Neetel Inside 文芸新都
表紙

ねむりひめがさめるまで
【泡沫の話一】

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   ―泡沫の話一―

 僕が彼女に好意を伝えたのは、三日前のことだった。

 焼けたような燈色に分厚い雲がいくつも浮かぶ空の下、生徒達は卒業式という一つの区切りを終え、賞状を片手に母校を去っていく。
 そんな卒業生達の後ろ姿を、人気のすっかり無くなった校舎から僕と彼女は眺めていた。開けた窓の傍に椅子を置き、肩を並べてただぼんやりと。
 彼女は時折声をかけてきたが、やがて僕が反応を示さないことに退屈さを感じたのか、教室を物色し始める。教室に残された遺物を手に取っては僕を呼び、反応を示さないと不機嫌そうに次の興味を探し始める。
――黒板、跡が沢山残っているね。
――この机に書かれた落書き、新入生が見たらどう思うかな。
――他の教室で、実は残って告白とか、してないのかな。
 退屈しのぎの話題を振り続ける彼女をちらりと一瞥すると、僕は再び窓の外の景色を見た。グラウンドにも校門にも、見送るべき生徒はもう見当たらない。
 生徒は多分、僕と彼女だけ。
 深呼吸を二度して、僕は彼女に視線を向けると口を開く。
「恋人になって欲しい」
 僕の言葉を聞いた彼女は、口を閉ざしたままじっと僕を見つめる。覗き込むようなその目に少し緊張を覚えたが、やがて彼女が微笑みを浮かべたのでほっとした。
 返事の代わりに、彼女は僕の唇を塞いだ。
 柔らかくて、冷たい感触だった。
 唇が離れると、彼女は閉じていた目を開け、人差し指で口の両端を上げると笑みを作ってみせる。ああ、と彼女の意図に気がついた僕は指示された通りに笑みを作った。「よろしい」と、彼女は嬉そうに言った。
 彼女と知り合って、もう十数年経つ。二人きりでどこかに遊びに行くなんて当たり前で、家族ぐるみの付き合いもあるくらいだ。
 クラスメイトには以前から“そういう”風に思われていたし、僕も特に口にしていないだけで、僕達はそういう関係なのだと思っていた。
 だから、今更恋人という言葉で二人の関係を男女として改めて縛る必要はないのかもしれない。
 きっと彼女も同じ気持ちだったのだろう。僕の告白を、彼女は不思議に思っているようだった。
「どうして、恋人って言葉を使ったの?」
 飽きることなく続く問いかけに、僕は唇を塞ぐというかたちで返答を返す。いや、誤魔化したという方が正しいだろう。
 どうして関係を改めたくなったのか、その理由を大体は察しているけれど、どうせなら彼から聞き出したい。大方そういったところだろう。
 でも、僕はどうしてもその先を言えなかった。
 恥ずかしかったから、なのだろうか。それも十分にあるかもしれない。でも、問題はもっと別にもある気がしていた。
 たかが言葉。だがその「言葉」が力を持った時、周囲の環境を変えてしまうとても怖いものになることだってある。
 触れ合っていた唇が離れると、閉ざされていた彼女の瞼がそっと開き、瞳が僕を映す。透き通るような瞳と、光を孕んで揺れる血色の良い唇とを順に見て、僕は鼓動が脈打つのを確かに感じた。。
 胸が苦しくて堪らない。ああ、このまま目の前の彼女を、僕の思うがままにしてしまいたい。きっとその一言を口にすれば、彼女は僕の全てを受け入れてくれるだろう。でも、肝心のその一言がどうしてか喉元に詰まってそれ以上出てこない。
 何かを終わらせたくて、そして新しく始めたいはずなのに、何故僕はその終わりに怯えるのだろう。
 堪え切れず僕がそっと彼女の頬に手を伸ばすと、彼女はその手を軽く払い、それから僕に三度目のキスをした。さっきの二度とは違って、たった一瞬の刹那的なものだった。
 呆けた顔の僕に対して、彼女は人差し指を唇に当てると、嬉々とした表情のまま首を傾けて、こう言った。

――続きは、貴方が「言葉」にしてくれるまでしてあげない。

 そう言って悪戯に微笑む彼女に、僕は困ったな、と小さく呟く。
彼女は目を細め、僕の手を握り締める。冷たくて、滑らかで、握り締めたら簡単に壊れてしまいそうな、ガラスのような手だった。
 様々な葛藤に苛まれながら、それでも胸の内を満たしていく暖かさが心地よくて、身を委ねたいという欲求が、僕を飲み込んでいく。
 ガラスみたいな彼女の手を握り締め、強引に引いて僕の胸元へと彼女を連れ込むと、彼女の反応も気にせず両腕で彼女をしっかりと抱き締めた。
 目の前の女性と僕は多分、終わろうとしている。
 そして彼女もそれを理解している。

――ねえ、終わってしまうとしても、私はその言葉を聞きたい。

 抱き寄せた彼女が耳元で囁いた。
 もう、言ってしまってもいいのかもしれない。こうして彼女と僕の間に終止符を打ち付けてしまうのもいいのかもしれない。物心ついた頃から続いた僕達にとって、これが次の段階を踏むための大切な一言ならば……。
 静寂の横たわる教室の中で、僕達は暫く抱き合っていた。彼女の柔らかな胸を通して心臓の鼓動が聞こえてくる。多分、彼女には僕の音が聞こえているだろう。彼女の長い髪がはらりと流れて、僕の頬を擽る。華奢な身体は少し力を込めただけで小さく軋む。
 静かに抱き合う僕らを、窓から差し込む暮れかけの陽光が照らす。柔らかくて、暖かい光が、僕らの足元に濃い影を生み落とす。

「……もう少しだけ、待って」

 僕の言葉に、彼女は分かった、と耳元で囁いた。
 背に回されていた彼女の手に、拒絶の力が篭もる。僕は手をほどいて、少し距離を空けると顔を上げた。不意に彼女と目が合って、なんだかそれが照れ臭くて、視線を逸らしてしまう。
 たった数分間の出来事で、心はすっかり満ち足りていた。でもきっとすぐに枯れてしまうだろう。

 携帯が鳴った。
 彼女は制服のポケットから電話を取り出し、一言二言軽く会話を交わすと切った。クラスメイトからの連絡だったようだ。同時に僕の方の携帯も鳴った。まるで僕達の動向を知っていたような、絶妙なタイミングに思えた。
「行こう」
 彼女の言葉に僕は頷いた。

 僕たちは晴れて恋人同士になった。
 でもそこに熱は全く感じられない。むしろ幼馴染であった数分前のほうが、温もりはあったかもしれない。
 数センチ踏み込んだだけで、見えていた世界は変わってしまう。多分、僕がその肝心の「言葉」を口にしたら、この僕と彼女の世界は更に変わってしまうに違いない。
 冷たくてとても乾きやすい、身を寄せ合わないとどうしようもなくなってしまった関係に……。

 これが三日前の出来事。
 僕と彼女が最後に交わした会話は、行こうの一言だ。
 それから彼女は一度も僕に連絡を寄越さなかったし、僕の前に現れることもなかった。
 家族からの連絡で彼女が家に帰っていないことはすぐに連絡が来た。詳細な話を聞くと、卒業後のクラスの集まりを終え間もなく彼女は行方を眩ましたそうだった。

 彼女がいなくなって以来、僕は時々思う。
 もしあの時、彼女が聞きたがっていた一言を口にしていたなら、僕達の関係を一つの終焉へと導いていたなら、この結末を変えることが出来たのかもしれない、と。
 捜索願と共に街のいたる場所に貼り出された彼女の顔写真は、今でも古くくたびれたままそこに残っている。
 彼女はどこかへ消えてしまった。
 僕だけ、ここに取り残されてしまった。

 一つだけ、彼女の失踪と関係していそうなことがあった。
 誰かに言ったとして信じて貰うことはきっとできないと思って、誰にも口にしていないことだ。
 あの卒業の日、彼女と僕が恋人になった日に、彼女にある不思議な現象が起こっていた。

――泡だ。

――彼女の口から、泡が出ていたんだ。

 それはまるで水面へ昇るみたいにぷかぷかと浮かんで空へ消えていった。思わず泡の昇っていったほうを見上げると、そこには水を張ったように揺らぐ空があった。
 いまだに、瞼の裏に焼き付いている光景だ。

 あれは、なんだったのだろう。

       

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