Neetel Inside 文芸新都
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  四

 適当な材料と共に帰宅し、キッチンで簡単に料理を拵える。いつも妻のいた場所に立つと、彼女の名残に触れることができた気がして、少し嬉しくなった。
 水槽に入れた餌には手がつけられていなかった。
 流石に外をじっと見つめることにも疲れたのか、物陰に戻ったようで、水槽に姿は見られない。長いあの尾ヒレも上手にしまったようだ。まあ、餌が欲しくなれば食べに来るだろう。
 適当に毟った野菜を小皿に詰め、サイコロ大の大きさに切った豆腐、そしてドレッシングをかける。
 インスタントのトマトソースを湯煎し、茹でたパスタの上に掛けて出来上がりだ。手の込んだ事が出来るほど料理の腕は無いし、買ってきたレシピ本を活用する気力も無かったので結局雑な料理になってしまった。
 椅子に座って、暫く待ってみるが、向かいの椅子は動かない。いつも私がまず座って、次に彼女が座る。それが習慣だったから、ついそれに従って待ってしまう。
 私は嘆息すると両手を合わせて目を閉じた。
「頂きます」
 いつもの返事は、何時まで待ってもやっては来ない。私はフォークを手に取るとパスタを巻いて口に運ぶ。少しすれば食事のレパートリーも増えていくことだろう。それまではこれで我慢するしかない。
 パスタを咀嚼しながらテレビを付ける。
 夕刻過ぎのニュースが流れている。政治家の不正や殺人、盗難、芸能人のゴシップ。大小様々なニュースを坦々とした口ぶりでキャスターは話していく。痛ましい事件に顔を顰めて「非情に悲しい出来事です」と告げつつ、次にはめでたいニュースでころりと笑みを浮かべる。喜怒哀楽の忙しい世界だ。
『さて、次のニュースです――』
 キャスターの言葉と共に一人の少年の顔が映し出される。短髪できりりとした顔立ちの好青年で、つり目が特徴的だ。
 特に彼の顔に覚えは無いのだが、その背景に映し出された場所が自宅からそう遠くない場所で私は興味を持った。
 今日散歩で出向いた商店街を更に歩いていくと在る河川敷。お昼時に撮ったのかまだ明るいその場所の風景をバックにキャスターは事件の詳細を語っていく。
『――河川敷での目撃証言を最後に男子高校生咲村真皓(さきむら ましろ)君の行方が分からなくなっている――』
――咲村真皓。
 その名前を聞いた時、私はそういえば、電話の女子高生の名前も咲村出会ったことを思い出した。
 この付近で咲村という名前もそう無さそうだし、姉弟かもしれない。

――泣くこと、できましたか?

 あの言葉は、そういうことだったのだろうか。
 行方を晦ませた兄弟の動向が不明であり、そしておそらくは何かに巻き込まれてしまった、イコール死を連想させる言葉を受けてしまったのかもしれない。
 しかし彼女は泣けなかった。両親が涙を流す中で自分だけはっきりとした反応が取れなくて、混乱していたのかもしれない。
 憶測の域は出ないが、私に電話をした理由としては、十分かもしれない。
 それにしても、こんな開けた河川敷で姿を消すなんてことがありえるのだろうか。平日とは言え子供の遊び場にもなっている場所だ。川も膝までの浅いものだし、溺れて流されるなんて、少なくとも体のできつつある男子高校生ではあり得ない。
 ならば、誘拐? だとして彼はここをよく通っていたのだろうか。連れ去るとしたならそれなりの準備と計画が必要にはならないだろうか。いや、これだけ大胆な場所だからこそ誘拐は成功したという見方もあるかもしれない。しかし何故少女や子供でなく男子高校生を選んだのか。
 なんにせよ奇妙な事件だ。その奇妙さ故にテレビで取り上げられたのだろう。ニュースとしては中々上質なものであるように思えるし、マンネリ化する不祥事の中で一際新鮮に映る。
 ともかく、出勤した際に咲村に声をかけてみるのもいいかもしれない。少しでも私の言葉で彼女が救われた気持になるならば……。
 食事を終え、シンクに食器を移すと蛇口を捻った。スポンジを二、三度握り締めてみると洗剤がぶくぶくと白い泡を吹く。トマトソースで汚れた皿を洗ってシンク横に布巾を広げて皿を置く。泡立った手を水につけてみると、思った以上にその水が冷たくて驚いた。骨に滲みる様な痛い冷たさだが、心地良くも感じられた。
 痛みに対して気持ちいいという感覚を覚えるのは、どうにも良い物には思えない。本来痛みや苦しみは身の危険を知らせる為のものだ。間違って命に関わる傷を負わないように、自身の身体が傷つくことを恐れるようにプログラムされた結果生まれたものであり、進んでそれを好むなんてことはおかしい。
 そう頭の中では思っているのに、この凍みる感触にこのまま浸っていたくなる。自分の感覚が麻痺していない証拠のような気がして安心する。自傷行為からこんなものを得ることになろうとは、私は自嘲気味に笑みを浮かべると、蛇口を絞めた。濡れた手から雫が落ちて、排水口に消えていった。
 再びテーブルに戻ると、ニュースは終わっていた。タレント達がひな壇に座って騒ぐバラエティ番組が始まる。他のチャンネルも同じで、私は溜息をつくとテレビを消した。
 ソファに座ってもどうにも落ち着かない。特に眠気も無いし何をするにも微妙な時間だ。
 水槽に目を向けてみるが、魚は未だに陰に隠れてしまっているようで姿は見えない。餌にも手はつけられていない。桃村は確かに「特に餌に関しては問題無い」といったが、これだけ見向きもされないと実は好みがあるのではと不安に思ってしまう。
 水槽から部屋に視線を移す。あれから、部屋が広く感じるのは、勘違いでも無いのだろう。
 引越しも考えた方がいいかもしれないなあ、とぽつりと漏らしながら水槽に背を預けてみる。ケース越しの水の冷たさと、エアーポンプの振動が丁度いい。ブルブルと振動が頭に伝わる。
「子供、やっぱり欲しかったかな」
 何も考えられなくなる程の忙しさが欲しい。そう思うと途端に葬儀の前後の慌ただしさが恋しくなった。時間が有り余ると頭に意識がいって、瞼に妻が映る。
 こんな私の為に妻はこの魚を残したのだろうか。しかし――
「こんな魚じゃ全然満たされないよ」
 そう、結局何があっても私は満たされない。気を紛らわすことが出来たとしても、結局それは事実から目を背けているようなもので、やがて凶暴な現実は牙を私に牙をむく。逃亡する姿を今、奴は笑いながら見ているのだろう。
 目を閉じた。瞼の裏に妻の姿が浮かぶ。
 彼女は私に顔を寄せると、そっと頬に触れた。冷たくて柔らかな感触が心地良い。手を握り締めると、妻は嬉そうに顔を綻ばせて、それから額にキスをしてきた。恥ずかしさと快楽の入り混じった感情の扱い方が上手く分からなくて、私は思わず唇を噛み締めてしまう。
 ほら、今だってこんなにはっきりと感じ取ることができる。私にとっての幸福は、これであって、他に在るわけなんてない。
「どうして、君が死ななくちゃいけなかったんだ」
 感情が、ほろりと溶けたのを感じた。

『×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××』

 私の呟きの刹那の出来事だった。
 ノイズが走ったような耳障りな音が鳴り出した。エラーを起こしたコンピューター、バグに遭遇して乱れたまま止まったゲーム。それらが起こす、『不具合が起こった』事を警告するような音だ。
 慌てて両手で耳を塞ぐが、それでも音は構わず大音量で私の中を駆け巡っていく。何処かから鳴っているわけではない。原因はともかく、このエラー音は私の『中』から鳴り響いているようだ。

 脳が揺さぶられる。

 呼吸が上手くできない。

 上下左右の感覚が全部吹っ飛んだ。

 硬く瞑った瞼の裏に映る妻の姿が、砂嵐に掻き消されていく。

 やめろ、やめてくれ。呻くように、助けを乞うように吐き出した言葉と共に床を転げまわる。頭の中で何かが蠢いて、そいつが思うままに私の事を貪り、蹂躙している。エラー音は鳴り止まず、私を嘲るようにして響き続けている。
 何の冗談だ。これまで何一つ身体に異常が発見されたことは無い。脳に何か爆弾でも抱えていた? だとしたら何かしらの異変で見つけることができたのではないか。いや、しかしここ暫くの忙しさにかまけて自己管理ができていなかったのも確かだ。だからといって、ここまで激しい、そう、それこそ死をイメージさせるような激痛と耳鳴りに遭遇することはあるのだろうか。
 激しい痛みの中でそこまで考えてみて、私はふと自分がこの状況に「死」を連想していることに気づく。この苦しみの果てにあるのが死なら、無様な終わり方ではあるが、しかし……。

――少なくとも、死ぬことで妻とまた出会えるかもしれない。

 ふと思いついたそれは、耳鳴りと頭痛の中でやけにハッキリと残った。
 やがて転げまわっている内に壁に強く身体を打ち付けてしまった。激しい痛みの後、傍の物がぐらりと揺れて、こちらに倒れてくるのが見えた。

――水槽。

 それが落ちてくる時間はコマ送りのように見えた。
 薄く開かれた目から、揺れる液体が見える。敷き詰められた砂利が傾いた方へと移動していく。何もかもが私に向けて傾いてくる。
 その中で、あの魚だけが留まっていた。ヒレは穏やかに動き、先端の赤い尾ヒレもまたのんびりとした風に漂っている。走馬灯の様に時間の経過が麻痺した中で、その青い魚だけがまともに動いていた。
 その中で、私は妻の名をそっと呟く。もしかしたら、早い再会になるかもしれないな、と自嘲してみると、どこか安堵感を抱くことができた。

 私の意識は、そこで途絶えた。


       

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