【七】白く、淡く/真皓と淡音


   一

 結局、眠ることは出来ずに朝を迎えた。
 この先に待っている僕自身の結末を考えると、どうしても寝る気にはなれなかった。
 ベッドから起きて時計の時刻を確認する。針は四時前を指し示している。日はまだ出てはいない。窓の先の景色は、僕が見ている世界は未だ黒い陰で覆われていた。
 僕はベッドから出て、向かいの窓に掛けられた制服を手に取る。糊のきいた白シャツと黒いズボン、一箇所だけ穴の歪んだベルトに靴下。
 僕は無言でシャツに袖を通し、教科書の詰まった鞄を肩に提げ、充電の終わった携帯電話をポケットに滑りこませて部屋を出た。まだ誰も起きていない。あと一時間もすれば母さんが朝食の準備に起き出すに違いない。
 できることなら、家族に会う前に家を出たかった。正直なところ、一睡も出来ずに朝を迎えたことは、ある意味では都合がとても良かった。
 一階に降りてリビングに足を踏み入れ、キッチン奥に置かれた冷蔵庫を開ける。吐出された冷気が僕の肌を一瞬撫でて消えた。残ったのは微弱な振動が生み出す低音だけだった。僕は牛乳を取り出して、グラスに注ぎ入れた。
 キッチンからリビング奥のソファに移り、ローテーブルに置かれたリモコンを拾って向かいのテレビの電源ボタンを押した。
 ニュース番組は今日も相変わらず際限なく続く事件のうちのひと掬いだけを紹介していた。化粧で顔色を整えた女性キャスターが、淡々とした口調で出来事を次から次へと並べている。
 痴情の縺れによる殺人事件。
 深夜のコンビニ強盗。
 いじめを苦に校舎から飛び降りた女子高生。
 幸せな報道なんて、一つも無かった。
 誰かが結婚したとか、百歳を迎えたとか、どんなことでもいい。明るくて気持ちの良いニュースを報道して欲しかった。
 ソファに腰をどっかりと落とし、牛乳を一息に飲み込むと、行こう、と僕は小さな声で呟く。
 出発しよう。彼女が待っている。
 その時、リビングの扉が開いた。
 驚いて視線をそちらに向けると、まだ寝ぼけ眼の姉、朱色がこちらを覗いていた。
 僕は簡単に挨拶を済ませると、テレビに目を向ける。寝間着姿の姉は冷蔵庫を開けている。行くべきだと思って、ソファから立ち上がろうとしたが、朱色はテーブルにコップをもう一つ置いた。隣に座った彼女は既にコップを一つ持っている。オレンジジュースの入ったコップを。
「何かあったの?」
 姉はテレビに目を向けたまま淡々とした口調で僕に問い掛ける。何故か、と聞くと彼女は目が赤いからと答えた。
 暫くどう答えようか考えて、でも何も出てこなくて僕は黙ったままテレビに目を向ける。本当に何もないのか、と繰り返す彼女にも無言を貫いていると、姉は問い掛けるのを辞めた。
 姉にならもう話して良いのかもしれない。そう思った僕を止めたのは、僕が愛した彼女の笑顔だった。
 誰かの視線が苦手で、でも必死に自分を作って強がっていた人。僕と関係を作っても出来る限り誰にも見られたくないと強く願っていて、僕はそれを了承し、隠れて愛し合った。
 孤独を望みながら、孤独に怯え、それ故に逃げ場を失い彷徨う彼女は美しくて、そしてそんな儚い美しさを守りたいと思ったのだ。
 僕は姉の横顔をちらりと見る。オレンジジュースを片手にまだ眠そうな目を開いてテレビを見つめている。
 恋人とは違う強くて凛とした美しさのある人だと僕は思っていた。
 僕ら姉弟は容姿が、特に目元がよく似ていると言われていた。じっと見つめたり、目を細めるだけで不機嫌そうに見られる所まで似ている。
 でも、それでも姉の方がずっと綺麗で、容量が良い。時々姉になりたいと思ったことだってあった。
 ふと、先日の真崎葵さんの奥さんの葬式を思い出す。何故こんな時に思い出したのかよく分からなかったけれど、なんだか今ならあの喪失感を共有できる気がした。僕のこの決断が先延ばしできたなら、真崎葵さんに直接色々聞きたかった。
 例えば、涙を流すことがちゃんとできたのか、とか。
 僕はもう一度横目に彼女の顔を見る。
 姉といる時間は息苦しく無いし、自然に振舞っていられる。この姉弟という丁度いい距離感が僕にとって居心地が良いのかもしれない。
 そんな信頼出来る家族の傍にいるせいだろうか、僕は今、決意を揺らがせていた。本当にこのままの終わり方が良いのだろうか。他にもっと、何かあるのではないか。そう思えてならない。
 僕は首を大きく振って、それから沈黙を自ら破る。
「真崎葵さんだっけ、あの人は全然泣いてなかったよね。あれはどうしてなんだろう」
 朱色は変わらずテレビの方を見続けながら、飲み終わったコップをテーブルに置いた。
「そんなの、私に分かるわけないじゃない」
 多分、そう答えるだろうと思っていた。だから、僕は続けて彼女に問い掛ける。
「もしも自分が同じ状況に立ったら、自分の親しい人間が死んだら、姉ちゃんは泣ける?」
「突然どうしたの」
 姉の視線が、僕に向いた。突然何を言い出すのだと、きついつり目がそう言っていた。僕はその目に怯まず、一呼吸置いてから、姉に向かって笑いかける。
「俺が死んだら、姉ちゃんは泣いてくれる?」


 途端に、目の前が真っ白になった。ぴしゃりと音がして、目の前がチャンネルでも変えるみたいになって、それから遅れて頬が滲みるように熱くなった。
 多分、その一発が決意になったのだと思う。僕を衝動的に叩いて、自分でも驚く姉を見て、次に打たれた頬に手を当てて目を閉じると、心の中でよし、と呟いた。
 それから鞄を手に取って玄関へと向かう。呆然とする姉の横を通り過ぎた時、少しだけ胸が傷んだけれど、決意はもう揺らぐことはなかった。
「馬鹿なこと、言わないで」
 その一言に、僕は思わず振り返ってしまった。出て行くべきだと、これ以上いるわけにはいかないと、そう思っていたのに、姉の思いもよらない言葉に当惑し、足を止めてしまった。
 姉はリビングから身を乗り出した状態で、寂しげな表情のまま僕をじっと見つめていた。引き止められない、けれど引き止めたい。そんな感情を掬い取ることが出来たのは、彼女の弟として僕が生きてきた結果なのだろうか。
「死ぬなんて、冗談でも言うな」
 今、僕が戻って手を伸ばせば、また別の道があるのかもしれない。それは僕が生きている道なのかもしれない。
 でも僕はその選択をしなかった。
 姉の口にした言葉を背中に受けながら、扉を開けた。青白い光と早朝の涼しい風を受けながら、僕は息を思い切り吸い込むと、ただ一言、後ろに恐らくまだいる一人の女性に向けて口にした。
「いってきます」
「……うん」
 扉を閉めて、今度こそ僕は戻る道がもう無くなってしまった事を自覚する。帰ったら姉に謝るべきと思いながら、その機会はもう無いことが少し悲しかった。
 僕は前を向いて、彼女の姿を脳裏に浮かべる。
 寂しがりで、怖がりで、人と繋がり合う事に怯える小さな少女、籘紅淡音の姿を。

   ○

 彼女は、誰かと繋がることに酷く怯えを抱いていた。
 家族を亡くし、親戚を転々とした末に落ち着いたのが一人暮らしという彼女の生活は、僕の目から見ても随分なものに映った。
 だからだろうか、僕は彼女が纏う非日常感、一人であるが故に強く在ろうとする彼女の立ち振舞に、憧れたのかもしれない。
 それが告げると、隣に座る藤紅はふふと笑う。
「それで、思わず私に声をかけたの?」
「それだけじゃないよ、とても綺麗だったのもある。僕だって男だから、下心がないわけではないし」
 ふうん、と藤紅はどこか嬉そうに微笑むと、駅前の喫茶店で買った珈琲を口にする。小さな両手でカップを覆うようにして、ゆっくり、ゆっくりと飲み進めていく。その姿を眺めていると、彼女が視線に気付いて僕を見た。僕が慌てて目を逸らすと、彼女はまた笑った。
 僕達は公園の隅に置かれたみすぼらしいベンチに腰掛けていた。ビル街の奥に位置する誰のために造られたのか分からない小さな公園だ。時々通る男性も忙しそうに額をハンカチで拭いながら横切っていくだけで、公園に誰がいるかなんて見やしない。きっと余計なことが考えられないくらい忙しいのだろう。
 ここは二人の高校―彼女と僕はそれぞれ別の高校だ―から何駅も離れた場所で、遊び場も何もない。あるのは昼間は寂れている商店街とビルだけで、学生なんて寄り付きもしない。
 だからこそ、僕らにとっては好都合だった。
「珈琲とか、そういった飲み物は苦手?」
「甘いものが好きなんだ」
 そう言ってそばの自販機で買ったサイダーのボトルを揺らすと、彼女は一口、と言って僕の手から奪い取った。。
「甘ったるい」
 一口飲んで彼女はそう言った。
「ジュースだからね」
「でも、こっちの方が好きだわ」
「じゃあ、どうしてわざわざ珈琲を飲むのさ」
 そう問いかけると、藤紅は暫く視線を宙に浮かべ、一度肩をすくめると僕の方に目を向けた。
「さあ、大人ぶりたいのかも」淡音はふふ、とからかうように笑う。
「珈琲を飲めると大人なの?」
「苦くて嫌なものが飲み込めるって思うと、大人になったような気がしちゃうの」
「無理して大人になる必要があったってこと?」
 そう尋ねると、藤紅は暫く困ったような顔をしてから、僕の肩に頭を乗せる。あまりにも突然で緊張する僕を横目に彼女は悪戯に笑うと、力を抜いて、と語りかけるように言った。
「家族がいないのは、話したよね?」
「聞いたね」僕は頷く。
「親戚の家でも居場所がなかったことも」
「聞いたよ」
「高校に入るか入らないかくらいの頃に、今の家を紹介されたの。それ以来、朝起きてから夜眠るまで、誰も傍にいない生活」
「寂しかった?」
「寂しかったわ。でもそれをはっきりと自覚したら潰れてしまうと思って必死に否定し続けてきたの。子供なりに一人で孤独に耐えるにはどうしたらいいのかを必死で考えた末に、出てきたのは『大人になる。強くならなくちゃ』ってことだった。単純よね」
 彼女はくすりと笑う。
「だからね、未だに私は貴方とどう接していいか正直分かっていないの」
 添えられた彼女の手をそっと握り締める。だが、彼女の手からほんの少しだけ拒絶のような硬さを感じて、思わず手を緩めてしまう。
「貴方は、ずっと私の傍にいてくれるかしら?」
 答えるべき言葉は決まっていた筈なのに、僕はその時決めていた返答を彼女に返すことが出来なかった。
 彼女がもがいた末に行き着いた場所に、正直僕自身が、当たり前の日常で過ごし続けてきた一人の男子生徒が踏み込んでいいものだろうか。そんな不安が頭を過ぎって、臆病風に吹かれたんだと思う。
 言葉をどこかに置いてきてしまったみたいに黙りこむ僕を見て、藤紅は日陰で咲く花みたいに儚い笑顔を作ってみせた。
「今、君を裏切ったのかな」
 藤紅を見つめたままそう問いかけると、彼女は静かに首を横に振り、手を僕の膝に置いた。
「でも、まだ好きでいてくれているのでしょう?」
 そう言って微笑む彼女の瞳は、何よりも素敵で、水の底から光を見つめるみたいに輝いて見えた。
 僕達は何かを急ぎ過ぎている気がした。
 何度もデートをして、会話をして、受け入れる準備が整ってから互いを許し合う。それが普通の出会いなのだとしたら、恐らくこれは普通ではない。出会って少ししか経っていない中で、僕達は互いに結びつき合うことを選んだのだから。
 でも、きっと僕と藤紅にそんな普通は通用しない。いや、正確に言えば藤紅には。
 彼女の肩に手を回して抱き寄せる。手を握った時みたいな拒絶はまるで無かった。藤紅は黙って僕のことをじっと見つめている。きっと僕が何をするつもりなのかも、お見通しなのだろう。
「いいかな」
 答えは聞かずに、残った手で彼女の顎をそっと引くと唇を重ねる。グロスの塗られた薄くて、けれど柔らかな唇の感触を味わいながら、僕はそっと目を閉じた。奥から漏れ出る吐息を感じる。とても落ち着いていて、けれど少しだけ熱を持った吐息に、酷く安心している自分がいた。
 たった数秒、けれど随分と遠くまで来てしまったみたいに感じられた口付けを終えて、僕は彼女から離れる。ほんのりと頬を染めた藤紅は薄目を開けていて、乱れた髪を掻き上げると後ろに流す。じんわりと赤みのさす首筋が黒髪の先から見えて、鼓動が早くなるのを感じた。
「俺は、君の傍にいたいよ」
 口付けが、僕と彼女との距離を更に明確にした事を感じた。
 藤紅は目を細めたまま僕の頬を撫でると、もう一度だけ唇を重ねる。
 たった一瞬の切なくて、けれど甘美なキスだった。
「私を、掬い上げてくれるの?」
「掬い上げる?」
「そう、掬い上げるの」
 藤紅は立ち上がると目の前でくるりと一回転してみせた。雪浪高校指定のスカートがふわりと浮き上がって独楽みたいに流れる。
「私はね、ずっと溺れている状態だから。いつかきっと息も吸い尽くして、苦しみながら死んでしまうと思うの」
 彼女の瞳の奥に見た光は、きっとこれだ。
「だから、早く私を引き上げて、私に酸素を頂戴」
 そう言って笑う彼女を、ビル陰が覆う。まるで光に拒絶されているみたいに、憧れるだけで触れることは許されないみたいに、彼女は日陰に落ちて、僕だけが陽光を浴びていた。
 彼女はもっと深く沈んでいくのだろう。酸素が無くなるまで、呼吸の仕方を忘れるくらい潜って、その先で眠ろうとしている。孤独さえ忘れてしまうほど真っ暗な奥底の海底で。
 立ち上がって、彼女の待つ日陰に一歩、足を踏み入れる。二歩、三歩と進む毎に不思議と足は軽くなった。日向に背を向けたまま彼女に歩み寄ると、後ろ手に組んだまま笑っている彼女を僕は抱き寄せる。
「分かった」
 そう耳元で囁くと、良かったと藤紅は僕の胸に顔を埋め、それから上目がちに僕を見上げると、またキスをした。驚く僕を見て彼女は更に嬉そうに笑うともう更に一度キスをする。
 まるで呼吸でもするみたいなそのやり取りの中で、僕はこの人を守りたいと思った。どれだけ莫大な時間が掛かったとしても、彼女をこの腕に抱き続けたかった。

   ○

 彼女の連絡が途絶えた。
 数日間まるで姿を現さなくなって、連絡も通じなくて、でも姉に彼女が高校に登校しているかどうかなんて聞けなくて不安になっていると、彼女の方から連絡が入った。ようやく連絡が取れたことに安心した。
 しばらくぶりの電話に呼ばれ、いつものビル街奥の公園に到着すると、夕闇の中で彼女は一人ブランコを漕いでいた。ぎい、ぎいと錆のこすれ合う音が響く中たった一人で。
「やっと来たね」
 そう声をかけられた時に感じたのは違和感だった。
 外見や言葉遣い、仕草から全て彼女と同じだったのだけれど、何故か僕の中で彼女のことを藤紅淡音と思うことが出来なかった。
「何か変わった」
 そう告げると、彼女は吐息を漏らすような笑みを零してから僕を「素敵な勘の持ち主だ」と言った。
「私が私でないことをちゃんと理解できるなんて、そうそう無いわ。つい最近一人、藤紅淡音の在り方に酷く共感した子がいたけど、結局彼女は私に違和感なんて感じていなかったし」
 藤紅ではないとは一体……。
 僕は目を細め、彼女の事を見つめる。
「君は、一体何なんだ?」
 彼女の瞳が妖しく光って、まるで獲物を一匹見つけたみたいに僕をじっと睨みつける。藤紅がしたことのない、惨忍で敵意に塗れた、酷く醜い表情だった。
「彼女は夢の中にいる」
「夢?」
「私はね、人の記憶が大好物なの。人間関係に怯え、コンプレックスに苛立ち、自分の思考と感情すらもバランスよく保てない不器用な人の記憶が、ね……」
 何を言っているのか理解できない。訝る僕を見て彼女は醜い表情で下品に笑った。
 気持ち悪い。
 藤紅淡音をそんな風に扱うなと言いたくて、けれど現在の状況に対する整理がどうにもいかなくて、結局僕はだんまりと決め込んだままそこに立ち尽くしていた。
 彼女―目の前の女性を藤紅淡音と認識したくない抵抗か、そう呼んでしまう―はそれから幾つもの非日常的な言葉を並べていった。自分は人の記憶を好物として生きる存在であること、普段は人前に姿を見せることはまず無いこと、記憶を食べれば食べるほどに人を知り、幸福を感じられること。
 そして、一度記憶を食べた人物を映し出せる事。
 即ち今目の前にいるのは、やり方はどうであれ彼女の記憶を全て喰い尽くしたが故に出来た藤紅淡音であって、実際の藤紅淡音はもう日常からは消え去ったと言うことだった。
 狙った理由は単純に親戚や周囲との関係も薄い事、そして何よりも、彼女達の好む「悲劇を宿した記憶」を持っていた事。
 そこまで説明されても、僕は一体どうすれば良いのか分からずにいた。
「もう、藤紅は戻っては来ないのか?」
 尋ねると、彼女は面倒くさそうに毛先をくるりと巻きながら頷く。
「藤紅淡音で居ることはできるけど、私も望まれた姿があるから」
「もう、彼女には会えない」
「そうなるわね」
 呆然と佇んだままの僕を見て、彼女は酷く嬉しそうな顔をして片足に体重を乗せたまま、パーカーのポケットに手を突っ込む。久しぶりに会えた動揺でよく見ていなかったけれど、グレーのパーカーにシャツとジャージという姿は、僕が今まで見たことのないようなラフな格好だった。
「どうして、最期の機会を俺に?」
 なによりも聞きたい事だ。目当ての人間を食えた―彼女のいう言葉を信じたとして―のならさっさと消えるべきだ。
 問いかけに対する答えは、至極単純なものだった。
「私の中で、藤紅淡音は眠っているの」
 自慢げに藤紅の名を口にする彼女が、気に食わない。
「お前の言葉通りだったら、もう藤紅は取り戻せないんだろう?」
「そう、その通り。食べた物をそのまま吐き戻すなんてそうそうできることじゃないし、私はこの記憶を酷く気に入っていて、手放したいとは思っていない」
 強く睨む僕を見て、彼女はどこか愉快そうに笑う。
「でも、貴方は藤紅淡音と一緒にいたいと思っている」
 彼女は一体僕に何を伝えようとしているのだろう。
 動揺を隠せずにいると、彼女はまた笑う。下品に顔を歪めながら。
「吐き出すことは出来ないけれど、入ることはできる」
「つまり?」
 彼女が言わんとしていることはなんとなく理解していた。
 だが、その方法を口に出す気にはなれなかった。
 言葉を止めた僕を見てもどかしそうに身を捩らせると、彼女は歩み寄り耳元でそっと囁いた。
「私の中に来ない?」
 それは、あまりにも身勝手な誘いだった。
 耳元で笑う彼女を突き飛ばすと、その上に馬乗りになり、パーカーの襟を掴んで引き寄せた。嘘が真かはともかく、僕が憧れた女性がこんな言葉を口にする筈が無い。ましてや誰かを簡単に受け入れようとする事なんてあり得ない。
 でなければ、あの時緊張で固まった手はなんだったのか。
 彼女は掬い上げて欲しいと言った筈だ。一緒に溺れて欲しいなんて言うはずが無い。
「君は、一体どうしたんだ」
 うまく思考が纏まらなくて、気の抜けた言葉しか口から出てこない。彼女はにやりと口元を歪ませた。
「だから、淡音はもう私の中に沈んでいるの。何もかもを放棄して、水底でずっと眠り続けていて、恐らく目を覚ますことは無いわ」
「水底って……」
 水面を揺らめきながら、穏やかな顔で眠る藤紅の姿を想像する。普段通りの表情で、境遇も孤独も繋がる恐怖も何もかもを忘れて、ただ好きなだけ眠っている。起きる必要も無いし、これ以上傷つくことも無いと安心しきって……。
 結局、僕は藤紅を掬い上げてやる事ができなかったのだろうか。どれだけ近づいた気になっても、結局彼女は絶望して、目の前の彼女の言う悲劇に溺れ続けることが苦しくなって、呼吸の仕方すら忘れて、やがて諦めて沈んでいったのだろうか。
「しばらく、考えさせて欲しい」
 咲村真皓という人間の至らなさが原因だったのか、藤紅淡音が既に限界を迎えていたのかは分からない。ただ、僕が彼女を救えなかったのは事実なのだろう。
「君の言っている事は理解の範疇を超えているし、君が藤紅淡音であって藤紅淡音では無いという状況もまだ飲み込みきれてないんだ。少しだけ、考える時間が欲しい」
 そう告げると、彼女は目を細め、僕の襟を掴むと強引にキスをした。暫く呆然としていたが、突然唇に走った痛みに思わず彼女を突き飛ばしてしまった。
 慌てて彼女から離れると口元に指を当ててみる。鈍い痛みと鉄の味がする。触れた指先が朱色に染まっている。
「待ってるわ」
 起き上がった彼女は後頭部を少しさすってから、なんでもない風に長い髪を手櫛で梳かすと、僕に向かってそう告げ、そして動揺を隠せない僕を見て愉快そうに笑うと、やがて姿を消してしまった。
 誰も居ない公園に一人立ち尽くし、突き付けられた事実を胸の内で何度も反芻する。
――もう、俺が憧れた藤紅淡音はどこにも居ない。

   ○

 ビンタは正直効いた。まだ感触の残る頬を擦りながら、すとん、と胸の内で何かが落ちていったのを感じる。
 藤紅の事を思い出している内に、僕は随分と歩いたみたいだ。
 見上げると水滴を垂らしたたように空が滲んで見えた。真っ青な空に波紋が広がって、薄暗くなっていく。恐らく、彼女が来たのだろう。僕が答えを出したことを嗅ぎ付けて、居てもたっても居られなくなったのだ。
 この際、不可思議な現象だとか、人の記憶を好むものだとか、そんなのは正直どうでも良かった。このまま深く沈んでいった先に、水底に本当に藤紅がいるのなら、それで十分だ。

――とぷん。

 瞬きをした一瞬の内に、僕は水中に沈み込んでいた。
 冷たくも暖かくもなく、全身を液体が侵していく感覚も無い。ただ揺らめき、沈んでいくだけの世界だった。
 僕はふと思い立って水面の方を見た。
 スパンコールみたいに光が水面越しに飛び込んで、放射状に差し込んでいる。それはまるで藤紅の瞳みたいだと思った。
 鞄を手放し、揺らめくネクタイを強引に解いて僕は水底へと泳いでいく。
 口を開く毎にごぼり、と音を立てて泡が浮上していった。粉々に砕けて小さくなって上に消えていく泡を横目にひたすらに泳いでいくと、やがて人々の群れを見つける。
 水底にいながら、誰一人として苦悶の表情を浮かべている者はいない。皆穏やかに眠っているように見えた。僕は更に水を掻き分けながら人の群れを観察し、たったひとりの少女の姿を探し続ける。
 やがて、僕は彼女の姿を見つけた。
 更に潜って彼女の傍まで泳ぐと、隣に滑り込む。
 乱れていた黒髪を直してやりながら、しかし目を覚ます様子の無い彼女を見ていると、悔しさと、寂しさと、悲しさの入り混じった不思議な感情がふつふつと湧き上がる。
 もう彼女と言葉を交わすことは出来ない。
 できるとすれば、隣で一緒に眠ってやることくらいだ。
 ――ごめん、俺はとても非力だ。
 言葉は泡になって再び浮上していった。砕け散っていく泡を見上げ、それから藤紅の頬を撫でると、僕はその唇にキスをする。冷たくもなく、暖かくもなく、何も感じない寂しい唇だった。
 僕は彼女の手を握り締め、真上を見た。飛び込んできた光が水によって揺れて形を変えていくのが分かる。濃紺に塗りつぶされた水底から見上げる景色は、とても綺麗に思えた。
 暫くして、僕は目を閉じる。
 眠くて、だるくて、体中の輪郭が無くなっていく。
 僕は押し寄せてくる睡魔の中で、ただ藤紅の右手に意識だけを使った。例え僕が僕でなくなっても、この手だけは決して離さないでおきたい。
「××××」
 大きな気泡とともに口にした言葉は、とうとう音にならないまま泡と共に浮上して消えていった。
 やがて、僕は液体の中に溶けた。不思議とその感覚は悪いように思えなくて、ああ、こんな終わりも有りなのかな、と思う。

 まあいいや、君の傍にいられるのなら、それで――