Neetel Inside 文芸新都
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ねむりひめがさめるまで
【八】ねむりひめがさめるまで

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   一

 それからの出来事は、あっという間だった。
 若苗萌黄を呑み込んだ藤紅淡音は急に青ざめると、よろけながら傍らの手すりにしがみつくようにして寄り掛かり、そして最後に真崎葵を強く睨みつけた。緊張した面持ちで身構える私に対して、彼は特に気にする風もなく、ポケットに両手を突っ込んだまま、目を細める。
 同情、だろうか。彼が藤紅を見る目が悲哀を含んでいるように感じられた。その同情は、果たして誰に対するものなのだろう。
「駄目、出てきちゃ駄目……」
 藤紅淡音は両手で自身をキツく抱き、身体を捩らせながらひたすらに呻き続ける。溢れ出る何かを必死で抑えようとしているような、けれど今にも決壊してしまいそうな、事情を全く察することのできずにいる私でも分かるくらい、彼女は衰弱していた。
 彼女はその場にしゃがみ込むと、形にならない言葉を滂沱の如く吐き出していく。
「先生が、何かやったんですか……?」
「いいや、僕は何もしていないよ。多分、やったのはみどりと……若苗さんだろう」
 呑み込まれていったのはやはり若苗萌黄。その事実から私の中の足りないピースがぱちりとはまる。ただ、ねむりひめという超常の存在を当て嵌めるとして、咲村真皓はどのポジションに位置づけるべきだろう。

 唐突に、藤紅淡音の声が、ぴたりと止まった。
 私は巡らせていた思考を中段して藤紅を見た。
 彼女はゆらりと立ち上がると、周囲を見回し、水面みたいな夜空を眺め、それから私と真崎に目を向けるとああ、と声を漏らす。
「姉ちゃん」
 その言葉を飲み込むのに、ほんの少しだけ時間がかかった。
 藤紅淡音の口から出たのは、紛れもなく咲村真皓の低い声であり、周囲を見回す時の仕草からその後の動作まで、彼を彷彿とさせるものだった。
「真皓、なの?」
 頭が真っ白になった。ただ、名前を呼ぶことしか私にはできなかった。
 彼女、いや彼と呼ぶべきか。藤紅淡音の肉体をしたそれは肩を竦ませると、ため息を一つ吐いて、皮肉げな笑みを浮かべる。
「そっか、姉ちゃん、俺を探してたのか」
 真皓の声をした藤紅淡音はそう言ってから鼻の頭を掻いた。
「君は、咲村真皓で合っているかい?」
 言葉の出ない私の代りに、真崎はそう尋ねる。彼はじっと真崎葵の事を見つめてから、ああと一言口にする。
「いや、詳細に言えば咲村真皓の記憶か」
「記憶?」
 真崎先生は頷く。
「君の弟は、やはり食べられていたんだ。藤紅淡音に」
「それは間違っている」
 彼の言葉に【彼】は反論した。
「淡音もこの中だ」
「藤紅も?」
 【彼】は頷いた。
「なんで今こうして【俺】になっているのかよく分からないけど、都合が良いから今のうちに言っておく。俺は食べられた淡音の傍に居ることを選択した」
「ちょっと待って、状況が理解できない」
 二人の間に割って入るようにして私は声を上げる。真崎先生は何か理解したような口ぶりだけれど、私にはさっぱりだ。納得のいく説明が欲しい。
 【彼】は私を見て微笑む。
「姉ちゃん、ごめん。藤紅はさ、俺の恋人だったんだ」
「藤紅淡音が?」
「最初は単なる一目惚れだったんだけど、彼女の話を聞く内に、守りたい、傍にいたいって思うようになってさ」
 そう言って【彼】は遠くを見つめる。その顔はとても晴れやかで、微塵の後悔も感じさせないもので、私はそんな顔を浮かべる彼を見たことが無くて、とても驚いた。
「孤独も、繋がりも怖くて閉じこもって、でも強がろうと必死に苦しむ彼女を、とにかく安心させたかった」
 喧嘩したあの日、真皓の口にした問いかけの先にいたのは、彼女だったのか……。
「馬鹿じゃないの、本当に……」
 胸が苦しくて堪らなくなった。今、目の前にいるのは咲村真皓自身ではなくて、単なる記憶なのだろう。何故突然その記憶が呼び起こされてしまったのかは分からないけれど、記憶だからこそ、その言葉に嘘偽りはきっと無い。
 馬鹿だ。彼は本当に。
「あとさ、あの日の朝なんだけ――」
 口にしようとした言葉がぷつりと途切れた。唇は動いているけれど、音が出ていない。まるで故障したラジオみたいに、藤紅淡音の口から【彼】の声は失われた。
 暫く口を動かしていた【彼】も、やがて諦めたのか残念そうな笑みを浮かべ、私にそっと手を振る。
 彼の唇は、たった四文字を形作ると、がくんと頭を垂れ、そのまま床に崩れ落ちた。
 真皓の名前を叫んでも、【彼】はもう反応しなかった。

 びくん、と再び起き上がった彼女は、もう【彼女】に戻っていた。恐らく、咲村真皓と藤紅淡音の更に先にいる【何か】。
「君は、誰だ?」
 脂汗を滲ませよろめく彼女は、右手で側頭部を抑えながらにやり、と笑みを浮かべると、手すりに身体を預ける。
 彼女の行動に気付いて駆け出したけど、もう遅かった。
 【彼女】は頭から屋上の外へと身を投げ、私達の目の前から姿を消した。
 駆け寄ってフェンスの下を覗いて、その高さにくらりと目が回る。同時に真下の光景に私は目を疑った。

 藤紅淡音の姿は、どこにも無かった。
 
 呆然とする私の背後からびしゃりと水っぽい音がして、振り返ってみると【食べられた】筈の若苗萌黄と、後を追ったみどりがぐっしょりと濡れて倒れていた。
「終わりだよ」
 真崎先生は若苗さんを抱き上げると、ただ一言、そう口にした。


 意識の無い二人を運ぶ間、私達はずっと黙り込んだままだった。多分、何から話せばいいか分からなかったのだと思う。目の前で起きた現象はどれも摩訶不思議で、普通なら信じることのできないものだ。きっと彼も今、整理をしている途中なのだろう。
「私は、貴方が犯人だと思ったんです」
 口火を切ったのは私だった。まるで懺悔でもするように、前を歩く背中に向けてそう告げると、彼はそうか、と振り向く事もなく言った。
「一つ、私からも言うべき事がある」
「なんですか」
「君を引きずり込もうとしたのは、みどりだ」
 私は背中に背負ったみどりに目をやる。こんな小さな子が、私を食べようとしていたなんて。未だに彼女がねむりひめであるという事実が理解し難くて、私はため息を一つ吐き出した。
「私は、そんなに美味しそうだったんでしょうか」
「そうだね、誰も食べたことのないみどりが興味を惹くくらいなんだから、余程いい匂いがしたのだろう」
「誰も?」
 むしろそちらの方が気になった。
 真崎先生は頷く。
「そう、彼女は常に空腹状態なんだ。勿論人としての食事で空腹が満たされはするけれど、みどり……いや、ねむりひめは人の記憶にとてつもない興味を持っている生物だ。恐らくその欲は食欲とは全く別である可能性が高い」
「……あの」
「なんだい?」
 廊下の先に保健室が見えてくる。非常灯の灯りが薄気味悪く廊下を照らしている中を歩きながら、私は意を決して口を開く。
「もし、その欲求が我慢できなくなったら、どうなるんです?」
 彼は暫く黙っていたが、やがて保健室の扉の前で立ち止まり、鍵を開けると、ぽつりと口にした。
「まず、身近な人間が呑み込まれてしまうんじゃないかな」
 その言葉に、私は何も返すことが出来なかった。

 ベッドに二人を寝かせると真崎先生はご家族に連絡を入れると言って保健室を出て行った。
 残された私は椅子に腰掛け、ベッドに眠る二人を眺めていた。
 窓から差し込む月光が若苗さんの顔に掛かる。ふと外に目を遣ると、もうあの水面みたいな夜空は消えていた。はっきりと輪郭を持った月と、雲と、逆光で真っ黒に染め抜かれた山が映っている。それを見て安堵すると同時に、結局真皓は最後に何を言おうとしたのだろうかと思案を巡らせる。
 結局全て解決できていないままだ。
 でも真崎先生は「終わった」感触を持っているようで、それがとても羨ましく思えた。
 結局私は何一つ役に立っていない。
 勝手に動いて、勝手に調べて、見当違いの相手を犯人と断定し、よくわからない内に本当の犯人だった藤紅淡音を模した【誰か】は逃亡を図り、食べられてしまった筈の二人は戻ってきた。
 彼女らが中で何かしたから、真皓が現れ、そして【誰か】は逃げ出したのだろう。
 そしてもう一つ。
 恐らく、もうこの街から行方不明者は出ないのだろうな、と私はなんとなく感じていた。姿を消した【誰か】も、なんとなくその先が見えている。きっと【彼】が決着をつけてしまうのだろう。
 いや、このタイミングをずっと見計らっていたに違いない。
「ご名答」
 聞こえてきた声に、私は振り返らないまま拳を強く握り締める。
「貴方は、どこまで分かっていたの?」
 背後から衣擦れの音が聞こえる。
「大体は理解していたよ。彼女が藤紅淡音では無いことまでかな」
「……それを自分で解決しようとは思わなかったの?」
「思わない」
「直接動くことはどうしても避けたいことなの?」
「ああ、避けたい事だ」
 一呼吸置く。彼は後ろにまだいるようだ。でも多分、私が振り返ったら、彼はそれ以上を口にすること無くどこかに消え失せてしまう。何故だかそんな気がした。
「……貴方の探している女性は、もう居ないのでしょう?」
 あの時言えなかった言葉の先を口にしてみる。背後の彼は小さなため息を吐き出した。
「その結論に辿り着いた原因は、茅野茜かな?」
「茅野先生を、知っているの?」
 ふふ、と笑みの含んだ吐息が聞こえる。私の問いに対して返答するつもりは無いのかもしれない。
「……ねむりひめはね、記憶を食べるんだ」
 彼は突然そう漏らした。少なくとも私と真崎先生、そして若苗さんは知っている事実だ。何を今更口と疑問に思っていると、彼は続ける。
「じゃあもし、奴等の目の前に記憶をたんまり詰め込んだ袋があったとしたら、どうすると思う」
 以前にも聞いた話だ。私は同じ答えを返す。
「食べてしまうでしょうね。そんな餌があれば」
「だから僕は出来る限り、身を隠し、うまく勝ちを掻っ攫いたいんだ」
 私は目を伏せると、彼に向けて言った。
「やっぱり、貴方もねむりひめを飼っているのね」
 返答は無い。がイエスと取ることにした。
「記憶を好むねむりひめは同種であっても対象を獲物として捉えている。そしてより多くの蓄えがあればあるほど他からの襲撃を受けやすい」
「そう、だからねむりひめは身を隠すんだ。自分ごと溜め込んだ『コレクション』が奪われてしまわないように」
 悲劇を抱く存在を食べず魅了する習性は、恐らくそこからくるものなのだろう。自らに尽くしてくれる人間を一人用意することで彼らは十分な供給源を手に入れる。
 彼らも決して完璧ではないのだ。
「貴方は、だからこれまで身を隠し続けていたのね」
 絶対に勝てる戦いしかしない。そうやって来たからこそ今があって、今回もきっとその為に神出鬼没に現れては助言を繰り返し、周囲に幾つも解決の糸口を垂らして待っていた。
 その駒が取られても、最終的に報酬に還元される。
 極めてリスクの低い状況がやって来るまで彼はじっと息を潜め続けていた。
「とても一人でできるとは思えない」
「そうかな、じゃあ僕には協力者がいたって事になるね」
「協力者?」
「そう、逐一情報を伝えてくれて、動向を見続けていた人物がいるってことさ」
 彼は何故私にこんなヒントを与えるのだろう。これ以上は自分を振りにせざるを得ない状況であるはずだ。
「何故、私にそこまで教えてくれるの?」
 彼は黙りこむ。考えているのか、それとももうこの場から居なくなってしまったのか。無音の暗闇に取り残された私は焦れながら、しかしきっと彼はまだ居るはずだと待ち続けることを選んだ。
「弟が失踪して、解決する気配がない時、君はどう思った?」
「私が探すしかないって、そう思った。何があっても弟を見つけたいって」
 私は頷く。きっと警察もマスコミも行方不明事件の一つとして消化してしまうと思って、真皓に本当に会いたいのなら、自分から動くしか無いと思った。結果は散々なものだったが。
「それが理由かな」

――まるで貴方みたいよね、朱色ちゃん。

 茅野先生の言葉を思い出す。
 それが、理由なのだろうか。本当に彼はただそれだけの理由で、私の前に度々姿を現したと言うのだろうか。
「今日の出来事を見て、失踪した人の記憶は蓄積されていくって分かっただろう? 消化はされないんだよ」
 背後の彼は語る。
「何か刺激を与えることで関連した記憶が浮き上がることもある。ほら、綺麗な池に石を投げ入れたら、底の沈殿したものが舞い上がるあの感じさ」
「真皓が出てきたのも、その結果だって言うの?」
「そう考えると、とりあえずの説明はつくだろう。真崎葵はなんとなく予測していたんじゃないかな。ねむりひめの中にねむりひめが入ったらどうなるのかをさ」
 彼は確かに、やったのは自分ではなく、若苗さんとみどりだと口にしていた。なら恐らくそういうことなのだろう。一種の賭けに出て、真崎先生はそれに勝ったのだ。
「僕には出来ない芸当だ」
「負けるかもしれないから?」
「そう、負けたらそこで終わりだからね。僕は勝ち続けなくちゃならないからやろうとすら思わない」
 がらり、と椅子を引いて彼がこちらにやってきて、すぐ側で座ると、私の背中に自分の身体を預けてきた。男性なのに、とても軽くて、華奢な身体だった。私でも支えられるくらいなのだから、相当なものだ。
「僕は嘘をついていないよ」
「それは、彼女に会いたい、って言葉に対して?」
 そう、と彼は頷いた。
「例えば」彼は言葉を切り出す。
「悲しみに釣られてやってきた奴等が映しだしたものが、恋人だったとしよう。でもそれは対象の記憶を映しだしただけの、ただの空っぽな人形でしか無い。でも、仮にだ」

「映し出された人形に、『映しだした人形のオリジナルの記憶』が収まったら、どうなるんだろう。そんな事を思うと、とても面白いとは思わないかな」

 背中の感触が無くなって、足音がこつ、こつと室内に響く。
 扉の開く音、次に閉じる音がして、やがて静寂が戻ってきた。
 今しがた出て行った彼の小さな背中の感触を思い出しながら、そっと目を閉じる。
 彼の目指す物は、あまりにも儚すぎやしないだろうか。
 彼のやろうとしていることは、数多ある可能性を一つ一つ虱潰しに辿っていく行為であり、それに掛かる膨大な時間の為に、自分の全てを投げ打っている。
 決して叶うとは言い切れない、本当に小さな希望を手繰り寄せようとしている。
 その為だけに生きていると思うと、あまりにも残酷だ。そんなことをしても、手に入るのは時間の止まった恋人であって、その先に道は無いというのに。
 ただ大事な人が消え、自分が動かないといけないと思ったところまでは似ていても、そこからの選択はまるで別物だ。
「唄野、彼方さん……」
 モッズコートの青年の名前を、そっと呟いてみた。
 その言葉は月明かりに吸い込まれると、やがてその隙間に再び静寂が流れ込む。まるで存在ごと無くなるみたいに、私の口にした言葉は消えてしまった。


       

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Neetsha