三

 真崎先生の持ってきたココアは、甘くて、暖かくて、私の中にじわりと沁み広がった。両手に感じる確かな熱と匂いを感じながら、甘いものってこんなに美味しかっただろうかと思う。ココアやチョコレート、飴やキャラメルとか、口の中に残る甘さがどうしても苦手だったのに。
「落ち着いたかな」
 マグカップ片手に彼は丸椅子を一つ隅から引っ張ってきて、私と若苗さんの座るベッドの横につけて、それから彼は珈琲を口にする。
「珈琲はやめたのかい?」
 やけにブラックにこだわっていた覚えがあったからか、どうも珈琲以外を口にしている私に違和感があったらしい。
 先生の言葉を聞いて、私はカップに目を落とす。
「もういいんです。多分、私も強がってただけなんだと思います」
「そうか」
 私の言葉に、彼はそっと頷いた。
「君と私は同じ理由で飲んでいたみたいだね。私も今まで、色んなことが曖昧でね……。碧から吹っ切れられない事、みどりについて、そして色々な物事に対して何も選択をできずにいる私自身に対してかな。そういった曖昧な感情がべったりとくっついている気がして、なんだかだんだん自分がぼやけていくような感覚すら感じていたんだ」
 そこで一度彼は珈琲を口にすると、安心したように深い息を吐き出した。
「輪郭がはっきりする、ですか?」
 私の言葉に彼は再び頷いた。
 彼は、自分が気に入らなくて、そんな嫌いな自分を痛めつける方法を探していたのかもしれない。
「これからも、珈琲を飲むんですか?」
「私は、これからも飲み続けるよ」
「みどりちゃんは、この先どうするんです?」
 若苗さんが、どこか心配するようにそう尋ねた。
 彼は暫く私と彼女を交互に見てから、力の無い笑みを浮かべると、珈琲を飲み干して隅のテーブルの上に置いた。
「私はあの子を手放すつもりは無い」
「でも、あれはいずれ誰かの記憶を……」
「そんなことさせない」彼の口調は強いものだった。「あの子はみどりで、私の娘だから」
「娘、ですか」
 私はふと、若苗さんの方を見た。彼女は暫く私の目を見つめてから、どこか諦めにも似た表情を浮かべ、やがて視線を落とす。
――私達にこれはどうすることも出来ない。
 彼女の仕草が、それを語っていた。
「一つだけ、安心していることがある」
 まるで独り言みたいに彼は小さな声で囁いた。その目はみどりを映していて、優しそうで、でも私は彼の表情を見て途端に悲しくなった。
「みどりが生まれた事だ。私は碧ではなくみどりを選んだ。もし妻を選んでしまっていたらきっと私は、彼のように狂っていたのかもしれない」
 彼とは、唄野彼方の事だろうか。いや、桃村さんの事かもしれない。そう予測してみるのだけれど、どちらと聞く勇気はどうしても起きなかった。
「私はね、やっと満たされた気がしているんだ」
 彼は私を見た。まるで見透かされているみたいな態度に思わずどきりとする。
「子供がいれば、碧に執着しなくて済んだのかもしれないと思ったんだ。でも碧と作ることは出来なかった。愛する人との最後の望みが達成されず終わってしまったのが悔しかった」
 月が雲に隠れていく。若苗さんに指していた光がくすみ、やがて彼に陰が挿していく。丸くなった背中を見て思わず私は手を伸ばそうと思うのだけれど、途中でその手は止まってしまった。
「望んだ事が、娘で良かった。碧が欲しがっていたものを自分も欲しがれた。互いの意思が交わった結果がみどりである事が嬉しくてたまらなかった。だから、私はこの選択で後悔は無い」
 それは恐らく、唄野彼方と同じ。すぐにでもほつれて切れてしまいそうな糸で登り続ける行為に等しかった。
「実はね、みどりと会って、やっと泣けたんだ」
 あの日尋ねた言葉が鮮明に蘇る。電話越しにはぐらかされた言葉を、彼は今やっと告白してくれた。碧さんの時は泣けなかったのだと、遠回しにだけれど、言ってくれた。
「……私も泣きました」
「それは良かった。私達はちゃんと泣けたんだね」
 微笑みかける彼に私も笑みを返す。
 でも、互いの涙の理由は同じなのだろうか。
 
――私達は一体何に納得したのだろう。

 やがて外からエンジンとタイヤが地面を踏む音が聞こえた。遠いけれど、今の私にはとてもはっきりと聞こえて、保健室の扉に目を向けた。
「君達の反応を見ると、迎えが来たようだね」
 若苗さんを見ると、彼女もまた同じ方を見ていた。でも彼だけは音に気付いていないらしい。こんなにはっきりとした音なのに、聞こえないわけないのに。
「咲村さん、行こう」
「若苗さんは、そのままで平気なの?」
「平気じゃないよ。多分何があったのか聞かれる。でも、今は、今日だけはこのままでいたいの」
 ブラウスを透過して彼女の肌が見える。下着の色だってはっきりと見えている。でも彼女はむしろそれを誇らしく思っているように見えた。
「明日から、君達は日常に戻る」
 立ち上がり荷物をまとめる私達を背にして、彼は穏やかな口調で言った。私達の方からは彼の表情は見えない。
「帰りなさい」
 真崎先生を見て、それからベッドで未だ眠り続けるみどりを見てから、私は一度深くお辞儀をしてから保健室を出た。
 扉を閉める時に彼をもう一度部屋に目を向けたけれど、彼は最後まで私達を見ることは無かった。
 がたん、とレールを滑る音と共に扉が閉まる。嵌め込まれた小さな窓越しに、みどりの眠るベッドと丸椅子に座る真崎先生の姿が見えた。
 それはどこか一枚の絵のようで、絵美が好みそうだなと思った。
「幾月さんが見たら喜びそう……」
 そう呟いた彼女に驚いて私は振り返る。
「絵美を知ってるの?」
 若苗さんは暫く戸惑いの色を表情に浮かべていたが、やがて何か腑に落ちたのか、突然微笑んだ。
「あの子の絵、とっても素敵ね」
 その言葉の意図を暫く考えたのだけれど、結局分からなかった。
「私も、大好き」
 だから、素直に返答しておく事にした。私の返答を聞いた彼女はとても嬉そうだった。
 非常灯の光だけの不気味な廊下も、二人で歩いていると不思議と怖さを感じなかった。今日の出来事のせいで感覚が麻痺しているせいかもしれないけど、とにかく一人ではない事でとても安心している自分がいる。
「絵美は、絵が出来上がると必ず私に見せに来るの。とても色彩豊かで素敵で、でもまるで鏡を見ているみたいで怖い絵を」
 絵美は今、どんな絵を描いているんだろう。多分若苗さんの見たものはまだ私が見たことの無い絵だろうと思った。
「今度、一緒に絵を見に行こうか」
 彼女は頷くと、そっと私の手を握り締める。心地良い温もりが左手を包む。
 彼女がずぶ濡れな理由をどうしようか、きっと本人はなんとなく理由を思いついているのだろう。
 なんにせよ、口裏を合わせられるようにしておくべきだろうな、と隣で笑う彼女を見て私は思った。