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 若苗さんが目を覚ましたのは、唄野彼方が私の下から消え去ってから間もなくしてだった。ぼんやりとした目つきのまま周囲を見回し、ぐっしょりと濡れた自身を見て初めて助かった事を自覚したようだった。
 真崎先生は、意識を取り戻した彼女を見ると、穏やかな笑みを浮かべた。家族にも連絡し、一時間もすれば迎えが来ることと、それまで何か暖かい飲み物を飲もう、と私達に言った。
――珈琲。
――ミルクティー。
――ココア。
 それぞれの注文を聞いて、彼は少し可笑しそうな顔を浮かべた。
 彼は給湯室にお湯を取りに再び出て行った。それから私達は顔を見合わせると、互いに笑い合った。棚を開ければポットはあるのだけれど、敢えて言わないでおいた。
「終わったのかな」
「多分、終わったんだと思うよ」
 彼女はどこか寂しそうにそう言った。
「でも私、何も結末を聞いていないの」
「結末?」
「誰がどうなったとか。結局真皓は戻ってきていないし、他の人だけすごく腑に落ちてるみたいだけど、私は……」
 沈黙の中で、隣のベッドのみどりの寝息だけが静かに響く。すうすうと心地良さそうな寝息を聞いていると、この子が私達とは違う事なんてまるで信じられなかった。
「私は、会ってきたから。咲村さんの弟さんにも、淡音にも」
「会ってきた?」
 彼女の切り出した言葉に間髪入れず私は返す。
「正確には、二人の記憶をちょっと覗いただけ。あと、最後にほんの少しだけ、意識のある二人と会えた」
 恐らくそれが、私達の前で起きた不可思議な現象とリンクしているのだろう。そんな気がした。
「弟さん、本当に淡音の事が好きだったみたい。私なんかよりもずっとずっと」
 そう語る彼女はどこか寂しそうで、でもどこか安心したようにも見える表情だった。彼女が多分淡音の事を考えているように、私も真皓の事を、あの日の玄関で見た背中を、はっきりと思い出す。
「真皓は、後悔してなかった?」
 問いかけると、彼女は頷いて、「していなかった」とはっきりと断言した。
 それからふと何かを思い出したようで、私の方に向き直ると、彼女はじっと私の目を見つめる。
「伝言をね、貰ってきたの」萌黄はそう言った。
「私に?」
「そう、真皓君から」

――真皓からの伝言。

 もう二度と声を交わすことのできない彼が、私に残した言葉はなんだろう。それでも不思議と、悪い言葉では無いと思った。だってあの時私の前に現れた真皓は、笑ってくれたのだから。
「聞かせて」
 彼女は頷き、向き直ると、湿ったままの前髪を横に撫で付け、真正面から私を見据える。彼女の一連の行動に何故だか私もそんな風にしなくちゃいけないように思えて、姿勢を正してしまう。
 真崎先生はまだ帰ってこない。みどりも眠ったまま。月の光に照らされた若苗さんは凛とした強さを持っているように見えた。丁度影にいる私はその姿を見て、綺麗だと思った。多分それは、彼女が求めてきた人と出会えたからこそ手に入れた輝きなのだろう。
 私が辿りつけなかった所に、彼女はちゃんと触れることができた。二度と手に入らないチャンスをものにした。
「たった一言だけなの。私が言われたのは」
 息を呑む音が随分大きく聞こえた。まるで部屋中に反響しているみたいに響いた
 若苗さんは、ぷっくりと膨らんだ唇を静かに動かすと、本当に、本当にたった一言だけを口にした。

――あの日、玄関を出て行く真皓の記憶がフラッシュバックする。

 早朝、まだ青く薄暗さの目立つ廊下で、私は玄関から出ていく彼を見ていた。
 振り返らず出て行ったはずの彼が、扉の前で待っている。あの時、真皓はこんなところで止まらなかったのに……。
 私の想像の中の彼は踵を返し、私を見るとそっと微笑んだ。
 前向きで、とても暖かくて、どんな冷たい心でも溶かしてしまえそうな程の、良い笑顔だった。
 藤紅さんもきっと、こんな彼の雰囲気に落とされたんだと思う。理屈とかそういうのではなく、単純に彼になら気を許せると、本気で感じたのだろう。
 真皓は朱色、と私の名を呼んだ。

「ごめんね」

 本当に、本当にたった一言だ。
 言い終わると同時に玄関の扉は閉じて、私だけが残された。まだ薄暗い外に飛び出していった彼は、もう戻っては来ない。うまくまとめようとして、まとめきれなかった末に出てきた言葉なのだろう。
 本当に馬鹿だ。そんな一言で納得できる家族なんているわけがない。お母さんを泣かせて、お父さんを心配させて、私を悲しませた責任を償えるわけがない。

「……ほんと、もう一発くらいビンタしてやりたい」
 震えてうまく出ない声をなんとか絞り出して、ぐっと押されたみたいに苦しくなった胸に手を当て、私は真皓の名前を呟いた。
 もう叩けない。
 もう叱れない。
 もう喧嘩もできない。
 もう笑顔は見られない。
 そんな事実が一気に私の中で膨らんでいるようで、どうしてもうまく飲み込めない。
「自分だけ幸せそうな顔しちゃってさ。残された人の事考えるくらいの頭、あったじゃない」
 目元が熱くなって、体中もふつふつと湧き上がるみたいに熱を上げていく。ずっと錆び付いていた蛇口が緩んだみたいに、私の奥深くに積もった泥みたいな感情が出口を探している。
「馬鹿よ、本当に」
 頬を伝うたった一筋を合図に、ぼろぼろと私の目から感情が溢れ出す。幾ら拭ってもどうしても止まらなくて、どうにか止めたくても口から出るのは嗚咽で、鼻はぐしゃぐしゃで見れたものじゃない。
 そういえば化粧をしてもらってたんだ。目元も弄ってもらったし、頬だってチークとか一杯塗って貰った。こんなに水っぽくなったらきっと私は化け物みたいなんだろうな、なんてどうでもいいことだけは考えながら、ひたすら泣いた。
 もう真皓は居ない。二度と会えない。
 ごめんねと彼が言ったのだから。
「ねえ、若苗さん」
 霞んだ視界の奥で彼女は頷くと、私を優しく包み込んでくれた。湿っているけど、暖かな人肌の感触は、とても落ち着いた。ぐずぐずになりながら私は彼女を抱き返して、また溢れだすそれらに振り回されながら、きつくきつく回した腕に力を込めた。

――私も、ごめん。

 真皓は、もういない。