Neetel Inside 文芸新都
表紙

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   ニ

 一息つくと、私は居間の奥に置かれた仏壇をぼんやりと眺める。
戒名やら仏像やらのごちゃっとした飾りの中で、彼女は笑っていた。もう二度と表情が変わることの無い顔が焼き付けられている。私の記憶の中にもはっきりと残っている表情だ。挙式後の旅先で撮ったもので、もう数十年もの付き合いだというのに彼女は恥ずかしそうに肩をすくめ、頬を朱色に染めていた。
 あの旅行からもう随分と年月が経った。そう思うと不思議な気分だ。一体私達は何時から好意を覚えていたのだろう。友情だけでは満足がいかなくなってしまったのは何時からだったのだろう。
 葬式の間は準備から親族との挨拶回りまで全て一人でこなしていた。そんな忙しさのせいで物思いに耽る時間も無く、やっと現実味を噛み締められるようになったのもつい最近だ。
 朝起きても、トーストの匂いもフライパンの上で卵の踊る音もしない。食事中の会話も私一人ではできないし、夜寝る時、朝起きる時隣にあった温もりも今はもうどこにも無い。
 嘗て二人であったという空気だけを残して、彼女は去っていってしまった。
重たい荷物は持ちたくなかったのだろう。なにせ彼女はやっと窮屈さを脱ぎ捨てられたのだから。けれど、ここに残されたって困るのだ。向かいに椅子が在ることが、下駄箱に残された女性物の靴が、押入れにこっそりと隠されていた封筒に、これまでに行った遊園地や映画館、旅館のチケットの束を入れられていても、反応に困る。
妻の温もりが残っているものが見つかると、奴らは途端に私の隙間に、一番触れてほしくないところに入り込んでくるのだ。
私は仏壇の置かれたリビングを出ると、洗面所でべたつく顔を洗い流した。白シャツにネクタイ、黒いズボンとさして特徴の無い服装に着替えると、冷蔵庫に入っていた有り合わせで作った朝食を軽く口にしてから家を出る。
教員はとても楽だと思う。自分の事をあまり考え過ぎないでいられる。生徒と、その日の授業の事と、その他校内の問題について頭を一杯にしているだけで気がついたら夕方になっている。もう何年もこの生活を続けているが、私には中々合った職業だ。
 家を出ると雨が降り注いでいて、私は慌てて玄関まで戻って傘を一本手にすると再び外に出た。階段傍のエレベーターのボタンを押すと、面倒臭そうにゆっくりと動き始めた。
よくある住宅地の小さなマンションだ。エレベーターも古ぼけたものが一つで、私のいる五階まで大分時間が掛かる。腕時計で時間を確認して、階段を降りることに決めた。
コンクリートが剥き出しになった階段は妙に冷たい感触がして、雨のせいだろうか、少し身体が震える。
 足音の反響する階段を出ると、しんしんと小粒の雨が路上に降り注いでいて、傘を差した人々が窮屈そうな表情のまま歩いていた。私もあの中の一人になるかと思うと少し気が滅入ったが、仕方がない。仕事なのだからと独りごちて、傘を広げた。

 丁度、傘を広げた時だろうか。ちらりと見た向かいのマンションの陰に見えた姿に、私は目を疑った。
 そこに妻が立っていた。
 初めは見間違えかと思ったが、しかしそれは消える気配無くそこに立っており、こちらを見て静かに微笑んでいた。そんな、在るわけがないと思いながら、心の片隅がじわりと滲んでいくのを感じ、私は勢い良く駈け出した。片時も妻の姿を視界から外さず、広げた傘で雨を凌ぎながら向かいのエントランスに転がり込むと、目の前の妻をもう一度、見つめる。
 見間違えではない。確かに彼女はそこにいた。ウェーブの掛かった茶髪と、少しチークの塗り過ぎた真っ赤な頬。化粧下手だった彼女はいつもそうやって顔を朱色に染め過ぎていた。
 まさか、あり得ない出来事だ。
 つい最近彼女は私に向けて別れを告げた。そのあっという間だった葬式の内容も、曖昧ではあるが記憶はある。灰になっていく彼女を見た。骨だって拾ったのだ。
 なのに、何故君がいるんだ。そう言おうとしたのに、言えなかった。まるで時間が止まってしまったように、私はそこから一歩も動くことが出来なかった。
 暫くその場に立ち尽くしていると、妻は口角を上げて笑みを作った。その時何故か、彼女の口元から小さな気泡が三つ四つ漏れるのを見た。
泡? と私は湧き上がったそれに目が行く。気泡は小刻みに揺れながら浮かんでいくと、やがて天井まで届いて、消えていった。
 あっと声を上げて私は妻の方に視線を戻す。
だが、そこに彼女の姿は無かった。
 幻、とは考えられない。いや、亡くなった人物を見たのにそれを現実と認識するのもおかしいかもしれないが、よく出来過ぎていた。目の前に存在していた彼女は、驚くほどそこに馴染んでいたのだ。
 だが、ならば彼女はどこへ行ったというのだろう。
 私は恐る恐るエントランスを見回してみるが、住民のポストが集まった区画にも、階段にも、エレベーターの前にも彼女の姿は無い。灰色の壁で造られた仕切りは狭くて、とてもではないが隠れることができそうにない。何よりも現れた妻が再び隠れる必要性が、私には理解できなかった。
 腕時計に目を落として時刻を確認する。流石にそろそろ出ないと間に合いそうにない。確か、今日は職員会議が朝にあった筈だ。
 名残惜しさを胸に残しながら踵を返すと、私は再び傘を開き、エントランスから一歩足を踏み出した。

――とぶん。

 背後で水の跳ねる音がした。
 雨が降っているというのに、その音ははっきりと私の耳に届いた。波紋がじわりと広がっていくような音に、思わず私は振り返る。
 果たしてそれは、いつからそこにあったのだろうか。先ほどの妻の姿といい、今目の前に転がる『これ』といい、今日は何かがおかしい。狐にでも化かされているのだろうか。
 暫くそれを見つめた後、私は小さく嘆息してから携帯を取り出し、勤務先に欠勤することを伝えた。普段からの勤務態度と、あとは葬式からまだ間もないこともあるのだろう。私を気遣うようなぎこちない言葉を受けながら、私は礼と共に携帯を閉じた。
 ズル休みなんて、いつぶりだろうか。
 だが、どうにも目の前のそれが気になってならない。妻の姿といい、水の跳ねる音といい、まるで『これ』がその存在に気づけと言われているようだった。
 私は『これ』の前まで歩み寄ると、しゃがみこんでじっと見つめる。

――それは、掌に収まる程の小さな魚だった。

 目も醒めるような青い身体に、半透明の鱗が幾重にも折り重なっている。尾ひれがその身体の倍は伸びていて、先端は紅色に滲み、同じような色が魚の目元にもあった。まるで化粧でもしたみたいだ。綺麗な丸を描くその瞳が私の姿を映していた。
 あとは、そう……。いたって普通の魚だ。少し不思議な色合いなだけ。それが乾いた路上に横たわっていて、じっとしていた。初めは死んでいるのかとも思ったが、私が歩み寄るとその身体を撓らせて跳ねた。すっかり乾ききっているが、どうやら瀕死というわけでもないらしい。
 どうしたものか、と私は暫くその横たわる魚を見つめていたが、やがてそいつをそっと掬い取ってやると、再び自宅のある向かいのマンションへ連れて行った。
 雨水に触れてもその魚は身動きすらとらない。私に身を委ねているようだった。
ただ、その瞳はじっと私の姿を捉えて離さなかった。なんだか気味が悪いと感じながらも、何故だかその魚を捨てる気にはなれなかった。

 自宅に戻ると浴室に向かい、水を張った洗面器の中に魚を入れる。とぷん、と小さな音と共に着水すると、魚は暫く奥底に沈んだままじっとしていたが、やがてヒレを動かし、目をぎょろりと動かすと、洗面器の中を泳ぎ始めた。紅色をした尾ひれが水中でゆらゆらと揺れている。窮屈そうだが、流石に浴槽に放流するわけにもいかない。
 洗面器の中をゆらり泳ぎまわる青い魚を眺めながら、私は今日を休みにしてしまった事を少し後悔していた。どうせあんな外に放り出されていた魚だ。ニ、三日……いや、下手をすれば今日の夜にも死んでしまうかもしれない。弱っている魚はどんなに世話をしてもあっけないものだ。幼少時代の金魚掬いでそれは十分に学んでいた。
 浴室を出た私はネクタイを緩め、ベルトを外し、ズボンとシャツをベッドに放り投げ、部屋着に着替えるとソファにどっかりと座り込んでため息を一つ吐き出した。
「……何か買ってくるか」
 妻の姿、不思議な赤い尾ヒレの魚と、今日はなんだか不思議な出来事が多い。たった数十分家の外を出ただけなのに随分と疲労を感じた。
私は部屋着に簡単な上着を来て、財布を片手に玄関に向かう。
途中、あの魚は元気だろうかと気になって浴室の方に目を向けたが、流石にほんの数分目を話した隙に死にはしないだろうと首を振り、玄関でスニーカーを履くと自宅を出た。
 降っていた雨は、嘘みたいに消えていた。
ただのお天気雨だったのだろうか。予報外れのものにしては随分と大粒の雨だったのだが……。首を傾げながら、マンションを後にした。

 散歩をしている内に、道端で主婦を見かけるようになってきた。不思議とこの辺りに雨で濡れた跡は無く。待ちゆく人達も傘を持っていない。あの雨雲は何処へ行っただろうか、暫く考えてみるがどうにも答えは出なかった。
通りがかった公園で子供達が駆け回り、遊具に登ってはそれぞれ思い思いの遊びをしている。相手にちょっかいを出す事を好んでいたり、そんな乱暴者から友人を守ろうとしていたり、斜に構えて遠くで公園を眺めていたり、すぐ側のベンチでカードゲームに熱中していたり、十人十色だ。
あれくらいの子供が一人でもいたら好かったかもしれないなんて考えてみる。実際の所彼女も子供はとても欲しがっていた。死に際にふと子供を産めなかった事を謝られた事もあったから、相当悔しかっただろう。多分、彼女に未練があるとすれば、恐らくそのことだろう。
 そういえば、何時か子供の為にと貯金していた金があったなと思い出す。あれはどうしよう。葬式で幾分か手をつけてしまったが、それでも十分残っていた筈だ。
 そうやって歩いている内に、近くの商店街にやってきた。奥向かいには私の務める雪浪高等学校の姿も見える。だが不思議と生徒達は近寄らないらしく、今ではシャッターの多い、地元付き合いだけで完結した通りになっている。
 だが、腐っても商店街だ。それなりの物品を取り扱ってはいるだろう。この際、大きな買い物でもしてしまおうか。しかし大きな買い物とカッコつけて言ってみたものの、肝心の「大きな物」が思いつかない。
 そうやって困りながらふと横を見ると、通りを入ってすぐのペットショップに目がいった。
古びた看板には「桃村アクアショップ」と丸っこいプリントがなされており、周囲を彩るように幾つかの魚のイラストが上から書き足されている。どれもこれも少し時代を感じるデザインで、ペンキも剥れかけている。
ショウウィンドウは水槽が嵌めこまれていて、その中を魚が遊泳している。彩色豊かなものから白や黒、大小まばらな魚達は気持ちよさそうに見えた。
この街に引っ越して来てから何度も目にしている場所で、しかし入ったことはない場所だ。
妻が特に気に入っていたみたいで散歩途中に立ち止まってはショウウィンドウに張り付いて興味津々に眺めていた。黄色い魚が特に好きだったみたいで、お目当てが目の前を泳いでいくと指を指してはしゃいでいたのをよく覚えている。
 あの時彼女と同じように間近で水の中を覗き込んでいるうちに、朝方拾ったあの魚のことを思い出す。あの魚は、一体どんな餌を食べるのだろう。
 私は戸を開けて、店内に足を踏み入れた。
中は小さな水槽で埋め尽くされていた。幾つものエアーポンプの駆動音が部屋中に音となって流れこむ。ぶくぶくと、不思議な気泡のリズムに溺れそうになりながら奥へと進むと、黄色と黒の縞模様、蛍光的な青色、小さくて真赤なものと、まるで絵画のような魚達の泳ぎまわる水槽に私は見惚れた。大きくて広い水族館とはまた違った―妻はどちらもガラスに顔を押し付けて夢中になって見ていたが―趣が感じられる。
 何を見ても思い浮かぶ妻の姿に、ああ、と小さく溜息を吐く。
忘れることなんて、できない。彼女は私の心に住み着いて、一部となってしまっている。
――遺された側は、寂しいよ。
 赤い魚の泳ぐ水槽にそっと手をやりながら、私は妻の言葉を思い出す。
『ねえ、これ見たことあるわ。多分映画だったと思うんだけど――』
「おや、お客さんかい?」
 突然聴こえた声に私は慌てて振り向いた。
 奥の方から出てきた店主と思しき老人はそう言って微笑むと、小さくお辞儀をする。黒いニット帽を深く被り、緑縁の分厚いレンズの眼鏡を掛けて、赤い作務衣に身を包んでいる初老の、奇抜な服装をした男性だった。じっと見ているとなんだか目が疲れてくる組み合わせだ。
 どこかチカチカする服装をした男は隣までやってくると、屈んで先ほどの赤い魚を覗き込み、愛おしそうに硝子を撫でている。
「こいつは映画に出てから随分と人気でね、売れ行きは良いんだ」
「……あの、店主さん、ですか?」
 彼は頷く。
「そう、私は桃村継彦(とうむらつぐひこ)だ。君、時々覗いていただろう?」
 桃村継彦、と名乗るその店主はショウウィンドウを指出し、にかっと歯を見せて笑った。
「真崎葵と申します。まさか顔を覚えていただいていたとは思いませんでした」
「この商店街もすっかり閑散として、立ち寄ってくれるお客さんも知り合いばかりだ。通りがかる度に覗きこんでくれる君達は珍しくてね」
 桃村はそう言って周囲を見回すと、首を傾げる。
「彼女は一緒じゃないのかい? そこのショウウィンドウに張り付いていた子だ。このペットショップに最初に入ってくるとしたら、彼女の方だと思っていたんだが」
 ああ、と僕は言いにくそうに俯く。
「妻は、先日……」
 それだけで彼は察してくれたようだった。いや、単純に別れただけと思われたのかもしれないが、彼は腕を組んで何も言わず頷くと、無言のまま奥へ戻ってしまった。
 取り残された私は途端に居心地が悪くなって、店を出るべきだと出口に向かおうと決めて踵を返す。
「お兄さん、こっちおいで。少し茶でも飲もうじゃないか」
 そんな気まずそうにする私を彼は手招きして引き止めたのだった。

   ・

奥の居間に通されると、桃村は座布団を用意して、私を座らせた。座らされてから辺りを見回すが、店内に比べて色の少ない部屋だという印象を受けた。
二人ぐらいで十分に感じられる狭い畳の部屋の傍には台所が取り付けられていて、ステンレス製の水場と、底の焼けた薬缶が一つ置かれている。
彼は薬缶に水を入れて火に掛けると、傍の棚から急須を引っ張りだす。
「つまらんものしか無いが許してくれ」
「はあ……」
 同情、なのだろうか。
桃村は皺の多い顔をくしゃりと歪めて微笑むと、戸棚から大福を二つ、皿に乗せて目の前の丸テーブルに置く。
真っ白い餅餡は大きくて、随分ぎっしりと餡が入っているようだった。手に取るとやはり随分な重さだ。
「まだ若いのにその歳で伴侶を亡くされるのは、辛いだろうに」
 彼はちゃんと受け取ってくれたらしい。
「そうですね、まさかこんなにとは思いませんでした」
「お子さんは?」
「いえ」
「それはまた」
「いたら良かったとは思うんですがね。ないものねだりは出来ませんよ」
 桃村は深く頷くと、腕を組むと口を閉じて目を閉じた。
 それきりまるで口を開かなくなってしまった彼を暫く見つめるが、反応を示す気配はない。
 声をかけようとしたが、どうにも受けてもらえるように思えず、結局私もじっと座っていた。
 居心地の悪い無言の空間の中に暫く座っていると、やがて薬缶が笛を鳴らす。
桃村はようやく目を開けるとその重たい腰を上げて、火を止めた。悲鳴を上げ続ける口笛を取り外し、急須を水で軽く洗ってから茶葉を入れ、薬缶の湯を落としていく。
 その一連の行為をじっと眺めていると、彼は私の視線に気づき、皺だらけの顔をくしゃりとさせる。
「お茶をどうぞ」
 私の前に湯のみを一つ置くと、彼は急須を軽く一度、二度揺すり、傾けた。鮮やかな緑色がこぷこぷと音を立てながら湯のみへと注がれ、白い湯気がじわりじわりと立ち上る。薬缶から溢れ出ていた蒸気達とは違って、たおやかに揺らめいて宙を舞う姿に、緊張少しづつ解けていくのを感じた。
 彼の薦めを受けて、私は手渡された湯のみに口を付ける。
 ふわりと、身体の内側を熱いものが通って行く。食道から胃までの形が分かるくらい。何度も湯のみを傾ける満足したのか、桃村は微笑んだ。
「下に感情が向いている時は、暖かいものに限る。冷えて凍りついたままだとどうしても思考が回らなくなってしまうからね」
「そういう、ものですかね」
「まあ少しでも足しになったらと思ってね。余計なお世話だと分かってはいるんだが」
「いえ、そんな事はありませんよ」
 彼なりの饗し方を味わいながら、ふと自然と笑みを浮かべることができた。そういえば、ちゃんと笑ったのは何時ぶりだろう。
「私もね、妻に残されてしまった人間だから、君の気持ちは分からなくもないのさ」
 彼の言葉に、私は顔を上げる。
「いや、まあ歳を取ってからの話だがね」
 でも、と呟くと彼は遠くを見るように目を細めた。
「時々、あいつはどういう時に喜ぶか、何をすると悲しむか、怒るか考えてみるんだ。すると、生きている間随分と悲しませてたように思えてしまう」
 そう語る彼の目は遠くを見つめていた。私はじっと黙り込んでいた。
 すると彼は、目を細めて私の事を指さす。
「奥さん、死に際笑ってただろう」
 私は答えず目を伏せた。だが彼はそれを肯定を取ったらしく、湯のみを傾けてから再び話し出す。
「卑怯だよなあ。未練とかあるだろうに、全部洗い流して清いまま旅立とうとするみたいでさ。あの顔が遺された側にとって一番辛いのかだって分かっている筈なのに」
 桃村の漏らす言葉を茶と共に飲み込む。喉元を通りすぎて、胸の奥へと染みていく。
私は湯のみを置いた。
「妻がいなくなる直前、言われたんです」
「なにをだい?」
「新しい人を作れ、と」
「それは無理難題だ」
 腕組みをして唸る彼を見て、私は頷いた。
「彼女の為ならなんでもするって、確かに言ったつもりでした。痛みや苦しみは代われない。でもせめて彼女を最後まで幸せにしてやりたかった。でも、彼女が最後に言ったのは、ありがとう、でも幸せだったでもなく、次の人を探せという言葉でした」
 そう言いつつ、私の中で小さな疑問がぐるりと巡る。本当に幸せになりたかったのは、誰なのだろう。いや、答えはもう分かっているけれど、それをどうしても認めたくなかった。
 苦しむ妻を見て、何も出来ないという焦燥感をどうにかしたくて、妻の為に行動することで、こんな自分でも役に立てていると、自分は幸せだったと思いたかった。
 最後の彼女の笑顔が、私を押した手の感触を思い出す。
「きっとそれは、彼女なりの呪いの掛け方なのかもしれない」
 考えに耽る私に、彼はそう言った。
「呪い?」
「そう、呪い。忘れ去られないように、相手の心のどこかに自分を残す為に、彼女たちは俺たちを満たす言葉を残さない。爪痕を残していくんだ。身体じゃなく、もっと深いところに」
 桃村は爪を私の胸に立て、それから縦になぞる。
「……忘れないでって、言えないものなんですかね」
「言えないものなんだろうさ。例え死ぬ間際だとしても」
 湯のみを手にする。少し冷めたのか、火傷しそうなほど熱かったそれは、どこか柔らかなものに変わっていた。
「いや、君からしたら初対面のこんな爺に言われて気分の良いようなものではないだろうな。申し訳ない」
 そう言って深々と頭を下げる彼に私は首を振る。
「いえいえ、そんな、とても参考になる話でした」
――それに。
私は少しだけ躊躇し、それから一呼吸置くと、再び口を開いた。
「腑に落ちたっていうのか、なんだか今までごちゃごちゃしていた気持ちに少し整理がついた気がします。全部ではないですけど、こういう事を打ち明ける機会が無かったから、むしろ良かった」
 桃村は笑みを浮かべると大福に齧り付き、咀嚼すると口の端の餡を指で掬って一舐めし、お茶を飲み干すと満足そうに息を吐いた。
 なんだか自分も甘いものが食べたくなって同じように大福を手に取ると、口にする。少し硬くなってしまっていたが、それでも十分柔らかくて、中に詰まった餡のさらさらとした舌触りと広がる甘さを堪能し、全て平らげた。
雪が溶けるような餡の丁度いい甘さに満足し、お茶を飲むと桃村と同じように感嘆の息を漏らす。
「この餅、旨いだろう」
「とても美味しかったです」
「しょっちゅう買いに行ってる和菓子屋の大福なんだがね、何時食べても美味しくてね、また食べに来るといい」
 是非、と頷いた後、ふと時間が気になって私は腕時計を覗いた。もう二時間近くもここにお邪魔していたらしい。流石に居座りすぎだろうと思い、それから家に残してきた魚の事が急に気になりだした。
 あんな小さな場所じゃあどうにも窮屈だろう。折角だから少し奮発した買い物をしてもいいかもしれない。
なんだか気分が良くなった私は、自分の懐状況を確認してから桃村を見る。
「桃村さん、飼育用品、一纏め買わせて貰えませんか」
 彼は私の言葉を聞いて重たそうな腰をゆっくりと上げ、店内に歩いて行く。
「気分転換に魚を見るのは良い物だ。どんなものが欲しい?」
「いや、実は魚はもう居るんです。今朝一匹拾いまして。餌も水槽も無いから、折角なら見繕ってもらおうかと」
「魚を拾った? 犬や猫なら珍しいが、魚を拾うなんてまた不思議な話だね。まあおかげでこうして君と話が出来た事を考えると、運が良いのかもしれないな」
「色や形で、どんなものか判別できます?」
「もう随分店をやってるから大丈夫だろう」
 湯のみや皿をシンク台へ片付け、私も彼に続いて店内へと向かう。
 居間から出ようとした辺りで不意に上から音がした。ぎし、と床を誰かが踏むような音だ。
 居間の奥にある階段を覗きこむが、桃村から声があって私は気になりながら、しかしそれきり音が止んでしまったので、私は首を傾げながら店内へと戻った。
 桃村は既に幾つかの備品を揃えていた。彼はそれぞれを手に取りながら早口に説明をしていく。
「取り敢えずはこの辺りが集まっていればどうにかなるだろう。何か困る事があればうちに来てくれ。サービスもするし、この歳になると独りは寂しくてなあ、話し相手が欲しくなってね」
「ここには桃村さん一人で?」
「あー……いや、あとは孫が一人、通学の関係でうちに住んでいる」
「近くと言うと、雪浪高校ですか?」
「よく分かったね。そこに通っているよ」
「実は、あの場所で教師をやっているんですよ」
「ほう、それはまた驚いた」
「私も驚きました。雪浪生はほぼ電車通学だそうで周りに生徒が居ないものだと思っていましたから」
「なるほど、いい機会っていうのは意外と重なるね」
「でも、お孫さん、今日学校は?」
「ああ、行っている筈だ」
 じゃあ、物音は何か聞き間違いだろうか。居間の方をちらりと見てから、まあ気にすることでもないか、と視線を彼の方に戻す。
「それで、君の言っていた魚、形は分かるかな?」
「掌くらいの大きさで、真っ青でしたね。後は、半透明な鱗に覆われていました。ああ、後は尾が赤いです」
 魚のデティールを聞いて、桃村は暫くじっとこちらを見つめていた。腕も組まず、表情も変えず、ただ、じっとこちらを。その反応に私は戸惑う。
「桃村さん?」
「……そいつは、尾が長くないかい?」
「その通りです。長くて、その先端だけ赤いんです」
 彼の中で該当する魚が居たようだ。
「……そうか、それならこの一式で足りるな。餌も問題ない」
 笑みの戻った桃村に安堵し、私は頷いた。
彼の言い値は私にも分かるくらい利益の少ない値段だった。申し訳なくて断りを入れたが、頑として値段を変えない彼に結局最後は折れてしまった。
「何か飼育で気になる事があったら、すぐに聞きにおいで」
 桃村はそう言って私に荷物を持たせると、出口まで見送ってくれた。店を出ると外は昼過ぎで、商店街を歩く主婦の姿が多くなった。閉まっていたシャッターもそこそこ開き、魚、肉、八百屋や傍のスーパー、パチンコ屋。こじんまりとしたおもちゃ屋。反物屋と多種多様な店が顔を出している。ただ、それでもシャッターの方が目立つわけであるが。
「じゃあ、何かあったらまたおいで」
「本当に色々とありがとうございました」
 微笑む桃村に軽く礼をすると、私は商店街を出た。流石に抱えるほどの荷物を持って散歩というわけにもいかないし、これから飼育の準備をしたら、それだけで随分な時間を食ってしまうだろう。夕食は何か出前でも考えることにして、まずは帰宅だ。
 しかし、と私は振り返って商店街を眺めながら思う。
 桃村のあの間は、一体何だったのだろうか。
 私の拾った魚は、それほどに珍しい魚だったのだろうか。
 疑問を抱きつつ、しかし自己解決も出来そうにないので、ひとまずは保留にしておこうと思う。良い拾い物ならそれでいいじゃないか。
 何かを飼うことで、少しでも寂しさが紛れれば良い。
ふと私は、以前から桃村の店に張り付いていた妻の姿を思い出し、興味を抱きつつあまり気乗りしていない私を見て我慢していたのかもしれないと思うと、少し申し訳ない気持ちになった。

       

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Neetsha