Neetel Inside 文芸新都
表紙

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   三

 水槽に件の魚を入れるまでの作業は随分と時間が掛かった。
 桃村に教わった通りに作業を終わらせてから、まだ環境づくりを終えただけの水槽を覗きこむ。
 藻や水草の揺れる中で白色光が揺れている。少し濁っているが、それも何れは取り除かれるそうだ。
 実際は水作りなんて作業もあるそうだが、私の拾った魚には必要がないというので、環境づくりが終わったらすぐにでも入れてやれと言っていた。海水魚から熱帯魚までそれぞれで違いがあるそうなのだが、私に然程の知識は無いので、言われたとおりする以外何もできない。
 桃村が言うには熱帯魚用の環境づくりになっているらしく、もし何れ魚が欲しくなったら何か紹介しようと言っていた。
 世話になりっぱなしだと水槽の前で冗談っぽく呟いた後、浴室へと向かい、洗面器ごと持ってくると、手で掬ってそいつを水槽に入れてやった。
 照明に照らされた体が反射して、蛍光色じみた青色になる。少し見る角度を変えただけでホログラムみたいに輝き方が変わり、半透明な鱗が、内包した光でその青を更に際立たせていた。
 水槽の中で泳ぐその魚の姿は、どこか油彩画で描かれたように色濃くて、どこを泳ぎ、どこに隠れたとしてもその存在感は薄れることが無い。
 拾ったにしては随分と高価そうで、もしかして何かの手違いで流されてしまったものではないかと不安になってくる。もし飼い主が見つかってしまったら桃村の言葉通りもう一匹飼おう。少なくとも、今はこの魚で十分満足だ。
 もし他の熱帯魚を入れたとして、こいつはきっとその魚の鮮やかさでさえも取り込んでしまうような気がするのだ。何もかもを自分の美しさの為にしてしまえるような、そんな美への貪欲さが感じられる。
 少し尾ひれが長くて、見惚れてしまう色彩をその身に宿しただけのただの魚の筈だ。
なのに、私はこの魚にそんな印象を抱いた。
 そして、朝の妻の姿を思い出す。
 雨の中、向かいのマンションに立っていた妻は、病に倒れる前の血色の良い顔をしていて、肉付きも良かった。
 あの時着ていた服は、そう、確か私が恋人として彼女にプレゼントをした服だ。もう随分と昔になる。紺色で、月の小さなプリントが散りばめられたワンピース。彼女はそのデザインを気に入ってくれて、私と出かける時はよく着てくれていた。それ以降も服のプレゼントを贈った事があったが、多分いちばん身に着けていたのはあの服だ。
 死後の霊を信じたつもりはないし、私はまずあれを「生きている」と感じた。一瞬で消えたとしても、あの妻は現実味があった。
 だが、もしもだ。あれが所謂霊というものであったとして、彼女は死後になってもプレゼントした服を愛し、着続けているのだとしたら……。
 少しだけ、救われた気がした。


 携帯の着信音が鳴り響く。
 魚をぼんやりと眺めていた私は意識を取り戻し、テーブルの上で震える携帯を手にするとディスプレイを確認する。見覚えのない番号だ。暫く鳴り続ける携帯を前に出るかどうか悩んだが、一向に鳴り止む気配が無い様子を見て、私は漸くその着信を取った。
「もしもし」
 女性の高い声が聞こえてきた。やけに一語のはっきりとしたよく伸びる声だ。聞き取りやすく痛くない。だが、私の記憶の中にこのような声をした知人は居ない。ならば、今こうして繋がるスピーカー越しの彼女は、一体何者だろうか。
「君は誰?」
 落ち着いた口調でそう問いかけると、受話器の向こうでああ、と声が聞こえた。
『突然すみません。私、雪浪高校二年生の咲村朱色(さきむら しゅいろ)と申します』
 全く聞いたことの無い名前だった。
二年ならば私も幾つかのクラスの教鞭を取っているし、「朱色」なんて名前なら記憶にも残りそうなものだ。恐らく私の担当外の子だろう。だが一体そんな繋がりのない女子生徒が何の用だろうか。
「どうしたのかな」
『いえ、今日はお休みと聞きまして』
 先ほどとは打って変わって、もごもごとした曖昧な口調だ。
「直接聞きたいことでもあったのかい?」
『はい、その……』
 躊躇いがちな彼女の声を聞いて、私は額に手をやる。妻の死と大分長い休みに心配になって電話を掛けて来たのだろうか。しかし担当外の子が掛けて来た事が引っかかる。
『あの、先生にお聞きしたい事があって、連絡させて頂いたんです』
 そうだろう、と私は心の中で返答する。だが聞きたいことはなんだろうか。
「……私に答えられることならいいんだが」
『先生でないと、多分答えられないです』
「そうか、なら言ってごらんなさい」
 咲村の言葉は硬く、決して冗談や陽気な言葉を口にするような風では無かったからか、変な事を口にする事は無いだろうと妙な信頼を抱いていた。
 受話器の向こうで咲村は呼吸を繰り返している。言葉を口にするタイミングと、自身の心の準備が整うのを待っているのだろう。私はじっと、口を閉じたまま言葉を待ち続ける。
 思えば、生徒とまともに言葉を交わすのも久しぶりだ。つい先日まで式の忙しさに追われていたのだから当たり前ではあるのだが、あの日の生徒達の言葉でさえもまともに入っては来なかった。妻たっての希望で「来るもの拒まず」としていた為もあるのだが、それでも面識のある数名くらいのことは覚えていて良いものだが、まるで誰が来ていたのか記憶が無い。
 本当に一杯一杯だった。
 妻も妻だ。何故面識も無い人物の参加まで許したのかが分からない。いや、死ぬ直前にこの疑問に対して彼女は確かに答えていたが、どうにも理解ができない。
――私は、とても臆病者で寂しがりだから。
 夫の記憶に呪いをかけたように、周囲にも彼女は自分のいた証拠を残したかったのだろうか。
 そう思うと、酷く自分が彼女の中では小さかったように思えて、少し悔しさを覚えてしまう。いや、ただの嫉妬だということは分かっているのだが。
「……いつまで、黙っているんだい?」
 痺れを切らして私は言った。
 嫉妬で苛立つ程彼女に未練を抱いているのに、一度も泣くことのできていない自分にまた苛立つ。私は本当は悲しんで居ないのだろうか。妻の死は、自分の感情を揺さぶられるほどの出来事では無かったというのだろうか。
 苛立ちが、ぐつぐつと腹の奥底で煮え立ち、ふつふつと迫り上がる熱量に押されて、早くしてくれないかと更に口にしてしまう。
 受話器越しに彼女の呼吸が更に緊張したのが分かった。張り詰めた糸みたいな吐息に耳を澄ました。
『先生は、つい最近奥さんを亡くされました……よね?』
 咲村は、漸く口を開いた。
「ああ」
『……泣くこと、できましたか?』
 彼女の遠慮がちな問いに、私は固まった。彼女の緊張がスッと私に移り、容易だった筈の呼吸が途端に重くなったのを感じる。
「何故、そんなことを?」
『いえ、単純な興味、でしょうか。いや、言葉は合ってないのかも知れません。でも、気になって仕方が無くて……。葬儀にも出席させて頂いたのですが、その時も真崎先生、ずっと無表情になってただお辞儀を繰り返していただけだったから、ちゃんと泣けたのかなと思って』
 それは――。
 言葉を口にしかけて、私はぐっとそれを飲み込んだ。彼女はそれを聞いて何を理解し、納得しようとしているのか、まるで分からない。
 確かに私は涙を流すことが未だにできていない。妻が死ぬ前も、死んだ時も、そして今も、葬儀を終えてからも空っぽのまま、何に対しても空虚なこの心をどうすればいいのかも分からない。
 ふと横目に水槽に目を向ける。青い魚は小さい目をぎょろりと動かしてこちらを見た後、特に気にする風もなくそっぽを向いて木の裏に身を揺らして消えていった。異様に長い尾だけがそこに残っている。ゆらり先端の赤が絵の具を溶いたみたいに淡く揺れている。
「――すまないが、来客だ。切らせてもらう」
 私は咲村の返答も待たず電話を切って、携帯を適当に放り投げると目を閉じた。
 口の中が乾いている。舌で口内を舐め回すが、それではどうにもならない。やがて唇にも違和感が生まれ、喉が酷く粘ついた。水が欲しい。どうにかこの渇きを潤したい。しかしどうにも動く気にはなれなかった。
 このままソファの柔らかな感触に溺れていたい。何も考えず、じわりとやってくる眠気に侵されながら意識を失ってしまいたい。
 咲村朱色は、果たして私が泣けなかったと告げた時、なんて答えるつもりだったのだろうか。非情だと嘆くだろうか。妻を失って間もない男にそんな非難を浴びせはしないだろうが、少なくとも動揺と、言葉の端々にそれらを匂わせるものがきっと含まれたに違いない。

――私は未だに泣くことができない。

 それは確かで、ぽっかりと空いた感情の穴は未だに埋まることも、癒えることもせず私の中に存在している。
「愛していたんだ」
 誰も居ない、私一人の部屋でそう呟いてみた。
――知ってる。
 そう返してくれた人はもうどこにも居ない。
 リビングに寂しく響き、受け取られることもなく消えていった言葉を想うと、どこか遣り切れない気持で一杯になって、私はぐっと下唇を噛み締めてしまう。
 そう、もう居ないのだ。
 分かっている。
 例え泣いたとしても、誰かにこの想いを口にしたとして、妻は決して戻ってくる事は無い。生命活動を終えた肉体は燃え尽きて灰になって、人一人が入っているなんてとても思えない位小さな骨壷の中に収められ、真崎家と彫られた大理石の塊の中に仕舞われてしまった。
 ぶくりと、水槽の方から音がして、私はそちらに目を向ける。
 整備したばかりでまだ濁りの目立つ水槽から、あの青い魚がこちらをじっと見つめていた。いや、多分そのように見えるだけで実際はただ外の景色を眺めているだけなのだろう。
だが、なんだか私のこの隙間だらけの心に気付いてもらえている気がした。ただの魚なのに、だ。
 ソファから重たい腰を上げると水槽の前にしゃがみ込み、外をじっと見つめる魚の目の前を人差し指でとん、とんと叩いた。魚は口をぱくぱくと開閉しながら、その指に構わず外を見つめている。近くで見ると半透明の鱗による光の反射が一層鮮やかになって、目も覚めるような青に見えた。本当に不思議な魚だ。地面に打ち捨てられていた時からここまで弱っている様子もない。
「君は何処からやってきたんだ」
 問いかけに、返答は無い。
 ゆらりゆらり。異様に長い尾ひれが、縦横無尽に水槽を動き回っていた。
「あの妻の正体を、もしかして君は知ってるんじゃないのか」
 返答は無い。
 それもそうか、魚と私が言葉を交わせる訳がない。
「君がもしも喋れたら、あの時の彼女が何だったのかわかるのになあ……」
 魚の反応が無いのを確認して立ち上がり、ベランダに出てみた。
 夕闇が住宅街を飲み込み、仕事帰りのサラリーマンや遊び疲れた子供達がマンション前の道路を歩いて行く。時折走るトラックのエンジンの音とか、自転車のからからとタイヤの回る音が淋しげに響く。
 小さい頃はラッパの音もしていた。それを聞く度に親に財布を渡されて豆腐を買いに行っていた。もうそんなラッパの音色も、そこまで聞かなくなってしまった。
 少なくとも教師の道を歩み始めて、この場所に越してからは聞いたことが無い。何にせよマンションから豆腐屋を呼び止めることは出来そうにないが……。
 ラッパの音について考えていたら、そういえば今日は大福餅くらいしか口にしていない事に気付いて、途端に空腹感が湧き上がってくる。腹の虫が低い声で鳴くのを聞いて、夕食をどうしようか考えなくてはと腕を組んだ。
 折角だから豆腐でも買って来よう。妻程の料理の腕は無いけれど、少しづつ覚えて行かないといけないし、いつまでも外食やデリバリーで繋ぐわけにもいかない。
 私はベランダから戻ると財布を手に取って、それから水槽に餌をやっていなかったと、棚から餌を取り出すと小匙程度の量を水槽に落とす。小さな粒が水面に散らばった。青い魚はしかし、餌に見向きもせず、じっと、頑なに水槽の外を見つめている。
「外に出たいのか」
 やはり返答は無かった。
「あそこに転がっていたのは、外に出たかったからなのか」
 私は微笑むと財布をポケットに押しこみ、放り投げられていた携帯電話を拾い上げて玄関へ向かった。

       

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