三
淡音は目を覚ました。心地よいうたた寝の後のように体と意識は気だるくて、ぬるま湯の中に浮遊しているようだった。
同時に、意識の奥底に残る眠気が、再び自分を昏睡の水底へと引きこもうとしていることも感じた。この覚醒がイレギュラーであり、そして藤紅淡音としての最後の時間だと、彼女はなんとなく理解していた。
彼女は隣で眠る咲村真皓の姿に視線を向けると、そっと微笑んで、そして眠る彼にキスをした。ついて来てほしくなかったけれど、ついて来てくれて、嬉しい。
キスをされた彼は眉根を寄せて、身体をもぞもぞと動かすとやがて目を薄く開け、そして隣で微笑む淡音を見て、目を見開いた。
淡音は信じられないといった風の真皓にもう一度キスをして、次に水底から水面を見上げ、そして少し先で漂う私をじっと見つめた。
彼女は口を開くと、ぱくぱくと何か言葉を吐き出していた。どうしてか音は聞こえなかった。なのに、不思議とその「声」は「言葉」となって、私の胸の中にふわりと泡立つ。
『あなたと、ずっと話してみかった』
永遠に続くまどろみが解けてしまったのは、あの魚が原因なのだろうか、それとも私が入り込んできたからなのだろうか。
なんにせよ、私は今、やっと藤紅淡音を見つけることができた。
『若苗萌黄さん』
頷くと、私は彼女みたいに口を動かしてみせる。
「聞いて欲しいの」
彼女は頷く。
ここから二人を連れ出すことは出来ない。こんな信じられないことだらけの不可思議な状況下なのに、どうしてかそれだけは理解できた。きっと私には淡音も、真皓さんも掬いあげることは出来ない。それは誰であっても、だ。彼女たちは、もうねむりひめの一部となってしまっているのだから。
だから、せめて受け取ろうと思った。
私の役目は、それだと思った。
「ありがとう」
暫く、淡音はじっと私の事を見ていたが、やがて微笑んだ。
ゆっくり瞼が降りていく。眠くて堪らないんだと私は理解した。彼女の感情が、私の中に泡になって入り込んでくる。もう、眠り続けたいのだと、彼女の心は言っていた。
咲村真皓は、再び眠りについた隣の彼女を優しく抱き寄せて、それから私に言った。
『聞いてくれ』
彼が続けて口にした言葉に私が頷くと、彼は安心したようで、淡音に寄り添うようにして彼もまた、再び眠ってしまった。
水面の方に目を向けると、あの魚が泳ぎ回っていた。赤くて長い尾ヒレをはためかせながら、みどりは力強く私目掛けて潜航する。
私は水を強く蹴った。溺れた時はすごく重く感じたのに、水の感触がとても軽くなっていて、私の身体は勢い良く浮上していく。そんな私を魚は途中で咥えると、更に速度を上げて泳ぎ始める。
二人が遠くなっていく。
寂しさとか、同情は感じなかった。
二人は自分達の居るべきところを見つけたから、あの場所にいる。
淡音も、一人ではなくて、一緒に居てくれる人がやっと見つかったから、あの場所で再び眠ることを決めた。
そう思うと、こうなってしまった二人が、少しだけ、羨ましく思えた。
私も、ちゃんと私にならなくちゃいけない。
そう思うと、途端に絵美に会いたくて仕方がなくなった。
そうだ、明日学校で会った時は、もっと色んな話をしよう。休日に出かける約束をしたっていいかもしれない。彼女の部活にお邪魔して、絵を描いている姿も見てみたい。
若苗萌黄を、ちゃんと知ってもらって、好きになって貰いたい。
そう思っている内に、水面が近くなっていく。
光が揺れる水面のその先に、私は精一杯手を伸ばした。