Neetel Inside 文芸新都
表紙

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   ニ

 夢を見た。
 壁際に置かれた液晶のディスプレイが朝のニュースを映していて、向かいのソファで制服姿の真皓が座っている。朝起きるのが苦手な彼が珍しく早い時間に起きていたので、私は不思議だなと思いながらおはようと声をかけた。
 夢なのに、なんだか現実味のある夢だった。そして同時に、記憶に鮮明に残っている場面に私は立っていた。
 『あの日』とまるで同じだ。
 テレビのニュース記事とか、ソファに座っている真皓は、どれも全く同じ状況にセッティングされていた。
 真皓との最後の会話をした場所で、一体何をしろと言うのだ。
『姉ちゃん』
 真皓の声がして、私はテレビを見つめる彼の隣に座り、「何?」と返事を返す。
 真皓は顔をこちらに向ける。
 私とそっくりなつり目。でも顔のパーツがとても綺麗に整っていて、私とは違って武器になる目だった。
『姉ちゃんとこの先生、奥さん亡くなったんだって?』
 私は暫く黙り込んで、それから一度だけ頷く。あの日はさして興味も抱かなかったその言葉は、今の私にとっては非常に重たくて苦しいものだった。
『誰かを失うって、辛いでしょうね』
 あの時と同じ言葉を口にする。決して他人事では無くなったその言葉を。
 真皓は漸くその力強い視線を私から逸らすと肩を竦め、それから一呼吸置くと再び口を開く。
 やっときた、と私は痛む胸に手を添え、彼の次の言葉を待った。
 あの時聞いた言葉を。

『俺が死んだら、姉ちゃんは泣いてくれる?』

 真皓があの日の言葉を口にすると同時に、彼の口からぶくりと小さな気泡が漏れた。シャボン玉のように膨らんだそれは、まるで水中から逃げ出す気泡の如く急速に上昇し、天井にたどり着くと小刻みに震えて張り付き、最後にはぱちんと跡形もなく消えてしまった。
 泡が弾けると、真皓は何かを諦めたように目を閉じた。私が天井からソファに視線を移すと、既に彼はそこには居らず、リビングの前まで移動していた。
 この言葉の後に、私は確か喧嘩をしたはずだ。おもいっきり叩いたら、真皓も応戦してきた。私もなんだかムキになって不毛なやり合いを暫く続けた。
 でも、それが無い。
 不機嫌そうな顔をした真皓はちらりとこちらを見た後、ドアノブに手を掛ける。
 夢が断片的なものになり始めている。
 まるで擦り切れたテープみたいに、夢は加速を始めた。自然とその不可思議な現象に対して結論は出た。
 結末が近づいている。
 真皓の動きは更に悪くなって、コマ送りのような状態で扉を開き玄関へ進み、靴を履き、靴箱にかかった鏡で制服と髪型をチェックし、振り返ると少しバツが悪そうな笑みを浮かべた後、ぶっきらぼうに最後の言葉を口にした。

『いってきます』

 あの日ちゃんと返せた言葉を、私は口に出来なかった。だってこの先は別れなのだ。もう二度とこの笑みも、姉として自慢であり嫉妬でもあった綺麗な顔も、肉付きの良い身体も、実際に目にすることが出来ないのだから。
 弟はきっと死んだ。もうこの世には居なくて、次会う時はきっと冷たい姿なのだろう。
 根拠のない確信が、私の心にじわりと広がる。
 玄関の扉を開けた広い背中を眺めながら、私は唇を噛み締め、静かに手を振った。

   ―――――

 目を覚まし、勢い良く起き上がるとベッドの上から周囲を見回す。左右正面全てが白いカーテンで覆われている。蛍光灯の眩い白色光が天井から降り注いでいる。
 布団を捲るとプリーツのよれたスカートが顔を出す。よく見るとブラウスも皺まみれで、髪の毛もあちらこちらに跳ねて酷いものだった。あまり長くないからだからまだ此の程度で済んでいるが、もし長かったら酷い事になっていただろう。
 手櫛で軽く髪を整え、側に置いてあった二つ折りの手鏡を取り出して覗きこむ。黒髪と、そこから覗く二つのつり目が不機嫌そうに目を細めてこちらを見つめていた。
 作り笑いでもすればこの顔も愛想が良くなるのだろうか。人差し指で両頬をぐいと上げてみるが、あまりにも笑みがぎこちなくなったので嘆息と共に肩を落とす。
「あら、起きたのね」
 茅野先生がカーテンの外から顔を覗かせた。赤縁の眼鏡を中指で押し上げ整えると、入ってきて私の傍に腰掛ける。棒付きの飴を取り出して私の手に握らせると、自分の分もポケットから取り出して咥えた。
「随分ぐっすりと眠っていたじゃない」
「今、何時ですか……?」
「そうねえ、欠伸しながら授業を受けていた生徒が、目を輝かせて部活動に励んでいる時間ね」
「そんなに寝ていたんですか、私」
 気分を悪くしたのは登校して間もなくだったから、相当ぐっすりと眠り込んでいた事になる。
「途中で声かけたのよ? でも全然起きなくて、ご家族に連絡したら『家でよく寝られていないから』なんて言われて、そのままにしてあげてほしいとか言われちゃうし。心配で来たお友達もあまりの寝入りっぷりに苦笑しながら戻っていっちゃった」
「本当にご迷惑をお掛けしました」
「いいのよ、まともに使われてベッドもむしろ本望でしょうよ。思春期の男女がこっそりイチャついたり仮病した生徒が暇そうに携帯弄ってるよりかは大分良い使われ方よ」
 茅野先生はそう言って微笑むと立ち上がり、再びカーテンの外に消えた。
「ココアと珈琲だったらどちらがいい?」
「あ、珈琲で」
 カーテンの奥からへえ、と意外そうな声が聞こえてくる。
「あまり甘いの得意じゃないんです。苦いほうが色々ハッキリしてる気がして」
「ふうん……。じゃあ砂糖もミルクも入れなくて良さそうね」
 向こう側で電気ポットのスイッチが入る音がした。私は再びベッドに横になって、両足を大きく広げてソックスを脱ぎ、スクールバッグのあるテーブルに投げた。
 大きく広げた両足を再びベッドに下ろす。シーツのきめ細かさと、人肌くらいに暖められた感触が直に足に伝わって心地が良かった。ソックスの拘束感から開放されて随分と気が楽になった。
「茅野先生」
「何かしら」
 ポットの中の水が跳ねる音がする。彼女の声は、そのふつふつとした音の中で柔らく響いた。
「弟の夢を見たんです」
「家出中の?」
「家出、だと思いますか?」
「だってそうじゃない。思春期によくあるものよ? 大した理由でも無いのに反発したくなって家出。男の子なんてそんなものよ。大きいか小さいかじゃなくて、突っぱねることがカッコイイと思ってるから」
「そんなものですかね」
「そんなものよ」
 色々な場所で色々な生徒が見たい。そんな考えから非常勤として働く茅野茜の意見はとてもスマートだった。
 けれど、と私は天井の灯りに手を翳しながら、真皓の顔を思い出す。
「私、もう真皓は帰って来ないと思っているんです」
「それはまた、どうして?」
 起き上がり、足の指の間に自分の指先を絡ませながら、私は前後に小さく揺れる。
 ポットがぼこぼこと泡を立て始めると、珈琲豆を削る音が聞こえ始める。がりりと砕かれていく豆の音が心地良い。
「さっきの夢で、思い出した事があるんです。先生は、多分信じてくれないと思うけど」
「言ってみなさい」
「喧嘩をした朝、真皓の口から泡が出るのを見たんです」
「泡?」
 私は頷く。カーテン越しだから茅野先生には見えないけど。
「水中じゃなくて、ただのリビングでの出来事だし、本来ならそんなもの見えるはずが無い。でも、本当に水中で息を吐いた時みたいな気泡が真皓の口から出て、真上に浮上して消えたんです」
「それで、その泡が口から出た事と、弟が帰ってこないという確信とはどんな関連性があるのかしら」
「私も、そこまでは」
 でも、と私は途切れた言葉を繋いだ。
「単なる勘です。でも、恐らく真皓と生きて会える気はとてもじゃないけどしないんです」
 珈琲の薫りと共に、お湯が注がれる音がする。
 それから再びカーテンが開いて、茅野先生は湯気の沸き立つマグカップを二つ持ってやってくると、ベッドの端に腰掛けた。それから身体を丸めたままの私に一つを差し出す。キャラクターのプリントの入ったマグカップを手に取ると、香りが私の鼻を擽った。取手以外はとても熱くて触れられそうも無い。私は傍の台から鞄を床に降ろしてそこにカップを置いた。
 白い陶器の中に収まった黒は、しかし香りと色合いでその存在を強調している。ぼんやりとカップの中で小さく波打つそれを眺めていると、茅野先生は私の肩に手を置いた。
「会いたいんでしょう?」
「え?」
 茅野先生は悪戯な笑みを零すと珈琲を口にする。私ではとても飲めない熱さの珈琲を、彼女はいとも容易く飲み込んでいく。白く滑らかな喉がニ、三度こくりと動き、それから彼女は満足気に頷いた。
「今日は結構上手くいったみたい。貴方も熱い内に飲みなさい。珈琲は一番熱い時が良いのよ」
「でも、私熱いの苦手で」
「あら、猫舌?」
「ちょっとでも熱いとすぐに火傷しちゃって……」
「大丈夫よ、暫く痛いけど、舌って案外すぐに治るものだから。私が折角淹れたのよ? 熱くて一番美味しい時に飲んでもらわないと」
 さあ、と催促されるままに私はカップを手に取る。取手まで熱くなりつつある。こんなもの、絶対に火傷するに決まってる。
「さあ、飲んでみて」
 私はそっと、恐る恐る口を付け、目を硬く瞑り、カップを傾けた。
 珈琲はやっぱりとても熱くて、口の中がじんと痛む。
 でも、飲めた。驚くほどするりと珈琲は私の喉を通って行った。食道を通って行くのを感じながら、私は驚いてカップを改めて覗きこむ。
 暖かさと、苦味と、鼻孔をくすぐる薫りが身体中を包んでいく。体内に熱が染み込み、心が落ち着いた。珈琲が私の中に巣食う不安を抱きしめて、するりと溶かしていってくれる。
「素敵な味でしょう?」
 茅野先生の手から体温が伝わってくる。
「辛い事とか、気持ちが落ち着かない時は熱いまま飲むの。口の中は火傷で辛いかもしれないけど、不思議と身体はリラックスするし、頭の中を整理する余裕が出てくるから」
「先生火傷を?」
「正直言うとね、私も熱いの苦手なのよ」
 茅野先生は肩を竦める。
「でも、さっきよりも大分楽になったんじゃない? 顔色も良くなったわ」
「ほんとに、すごく落ち着きました。なんだろう、ホッとしたっていうのかな」
 私の返答を聞いて嬉しかったのか、彼女はカップを持ったまま立ち上がると鼻歌混じりにカーテンの外へと出て行ってしまう。暫く珈琲を飲みながらいると、さあ、とローラーの滑る音がして、四方を囲んでいた真っ白いカーテンが一斉に取り払われた。
 いつもの保健室だ。正面には薬剤や治療道具の仕舞われたスチール製の棚と、隣に作業用のテーブル。私の隣のベッドは皺の無いシーツの張られたベッドがあった。今日一日使われずに終わったのだろう。人のいた痕跡は感じられない。
 カップを置いて、床にきちんと揃えておかれていた上履きを素足のまま履くと、窓の方に歩いて行く。まだ少しふらふらするけど、登校時のような気分の悪さは感じられない。
 外は陽がすっかり沈んで薄暗くなりつつあった。校庭では整備する泥だらけのユニフォーム姿や、用具を片手に校庭奥の小さな部室棟へと向かう運動部員の姿が見えた。
「弟君、探してみましょうよ」
 窓の外を見つめる私に、茅野先生は言った。彼女の目は真剣そのもので、茶化す気はまるで無いようだ。
「本来なら危険な事しちゃ駄目と言うべきなのかもしれないけど、貴方が弟君に対して納得いかない事があるなら、それを消化するべきだと思うの」
 茅野先生は珈琲を飲み干し、テーブルに置いた。乱雑に詰み重ねられた書類が少しだけ動くのが見えた。
「その思いを風化させるのも手かもしれない。でも、それじゃ満足できないって顔してる」
 私は黙り続ける。
「言えなかった言葉って、いつまでも残るものなのよ。例え忘れたとしてもふとした瞬間に思い出して苦しくなっちゃう。もしもその言葉を口にできる可能性が、小さくてもあるなら、やってみるのも悪くないかもしれない」
「もし結果が、最悪の形で終わったら?」
「その時はその時よ。でも、ちゃんと伝えようと必死に行動しただけ、私はマシだと思う。後悔は続くのかもしれないけどね」
「それが、正解だと思います?」
 茅野先生は首を横に振った。
「だって私は貴方じゃないもの。私は私なりの気持ちを口にしてるだけで、貴方はそれを聞いているだけ。決断するのは貴方だから」
「無責任過ぎませんか」
「どれだけの生徒の相談聞いてると思ってるの? そんな全部に責任持って答えてたら私、今頃ノイローゼよ」
 ひどいなあ、と私が口にすると、茅野先生はふふ、と笑った。大人っぽい色気のある笑みで、私はそれを羨ましく感じた。
「そうですね、やってみましょうか」
「探してみるの?」
 私は頷く。
「手がかりなんて一つもないけど、やってみます」
「手がかり、ねえ」
「何かあります?」
「例えば、貴方の見た泡って、なんだったのかしら」
 彼女は腕組みをして唸った。
「私は実際に見ていないし、貴方もその夢の光景を見て思い出したように感じているだけなのかもしれないけれど、貴方はそれが見えたから『咲村真皓は帰ってこない』事に納得したのでしょう?」
「そう、ですけど」
「なら、そこから何かに繋がる可能性は、十分にあり得るんじゃないかしら。それが現実に起こったことなら、だけど」
「でも、その出来事をどうやって絡めていけば……」
「それが問題よね」
 茅野先生は目を閉じる。だが明確な答えは出てこないようだ。
 彼女は再び瞼を上げて、時計を見る。
「なんにせよ、今日は帰りなさい。もうこんな時間。親御さんも心配していたから」
「はい」
 私がとても残念そうな顔を見せたからなのかはわからないけれど、茅野先生は微笑むと私の額にキスをしてみせた。突然の柔らかな感触に驚いて額に手を遣る。その反応を見て、彼女はとても楽しそうに目を細めた。
「全国の失踪届の中に同じようなパターンのものが無いか、探してみるから。……といっても、保健室の茅野先生程度で調べられる範囲なんてたかが知れてるけれども」
「そんなことないです、とっても有難いです」
 彼女は微笑み、私の隣に座り込み、靴下脱いだままでしょと、私の太腿に手を滑らせてきた。その生温い感触に思わず飛び上がると、また彼女は意地悪そうに笑った。


       

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