Neetel Inside 文芸新都
表紙

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   ニ

 まず、私は謝らなくてはいけない。
 私を受け止めようとしてくれていた彼に対して。
 私は多分、もう貴方の傍に居ることも、あの公園で会うこともきっと出来ない。
 水中で仰向けのまま揺られながら、私はぼんやりと光を眺めていた。さっきまであの水の先にいたのに、今はもう随分遠い。手の届かない先で輝くそれは、純粋で、瑞々しくて、凛としていて、それが、とても美しくて、身体を照らす度にくすぐったいような、暖かいような、そんな安堵感を感じた。
 やがて終わる感覚を、この暖かい光で最後にできるのなら、それも悪くない終わり方なのかもしれない。

   ●

 気がついたら、私は孤独だった。

 お父さんもお母さんも私の目の前で殺された。襲ったのは黒い覆面を被った人で、手にした金属バットを振り回しながら部屋中を血に染め、金品を物色し、最後にふと思い出したみたいに私の下にやってきて、死よりも最低な行為をして去っていった。
 それから半年程してその強盗は、別の家宅を襲ったところを逮捕されたと聞いた。けど別に私の失ったものが戻ってくるわけでもないし、特に何も思わなかった。その後彼がどんな刑を受けたのかも知らない。死刑じゃかったとしても正直どうでも良かった。
 暫くは親戚の家を転々として、最終的に落ち着いたのが一人暮らしだった。誰も私の面倒を見ようなんて事は考えなかったし、何より親族の不幸とはいえ、できるのは同情までだったようだ。
 最後の親戚の家で、塞ぎ込んだまま誰とも接しようとしない私に、おじさんとおばさんが言った言葉が一番効いた。何よりその方が良かったと思う自分がとても悲しく感じられた。

『むしろあの時一緒に』

 周囲に悲劇のヒロイン扱いされ、しかし誰も救ってはくれない。誰も私を藤紅淡音として見てはくれない。
 結局繋がることは出来ないのだと悟ったし、だからこそ誰かに認められたくて、そんな二つの矛盾が苦しくて堪らなかった。

 一人暮らしはこれまでの中で一番快適だった。誰かの目を気にすることも無いし、隣人も面倒さえ無ければ挨拶程度で済ませられる。食事だって自分で作って一人で食べて、家事も自分の範囲でやればいい。久しぶりに呼吸ができた気がして、酷く落ちつけたのを覚えている。
 次の転入先、雪浪高校も他とまるで変わらない。いつもどおりの息苦しさを感じ、孤独なまま息を止めて苦しんで、家に帰ってきて息継ぎしてまた明日潜る準備をする。
 苦行でしかなかった。
 一人になると私はやっぱり父親や母親と一緒に『行っておくべきだった』と考えてしまう。あの強盗は何故事が済んでから首を絞めてくれなかったのだろう。
 そうすれば、こんな息苦しい想いしなくて済んだのに。
「お嬢さん、元気無さそうだね」
 声をかけられて振り返ると、一人の老人が立っていた。
 夕食の買い出しをしようと思って、丁度商店街を見つけたから適当に買って食べようと思って、それから先が思い出せない。考え事をしている中でも足だけはちゃんと動いていたみたいだ。
「そう、見えますか?」
 そんな風に言われたのは初めてだった。
 親戚の家にいる時にできるだけ笑顔で居た方が相手にマイナスを与えないで済む事を知ってから、他人に対して心の内を見透かされないように尽力してきたから、驚いた反面、少し嬉しかった。
 声をかけてきた老人は、顔や風貌は穏やかなのに、服がとても奇抜な色の組み合わせで、どちらかというとそちらの方が印象的だった。
「辛そうな顔しているよ。何かあったのかい?」
「何か、と言われると、その……」
 どう言えば良いのか分からなくて俯いていると、彼は私の手をそっと取った。
「良かったら、うちに来ないかい? 色々聞くくらいなら老人にもできるからね」
 そう言って彼は私の手を引いていく。半ば強引だったけれど、これまで誰かにそんなことを言われたことがなかったからか、初めて自分の存在が認めてもらえた気がして嬉しかった。

 彼は自宅に私を招くと夕食までご馳走してくれた。誰かとご飯を食べる機会なんて無かったから、いつもより美味しくて、そして心が暖まった。
 彼、桃村さんは私の話に親身に耳を傾けて、時には言葉を返してくれた。今までこんなに自分を曝け出すことなんて出来なくて、その反動か、内に溜め込んでいたものは全て吐き出してしまった。
「君は随分と頑張っているようだね」
「頑張る、ですか?」
 話し終えた私に、桃村さんはそう告げた。
「誰かと繋がる事なんてそう出来ない。むしろ出来ていない人を数える方が早いくらいだろうさ。誰だって何かを隠して触れ合う事を『当たり前』に生きているからね。だから、そうしてちゃんと自分の奥底まで触れてくれる、触れることの出来る相手を必死に探している君は、きっと誰よりも頑張っているんだ」
 頑張っている……。
 そんな風に考えたことは無かった。でも、そうやって肯定的に捉えてくれる事がとても嬉しかった。
「なんで、私にこんな良くしてくれるんです?」
 そう尋ねると、桃村さんは暫く考えてから、「似ていたんだ」とぽつり漏らした。
「誰にです?」
「娘にね」
 彼は遠くを見つめながらそう言った。
 今この家には居ないみたいだけど、どうしたのだろう。嫁いで行ってしまったのかなと思いつつ、何か物思いに耽る彼には尋ねづらくて、結局口をつぐんだままだった。
「本当によく出来た娘で、私の自慢だった」
「素敵な方だったんですね」
「だからかな、そっくりな君が哀しそうな顔をしていて、声をかけたくなってしまった」
 桃村さんは申し訳なさそうに微笑んだ。私を見ていたわけではなくて、私に娘さんの影を見ていただけだったのか。そう思うと少しだけ寂しい気持ちになったけれど、それでも私の話を親身になって聞いてくれた事実は、変わらない。
「また、お邪魔してもいいですか?」
「ああ、おいで。雪浪生はこの通りを嫌うから、若い子なんてまるで来ない。お客さんは大歓迎だ」
 そう言って微笑む彼に、私はとても感謝した。
 潰れそうだった私にとっては、有難い存在だった。決して全てを理解したわけじゃないけれど、不思議と居心地は悪くなかったし、どちらにせよ孤立したままの私にできた老いた友人は、とても貴重に感じられたのだ。

 アクアショップ桃村の看板を一度眺め、踵を返すと帰路に着いた。越してきて間もなくこんな出会いがあるなんて……。一人で暮らすことを提案したのは、良かったのかもしれない。
 商店街を抜けた先に見える校舎を眺めてみる。八時過ぎの校舎に灯りはなくて、通り道に等間隔に設置された街灯の白い光による影響下薄気味悪く見える。
 あの場所は、この先私を受け入れてくれるだろうか。
 けれど、もしかしたら私でも受け入れてくれるような人が、この場所にはまだいるかもしれない。そんな期待を膨らませてしまうのは、恐らく桃村さんの例があったからなのだろう。
 ふと空を見上げてみると、不思議な光景が空に広がっていた。
「……水の中にでもいるみたい」
 思わず口にしてしまった言葉の通り、夜景はまるで水鏡に映ったようだった。波紋が広がって、月や雲、星たちが揺れている。
 大きく息を吸ってから深く吐き出すと、息は泡になって吐き出された。ごぼりと音を立てて現れたそれに驚いていると、泡は空高く浮き上がり、やがてぱちんと割れて消え、途端に空も元の至って変わらない夜空へと姿を戻す。
 私は、幻でも見ていたのだろうか。
 けれど、とても綺麗な世界だった。今まで見ていたどんな景色よりも美しくて、魅力的で、このまま孤独であり続けるのなら、今見た世界へ連れて行って欲しいとさえ思った。
「なんてね」
 呟いてから、結局戻ってきてしまったこの世界の明日を考え、それから朝食はどうしようか考えながら、私は帰宅することにする。
 機会があれば、もう一度覗いてみたいと思いながら。


 結局雪浪高校は私の望むような場所に変わる様子は無かった。結局皆同じような姿で、自分にとって都合のいい壁を作ろうと必死で。私はその為の良い材料になりそうだから、声をかけられて、上辺だけの言葉をかけられて、やがて私の反応が薄いと彼ら彼女らは遠ざかっていってしまった。
 変わらない。結局私の馴染めるような場所なんてあり得ないのだと、やっと理解出来た気がして、むしろすっきりした。これでもう私は諦めることが出来る。
――何に?
――人に。
 会話も無い、誰かに認識されることも無い生活は、平凡だった。これが日常だと受け止めてしまえば、悪くないものであるようにさえ思えた。
 帰り際に桃村さんの場所に寄れば会話はできたし、暖かいご飯だって食べることが出来た。彼はいつ来ても私のことを受け入れてくれたし、どんな会話でも聞いてくれた。
 友達が出来たらいいねと彼は言ってくれたが、私は何も言い返すことができず、出されたお菓子を口にして誤魔化した。
 桃村さんはもうこの家に帰ってくる人はいないのだと言っていた。二階には決して上がらせてもらえなかったけど、多分居なくなった娘さんとか奥さんを思い出す物でも残っていて、それを誰かに見せたくないのかな、なんて事を思って、それ以上は口にしないようにした。
「君が本当の娘だったらどんなに嬉しいだろう」
 桃村さんの漏らした言葉が、正直なところ嬉しくて堪らなかった。そうだったら良かったのに、と返すと彼はとても嬉しそうな、けれどどこか寂しそうな、曖昧な笑みを浮かべて私を見ていた。
 多分、私と桃村さんの間に引かれたラインは、それなのだと思う。私は彼をお父さんとは呼べないし、彼も私を娘とは呼べない。どれだけ親子みたいな会話を交わせたとしても、それは単なるごまかしでしか無い。

  ●

 暫くして、二つの出会いが私にあった。
 つまらない授業をこなして、昼食の場所―普段から誰の邪魔も入らなそうな場所を探して食べていた―を探している内に、一人の女子生徒と出会った。一人お弁当の包みを見つめながら憂鬱そうにため息を吐き出していて、その姿が興味深くて、でも声をかけるまでには踏み込めなくて、時々彼女の事を見るようになった。
 若苗萌黄という名前を知って、どのクラスかもすぐに分かった。
 彼女は誰とでも付き合うことの出来る子で、周囲からの評判も悪くないみたいだった。色んな人から声をかけてもらえて、誰に対しても平等であろうとする姿勢は。とてもじゃないけれど私には出来ない事だ。
 何より、そんな気配りばかりしていて疲れはしないのだろうか。羨むと同時に、なんだか私には自分で自分を殺しているようにしか見えなくて、そんな感情が更に彼女に対する興味を私に抱かせた。
 あの日一人憂鬱な顔を浮かべていた彼女が、笑いながら周囲に溶け込んで生活している。彼女のそんな表と裏を垣間見たが故の興味なのだろうか。
 声をかけたいけれど、そんな事を言って彼女がどんな反応するかは目に見えている。
 思考を巡らせている内に、目の前に一人の男子生徒が立っていることにやっと気がついた。慌ててニ、三歩後退して彼を見上げた。つり目が特徴的な、整った顔立ちをした短髪の男子だ。制服の造りからして雪浪生では無い。この学校に何か用なのだろうか。
「すみません」
 衝突しそうになったことを謝って横を抜けようと思った時、左腕を掴まれた。驚いて振り返ると、彼も自分の行動に驚いているみたいで、手を離すと早口に何かを言っているようだった。
 いや、その、あの……。自分の行動の理由がうまくまとまらないみたいで、彼は目を宙に泳がせながら両手を恥ずかしそうにこすりあわせていた。
「あの、そう、少し気になってしまって、その、うまく言えないけど、どんな人なのかって……」
 つなげる気の無い言葉の羅列を聞いている内に、なんだかおかしくなって笑ってしまった。私の反応に彼は更に真赤になって俯いて、それからニ、三歩私から離れるように歩くと軽くお辞儀して踵を返してしまう。
「待って」私は続ける「お話しませんか」
 返ってきた言葉が予想に反していたのか、彼は酷く驚いた顔で踏み変えると、大きく頷いた。
 咲村真皓と名乗った彼は、名前に似合わない真赤な顔で喜んでいた。

   ●

 咲村くんといる時間が当たり前になるにつれて、桃村さんの家に行く機会が減りつつあることに、正直なところ負い目のようなものは感じていた。寂しがっていた私に初めて手を差し伸べてくれた人を放っておくのはいけない。
 咲村くんと深い仲になっても良いと思えた時、一番最初に桃村さんに言いたいと思っていた。だから彼には緘口令を敷いて、絶対に私との関係を漏らさないで欲しいと伝えていた。
 咲村くんは、私を一人にしないようにしてくれた。
 雪浪高校にいるお姉さんに偶然届け物をした時にたった一人の私を見て、直感で一人にさせたくないと思ったという。理知的な顔をしながら、私の前では会話も下手で、行動もどこか直線的で抜けた人だった。
 だからだろうか。私の為に一生懸命になってくれる異性を初めて見た事で私はすっかり彼に惹かれてしまった。あれほど関わりあいを怖がっていたのに、全く単純な女だと自分でも呆れてしまう。
 でも、理由とか根拠では説明できないことだ。私は彼の隣にいて普段通りの落ち着いた私でいられるし、彼も私の隣に居ることを苦としていない。そんな丁度いい関係を作れたのが初めてで、今後きっと無いと思えた。
 私は、咲村真皓が好きだ。

「×××××××××××××××××××××××××!」

 怒鳴り声と、頬に感じた突然の痛みで私は何が何だか分からなくなった。じりじりと灼けるように傷む頬に手をやりながら戸惑いの目を彼に向ける。
「男を作った? そんなはしたない女に育てた覚えは無い! 一体どんな男だ、言ってみろ! ぶっ殺してやる!」
 暴言の数々を重ねながら暴れまわるその怪物が、桃村さんであることが受け入れられない。顔の形が変わりそうなくらい歪んだ表情に、深くお腹の底にまで響き渡りそうな怒声。
――桃村さんは、どっち?
 逃げなくちゃと思うのに、どうしても足が動かない。怯えか、戸惑いか、どちらにせよ、この場から逃げ出して場を改めるという選択が出来ない事だけは理解できていた。この場でどうにか彼を鎮めるしか無い。
 けど、どうやって鎮めると言うのだろう。
 彼は怒鳴り散らしながら部屋中を散らかし、娘さんの名前を叫びながら「男を選びやがって」とか「俺を一人にする気か」とか、怒りに満ち満ちた言葉を垂れ流しにしていた。
 その中に、私の名前は無かった。それがとても残念だった。
 彼は私を私と認識してはいなかった。藤紅淡音を自分の娘と重ねて扱っていたのだと思う。だから、私の好きな人ができたという言葉を聞いて、スイッチが入ってしまったのだろう。
 娘さんが姿を消した理由が、私には分かった気がした。
「言え! どこのどいつだ!」
 迫る彼の前で、声はどうしても出せなかった。出ても呻くような震え声だけで、まともに喋ることなんてとてもじゃないけれど無理だった。
 だから、肯定の時は頷いて、否定の時は首を横に振ることにした。言葉では彼に届きそうに無かったから。私を藤紅淡音として認識させて落ち着かせるなんて解決方法はとうに捨てていた。
 桃村さんは血が出そうな程音を立てて頭を掻き毟るとその場に崩れ落ち、唱えるみたいに幾つもの言葉を並べ立てて呻き、床を殴り、額を擦りつけて泣き喚いた。
 私は直ぐ側でその光景をぼんやりと眺め、そのまま涙を流した。悲しいとか、怖いとか、そういったものじゃない。多分同情が私に涙を流させた。
 もしかしたら、本当に相手を必要としていたのは、依存していたのは彼の方だったのかもしれない。孤独だったのは、彼の方だったのかもしれない。

 暫くして、桃村さんの呻き声がぴたりと止まった。叩きつけていた拳は赤く滲んでとても痛そうで、それを私が眺めていると、その手が私の襟に伸びた。
「娘のごはんの時間だ」
 壊れたんだと、私は思った。そしてこの先の予想がまるで着かない事が怖くて堪らなかった。
 咲村くんは来ない。この場所を教えてすらいないし、彼は学校だって違うのだ。気が付くわけが無い。
 そして、どうしてか若苗萌黄の姿も思い出した。あの寂しそうな横顔の理由を聞けなかったことが、今自分の中で未練として残っているようで、やっぱり声をかけてみるべきだったと後悔した。
 桃村さんは私を強引に引きずると、二階に向かう階段を覗きこむと、にっこりと笑みを浮かべた。
「おうい、ごはんのじかんだ」
 はあい、と。どこか艶のある返事が返ってきた。
 階段の上から女性の声が聞こえた事に、私は酷く驚いた。これまで何度もこの場所には来ているけれど、そんな気配一度たりとも感じたことは無かった。
 ずるり。
 ずるり。
 ずるり。
 ずるり。
 強引に引き摺られながら二階を上がっていくと、左の部屋に私は放り込まれた。どこまでも強引な彼の扱いに咳き込みながら、部屋の奥に目を遣る。
「とってもいい匂いがするわ」
 何もない部屋に、座椅子が一つだけ。灯りも無い薄暗い場所に白い着物に身を包んだ女性が上品に座っていた。よく手入れの届いた長い黒髪は床まで届いていて、その奥から覗く白い肌はこの暗闇でも輝いて見えた。切れ目を入れたみたいな鋭い目が私を見て嬉そうに細められ、紅の引かれた唇に長い舌をそっと這わせてみせた。
 美しいけど、とても怖い女性だった。
 確かに私に似通った点はあるけれど、私では無い。彼が娘と呼ぶこれは、一体なんなのだろうか。
 白装束の女は立ち上がると、放り込まれた私の前までやってきて、そっと頬に触れた。きめ細やかな真っ白い手が私を撫で回す。
 冷たい。心まで凍ってしまいそうな手だ。
「貴方の事はよく聞かせて貰っているの。大変な人生だったのねえ」
 女は目の前に座り込むと、私をそっと抱きしめる。
「お話を聞いていた時から、ずっと貴方に興味を持っていたのよ」
 私は、目を閉じた。
 咲村くんに再会する事も、若苗さんに声をかける機会も、もう二度と無いと思うと、とても寂しかった。

「やっぱり、とっても良い匂いがするわあ」

 その言葉と共に、私は深く深く沈んでいった。


       

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Neetsha