Neetel Inside 文芸新都
表紙

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   三

 階段を一段、また一段。
 ぎゅっとつまさきに力を入れて私は階段を登っていく。一段踏みしめる度に、胸の奥がざわついて、息苦しくなった。
 緊張、しているのかもしれない。
「淡音」
 踊り場から呼んでみたが、返答はなかった。
 見間違えだろうか。いや、単に聞こえていないのかもしれない。ともかく彼女を見た廊下をくまなく見て回ろう。それくらいしないと、この不安と希望の入り混じった息苦しさは消えそうにない。
 だが、探そうにも教室の扉の大半は鍵がかけられていて、どこにも彼女が隠れられる場所はなかった。唯一開いていた音楽室も担任が一人だけで、丁度鍵と荷物を手に帰宅するところで、私と共に出ると鍵を締められてしまった。
 その後も何度も同じ場所を行き来してみたが、結果として収穫はなく、私は肩を落としたまま踊り場に戻って、階段に腰を降ろすと溜息を一つ、深く吐き出した。
 眩しいくらいに輝いていた太陽はもうすっかり地平線の向こうに姿を消し、代わりに濃紺がじわりじわりと空に広がって、やがて水色を食べ尽くそうとしている。
 さっき見た絵美が描いた絵も、こんな風に色んな青を塗りつぶして、混ぜあわせた結果生まれたものなのだろうか。そう思うと、あの水底の絵と今の空はどこか似ているように思えた。
「今日、私に友達が出来たよ。淡音」
 身構えないでいられて、自然と笑えて、興味の持てる相手が。
「今までずっと合わせることが一番楽な生き方だと思っていたのにね」
 たった一人の踊り場に、私の声が響く。
「やり直したいとも一瞬思ったけど、多分、戻っても私はまた同じように考えてしまうと思うから、このままでいいや」
 その言葉を聞いたら、淡音は笑ってくれるかな。誰かに合わせている私を哀れんだあの子は、今度こそ喜んでくれるかな。
「言いたいことが一杯あるの。だから、さっさと出てきてよ……藤紅淡音」
 抱き寄せた膝はとても冷たくて、私は縮こまるようにして顔を埋める。刺すような冷たさに思わず身震いしたけれど、私は構わずそのまま膝を抱き続けた。
 窓から差し込んでいた夕陽の姿が無くなって、次第に私の周辺は暗い影で満たされていく。私はその中で息を吐き出した。耳元でごぼ、と泡の生まれるような音がした。
 あの赤い魚が求めているのは、なんだったのだろう。暗くて冷たい水の中で何を考え、どうして外の光を見上げていたのだろうか。
 再び顔を上げ、周囲を暫く見回してから立ち上がると、私はもう一度だけ淡音、と叫んだ。
 だが、私の声が響くばかりで、返答の声が帰ってくることは無かった。
「君は、若苗さんじゃないか」
 反応が無いことに落胆していると、後ろから声がした。つい最近まともに聞いた低くて安定感のある声に、私は振り返ると同時に先生、と声をかけた。


 校舎の見回りが真崎先生で良かった。偶然だったけれど、私が懇願すると彼は教室中の鍵を開けて中を確認させてくれた。というより見回りとして生徒が校舎にいる状況で帰宅できるわけがない。
 隅から隅まで教室を見たが、結局黒髪の彼女が見つかることは無かった。落胆していると、真崎先生は何も言わずにただ私の頭を撫でてくれた。
「その、藤紅淡音って子。未だに消息は不明だそうだね」
 再び踊り場に戻ると、真崎先生は一つ下の階に設置された自販機から缶ジュースを一本買って私に渡す。感謝しながらジュースを飲むと、柑橘系の爽やかな味と冷たさに不思議と気持ちが晴れる。一時的なものであることは分かっているけれど、それでも今の私にとっては十分な存在だ。
「藤紅さんと仲が良かった子はあまりいないって話だったから、君がいてくれて良かった」
「良かった、ですか?」
「そう、警察でも消息がまるで掴めないから、改めて交友関係から確認し直すことになったんだ。彼女、君と一緒にいた姿くらいしか確認できないから、本当なら明日か明後日辺りにその話が行く予定だった」
「やっぱり、なんの痕跡も見当たらないんですね」
 真崎先生はこくりと頷く。
「どこで何してるか分からないって、一番気持ちが悪いですよね」
「気持ち悪い?」
「だって、まだ消息がはっきりしていたら、長い時間をかけて消化できる気がするのに、生死すら不明で何も分からないと、私は悲しむべきなのか「まだ可能性がある」ことに喜ぶべきなのか、分からなくなってくるんです」
 そっか、と真崎先生は一言だけ口にすると私の隣に腰掛けた。
「先生、藤紅さんの親御さんは、どうしているんですか?」
「彼女の親御さんは、居ないよ」
 ずっと気になりながらも口にできなかった事を聞いて、私はやっぱりと俯いた。出会ってから家に行くことも断られ、会話中も家族というワードは意図的に避けられていた気がする。
 そして何より娘にこれだけのことがあっても姿を見せないのは、多分事情があると理解していた。
「藤紅夫妻は、突然強盗に殺されたそうだ」
「強盗?」
「そう、ナイフで全身を切り裂かれていたらしい。淡音さんだけが一人生き残ったが、その時色々あってね、ショックで不安定になってしまったらしい」
 そんな話、聞いたことがなかった。
 じっと先生を見つめていると、彼は首を振った。
「失踪になってから初めて分かったことだ。両親がいないのは分かっていたがまさかそこまでおぞましい事件に遭っていたとはね。どうにか残った財産と父方の親戚からの手助けで生活できているようだが、実質一人暮らしみたいなものだったらしい」
「父方の親戚、ですか……?」
「そう、母親の方は……ああ、これは流石に」
「お願いします」
 ただ一言、そう口にした。真崎先生は暫く困ったような顔をしていたが、引く気配の無い私を見て、溜息を一つ吐き出すと、両手を組んで膝に腕を立てて、その上に顎を乗せる。
「半ば駆け落ちだったそうでね。母親の方の詳細は一切分からず終いだった。名前も性もすっかり変わってしまっていたし、ありとあらゆる面で全てが抹消されていた。そんな事ができるものかと思ったんだけど、現実でそうなっているんだから、その当時は抜け道があったのだろう」
「駆け落ち、ですか」
「ああ、夫の親戚に話を聞いた限りだと、相当酷い叔父だったらしくてね。もし見つかったら下手をすると命に関わると考えてだったらしい。まあ、そんな二人が強盗犯によって命を落とすとは、全く不幸な話だと思う」
 真崎先生は溜息を一つ小さく吐き捨てると肩を落とした。その目は、どこか共感が混じっているような気がして、私は、思わず先生の胸に手を回すと、そっと抱きしめてみせた。
 一瞬びくりと身体を震わせたが、拒絶の意思は無いらしい。もしかしたら、別に私がそういった類の感情から抱きしめたわけではないことを感じ取ったのかもしれない。
 セーターから柔らかくて甘い洗剤の匂いがする。私はその匂いをすう、と嗅ぎながら目を閉じた。
「先生は、無理してると思う」
「……そう思うかい?」
 彼の身体の中で頷く。
「愛した人を理不尽に亡くしたのに、なんでそんな平気そうな顔をしているの?」
「平気、か。別にそういうわけでもないよ」
 セーターにうずめていた顔を上げて、私は彼の顔を見た。哀しそうな、でも目元は乾いたままの複雑な表情だった。
「私は、どうやら妻の死では泣けないみたいなんだ。大切な者を失ったのに、身体がそういう風に反応していなくてね。泣けないことを責めている内に、いつの間にか「悲しみ方」を忘れてしまった」
「だから、穏やかな顔ができるの?」
「そうだよ。多分私は、今壊れてしまっているから、むしろ穏やかな顔しかできない」
「もっと、悲しい事だと思うよ」
「私もそう思うよ」
「でも、今はあの親戚の子がいるでしょう。それが、直るきっかけになったら良いね」
 再びいい匂いのするセーターに顔を埋めると、私の頭を彼は撫で始める。無骨で細い指先で、何度も私の髪を梳いていく。それが気持よくて、私は暫くそのまま彼に抱きついたままいようと思った。
 ネジの一本でも良い。歯車一つでもいい。彼の中の壊れてしまった何かを、取り戻せるきっかけになってあげたいと思った。
「ねえ、先生。私は、淡音にまた会いたい」
「なら、忘れないでいてあげなさい」
「忘れない?」
「君の中で藤紅淡音が生きていた記憶があるのなら、きっと彼女は戻ってくるさ」
「本当に?」
「本当だよ」
 先生から離れて、私は彼の顔をじっと見つめた。真崎葵は相変わらず穏やかな目をしていた。
 その奥、階段を上った先の扉が不意に開いたのは、その時だった。私と先生はそちらの方に目を向けて、それから互いに目を合わせる。
 この階段の先は屋上で、危険防止の為に鍵は普段閉められていた筈だ。でも今、その扉は数センチほど開いていて、使われていなくて随分古びてしまったのだろう、蝶番の擦れる音が一定のリズムで聞こえていた。
 先生の方に目を向けると、彼はポケットから鍵束を取り出し、首を横に振る。開けてはいない、と言いたいらしい。
「屋上に用はあったが、既に開いているとは……。先に誰かが開けたのか?」
「そんな簡単に屋上って開けてもらえるものでしたっけ?」
「いいや、非難訓練や特別な授業以外はそう無い筈だ。ましてや生徒に鍵を貸し出すなんて事はあり得ない」
 訝りながら私達は数センチ開いたままの扉をじっと見ていた。重たい鉄扉の奥から冷えた夜風が吐息みたいに校舎内に吹き込んでいる。
 もしかして、という気持ちはどこかにあった。あの女子高生のシルエットがどこに消えたのか、この階の教室は全て調べたけれど、誰も居なかった。帰ってしまったのかもしれないと思いもしたが、こうして目の前で鍵の開いた扉があるなら、そういう考えに及ぶのは至極真っ当ではないだろうか。
「屋上、行ってみませんか?」
「私は様子を見なくてはならないからね。君も来るのかい?」
 頷く私を見て彼は溜息を一つつくと、先に行かない事を条件に私の動向を許した。
 階段を上がっていく。一段、また一段と上がる度に冷たい風を感じて産毛が逆立っていく。こんな冷えるなんて予報は無かった筈だ。これは果たして本当に気候が生じさせた風なのだろうか。
 それとも、もっと何か別のものではないか。
 まるで拒絶するように冷たい風が私と先生に向かってくる。
「開けるよ」
 とうとう踊り場に着くと、先生はそう言って返答も待たずにノブに手を掛けて、鉄扉を開いた。

 屋上には、少女が一人立っていた。
 雪浪高校指定のブレザーとスカートに身を包み、流れるような黒髪をなびかせながら、彼女は空を見上げていた。
 空は快晴だ。小さな星までよく見えるくらい澄んでいて、月も大きく光り輝いている。
 ただ、一つだけ妙な点を挙げるとすれば、その夜空が湖畔の水面のように揺れている点だった。
 とても幻想的だけれど、同時に不安になる光景だった。
「ねえ、淡音?」
 目の前の黒髪の背中に向かって声をかける。後ろ姿ですぐに理解できた。あれは藤紅淡音であると。
 けれど、彼女は反応を示さず水面みたいに揺れる夜空を眺め続けている。いくら声を掛けても返答も何も無い事に苛立って私が彼女の下に向かおうとすると、先生に引き止められた。
「どうして引き止めるの? どこからどう見ても淡音なのに」
 そうまくし立てる私に首を振ると、彼はじっと睨め付けるように彼女に視線を向ける。何がなんだか分からないと先生と淡音に視線を行ったり来たり続けていると、漸く淡音の方に動きがあった。
「……萌黄?」
 そう言って振り向いた彼女は、確かに淡音だった。不思議そうな顔で首を傾げながら、私の方に身体を向けた。
 久しぶりに見た淡音の姿に私は息を呑む。多分、この不思議な現象の起こっている夜空を背負っているからそう見えるのだろう。彼女は驚くほど艷やかで、淫靡に見えた。揺れる月光に照らされながら髪を掻き上げる姿は、同性である私がどきりとするくらい魅力的に感じられた。まるで恋をしてしまったみたいに胸が苦しくて、彼女が欲しくて堪らなくなった。
「先生、離してよ。あの子が淡音だよ。先生も失踪した子の顔くらいはちゃんと確認しているでしょう?」
 そう訴え続ける私を、しかし真崎葵は離そうとしない。むしろ肩を掴む彼の手はよりいっそう強く、痛みを感じるくらいがっちりと握り締められていた。私が痛いと口にしても、その力は弱まることは無かった。
「萌黄、どうしたの?」
「淡音、なんで突然いなくなっちゃったの。ずっと心配していたんだから!」
 離してほしい。今、私の求めていたものが目の前にいるのに。すぐにでも駆け寄って抱きしめたいのに。諦めかけて、居なくなってしまった事をどうにか納得しようとして、それでもできずに引きずり続けた私の想い人がこうして目の前にいるというのに。
「君は、藤紅淡音」
 真崎先生は、確認するようにそう言った。当たり前じゃない、と強い口調で言ってみるが、彼は私の事なんてほとんど気にせず淡音の方に目を向けていた。
「そうですよ、先生。私は藤紅淡音です」
 そう言って胸元に手をやると彼女は笑う。
「今までどこに行っていたんだ? どうしてこれまで失踪していた」
「失踪? そんなことになっていたんですか、私」
 淡音は驚いた顔をして口に手をやる。だが、彼は納得していない。
「もう一度だけ聞こう。君は藤紅淡音か?」
 彼は、おかしくなってしまったのだろうか。何故そんな確認を続ける必要があるのか。
「藤紅淡音ですよ。一体どうしたんです?」
「君が何故そうなってしまったのかは知らない。これまでの出来事で大体繋がりは出来上がっているが、どうにも私の知っている情報が少なすぎてね。だから、この状況から一つの判断をさせてもらおうと思う」
 真崎先生は、周囲を見回し、夜空をまるで忌まわしいものでも見るみたいにじっと睨みつけると、一呼吸入れてから口を開いた。

「君は、ねむりひめだね」

 一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。ねむりひめ? 藤紅淡音が? あのモッズコートの彼の言っていたねむりひめだと? そんなことあり得るはずがない。だって今目の前で彼女はその姿で存在している。この失踪だって寧ろ彼女がねむりひめに襲われていたかもしれないのだから。
「淡音がなんで、ねむりひめなの」
 訴えかけるような目で真崎先生をじっと見つめる。
「どこで聞いたのか分からないが、君はねむりひめを知っているんだね。なら話は早い。ねむりひめは、誰かの悲劇を好む生物だ。悲しい出来事を抱え、餌として十分な栄養を蓄えた瞬間に食べようとする。そして同時に、その人物の『記憶』を糧にし、自分の中に蓄積させていく」
「記憶を、蓄積?」
「つまり、その人物の性格、生まれてからそれまでの記憶、仕草から癖まで全てを手に入れられるんだ。ここまで言えば、私が何故ねむりひめと彼女を疑うか、分かるね」
「擬態、してるってこと?」
 目の前の淡音が、擬態しているねむりひめであると、彼は言っているのか。
「藤紅淡音はそれまで学生生活を孤独に送ってきた少女だ。それに以前の出来事も含めて十分に餌としての魅力を持っていた可能性は高い」
「そんな、あり得ない! 彼女は私の事を理解してくれたし、大事にしてくれたの。孤独なんかじゃない。彼女は自分の納得する人物としか付き合わないだけよ!」
 身体が熱くなる。抑制が効かない。
 とにかく今、目の前で藤紅淡音を孤独と言い放った彼が許せなくて仕方が無かった。事を荒立てず、形だけの友情こそが全てを思っていた私を変えてくれた彼女に、そんな言葉、許せない。
「そして次の問題は、彼女は“いつから”ねむりひめだったのかだ」
 怒りが、瞬間にして吹き飛んだ。いつから、という彼の言葉に、私は混乱する。
「藤紅淡音は家族を知らない。事件が起きてからずっと親戚に助けられながら過ごしてきた。駆け落ちによる親戚の不在、事情が事情だけに恐らく父方の親戚もあまり面倒見がいいほうではなかったのだろう。そんな少女に、救いの手が降りたらどうなるだろうか」
 救いの、手? 私は困惑の眼差しを淡音に向ける。
 彼女は、そっと微笑んでいた。どこか嬉そうに目を細めて私を見つめ、それからちろりと小さな舌で唇を舐めると、黒髪を描き上げ項を撫でる。その一挙一動が、あまりにも蠱惑的で、まるで別人のように見えた。何か、彼女が藤紅淡音である証拠が見つかれば、真崎先生も勘違いを認めてくれるはず。
 そう思うのに、今、私の中に疑惑がじわりじわりと広がっていく。あれは本当に彼女なのか、分からなくなっていく。
「そして極めつけはね、ねむりひめが現れ、そして獲物を求める時、空が水面にみたいになることなんだ。『対象』を引きずり込む時に、起きる現象があれだ」
 水面に映ったような綺麗な月が揺れている。私はそれを眺めているうちに、足に力が入らなくなって、とうとう地面に座り込んでしまう。
「先生は」
 無意識に出た言葉に、真崎葵は反応する。
「なんで、そんなこと知ってるの?」
 どんな返答が返ってくるのかは大体理解していた。彼の返答が怖くて堪らない。何故、私は問いかけてしまったのだろうか。
 どんどん現実味が無くなっていく世界で、私は取り残された気分で、何をすることもできないまま、ただ声と意識だけでその場にどうにか居座っている状態で。
 だからこそ、この状況を理解したかった。
 先生は、真崎葵は、尋ねた私を細めた目でじっと見つめ、それから肩を落とすと、ポケットに手を突っ込んだ。
「私もまた、ねむりひめに魅入られた人間だからだよ」
 やっぱり、と私は思った。思ってから、彼の側を歩いていたあの少女の姿を思い出す。オーバーオールを着た幼い少女。きっとあの子だと、私は確信する。
「一度だけ、人を餌にしかけてしまったことがある。その子は助かったが、危うく死なせてしまうところだった。その時の経験があるから、私はねむりひめについて知ったんだ」
「死なせてしまうところだった……?」
 私の言葉に、彼は頷いた。頷いてから、その顔を苦悶に歪める。
「私は、あの子に、みどりに……人を殺させたくない。それが習性と分かっていても。でもそれは難解な事だ。ねむりひめの中には人間を求める衝動が備わっているからね」
「人間の味を、知らないまま生きる?」
 私達の会話に、淡音は嘲笑混じりに割り込む。それまでの彼女とは思えないほど、仕草も、表情も変わっていて、それを見る度に私は強く揺さぶられていく。
「あの甘美さを味わえないなんて、人間を愛する幸福を知ることができないなんて、そんな不憫な子も世の中にはいるのね」
 淡音はゆっくりと歩き出す。夜風で流れる髪が、誘惑するような瞳が、私の心を揺さぶる。
「味を知らないままの『私達』なんて脆弱で、悲劇を作り出す力すら持たない。そんな状態を求めるねむりひめが、いると思うかしら?」
 真崎先生は何も言わない。何も言い返せないと言った方が正しいのかもしれない。
「だから、人に寄生するの。悲劇を抱えた人が依存したくなるような、奥底に秘められた願望を写し取って現れる。身を滅ぼしてでも依存したくなるように」
「君に依存する「人物」も、大体特定できている」
「知っていても、今ここで消してしまえば済む話でしょう。だって、ねむりひめの飼い主ってことはつまり、貴方もとっても美味しいってことなんだから」
 気がつくと彼女は真崎先生の目の前に立っていた。その場に立ち臨んだままじっと彼女を見つめる彼の目には、けれど絶望や諦めは無くて、私にはそれがとても不思議に思えた。
「みどり、おいで」

――とぷん。

 水の跳ねる音が聞こえた。
 空に広がる水面に波紋が生まれ、周囲に広がるように波打って消えていく。ほんの一瞬だけだ。その一瞬の後に再び真崎先生に視線を戻した時、オーバーオールの少女がその大きく潤んだ瞳で向かいに立つ淡音を見た後、次に私の姿を見て、小さな指を向けた。
「もえぎ」
 みどりは座り込む私の傍にやってくると首を傾いだ。可愛らしい仕草だが、ここまでの出来事のせいでそれすら反応する余裕が持てなかった。
「もえぎ、まえよりおいしいにおいがする」
「におい?」
 ぺろり、とみどりは私の頬を舐めた。擽ったさに思わず身を退いてしまうと、少女はそれからもう一度首を横に傾がせてみせた。
「この状況を把握しきれない事は当たり前だが、たった一つだけ、理解してほしい。彼女が狙っているのは、君なんだ」
 先生はみどりと私の前に立ってそう言うと、ポケットから小さなナイフを取り出してみせた。取手も作りも簡素な果物ナイフだ。少なくとも、そんなものが効くようには思えない。
「みどり、もえぎを連れて行きなさい」
「たべちゃだめ?」
「だめだ。言っただろう、人は食べてはいけないよ」
「わかった」
 不可思議且つ難解な二人のやり取りを終えて、みどりは私を連れだそうと制服の裾を引っ張り始める。
 淡音が食べようとしているのは、私……? 狙われていたのは自分で、今も真崎葵やみどりよりも淡音は私のことを求めている?
 でも、例え彼女がそうだったとして、横取りされないように唾を付けていただけだとして、あの時、私を変えさせた言葉を吐いたのは紛れもなく彼女だ。
 淡音のお陰で変われたって、私は言いに来ただけなのに。何故逃げなくてはいけないんだろう。そう思うと、どうしても身体が動かない。逃げてはいけないように思えて、いや、淡音をもう見失いたくないと思ってしまう。
「淡音、本当に、私を?」
 身体が震えて、うまく声が出せない。多分皆にはすごく怯えた私の声が聞こえているんだろうなと思うと、すごく恥ずかしくて堪らない。誰にでも愛想よく、周囲に当たり前のように馴染んで、敵を作らずに過ごしてきた私が、今じゃこの体たらくだ。情けない。
 淡音は柔和な笑みを見せると真崎葵から私の下へとやってきて、そっと手を差し伸べてくれる。
「ほら、萌黄」
「若苗さん!」
 目の前で親友が手を差し伸べてくれているのに、これを拒否する理由なんてないじゃない。私はお礼を言いたくて彼女を探し続けていたのだから。
 私は、淡音の手を強く握りしめる。冷たくて、陶器みたいにあきめ細やかな肌に、私は怖いくらい充足感を覚えた。
「萌黄、手を取ってくれて、ありがとう」
 私の手を握り締めて、彼女はそっと微笑んでくれた。
「私は、淡音に、ありがとうって言いたくて、ずっと探してたの」
「ありがとう?」
「私を変えてくれたのは、淡音だから。淡音がいなかったら、私はずっと自分を曝け出すことが怖いままだったから……」
 私は、貴方のおかげでちゃんと自分を持つことが出来た。本心からの言葉だった。淡音はそんな私にそっと微笑みかけると――

――ずぶり、と身体が沈むのを感じた。

 時間もが止まったように感じられた。
 淡音も、真崎先生も、みどりも、皆止まって見える。意識だけが鮮明で、目の前で優しく微笑む彼女を見て、私はたった一言、絞り出すようにして言葉を吐き出した。
「……え?」
 下半身が生温い感触に包まれていくのを感じる。身動きが取れない。淡音との距離が離れていく。湖畔みたいな夜空が遠くに見える。
「私こそありがとう。こんな素敵なご馳走、そうありつけないもの」
 意地悪く微笑む淡音の顔を見て、何もかもが真っ白になった。空気でも掴むみたいに両手を振り回すが、何も支えになるものは無い。既に胸まで沈み込んで、生温い感触が私の身体にぴったりと張り付く。気持ちが悪い。出ないと危ない。どうにかしないと“淡音に食べられてしまう”。
 気がつくと必死に叫んでいる自分がいた。どれだけ叫んでも助けは来ない。先生は何をしているの。みどりは何もしてくれないの。他人を責めたくて堪らなくなる。
 けれど、やがてこうなったのは自分のせいと理解すると、私はどこか諦めが着いたように落ち着いてしまった。
 心が冷えて固まっていくのを感じる。もう視界は暗く塗りつぶされ、残った手もやがて飲み込まれてしまうだろう。
 私は、友達を信じたかっただけなのに。
 初めてできた友達を、信じきりたかっただけなのに。
 自分が変わったことを、見せたかっただけなのに……。
 掠れていく意識の中で、私は絵美の笑った顔を思い出す。会えて良かったと言ってくれた時の事が脳裏に浮かんだ。

 ごぼり、と私の口から泡が出た。
 その泡は粘液のように苦しいこの液体の中で真上に突き進むように浮かび、やがて私の前から消えていった。


       

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Neetsha