校中の生徒に挨拶してたものだよ。まあ最近じゃあ知り合いと適当に会話して、時間になったら店を閉めて寝るだけなんだが」
 遠くを見ながら桃村さんはそう語る。以前を懐かしむかのようなその言葉は、なんだか私自身にも責任があるような気にさせた。
 確かに、この通りはすっかり閑散としている。ついこの間真崎先生に出会った時だってそうだ。私以外に生徒は居なかったし、客も夕餉の買い出しにやって来た主婦ばかりで、それ以外の店はほとんど暇そうにしていた。
 時代が移り変わるとは、こういうことなのだろうか。
「桃村さんは、一人でこの店に?」
 聞いていいのか少しだけ迷ったけれど、結局私は触れることにした。
「今は、孫が一緒に住んでいるんだ。家庭の事情でね」
「お孫さんですか」
「娘の産んだ子なんだよ。とても可愛くてね、ついつい甘やかしてしまう」
 そう語る彼の目の暖かみに、思わず私の心まで緩んでいく。大福を一口齧って、漸く飲めそうなくらいになったお茶を啜る。甘ったるい餅と少し渋いお茶の組み合わせは抜群で、幾らでも入ってしまいそうだ。
「親も、女房も、娘も、私が愛した人は皆この家から出て行ってしまう。私一人を残して、ね。だから、孫がこの家で住むことになった時、まだ見放されたわけではないんだと思ってねえ……」
 桃村さんは頬杖をつくと大福餅に触れる。ぼんやりとした表情でそのまま表面を指でなぞる。
 その間、静謐さが部屋中を包み込んだ。再び店先の水やポンプの音がじいじいと私の周囲を泳ぎ回り、その中で私は口を閉ざし瞼を降ろし、しん、と溶け込み消えていく音達にそっと耳を傾けた。
 淡音は今、どこにいるのだろう。行方知れずの友人の顔を脳裏に浮かべていると、心がざわついた。きっと生きていると言い聞かせるのだけれど、もしかしたらと浮かび上がる不安は拭えず、再会を夢見ながらやがてそれは淡くぼやけて消えていく。
「若苗萌黄さん、と言ったかな」
 沈み込んでいた静寂から引っぱり出されるようにして、私は目覚める。慌ててはい、と答えると桃村さんは何度か頷いた。
「君は、何故浮かない顔をしていたのかな」
「私、ですか?」
「そう、君だ」
 桃村は頷いた。
「なんだか、さっきから私の話ばかりを聞いていたからね。元々は君の世話を焼きたくて声をかけたんだ。君の話をちゃんと聞いておきたいんだ」
 どうだろう、と組んだ拳に顎を乗せて彼は首を傾いだ。
「……友人が、突然消えたんです」
「消えた?」
 桃村さんの言葉に、私は頷く。
「多分、唯一心を許せる友達でした。付き合いこそ長くはなかったけど、言いたいことが言えて、無理して着飾る必要が無くて、一緒にいて窮屈さを感じない。そんな子でした」
 そう、彼女は私のそれまで抑圧していたものを壊した。目立たず、けれど敵を作らずに生きることが最善の生活だと、本心を抑えることがすべてだと感じていた私に、打ち明けることの重要さ、心地良さを教えてくれた。
「やっと、友達と呼べる人ができたと思ったのに、私がそう思った途端に彼女は姿を消してしまって……」
「最後に、その子とは会えたのかい?」
 首を振る。桃村さんは組んでいた手を解くと胸の前で組み直した。
「君は、また彼女に会いたいと、そう思うかい?」
 彼の問いかけに、私は一呼吸入れてから、頷く。
「この先も、できることなら一緒にいたいです」
 例え、周囲に訝られようが、自分を着飾って苦しんで生きていく事は、多分もう出来ない。知ってしまった今、同じ事をできるわけない。
 なんだか、この人の前では色んな事が喋れてしまう。誰にも話せずにいた部分を、並べ直してまとめ直して、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた感情を一本一本解すみたいで、言葉にするほど私が緩んでいく。
 いや、むしろ今の私が本当の若苗萌黄なのかもしれない。
「私には何もしてあげる事はできない。だが、君の大切な友人が見つかることを、祈っているよ」
「ありがとう、ございます」
 淡音は大切な友人だ。
 でも、私は未だにそれを彼女に伝えることができていない。恥ずかしくて、強がって、怖くて言えずにいたそれを、失った今言うべきだったと後悔している自分がいる。
 だからこそ、見つけたかった。淡音にもう一度だけ会いたいと思った。
 私は貴方の友達だと、伝えるために。

 桃村さんは店の前まで私を見送ってくれた。結局私のいる間に彼の孫の姿を目にすることはできなくて、それを残念だと告げると、また来るといいよ、と優しく言ってくれた。
「ああ、君の探している子の名前は?」
 別れの間際、桃村さんはそう私に声をかけた。
「藤紅淡音です」
「覚えておこう」
 そう言ってくれた彼は、私の目にはとても頼もしく思えた。
 ああ、誰かを頼るってことは、悪い事ではないんだな。深く彼にお辞儀をした後、アクアショップ桃村を後にして歩き出した。
 不思議と声をかけられる前よりも足取りは軽くて、気持ちも落ち着いていた。あれほどざわついていた心が穏やかだ。
 すっかり陽の暮れた雪浪通りは人の姿も消えつつあり、一つ、また一つとシャッターが降ろされていく。随分な時間まで居たものだと思いながら、つい先日立ち寄った精肉店がまだ開いてるのを見て、私は足を止めた。
「コロッケ、まだありますか?」
「おや、君はこの間の……」
 私の事を覚えてくれていたようで、店主はにっこりと笑ってくれた。
「焼きたてを用意してあげよう。ちょっと待ってなさい」
「あ、でももうすぐ閉店じゃ」
「そんな掛からないから大丈夫。それに、また来てくれた子を無下にはできないさ」
 そう言って店主は腕まくりをするとパン粉を目一杯まぶした芋を揚げ始める。油の跳ねる小気味よい音と共に芳ばしい匂いが立ち込め、私の鼻孔をくすぐった。
 揚げるのにそこまで時間は掛からなかった。どうやら丁度火を止めようとしていたところだったらしく、油の温度がそれほど下がっていなかったらしい。
 揚げたてのコロッケを受け取り、熱々のコロッケに舌をまたやられたくなくて暫く冷めるまで待つことにした。折角わざわざ揚げてもらったけれども、私にはとても食べられない熱さだ。
「それにしても、こんな時間まで学校とは大変だね」
 仕事を終えて片付けを始める店主が、コロッケが冷めるのを待つ私を見て不思議そうに言った。彼の背後の壁に掛けられた丸時計は既に七時を差している。ほんとうにギリギリにやって来てしまったようだ。
 私は首を横に振ってから、精肉店の奥の方を指差した。
「桃村継彦さんのお店にお邪魔してたんです」
「ほう、珍しい。あの桃村さんの家にか」
「珍しいんですか?」
 彼は頷いた。
「昔は陽気な人だったけれども、奥さんが亡くなってから随分と塞ぎこむようになってしまってね。今じゃ雪浪通りでの付き合いにもまるで参加しないのさ」
「そんなにショックだったんですか」
 店主は頷くと腕を組んで唸る。
「今でもよく覚えているよ。あの人と奥さんはとても仲が良かった」
 ショウケースの上に頬杖をついて、彼は目を細める。私には見えないけれど、多分今彼の目には若い頃、「盛況だった」雪浪通りの光景が浮かんでいるに違いない。私が知らない頃の商店街。閑散としたここしか記憶に存在しない私は、少し冷めてきたコロッケをさくり、と口にする。サクサクとした衣から肉と芋の味がじわりとしみわたる。ソースなんて要らないくらいよくできた味だ。今まで食べたコロッケの味を幾つも覚えてはいないけど、少なくともここのコロッケはとても美味しかった。また食べたくなるくらい。
 この味はきっと変わっていないのだろう。
 私は少しだけ、彼の気持ちが共有できたように感じられて嬉しくなった。もう一口さくり。甘くて暖かいコロッケに顔が思わず綻んでしまう。
「桃村さんの奥さん、どんな方だったんですか?」
 私が尋ねると、とても綺麗な人だったと彼は答えた。
「特に髪が綺麗だったね。すごく丁寧に手入れしてるみたいでとても艷やかなんだ。いつも桃村さん、吊り合わないって茶化されてたなあ」
「とても素敵な方だったんですね」
「そうだね、この通りを二人で手を繋いで歩いてたよ。その時の桃村さん、すごく緊張した顔していてね。ああ動きもぎこちなかったかな。奥さんにリラックスして、と言われて更に慌ててたのは見ていて微笑ましかったなあ」
 あと、桃村さんといえば……。懐かしむような穏やかな口調で、私の知らない世界が語られていく。すっかり寂れ、廃れつつある雪浪通りの中で生き続けた彼の言葉を聞きながら、私は時々頷き、時々笑いながら、気がつけば目の前の彼の姿に羨望の眼差しを向けていることに気がついた。
 ここで多くの人達を眺め続けてきた彼の話は面白かった。共感と敵対、そんなくだらない会話から始まる私達の会話なんかよりも暖かくて、人間味のある話で。
 日常に溶け込む術として使っていた会話は、こんなに楽しいものだったのか。街の一角で、通りの人と朗らかに会話をして日々を過ごす。押しつぶされそうにもならない世界。
「コロッケのお陰かな」
 唐突に言われて私は我に返ると店主を見た。彼は頬杖をついたまま口角を上げた。
「前にここに来た時よりも表情が柔らかくなった」
「そこまで、覚えているんですか?」
「ここに来るのは大体が顔馴染みだからね。新顔は覚えておくようにしているんだ」
 自嘲気味にそう言って彼は溜息をついてみせた。そのわざとらしさがどこか可笑しくて、私はくすり、と笑みをこぼす。
「桃村さんとも仲良くしてあげてよ。あの人本当に人と会わないからね。時々でいいから、顔を出してあげるといい」
「また来ます。ここにも。コロッケとても美味しかったから」
「またおいで。まあ、いつもサービスしてあげられはしないけどね」
「あ、でも桃村さん、お孫さんがいるって聞いたから、しょっちゅう行くのはお邪魔になるかも……」
「お孫さん?」
 その瞬間、彼はとても複雑そうな表情を浮かべた。
 お孫さん、ねえ。と彼は頬杖をつくのを辞めると、腕組みをして眉を潜める。
 何か、空気が変わったのを感じた。それまで笑っていた店主は、悲しげな表情を浮かべたまま黙り込んでいた。
 なんだろう、この重たい気分は……。
「どうしたんですか?」
 私が尋ねると、暫く目を泳がせてから、躊躇うように唸り、それから漸く決心がついたのか彼は目を閉じると、その言葉を口にした。

「桃村さんに孫はいない筈だよ」

 突然聞かされた言葉に、私は耳を疑った。
 言葉がうまく認識できない。この人は一体何を言っているのだろうか。だって、彼はそれがあるから寂しさを紛らわせられているって、そう言っていた。
「で、でも確かに桃村さんは孫がうちに居るって……」
「奥さんを亡くしたのと、娘さんは蒸発するように家から居なくなってしまったことが堪えたから、それが原因で……」
「蒸発?」
 ああ、しまったと店主は口を塞いだ。だがもう遅いと思ったのか、諦めたように嘆息を一つする。
「これは君だけの秘密にしてくれよ。桃村さん、奥さんが亡くなってから娘さんを特に大事にするようになってね。まるで奥さんを忘れようとするみたいに娘の自慢ばかりの時期があったんだ」
「とても、可愛がっていたんですね」
「娘さんも桃村さんの事を大事にしていたから丁度良かった。そこまでなら微笑ましい家族風景で済んだんだがね。問題はその後さ」
 深刻そうな顔で彼は続ける。
「ある時、娘さんが男性を家に連れてきた事があってね。夕食の準備も兼ねてうちの店にも寄って行ってくれたんだが、好青年だった。仕立ての良いスーツを着こなした感じの良い男だったよ。会釈なんかする時もこう、四十五度ぴったりで止まるくらい真面目な。冗談じゃなく本当に角度まで考えてたねあれは。ボーイフレンドかって聞くと娘さん頬を紅くして頷いてから、できれば将来……なんて言うんだ。話を聞いた限り五つ程上らしく、良い仕事にも就いているんだとか。一体どこでこんな立派な男性を見つけたのか不思議でならなかったよ」
「五つも上?」彼は頷いた。
「確か彼女が二十歳になるかならないか位だったかな。大学に行かせてもらいながら深夜にはバイト入れて、夕食から何まで家事もこなして、亡くなった母親の代りをしたいって父に内緒にして頑張っていたよ。すぐにバレてバイトは辞めさせられていたがね」
「親孝行な方ですね」
「まあ大学行くのにも無理していたらしいから彼女も思うところがあったんだろう。実際大変な額だったみたいだからね。だからそんな立派な男性を捕まえられた事をとてもめでたく思ったよ。漸く桃村さんも娘さんも再び幸せな家庭を味わうことができるかもしれないとね」
 分かっている。彼の前口上からその後がどうなったのか大体理解している。
 桃村さんの笑顔を思い出しながら、私は生唾を飲み込んだ。
「それで、どうなったんですか?」
 店主はすっかり俯いてしまう。
「あの時の彼は、あまり思い出したくない」
「あの時……?」
「鬼みたいな形相だった」
 あの穏やかな老人からは思い浮かびもしないその表現に、私は困惑する。店主は深呼吸をした。
「彼の家の方が騒がしくなって、俺も気になって通りに出てみたんだ。すると夕暮れ時に娘さんといた男性がこちらに逃げてきた。顔はすっかり恐怖で歪んでいて、腕はばっさり切られて酷い事になっていたよ。助けてほしいと懇願する彼を慌てて家に匿って扉を閉めてから外を改めて見ると、通りの方で桃村さんが住人達に押さえ込まれていたんだ。少し離れたところには血のべったりついた包丁が転がっていて、逃げてきた彼の血が点々と地面についていた」
――傍で娘さんは、泣き崩れていたよ。
 囁くようなその一言に、私も居た堪れなくなって俯いてしまう。
 父を喜ばせたい一心で、必死に育ててくれた父の為にきっと彼女は嫁ぐ事を考えたのだろう。無理をして自分を育てる彼にこれ以上苦労を掛けさせたくなくて。
 必死で愛してくれた。
 育ててくれた。
 そんな父へ立派になった姿を早く見せたくて。
「桃村さん、殺してやると喚き散らしてた。すごい力だったみたいで、大の大人五人が汗まみれになって必死になってた。他の男どもが周囲を囲んで何時何があっても良いようにしていたが、多分一人でも気を抜いていたら今頃あの人は殺人者になっていたかもしれない。すっかり豹変した父を見て、娘さん、とても悲しんでいたよ。あの人がそうなるなんて思っていなかったんだろうな」
 そう告げる店主に、多分違う、と言いかけてから口を閉ざした。もう遥か昔に起こった出来事であって、私がその光景を見ては居ない。そもそも、雪浪通りでそんな事件があったことを聞いたことすら無かった。そんな出来事があれば、自然と広まる可能性があるのではないだろうか。
「警察は、呼ばなかったんですか?」
 私の問いに、店主は首を振る。
「暫く騒いだら突然桃村さん黙り込んで、そのまま家に入っていってしまってね。娘さんが泣き腫らした顔で俺達に「このことはどうか内密にしてください」と懇願してきたからどうにも動けなくなってしまって……。幸い目撃したのも通りの人間だけだったから、彼女がそう言うのなら仕方ない、と。俺はとにかく怪我人の彼を病院に連れていかなくちゃと思ったし、その後商店街の奴等がどう話し合ったのか知らないんだ。ただ、次の日には何事も無かったかのように通りは元に戻っていたから、ああ黙っているべきなんだと悟ったよ」
「娘さんとその男性は、どうなったんです?」
 恐る恐る尋ねたが、彼の表情から大体察することは出来た。
「まあ、うまくいくはずは無いよね。殺されかけたんだ。彼も娘さんのことを思って口裏を合わせてはくれたけど、それっきり通りに来てくれることは無かったし、娘さんと並ぶ姿も見なかったよ」
「そうですか……」
 何があっても結ばれるようなロマンティックな結末は、そう簡単には存在しない。彼は死んでも彼女と添い遂げるよりも、生きることを選択した。それを責められる人間はどこにも居ない。
「程なくして娘さんが黙って家を出て行ってしまった。大学も辞めて、通りの人間の誰にも何も告げずにね。豹変した父の姿が相当堪えたんだろうな」
 姿を消した、という言葉に私は思わず反応する。
「行方不明、ですか?」
「いや、時々手紙が来ていたよ。不定期で直接だったから何時来るか分からず、気付いたら投函されている形で。中身は見たこと無いんだが、捜索願を出さない桃村さんの反応からして、何かしら彼を宥める内容だったのかもしれない」
 行方不明、では無かった。その言葉に私は安心する。
「もう何十年も前の話だ。時効だと思ってもう一つだけ、教えてあげよう。勿論君が黙ってくれると信じてだ」
「私、そこまで信頼できるように見えますか?」
 ここまで聞いておいてなんだが、彼とはほぼ初対面だ。そんな私に何故彼はここまでしてくれるのだろう。
「ああ、そうだなあ……。君がもし周囲に色々と秘密を言える子だったら、多分ここに浮かない顔をして来ないだろうから、かな」
 酷い言われようだが、実際事実だから何も言い返せない。
「それに、どうせ何をしても雪浪通りは廃れるだろうし、今更その事件が明るみに出ても何が起こるわけでもない。ここはもう過去なんだ」
 彼の言葉に、私は少しだけ気持ちが傷んだ。けれど、例え雪浪生がここを利用したとしても、何かが変わることは無いだろう。少しだけ忘れられるまでの時間が長くなるだけだ。
「まあ、置き土産、とでも言えば良いのかな」
「置き土産にしては、重すぎませんか?」
「その通りだ」彼は笑った。
「俺は、娘さんが生きているかどうかだけ、知っている」
 その告白に私は驚いた。
「匿り病院にまで連れて行った俺への礼だったのかな、殺されかけた彼が連絡先を教えてくれてね。婚約こそ無くなったが、娘さんがあの家を出ることには協力していたそうで、今も彼が紹介した場所に住んでいるらしい。勿論桃村さんには伝えないことを約束としてね。俺もあの日の彼を見てしまったら、教えようとはとても思えなかったから、今までずっと秘匿し続けてきた」
「じゃあ、本当にお孫さんは……」
「つい最近彼の知人と連絡を取ったが、今も結婚はしていないそうだ」
「知人?」
「不慮の事故で死んだ、と言われたよ。それっきり、娘さんの行方も知れないままさ」
 全てを話し終えて、店主は肩の力を抜くと一呼吸入れた。随分長い間黙っていたことをとうとう口外できたからだろうか。秘密の共有者が生まれた事による安堵感からだろうか。どちらにせよ、彼の面持ちは晴れやかだった。
「何も無くなった人が縋りつく先ってなんだと思う?」
 綻んだ表情で彼は私にそう問いかける。暫く答えに悩んでいると、彼はとても残念そうな顔を浮かべて、桃村さんの家の方向に目を向けた。
「過去、だと俺は思ってる」
 彼はそれだけ言い終えると、私にもう一つコロッケの包みを渡して作業場へと姿を消してしまった。全てを話し終えた。もう出番は終わりとでも言うみたいにあっさりと、彼は私の前から消えた。
 温いコロッケと火傷しそうなコロッケの二つを手に持ったまま暫くぼうっと突っ立っていたが、やがて足元を見ていた視線を上げると、私は雪浪通りの奥に目を向けた。アクアショップ桃村のある方へ。
 雪浪通りは変わらず静かだった。制服は私一人だったし、どこもシャッターが降りていて、照明が寂しそうに煉瓦の敷き詰められた歩道を照らしている。冷たい風がすう、と私の前を通りすぎて奥へと消えていってしまった。
 何かの死んでいく音がする。
 精肉店の店主が言っていた過去が、雪浪通りを満たしている。
 私は途端に怖くなって踵を返すと雪浪駅へと走り出した。一度も振り返らずに、直ぐにでもここから離れたいと強く願いながら。
 何も無くなった人間が最後に縋りつくのは過去。
 振り向くことがそんなにも甘美なことなのだろうか。時を止めてしまうことがそんなにも快楽なのだろうか。私には分からないけれど、その味を知りたくはないと思った。
 それは、とても心地いいかもしれないけれど、きっと地獄だ。そんな場所に溺れて生き続けるなんてしたくない。
 淡音は一体どこにいるのだろうか。彼女は何故行方を眩ましたのだろう。
 走り続けて、通りを出て歩道、広間、そして改札を駆け抜ける。降りてくる人達を掻き分けながら必死に階段を登って、プラットフォームに辿り着いたところでやっと足は止まった。押しつぶされそうな位痛くて苦しい肺に必死に酸素を供給しながら、笑う膝を両手で押さえ付ける。黄色の線の手前側で荒い呼吸を整えながらいると、やがて電車の赤いボディが私の目の前を横切り、着実にスピードを落としていくと、やがて止まった。
 駅員の言葉と共に扉が開いたのが聞こえて私は顔を上げた。
「そんなに呼吸を荒げて、どうしたんだい」
 目の前の扉から降りてきたモッズコートの青年は、私の方を見てそっと首を傾げると手を差し伸べてきた。
 暫く黙って彼を見つめていると、痺れを切らしたのか彼の方から私の手を取り強引に車内へと私を引っ張り込む。そのやり方があまりにも乱暴だったせいで、向かいの閉じたままの扉に私は後頭部を思い切りぶつけた。割れるように痛い。涙が出てくる。
「大丈夫?」
 青年は私の前にしゃがむと、笑っているような、でもどこか哀しそうにも見える顔で私を覗き込んでいた。

 青年は、恐らく君の友人はねむりひめに連れて行かれたのだろうと私に告げた。
 ねむりひめ、という名称からその存在のディテールまで何一つ聞いたことのない私は、もっとくわしく説明してほしいと懇願した。だが彼は結局微笑むばかりで具体的な部分ははぐらかしたままだった。
 私と彼は自宅前の公園に入って、隣り合うように一つのベンチに座っていた。手には彼がお詫びだと言って渡してきたお汁粉があって、でもそんな水が欲しくなりそうなもの飲みたい気分でもなくて、ただ暖かいのは良いなと思って暫く両手で転がしていた。
 ふと、そういえばあの時渡されたコロッケを思い出し、どこかで落としてしまった事に漸く気付いて酷く損した気分になった。
 美味しかったのになあ、とあの時の一口を思い出していると、お腹がぐう、と大きく一度だけ鳴った。
「もしかして、空腹かな」
 彼は私の顔を覗きこむように問い掛ける。私は思わず目を伏せたが、顔が熱くなるのを感じて、隠し切れないと思って私は諦めると一度だけ頷いた。
「ならこれをあげよう」
 そう言って彼は下げていた鞄から紙袋を取り出すと、コロッケを取り出した。あの精肉店の名前の入ったものだ。
 彼は確か電車でやってきて、私を引っ張りこんでここまで乗ってきた筈だ。何故だろう。私が戸惑っていると、彼はそのうちの一つを私に手渡した。
「朝買ったからすっかり冷めているけど、あの店のコロッケはそれでも旨い」
 そう言ってコロッケを口にする彼を見て、私は彼に続くようにコロッケを齧る。あの熱さも揚げたての食感も無いけれど、確かに冷たくても十分甘くて美味しかった。
「この街は随分とねむりひめに好かれているようだ」
 コロッケを咀嚼しながら彼はそう言う。
「だから、そのねむりひめは何なんです?」
「ねむりひめはねむりひめさ。人間が好物であり、人間に興味がある。人間を最も愛している存在、とでも言えばうまくまとまるかな」
「それは、貴方の中で綺麗にまとまっただけの話で、私には一つも理解できませんよ」
 そう言っても彼はコロッケを口にするばかりで何も説明しようとはしない。肝心な事を答える必要はないと、私は特に気にするものでも無いみたいな言い方だった。友人が失踪した原因かもしれないのに、だ。
「それよりも君は何故、あんなに息を切らしていたんだい」
「息を?」
「プラットフォームでの話さ」
「別に大した事じゃないです。ただ、少し急げば電車に間に合うかもって思っただけです」
 咄嗟に嘘をついたのは、彼に何かやり返したかったからだ。ねむりひめなんて異質なワードを取り出しておきながらちらつかせるだけなんて、性格が悪いにも程がある。
 けれども、彼はその私のぶっきらぼうな言葉を聞いてふうん、と興味無さげに口にすると再びコロッケを咀嚼し始める。その態度に少しだけ苛立ちを覚えていると、彼はコロッケをごくりを飲み込み、ベンチから立ち上がった。
「まあ、君の感じた事はきっと正解だ」
「正解?」
「そう、正解」
 その言葉一つで、なんだか全て知られているような気がして、彼が途端に気味悪く思え始めた。いや、突然車内に引っ張りこんで、更に女子高生を夜の公園に誘う時点で怪しいとは思った。そんな人物と行動を共にしてしまった自分も異常なのかもしれないけれど。
 モッズコートの青年は大きく伸びをすると、揺れているブランコに腰掛けて勢い良く漕ぎだした。子供用のそれは地面スレスレを滑空しながら空中へと向かって飛び出す。しかしやがてブランコは引力に負けて再び地上へ戻っていく。
 前後に揺れているだけなのに、彼はとても楽しそうにブランコを漕いでいた。その無邪気さに呆れてか、気がつくと笑みを漏らす私が居ることに少しして気づいた。
「そのねむりひめを見つけられたとして、私の友達は、助けることはできますか?」
 私の問いに彼は構わずブランコを漕ぎ続ける。ぎい、ぎいと鉄棒と板とを繋ぐチェーンがこすれ合って不快な音を立てている。私は無反応な彼に構わず更に問い掛ける。
「さっきねむりひめは人間を愛してるって言ってましたよね。なのに何故人を襲うんです? 好物ってことは、食べるってことですよね。なんで愛するものを食べようとするんですか。そんなの、どちらも損しかしてないじゃないですか」
「損はしていないよ」
 彼はそう口にした。
 口にして、それから勢いづいたブランコから思い切り飛び降りて一、ニメートル程先に着地した。翻ったモッズコートのはためく音が夜の公園に響く。
「分からないからこそ愛おしくなる。だからねむりひめは人を喰うんだ。そうすることで僕らの全てを知りたがっている。知った上で愛したい。その身に吸収することで永遠を感じられ、喪失を知らずに済む。一生共に生きているように感じられる」
 彼は一体何を言っているのだろう。ねむりひめのその異常にも思える行動理念に現実的な部分なんて無いのに、何故そんな幻想じみた存在を説明することができるのだろうか。
 この人はやっぱり危ない。
 普通に見えるけど、どこか狂っている。
「そんな愛し方、あり得ない」
 ポケットに手を突っ込む彼を睨みつけながら、私はベンチから立ち上がると身構えた。男に勝てるとは思えないけれど、この場所なら悲鳴で誰か気付いてくれるはずだ。
 淡音のことを考えすぎて、雪浪通りでの出来事に困惑し過ぎて私はきっと錯乱していたんだ。じゃなきゃこんな変人について行こうなんて思うはずない。
 だが彼は身構える私のことを見て、残念そうな顔で嘆息すると肩を竦めた。それからポケットに突っ込んだままの両手を曝け出すと私の前に掌を見せる。
「君は僕の事を変人か狂人だと思っているね。まあ否定するつもりは無いけれど、しかし君を襲うなんて下卑た考えを持っていないことだけは信じて欲しい」
「貴方は、一体私に何をしたいの?」
「何をしたい、か」
 そうだな、と彼は再びポケットに手を突っ込むと、瞼を閉じる。
 それっきりすっかり黙りこんでしまった彼を警戒し続けるが、やがて本当に彼に敵意が無い事を理解して、私は握り締めた両拳を解いた。
 少し離れてベンチに座って、依然瞼を閉じたままの彼をそっと盗み見る。
 青年の輪郭を、月光が照らしていた。今夜は晴天だ。雲一つ無い空に大きく、ほんの少し欠けた月が浮いている。
 静寂をそっと包み込むような光の中で、彼はどこか儚げで、悲しげに見えた。現れたばかりの時に見たあの笑っているようにも泣いているようにも見える顔は、後者であることを隠すための仮面なのかもしれない。
「僕は、僕の愛情を表現する為にここに居るんだ。いや、ここに来たと言ったほうが正しいのかもしれない」
「愛?」
「そう、愛」彼は頷く。
「君はさっきあり得ない、と言ったが、愛した人間を痛めつける事で満たされる者、傷めつけられる事で満たされる者や、同性、血縁者に惹かれる者達がいる。それらは性癖という言葉でカムフラージュされているけど、元を正せば愛だ。ならねむりひめの愛情表現だってその一つに過ぎないのではないかな」
 彼の言葉に、私は唇を噛む。
「でも、そんな事に何の関係もない人を……」
「ねむりひめは、求める者しか愛さない」
――求める者?
 彼はそれだけ言い終えると踵を返し、ああ、と顔だけ私に向き直すと笑みを向ける。
「君は友人を見つけて、一体何を望むのかな。その子が見つかることで自分がどう満たされるのか、今一度考えてみるといい」
 言い終わると彼は私の前から姿を消した。
 何処までも奇妙な人だった。私は手にしたままのお汁粉に目を向ける。人肌に触れて少し温くなったその缶を見つめ、それから何度か振ってプルを引くと口を付けて傾ける。
 どろりとした粘性の高い食感と粉っぽさと、粘りつくような甘さが口の中にべったりと残る。やっぱり水が欲しくなったと思いながら、けれどどこにも自販機が無いのを見て溜息をつく。一体彼はどこでこんな不味いお汁粉を買ってきたのだろうか。


       

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Neetsha