Neetel Inside 文芸新都
表紙

ねむりひめがさめるまで
【二】咲村朱色の泡沫

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   一

 私と弟は仲が良かったと思う。
 思春期特有の反抗とかそういったことも無かったし、週末に暇な時間が出来ると適当に二人で買い物にだって行ったりもした。テスト勉強も机を合わせてやっていた。ゲームだってしょっちゅう二人でああでもないこうでもないと肩を並べて遊んでいたし、喧嘩もほとんどしなかった。
 だから、その日の喧嘩は本当に珍しい出来事だった。
 姉弟同士の喧嘩なんてくだらないものが多いし、暫くすると怒りも風化してしまい、気づいたら喧嘩していたことすら忘れて会話しているなんて事もある。そうでなくとも幾らでも顔を合わせる機会があるから、謝罪だっていつでもしようと思えばできる。

――その「機会」がちゃんとあれば、という話だけれども。

 雪浪高校の教師、真崎葵に対して失礼極まりない電話をしてしまってからもう一週間近くが過ぎていた。
 余りにも軽率な行動だった。電話の切られ方からしてもそれは明確で、彼は確実に機嫌を損ねていた、と思う。いや、少なくとも好意的な感情を抱くことは無いだろう。
 何故あんな電話をかけてしまったのだろう。かけ終えて我に返った私は本当に頭を抱え、それから学校で彼と顔を合わせるのが怖くて仕方が無かった。幸い私の授業を彼は受け持っていないが、それでも遭遇する可能性は幾らでもある。
 そんな風に気を揉んでいる内に、気づけばもう四日。
 彼は未だに体調不良で学校を休んでいる。学校側も流石に安否が気になり始めているようだったが、電話には必ず出るし、精神的な不調とここ最近の慌ただしさによるものだろうと判断したようで、無理に出勤をさせるつもりは無いようだった。
 なんにせよ、私は彼と顔を合わせずに済んでいる。流石に一週間もすれば向こうもそんな電話もあったかな、と言った具合に忘れてくれるのではないかと、そんな都合の良い展開は無いだろうか。

 玄関で靴を履いて、膝より少し上くらいの短いスカートを軽く撫で付けてから鞄を手に取り、立ち上がると後方を見た。手前から洗面所へ続く扉、階段、右奥に客間、最奥にリビングへと続く扉。それらが全て閉じているのを確認した後、私は「いってきます」と大きな声で口にした。
「……」
 返事は、無い。
 何時もなら母がリビングから顔を出して微笑んでくれる。でもそれも今は無い。私は嘆息して、目の前の取手をぎゅっと握り締めると、深く息を吐き出しながらそっと押し開けた。
 眩いほどのフラッシュが焚かれた。
 普段なら歯切れが良くて悪くないと思うシャッター音も、これだけ多いとただ不快でしかない。私は手で眩い光を遮りながら唇を噛み締めると、下を向く。
『お姉さんですよね、弟君と仲は良かったですか?』
『お母さんやお父さんは今どうしています?』
『弟君とは普段どんなことを?』
『弟君、学校ではどんな人物だったんです?』
 聞き飽きた言葉の羅列を受け流しつつ、記者達の間を掻き分けてて進む。餌を求めて群がる獣達は私に絡みつき、片っ端から肉にありつこうと牙を向け涎を垂らしている。
 彼らに被害者を宥める気は無い。そんなことは毎朝のニュースを液晶越しに眺めてとっくに分かりきっている事だ。だが実際に「当事者」になるとその鬱陶しさは想像以上のものだった。正直に答えれば悲劇的な捉え方をされ、無言を貫けば勝手な予測と妄想を報じられる。「家庭に問題があった」とか「教育面で彼を圧迫した結果だ」とか、どこぞの肩書きも知れないコメンテーターが口々に批判して私達を金に変えている。
「朱色、おいで」
 鞄でも振り回してやろうかと思っていると、私の肩に手が置かれた。大きくて暖かい、ごつごつしたそれは父の手だった。
 父は私の手を取ると記者の群れを掻き分け、側の駐車場に止められていた車の鍵を開けて私を助手席に押しこんだ。その間も記者達はカメラとレコーダーを手に詰め寄ってくるが、たった一枚隔たりを持つだけで私の心はとても落ち着いた。
 運転席側から父が乗り込もうとした際、一人の記者が「情報を正しく伝えなくてはならない」と熱を込めて語っていた。だが父は何も言わずに扉を閉めると、エンジンを吹かし、左右に退いた記者を横目に走りだした。
 景色が次々と流れていくのを窓越しに眺めていると、「もうしばらく車だな」と父は口にした。
 普段からあまり喋らない寡黙な父親だが、何か問題が起こるとすぐに動いてくれる人だった。何を話せばいいのか分からなくてコミュニケーションもそこそこで、端から見たら仲が悪そうに見えるかもしれないが、私は父のことを尊敬していた。
「真皓、どこに行ったんだろうね」
 窓の外に目をやりながら、私は呟いた。
「どうだろうなあ」
 父はぶっきらぼうに答えた。きっちり法定速度で、後方から煽りがあっても決してブレない父の運転。私はその中でシートに身体を預けて目を閉じる。
「あの日ね、真皓と喧嘩したの」
「珍しいな」
 私の言葉に、父は堅い口調で返事を返してくれた。
「うん、多分一年ぶりくらいかも」
「理由はなんだったんだ?」
「確か、うちの真崎先生の奥さんが亡くなった事についてかな。泣かずに俯いたままの先生見て、本当に悲しい時って泣けないのかなって話をしてたら、真皓が突然言ったのよ」
 私は、真皓の顔を瞼の裏に思い浮かべる。短髪で、私と同じつり目が特徴的だった。物怖じしない性格で付き合いも良くて、よく私に紹介をせがむ女子がやって来たものだ。そのうち面倒になってきた真皓から「全部断れ」と言われ、結果恨まれてひどい目に遭った。
 私と真皓は何気ない会話の中で真崎先生の奥さんの葬式を話題に出した。それは一日の出来事を整理するような感覚でよく行われていたし、そこに大した意味合いも存在しなかった。
 だがその時だけ、真皓は珍しく不安そうな顔をして、それから私にこう言ったのだ。
『俺が死んだら、姉ちゃんは泣いてくれる?』
 あの時の真皓の、怯えるような、恐れるような表情は滅多に見たことが無かった。それからの失踪もあってか、あの顔はどうにも忘れることができないでいる。
「それで、お前はなんて答えたんだ?」
「ビンタしちゃった」
「……それはどうして?」
 父の声が、少しだけ柔らかくなったのを感じる。窓越しにバス停が見えて、通学途中の生徒や会社員の姿が見える。その中には私と親しい子の姿も見えた。手を振ってみようかとも考えたが、あと数十分もすれば教室で会うから、と再びシートに身体を預ける。
「どうしてだろう、真皓がどういう意図で言ったのかが分からなかったから……。あの子が死ぬ可能性なんて全く考えられなかったし、そんな事考えたくも無かったから、かな」
「まあ、現実的ではないな」
「だから、なんて言えばいいのかどうしても分からなくて」
「それで、殴ったのか」
 父の言葉に、なんだか私は居た堪れなくなって、俯いてしまう。
「私、間違ってたよね」
 父はちらりと見た後、右手をステアリングから離して私の頭に置いた。押すでもなく、撫でるでもなく、ただ置くだけ。
「さて、それが間違いかどうかは俺にも分からないな」
 それから一呼吸置いて、父は再び口を開いた。
「だが、真皓は怒ったんだろう? 少なくとも、真皓にとってその答えは間違いだったわけだ」
 父の言葉に、私は頷いた。父は頭に置いていた右手をステアリングに戻し、アクセルを踏み込む。
「真皓が帰ってきたら、ちゃんと謝りなさい」
 父の言葉を聞いて、私はうん、と小さく頷いた。

 雪浪高校前に到着し、校門前で降ろしてもらってから、父に手を振る。彼は表情を変えなかったが、一度だけクラクションを鳴らすと目を細め、それから車道に戻っていった。多分父なりの返事だったのだろう。離れていく小型車の背中を暫く眺め、踵を返すと校舎に目を向けた。
 登校する生徒達が私に視線を向けているのが分かる。最近はどうも視線に敏感になりすぎているらしく、些細なものでも反応してしまい、終いには人の視線で酔う事も珍しくなくなった。流石にあの目が悪くなりそうなフラッシュに比べたら幾分かマシではあるが、それでも苦痛であることに変わりはない。
「咲村、おはよう」
 校門前に腕を組んで立っている男性教師が声を掛けてくる。向かいに立つ教師も私が目を向けると笑みを浮かべた。
「おはようございます。今日もなんだかすみません」
「良いんだ。何より一番辛いのは君なんだから」
 苦笑しながら二人にお辞儀をしてその場を後にした。一番、という言葉に関してはもっと当てはまる人物がいるのだが、別にそれを否定する必要も無いし、結局私は口にはしないことにする。それを言っても教師達は気分を害するだけだし、私もスッキリするわけではない。何の解決もしないなら、いたずらに手を出さないのが良いに決っている。
 左手に広がるグラウンドでは、早朝練習をしていた運動部の面々が片付けを行なっているようだった。土に塗れたユニフォーム姿で金属バットや硬球を片付けていく野球部。少し離れて設置されたゴール横には、サッカー部の集団が群れていて、水を頭に掛けて気持ちよさそうに頭を振ったり女子マネージャーと軽快に会話を交わしている。
 右手のテニスコートでは黄色い籠一杯にテニスボールを詰めた女子達が丁度出口の鍵を閉めているところで、その奥、校門から見て右隣の体育館からはバレー部と思しき背の高い集団が練習を終えて出てきている。
 正面の校舎からは金管楽器の音やドラムの音が騒々しく響き、玄関上には垂れ幕でどこかの部活の大会進出を大きく祝している。
 文化的な活動に対して非常に協力的なのがこの高校の良い点だ。精力的な活動をする部活動にはその為の機会を与え、研究を目的とした部活にはその為の費用をなるべく多めに捻出しようとする。学業に対しても熱心で、文武両道に熱を出す進学校としてこの雪浪高校は市内でも大分有名で、雪浪と言うだけでそれなりにいい顔をして貰える。
 そんな高校に、私は通っていた。部活も幽霊だし、成績も中の上程度のレベルを維持しながら日々を消化するだけだが、何故かここにいる。
 ヤマが当たって、運と偶然とが重なって合格しただけで、実力とかでは全く無かった。もっと勉強した人はいたと思うし、そういう人にしたら今ここでこうしている私を知ったら憎らしく思うんじゃないだろうか。
 反対に、真皓は雪浪高校を落とした。体調不良によるところが多かったのだが、私よりも成績が良く人柄も良い彼が落ちて私がここにいるとは、全く世界は不合理にできているものだと思う。
 真皓は、それでも文句一つ言わず、腐らずにただ笑っていた。しょうがない、そういうものだと言った。できれば姉ちゃんと一緒に通いたかったなと悔しそうな顔をしていた。
「おはよう」
 明るくて透き通るような声が聞こえて振り返ると、若干色の抜けた髪をハーフアップにまとめて、化粧をした顔があった。
「おはよう、絵美」
 そう言うと、ハーフアップの彼女、幾月絵美(いくつき えみ)は目を細め、手を後ろで組むと、肩を竦め口角を上げた。彼女のそんな仕草は、同性ながらどきりとした。二重の奥の潤んだ瞳が私の姿を映している。真っ黒な髪で、弟とよく似たつり目が特徴的な、しかし化粧気の無い私の見窄らしい姿がそこにはあった。
「今日も綺麗ね」
「ほとんどが化粧の力だよ。最近の化粧品ってすごいのよ。ちょっと乗せただけで魔法みたいに綺麗になるんだから」
「私はあんまり興味ないからなあ……」
「何言ってるのよ、もう高校二年生でしょう? ちょっとくらい色気付かないでどうするの」
 絵美の熱意のある言葉に頷きながら、しかし私の心に興味の芽が出る気配は微塵もなかった。
「決めた。今日の放課後にメイクしてあげる。どうも全く興味が湧かないって顔してるし、実際になってみないと理解してくれないようだし」
「それは、いいよ」
「良くない。どうせ放課後暇なんでしょう? 美術部にも滅多に顔を出さないし……。別に取って食おうってわけじゃないんだから」
 ぴしゃりと言われて、私は何も言えなくなってしまう。
 美術部に入ろうと誘ったのは私の方だった。元々水彩画がとても好きだったし、白いカンバスを埋める作業は嫌いでは無かった。
 だが、私はどうも「やらされている感覚」を覚えてしまうと途端に駄目になってしまうみたいで、デッサンや顧問の指導に耐え切れずに気付けば幽霊部員になっていた。初めは然程乗り気で無かった絵美の方が今では部に入り浸っており、上達もしている。化粧を始めたのも、美術部に入って暫くしてからだ。絵に対する興味から発展して、外見を整えることに繋がったのかもしれない。
「そうだ、朱色。今日の事知ってる?」
「今日? 何か行事でもあった?」
 絵美は首を横に振った。
「ほら、この間から体調不良で休んでる真崎先生。今日は出てくるらしいよ」
 私は、思わず目を見開いた。
「今日から復帰?」
「そう。私のクラス、真崎先生の授業あるから連絡が来たの。自習もなんだからって別の人が教鞭握ってたけど、やっぱり真崎先生の方が分かりやすかったなーって思ってたから、本当に良かったよ」
「それは、良かったね」
 あの時の電話を、彼は覚えているだろうか。
 覚えているとしたら、私の事を、咲村朱色の事を、どう思っているだろう。
 多分私は、彼の触れられたくない部分に触れてしまっている。もしかしたら今一番痛い部分だったかもしれない。不自然な来客で切られてしまったところからそれはちゃんと理解しているつもりだった。
 彼は、私のことを探すだろうか。会おうと思っているだろうか。
 玄関口に到着して、私は絵美と別れる。入学当初同じクラスだった彼女だが、今では文理選択によって離れた教室だ。それでも昼食は変わらず一緒に取っているし、交友関係は未だに続いている。
 彼女と別れた瞬間、多少なりとも紛れていた不安感が再び湧き上がる。気持ちが悪くて仕方がない。
 這々の体でどうにか三階の教室まで到着すると、挨拶もそこそこに私は机に突っ伏し、目を閉じた。頭がくらくらする。ぐるぐると目が回る。クラスの誰かが私に声を掛けてくれているようだが、どうにも口が開かなかった。
 記者達のフラッシュを焚く音がする。眩い光が目を晦ませる。衝動から行なってしまった真崎葵への電話が重苦しく乗っかる。彼の四日間の不調を作ったのは私のような気がして、その責任が苦しく思えた。
 身の回りで何か良くないことが起こっている気がする。
 決して私を中心にしているわけではないが、それでも確実に私もその良くないことの原因の一人として存在しているような、そんな……。
 流石に喉元までせり上がって来た緊張に耐え切れず、私は口を押さえ、よろめく身体でどうにか歩きながらトイレへと向かった。途中クラスメイト達の助力もあってどうにか廊下で失態を犯す羽目にはならずに済んだが、トイレに着くとそれまでの緊張が全て形となって、便器に吸い込まれていった。
 喉の灼けるような感触で涙が滲む。呼吸がうまく出来なくて肺がのたうち回っている。髪の先端に嘔吐物がかかって、更に泣きたくなった。
 そのうち何も出てこなくなって落ち着くと、私は男子に抱えられ、保健室へと連れて行かれた。その間も、真っ直ぐ歩けているかどうかも定かではなくて、リノリウムの床を上履きが擦る音を聞き、隣の男子生徒の声掛けにどうにか応じながらも、会話の内容は全く頭に入らず、適当な相槌しかできなかった。
 どうにか保健室に担ぎ込まれると、担当の指示の下にベッドの上に横になり、軽く汗を滲ませた男子は微笑みながら私に気遣いの言葉を口にして行ってしまった。
「何時もは自分でここまで来るのにねえ。珍しい」
 ベッドの上で荒い呼吸を続ける私に布団を被せると、白衣の女性茅野茜(かやの あかね)は赤縁の眼鏡を中指で上げ、ポケットから棒付きの飴玉を出して咥えた。
「多分、ストレス性のものでしょう。目つきからして強気なイメージがあるのに、案外打たれ弱いわよね、貴方」
 まあ、流石にここ最近を考えると仕方ないかあ、と彼女は肩を竦める。
「すみません……」
「いいのよ、怪我してくる子に比べたら処置が楽だから」
 茅野先生は咥えている棒を左右に動かしながら言った。
「今はゆっくり寝なさい。家じゃ碌に眠れてないみたいだし」
 茅野先生の柔らかい口調に安心したのか、やがて睡魔がやってくる。
 彼女の穏やかな顔を最後に、私の意識は暗闇に沈んでいった。

       

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Neetsha