Neetel Inside 文芸新都
表紙

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   ニ

 一体何がどうなって私はここにいるのだろう。
 淡音に出会って化けの皮を剥がされ、彼女といることの楽しさを知って、でも肝心の彼女は消えて、保健室で聴取を取られ、モッズコートの変な青年にまで出会って……。

 まるで御伽の世界に迷い込んだみたいだ。

 若苗萌黄という「誰に対しても人畜無害」であった筈の女子高生は、今や悲劇のヒロインだ。他人の視線も、言葉も、まるで生温い液体が私の周りを包み込んでいるようで気持ちが悪い。
 それを引き剥がす勇気が無い自分が無様に思えて仕方が無い。
 溜息を吐いて、私は自分の逃げ込んだ教室を眺める。教室二つ分くらいの広さで、窓際に流し台がずらりと設置されている。全て開放された窓の傍には絵筆やパレットが布の上に置かれていた。
 美術室だという事は一目見て分かった。ただ私が不思議に思ったのは放課後だというのに誰一人として部員が居ないことと、画板がたった一つしか無いことだった。
 確か美術部員はそれなりにいた筈だ。文化祭で教室一つを借りて、幾つもの絵画を飾って展覧会をしていた覚えがある。受付に座っていた部員も男女いたし、中もとても充実していた。
 でも、室内はがらんとしていて、隅にイーゼルが一つ、画板と一緒に立てられている。
 私は、なんとなくその画板に描かれているものが気になって、教室の扉を閉めると窓際に置かれたそれに近づいて行く。
 窓から入り込んでくる穏やかな風がふわり私の頬を撫でた。ペパーミント色をしたカーテンが、陽の光と風を受けて心地良さそうに揺れているのを見て、少しだけざわついていた気持ちが落ち着いていくのを感じた。
「なにしてんだろ、本当に……」
 結局私は、爆発してしまった。
 数日経っても変わらず私に関わろうとやってきては心配という言葉をかけ続けてくるグループがいた。周囲の耳に届くような声で何度も、何度も何度も何度も私に声を掛けては「きっと戻ってくるよ」「そんな気にしないで」「萌黄は強いね」なんて言葉を口にしては微笑みかけては満足したように去っていく。
 初めの頃は少しだけそれを有難く思ったけれども、続けばその適当な好意もお節介に変わる。言葉だけで紡がれた慰めの効き目はそれほど長くはない。
 「大丈夫」と微笑む私を見て、彼女たちは何も気が付かなかったのだろうか。私に憐憫の情を向けることで満たされているだけだということが何故わからないのだろうか。
 次第に積み重なっていた不満は、やがて「淡音」という言葉を引き金にして噴出した。私を知ってくれた淡音を悪く言われるのは、心外だったから。何も知らない人間程首を突っ込みたがる。知らないことを覗いて、自分が一番事情を知って、尚且つ頼れる相手であるようにアピールすることで満足しているだけではないか。
 多分それは自分の事でもあったのだろう。「雑草であること」や「当たり障りの無い自分であり続ける」という自分が一番「敵を怖がらないで済むと思った」方法を取り続けたツケも含めて私は破裂した。
 思いつく限りの言葉を吐き出し、髪を振り乱し、両手で力いっぱいに机に爪を立てる。

 何も知らないくせに。

 何も知らないくせに。

 何も……何も知らないくせに。
 
 私だって知らないのに……。

 ありとあらゆる感情を一つ残らず絞り尽くした後に残ったのは、静寂だけだった。ふと我に返り、肩で息をしながら見た教室は暗く冷たく沈んでいて、動揺と、怒りと、悲しみと、そういったマイナスの感情だけが汚泥のように流れこんで私達を汚していた。
 一番お節介を焼きたがった女子の目には、涙が溜まっていた。グッと下唇を噛み締め俯き、嗚咽が漏れそうになるのを堪えながら、ただただ泣いていた。
 誰も悪くない、責められない空間は、ひどく苦しかった。
 それが、今日の出来事。
 多分、私の望んだ「平凡」が死んだ日。

 画板の周囲は散らかっていて、パレットには幾つも色がまだべったりと残っていて、幾つもの色を混ぜあわせたものが乾いてこびりついている。薄い紫の周囲から赤と青がはみ出ている。きっと幾つもの色を重ねてやっと生まれた色なのだろう。
 さて、私は裏から覗きこむようにしてイーゼルに立てかけられた画板に目を向ける。どんな絵を書いているのだろう。
 その瞬間に、扉の開く音がして、私は一瞬飛び上がると目を向けた。自分の閉めてきた扉が開けられていて、そこに一人の女子生徒が立っていた。若干色の抜けたハーフアップの髪型が似合う綺麗な女の子だった。
「ああ、作業中でした?」
 慌ててそう口にする私を、ハーフアップの彼女は不思議そうな目で見て、それから無言でイーゼルの立てられた部屋の隅までやってきた。薄く、けれど丁寧に化粧の施された顔に、私は思わずどきりとする。強すぎず、弱すぎず、周囲に馴染む丁寧なそれは、彼女の魅力をしっかりと引き出していた。
「見ました?」
 血色が良さそうな唇が動く。私が首を横に振ると、彼女は画板の前の丸椅子に座った。
「ごめんなさい、見られたくなかった、ですか?」
 どこかぎこちない言葉に、彼女は首を振る。
「違うんです。どちらかといえば、感想が聞きたかったから。今やっと形になってきたから他の人からはどう見えるかなって」
「見て、いいんですか?」
「寧ろ喜んで」
 恐る恐る尋ねる私に、彼女はにっこりと笑みを浮かべて頷き、画板を向けてくれた。
 突然の来訪者に対しても優しいなとか、笑った顔も綺麗だなとか他愛もない事を考えていたのだけれど、向けられた画板を見て、その他愛もない思考は吹き飛んだ。
 画板の中は、液体で満たされていた。
 幾つもの水彩絵具を塗り重ね、時には滲ませて、濃紺を他の色で潰しては染み込ませて陰翳を作り、下方は昏く、上方は明るく、水面から水底を意識したその風景に、私は感嘆の声を思わず漏らす。
 水面から差し込む光が次第に弱まりながらも、水底を照らす。少し揺らいだだけできっとこの光は濃紺に喰い尽くされそうで、でも光は底を真っ直ぐに照らし出していた。
「水の中を表現するのがとても難しくて、何度も何度も重ねて、やっとそれらしく見えるようになったんです。貴方は、どう思いますか?」
「とても、綺麗な絵だと思います」
 そんな単純なことしか言えない自分が恥ずかしかった。美術部の彼女はきっとこんな意見を求めているわけじゃないと思うのに、それ以外何も出てこない。
 不意に、私は青で埋め尽くされた中に小さな赤がぽつんと存在することに気づいた。それはよく見ると魚の形をしていて、水底から水面を見上げているようだった。
 水の表現を徹底しているのに、この魚だけは輪郭だけそれっぽくして、あとは紅色で塗り潰すように描かれている。私はなんだかそれが不純物のように思えてならなかった。
「これは、魚ですよね?」
 彼女はええ、と頷く。
「なんか、これだけ浮いてるような気がします。綺麗な赤色だけど」
「ああそれ、わざとなんです」
「わざと?」
「そう、わざと」
「私、あんまり芸術とかそういうの分からないんですけど、この赤い魚が何かのメッセージになっているとか、ですか?」
 彼女は口角を上げ、睫毛の長い目を細めた。
「そんな芸術性のある事ではなくて、私が今感じている事をなんとなく形にしただけなの」
「感じていること?」
「そう、この浮いている魚は、本来居るべきでない所にいるの。迷い込んじゃった感じ」
 そう言って彼女は赤い魚をそっと撫でる。その目は寂しそうで、今にも涙が零れ落ちそうなくらいに水っぽかった。
「その魚は、帰りたがっているんですか?」
 私の問いに、彼女は困ったように肩を竦めた、
「それが分からないの。もしかしたら馴染んでしまいたいのかもしれないし、この水底から逃げたがってるのかもしれない。元いた場所に戻って安心したいと思っているかも。でも、私に分かるのは『浮いている』ことだけ」
「難しいですね」
「いずれ答えが出るのかもしれないけれど、私はこれ以上手を加えてあげられない。でもどうにかしたくて、筆を持ったり置いたりを繰り返してて……」
 ふと、彼女は私に目を向けた。大きな瞳に私は映っていて、このまま吸い込まれそうだな、と思った。
「貴方は、どう感じた?」
「この魚について、ですか?」
 彼女は頷いた。私は腕組みをしたまま暫く絵を観察するが、一向に丁度いい言葉が思い浮かばなくて困ってしまう。
 暫く考えて、ふと出てきた言葉を頭の中で繰り返し呟いてみる。多分、うん、これしかない。そう言い聞かせると、漸く私は口を開いた。
「なんだか前向きな選択をしたくて、悩んでいるみたい」
「前向き?」
「ここから出るにせよ、馴染むにせよ、この魚は自分にとって一番良い結果を求めてるんだろうなって」
「いい結果」彼女は繰り返す。
「勿論私が感じたことですよ? 赤ってちょっと強そうに見えるじゃないですか。これがもし青だったらもっと別の印象を持ったかもしれない」
 慌てて取り繕うが、彼女は特に気にする様子もなく、腕を組んだまま自らの書いた絵を見てふむ、と唸っていた。
 この魚はきっといい結果を求める。
 純粋に湧き上がった感情だった。雰囲気や色で汲み取ったのもあるけれど、それは、多分私にはできないやり方に見えたから。
「私、馴染みたかったんです」
 だからだろうか、気付けば私は、そう口にしていた。
 彼女は私の目をじっと見つめて、それから首を傾げると微笑む。どうぞ、と言われている気がして、私は口を開いてしまう。
「誰かの傍にいるくらいの立ち位置にいれば、人のいい部分しか見なくて済む。悪い部分を見て嫌わなくて済むって思って、敢えて上澄みだけ見ていれば、辛くなることもないって」
「そうやってきて、今はどう思っているの?」
「これで良かった。実際私は居ることが当たり前になって、誰とでも気兼ねなく付き合えた。誰かの敵に回ることもなくて心地よかった」
「じゃあ、どうして?」
 そのどうして、の意味は考えなくてもすぐに分かった。
「自分で作ってきた筈の居場所なのに、それが当たり前になればなるほど息苦しくなるんです。誰にでもいい顔をし続けて手に入れた筈の心地良い場所なのに、ふと振り返ってみたら、そこには孤独しか感じない。誰かと話していた事も、遊んだ事も、打ち込んだ事も、そのどれも空っぽに見えてしまう」
 絵を覗きこんで、もう一度赤い魚を見つめる。この魚は、果たして途方に暮れているからなのか、それとも……。
「さっきのいい結果を求めてるって言葉は、きっと私の願望です。丁度良さを求めて、結局空っぽのまま生きてきた私が逃げた選択をこの魚は選ぼうとしている。そんな風に見えたから」
 言い終えて、初対面の人にこれだけ心情を吐露してしまった事が急に気恥ずかしくなって、私は俯いてしまう。けれど、何か達成感じみたものを感じていて、どうしてか笑みが零れそうになった。
「願望、ですか」
「なんかちょっと、痛いですよね。絵の感想を求められただけなのにこんな……」
「絵を見て出てきた言葉なら、それも感想の一つですよ」
 思いもよらない返答に、私は思わず視線を上げた。
 彼女は、穏やかな笑みを浮かべ、顔を上げた私の頭をそっと撫で始める。髪を梳くように細くて滑らかな指が通って行く。その感触の擽ったさに身を捩らせ、じわりと胸に広がっていく温い感触に、目を細めた。
「絵を書いていて、時々「この色は入れるべきじゃなかった」って思うことがあるんです。でも結局そのたった一つ間違えても、その絵はもう戻ることなんてできないから」
「じゃあ、何度も描き直すんですか?」
 彼女は首を振って、絵をそっと細い指で撫でる。
「この絵だって間違いだらけよ。思い描いていた色と全然違うし、構図だって少しづつズレていってる」
「こんなに綺麗なのに?」
「貴方は綺麗だと思った。でも私はこれを失敗だらけと感じている。他の人だってそうよ。時々思い通りにいったって顔を顰める人もいれば、失敗したのに褒めてくれる人もいる」
 彼女は絵の向かいに置かれた丸椅子に行儀よく座ると、絵筆とパレットと手にとり、バケツに筆を浸してからパレットに一滴落とす。乾いていた絵具が鮮やかな色を取り戻していく。
「自分が何故そこに筆を入れてしまったのかを悩むより、失敗だと感じても絶対に最後まで描き上げるべきだと思ったの」
 筆に絵具をつけて、彼女は再び目の前の水底に青を足し始める。淡い水色が既に塗られた色の上に足されていく。
「完璧よりも、誰かに感じ取ってもらえる絵の方が、楽しくなってきちゃったから」
 窓辺のカーテンがふわりと揺れる。
 その直ぐ側で絵を描く彼女に光が当たる。
 ただそれだけ。
 それだけなのに、絵に向かう彼女の表情はとても燦々と煌めいて、生きた顔をしているように思えた。
 テーブルの下に収まっていた椅子を一つ引っ張りだすと、私は彼女の隣まで持って行って座った。不思議そうな目で見る彼女に、私は少し見ていたい、と恥じらいながら告げると、可笑しそうに笑ってから、頷いてくれた。
「そういえば、貴方のお名前は?」
「若苗萌黄です」
「綺麗な名前」
 自分の名前を褒められたことなんて滅多に無かったから、なんだか新鮮に思えた。
「貴方は?」
「幾月絵美。この名前のせいか、絵を描いてても納得されちゃうのよね」
 困った顔をしてみせる彼女、絵美の、けれど暖かみのある表情に私は笑みを零した。
「咄嗟に逃げ込んだのが、美術室で良かった」
「私も、萌黄ちゃんに会えて良かった」
「そうですか?」
「ええ、お友達が増えるって、素敵なことだから」
「友達、なのかな」
「お互いが一緒にいたいと思えたら、友達じゃないかな」
 そう言って微笑む絵美の顔を、私は直視できない。
「放課後はいつもここにいるから、気軽に来てね。今日は顧問が居ないからお休みで人もいないんだけど、普段はもっといるし、私の友達もこれからは部に来てくれるって言っていたから」
「友達もここの子?」
 問いかけながら、私はこの閑散とした美術室を眺める。普段はこのテーブルも片付けられて、絵美のような作業をしている人が多いのだろうか。
「ほとんど幽霊部員なんだけどね。本当は今日から来るって言ってたんだけど、やることがあるみたいでどこか行っちゃった」
「やること、ねえ」
 考えこむ私を見て、絵美はくすりと笑う。何故笑われたのかと首を傾げると、彼女はごめん、とまたくすりと笑みを零す。
「萌黄ちゃんが逃げたかったって言ってたけど、そういえばあの子はむしろ逃げ場を塞いでたなあって。どこか萌黄ちゃんと共通点がある気がしてね」
「逃げ場を塞ぐ?」
「そう、危ないと分かっていても逃げることを考えなくて、茨の道でも突き進もうとしちゃうから、見てるこっちがハラハラしちゃうの」
「随分と無茶する人なんですね」
「そんなところが好きなんだけどね」
「素敵な関係だと思います」
 頷く絵美を見て、私はその関係がとても羨ましく思えた。もし淡音が失踪せずに今もここにいてくれたなら、私も彼女達のようになれたのかもしれない。
 いや、なりたかった。
「そろそろ私は片付けて帰るけど、萌黄ちゃんはどうする?」
 そう言って立ち上がる絵美に同意しようとして、私はふと窓の外を眺める。誰もいない中庭と、向かいの校舎が見える。
 ふと、向かいの校舎の窓を、一人の影が横切るのが見えた。
 三階の廊下で、あまりよくは見えなかったけれど、たなびく艶やかな黒髪と、横顔は、どこか淡音に似ていた。
「ごめんなさい、私はまだ……」
「そっか、残念だなあ。じゃあ今度ね」
 イーゼルと画板を抱えて彼女は「準備室」と書かれた扉まで向かう。扉を開けながら絵美はとても嬉そうに顔を綻ばせ、準備室へと消えた。
 再び窓の外に目を向けると、あの横顔は消えていた。
 見間違えただけかもしれない。長い黒髪の子なんてそう珍しくない。そもそも行方を眩ませて大分経った彼女が突然現れるなんてあり得るだろうか。
 なんにせよ、確かめたいと思った。


       

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Neetsha