Neetel Inside 文芸新都
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ねむりひめがさめるまで
【泡沫の話三】

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   ―泡沫の話三―

 飛び込み台から飛び込んだ時みたいな感覚がして、とぷんと深く深く私は沈んでいった。
 水中―果たしてここが本当に水中かは分からないけど、他に思いつくものが無いから水中にしておこうと思う―に投げ出されて最初にしたのは息を吐き出す事だった。
 ごぽ、と音を立てて私の口から泡が吐き出された。まるで身体の中に溜まったものを吐き出すみたいで、なんだか悪い事ではないように思えた。
 目を開けようか、暫く迷った。自分がどこにいるか分からないけど、どこにいるのかを確認するのも怖くて堪らない。
 ただ、自分の置かれている状況だけはちゃんと把握していた。
 
――そう、食べられたんだ、私。

 藤紅淡音という友人を追いかけた結果がこれだなんて、本当に残念で格好悪い終わり方だなあ。救いたかった親友に命を奪われてしまうなんて。

――ぶくり。

 耳元で何かが蠢いた。
 周囲を泳いで回っているようだ。
 このまま、何も分からないまま死んでしまうより、最後くらい自分の状況を知って終わるほうがまだ良いかもしれない。
 私は数字を十数えてから、目を開いた。


 光だった。
 ゆらりと漂う私に、光が放射状に幾つも降り注いでいる。不思議と視界ははっきりしていて、水が目にしみるなんてこともない。
 真上の方に、この場所との境界があるみたいで、まるで水底から見た水面みたいにその境界は揺れていて、揺れに合わせて光もまた形を変える。
 体を動かしてみる。液体の感触はあるけれど、それらは私を侵そうとはせず、ただ存在を受け入れていた。
 拘束されているわけではないようで、体は自由に動いた。多分、漂っているという言葉が正しいのかもしれない。
 随分遠くにある水面を眺めながら口を開いてみると、またぶくりと大きな気泡が一塊生まれて、真っ直ぐに水面へと上っていった。途中で形を変え、分かれながら、最後には小さな気泡の群れになって消えていく。その光景を見届けていると、胸の内側が切なくて堪らなくなった。
 私は、このままどうなるのだろう。
 泳いでもきっとあの水面の先には行けない気がする。そういうものなのだと不思議と納得している自分がいる。
 私は水面から底の方に目を向けた。両手を使って、船でも漕ぐみたいに液体を掻いて体の向きを変える。
 下は真っ暗で何も見えなかった。
 あの先には何があるのだろう。底まで沈みきったら、私はどうなってしまうのだろう。消えるのかな、そのまま溶けていくのかな。いずれにせよ、待つのはきっと終焉だろう。
 まあ、いいか。と私は再び目を閉じる。
 私は今、藤紅淡音の中で溺れ、漂っている。
 そう考えると、中々悪くないように思えた。好意を抱いた少女の中でこのまま溺れ死んで、肉も骨もこの中で溶けるのなら、それはそれで幸せな終わり方なのかもしれない。
 私はこのまま藤紅淡音の一部になるんだ。
 途端に沈んでいく速度が少し増した。ここは、きっと受け入れれば受け入れるほど沈んでいく世界なのだろう。

――ぶくり。

 その時、また何かが泳ぐ音がして、私はその方に目を向けた。
 遠く水面の辺りで、魚が泳いでいるのが見えた。光を目いっぱいに浴びながらとても気持ちよさそうに泳ぎまわっている。
 体は目も醒めるような青で、尾ヒレが体よりも長くて、赤い。
 不思議な魚だ。似たような魚は水族館や図鑑で見たことがあるが、どれも微妙に当て嵌まらない。
 魚は、その長い尾ヒレをはためかせながら自由にこの中を泳ぎ回ると、やがて私の方へと潜水を始めた。ぷかぷかと口を開け閉めしながら、真っ黒い両の瞳は私を映している。
 いいよ、食べて。
 私は身を捧げるように両手を広げる。魚は更に水を一蹴りして速度を上げていく。

 魚は私の服を口で器用に咥えただけで、食べようとはしなかった。
 なら、何が目的なのだろう。
 私を咥えている魚を見て、それから暗い水底に目を向けて、私はその光景に驚いた。

――人だ。

――人が沢山沈んでいる。

 暗く冷たく感じる水底で、老若男女構わず底で揺られている。その顔はどれも眠っているように穏やかで、息苦しさも、苦痛も無いように見えた。
 私もああなるのか。
 水底を眺めながらそう胸の内で呟くと、不意に誰かがそれを否定した気がして、私は周囲を見回す。だが、左右上下どこを見ても人は居ない。傍にいるのは一匹のやけに大きな魚だ。
 その魚は尾ヒレを揺らしながら暫く私を引っ張りながら泳ぐと、やがて途中で止まった。
 ここだよ、と声が聞こえた気がして、私はまた水底に目を向ける。
 藤紅淡音が、そこに眠っていた。
 私をここに呑み込んだ時と同じ顔が、そこに眠り込んでいた。
 そして、そんな彼女の手を握って眠る少年の姿が、そこにはあった。短い黒髪と体格の良い制服姿の青年だった。
 淡音と彼は、何故手を繋いで眠っているのだろう。どこか穏やかにも見えるその表情は、多分、私にも見せたことの無い顔だ。いや、これが本来の彼女の顔なのかもしれない。
 知りたい、と思った。
 隣の青年の事を。青年の手を取り穏やかに眠る淡音の事を。
 すると私を咥えていた魚が再び動き出し、二人の眠る水底へとどんどん泳ぎ始める。
 速度はどんどん上がっていく。
 やがて水底の直ぐ側で魚は止まると、私を離す。魚はとても気持ちよさそうに自由に魚は泳ぎまわっていた。身体を捻る度に真赤な長い尾ヒレが踊るみたいに揺れていた。
 多分この子は、私の意図を汲んでくれている。それが私を哀れんでなのかは分からないが、ともかくここまで運び、傍にいてくれるその魚に感謝した。きっと孤独でいたら、皆と同じように眠ってしまっていた気がする。
 まだ、少しだけ時間があるみたいだ。
 私は自力で泳ぎ始めると、眠る彼らの直ぐ側までやってきて、その顔をよく見てから、そっと二人の繋ぐ手に触れた。

 色んな情報が、私の中に流れ込んでくるのが分かった。

 感情が、記憶が、痛みが、二人の「それまで」が、熱い血液のように私の中を巡っていく。

 私の中を巡る記憶の奔流の中で、ふと彼女の隣で眠る男性の名前を見つけた。それは、私も知っている名前だった。
「咲村、真皓?」
 そう、テレビで何度も報道されていた名前だ。それに、お姉さんの顔だってよく覚えている。つり目の特徴的な、とても大人びた綺麗な人だった。彼もお姉さんと同じで、つり目で綺麗な男性だった。
 藤紅淡音と、咲村真皓。

――貴方達は、一体どうしてここにいるの。


       

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