【五】真崎葵/レイニーブルー


   一

 呼吸をする度に胸が痛んだ。
 身体は緊張したままで、何もかもが麻痺してしまったみたいに鈍く感じられる。一体私はどうなってしまったのか。
 この数日間が瞼の裏を走馬灯のように横切っていく。
 あれは、果たして現実だったのか。いや、むしろ今ようやく「帰ってこれた」のではないか。水槽をぶちまけたあの日から今日まで、私は夢を見ていたのかもしれない。
 みどりがあんなことをするなんて。あんな……あんな「奇怪なこと」を。
「あおい、どうしたの?」
 みどりはしゃがみ込む私を覗きこみ、不思議そうに首を傾げた。少し大きめのオーバーオールを着た、丸い目のあどけない顔をした幼い少女。
「だいじょうぶ?」
 伸ばされた手を、反射的に私は握り締め、強引に引き寄せ抱きしめた。
 柔らかく壊れてしまいそうな程華奢で、未発達な身体が軋むのが分かった。流れる髪から香るシャンプーの匂いも、服の洗剤の匂いも、全て私の家のもので、出会ってから一緒だった事を示している。
 そう思えば思うほど、彼女を抱き締める腕に力が篭った。
「いたい」
 呻くみどりに構わず強く抱き続ける。少しだけ抵抗して、けれど敵わないと知ると諦めたようにみどりは、私の身体に腕を回した。
 最早、感触を証拠にするしか術が無かった。「みどり」を「みどり」と認識するために、この手で、頬で、胸で、全身で触れ続けなくては……。
「かなしいの?」
 腕の中でみどりは囁く。
 私は頷いた。
「なきそうなの?」
「泣きそうに見えるかい?」
 みどりはじっと見つめてから、私の胸に顔を強く押し付ける。そんな彼女の艶のある髪を何度も撫でる。
「泣くことが出来たら、もっと楽なんだろう。だがそれがうまくできなくてね」
 私は、涙をどこに落としてきてしまったのだろう。葬式か、それとも妻が死ぬ少し前か。何にせよ、今更取りに戻れる場所ではないから、きっとこれからも私はこの目で現実を見つめ続けるしかないのだろう。
「さっきのは、だめなことだった?」
 みどりは尋ねる。ああ、と私は言う。
「おなかがすいても?」
「お腹が空いてもだ」
「きになっても?」
「気になってもいけない」
「なぜ?」
 そう言われて、少しだけ考えてから、改めて胸の中の彼女に言った。
「お前は、『みどり』だからだ」
「みどりだと、いけないことだったの?」
「ああ、ずっとみどりでいたかったら、我慢し続けなくちゃならない」
「あれをしたら、わたしはみどりじゃなくなっちゃうの?」
「そうだよ、お前はみどりじゃなくなる」
「じゃあ、なんになるの?」
 問答は、そこで止まった。私が止めた。
 暫く黙り込み、どうして、と問い続けるみどりの頭に顔を埋めると、目を閉じる。ああ、碧そっくりの髪だ。何度も触れたあの感触とよく似ている。
「なんになるの?」
 埋めていた頭から顔を上げ、胸に飛びついたままのみどりと引き剥がすと、彼女の目を見つめ、それから一呼吸置いて口を開く。
「……なんでもなくなってしまう」
 漸く出てきた言葉は、酷く弱いものだった。
 だが、みどりにだけは有効だった。いや、「みどり」だからこそ通用する言葉なのだろう。
「そうすると、どうなるの?」
 みどりは首を振り、再び私の身体に両手を回すとシャツをぎゅっと強く握り締めた。表情は見えないけれど、多分、彼女なりにみどりでなくなる意味を考えているのだろう。
「もう珈琲が飲めなくなる」
「それはやだ」
「目玉焼きも食べられない」
「やだ」
「なら、我慢できるようにしなさい」
 私の言葉に、みどりは数秒ほど沈黙し、やがて腕の中でそっと頷く。
「わかった。もう【たべない】」
「そう、それでいい。もう【人をたべようと】してはいけないよ、いいね?」
「うん」
 素直に頷くみどりの声で、身体中の緊張がすっと解けていくのが分かった。冷え切っていた全身に熱い血が通って、自由が戻っていく。私は深く熱い吐息を腹の底からおもいきり吐き出すと、みどりから離れた。
 みどりは顔を埋めたまま動かない。どうやら私の緊張に少なからず彼女も動揺を覚えていたらしい。
 みどりの頭を撫でつつ、私は周囲を見渡した。
 商店街を少し外れた舗装のされていない裏路地に私達はいた。細い路地の先で商店街の騒がしい光と、車道を横切るライトが見える。この先の道を歩けば雪浪高校に繋がっている。
 私達は高校から帰路に着くその途中で、予想だにしない出来事に遭遇してしまった。みどりがみどりでなくなる光景を……。
 夢だったと思いたいが、紛れもなくそれは現実で、一人の少女を危うく殺しかけたというのも事実であった。
 ふと、空を見上げてみた。
 眩く輝く月が、水面に映った夜空みたいに揺れている。近くを流れる雲も同じだ。そのどれもが揺れ、時折雫を一滴垂らしたみたいに波紋を広げる。

――まるで、水中にいるみたいだ。

 私は、もしかしたら今溺れているのかもしれないと、腕の中のみどりを見ながら思った。深く息を吐き出したら、もしかしたら他人からは泡でも吐いているみたいに見えているのではないだろうか。
 水面に映る夜空の景色に暫く見惚れた後、私は再びみどりの頭に顔を埋めると、目を閉じた。


「今日は月が綺麗だね」
 突然聞こえた声に目を開くと、揺れる月を背に一人の青年が立っていた。
 ファーの付いたフードを深く被り、コートのポケットに両手を突っ込んで、右に重心を乗せて少し傾いた立ち方をしている。
「溺れてしまいそうなほど、良い夜だ」
「君は……誰だ」
 フードの影から覗く口元が笑みを作った。
「安心してほしい。何かをしようってわけじゃないから」
「じゃあ、どうしてここに?」
「簡単に言えば、貴方に興味が湧いた」
 興味、という言葉に私は顔を顰める。
 胸元のみどりにそっと目を向けると、彼女はじっとモッズコートの青年の姿を見つめ、それから再び私に抱きついた。
「特に何もするつもりは無いけど、まあ当然か」
「当然?」
「状況や環境は違えど、僕は君らと同じ立場にある。そう、さっきのような事が起こりうる立場に」
 生唾を飲む音が大きく響いた。解けた筈の緊張が再びじわりじわりと全身を支配していく。
「ねむりひめ、って言葉を知っているかな?」
――ねむりひめ?
 私の顔を見て知らない事を察知したのか、彼は肩を竦める。
「悲劇を好物とし、誰かの願いを反映させて虜にする。そうして自らの肥やしにすることでより美しく、魅力的な存在へと変化していくものの通称が、ねむりひめ」
「自らの、肥やしに?」
「さっきの光景、貴方にはどう見えた?」
 そう問いかけられて、私は下唇を強く噛み締める。

――一人の女子高生が、硬い筈のコンクリートに飲み込まれていく姿と、それを嬉そうに眺め舌舐めずる【みどり】。

 あれは、間違いなくみどりがやったものだ。その後の問答でも彼女は「たべる」という言葉を利用していた。
「つまり、みどりは……」
 彼は頷いた。みどりは未だに動く気配が無い。
「これはきっと、貴方にとっては残酷な真実なのだろうけど、知っておいて欲しい」
 青年はみどりを指差す。フードの奥の表情は分からないが、少なくとも笑っている様子は無かった。
「それの本質は決して変わらない。空腹に耐えかねた結果は、恐らく……」
「恐らく?」
 言葉を繰り返す私の頭は何故だか冷静で、緊張に固まる身体とは裏腹に柔軟に彼の言葉を理解できていた。だからこそ、その先も容易に予測ができた。
「こんな状況な時に限って冷静な自分の頭が嫌だな」
「だが無知と理解はまるで違う。貴方はちゃんと理解した上で選択ができる人だ」
 彼は一呼吸置くと、再び口を開く。

「このままいけば、貴方に待つ結末は【肥やし】だ」

 不意に、脳裏をみどりとの日々が駆け巡る。深く、深く私の中に刻まれたその記憶達は、恐らく妻が、真崎碧が死んだ先に残った日常だった。
 もう失いたくないと思うほど、重要な――



   ニ

 薄暗い靄のかかった視界の先に、少女の顔があった。
 意識と体中の感覚がはっきりしてくる。べっとりと張り付くような気分の悪さに呻きながら、私は額に手を当てると、私を覗きこむ少女に目を向けた。
 一糸まとわぬ姿のままぺたりと座る少女は水浸しで、髪もぺったりと額や肩、首筋に張り付いている。だが少女は自らが濡れていることなど特に気にする様子もなく、私、そして次に部屋中を見回すと不思議そうに首を傾げた。
 私は起き上がると割れるように痛む頭に苦しみながら記憶を辿ってみる。
 確か、ノイズみたいな耳障りな音が頭の中で響いて、苦しみのたうちまわっていた時に、水槽が倒れてきて、それから先の記憶が無い。まずこの少女はどこから現れたのか。記憶を失っている間にこの部屋で何が起こったというのか。
 それに、と私は頭や胸、腕から腰までを順繰りに触れていく。
 外傷は見当たらない。隣には大型のケースが、罅一つついていない状態で転がっていた。もしこんな硝子の塊を真っ向から受けたとしたなら、下手をすれば生死に関わる怪我を負っていた可能性だってあり得なくはない。
 さて、と私は座り込んだままの少女に目を向ける。
 前髪から垂れた雫が彼女の肌にぽつん、ぽつんと跳ねた。まだ育ちきっていない身体を暫く眺めてから溜息を一つ吐き、シャツを脱ぐと彼女の頭にすっぽりと被せた。
 少女はぶかぶかのシャツに包まれた状態でまた周囲を見回し、それから最後に私に目を向けた。
「君は、一体どこからやってきたんだい」
 問いかけてみるが、返答は無い。だんまりか、と私はもう一度ため息を吐くと、まずは片付けをしなくてはと ぼんやりと座り込んだままの少女を横目に私は立ち上がった。
 ふらつく身体を引きずりながら、傍に転がる空の水槽を戻し、水と一緒に転がり出た藻やポンプ達を適当に入れ、最後にタオルを持ってきて床の水を拭き取った。
 一通り片付けの作業を終えると今度はシャツ姿のまま呆けている少女を見て、まずは着替えだと寝室の箪笥から妻の寝間着を一式引っ張りだすと少女に着せていく。まるで人形遊びみたいだと、されるがままの少女を見ながら私は思った。
 あまりにも出来事が常識の外側だと、身体は冷静に動くようだ。いや、むしろそうでもしないとこの状況に耐え切れない、言わば思考から逃避しているようなものなのかもしれない。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
 着せられた服をぺたぺたと小さな手で触っている少女の前にしゃがみ込み、私は再び問いかけた。
 少女は寝間着から視線を上げると、漸く私と目を合わせた。お名前は、と繰り返すようにもう一度声を掛けると、少女は首を傾げた。
「なんてよびたい?」
「よびたい?」
 少女は頷く。
「なんてよびたい?」
 全くもって理解できない返答だ。腕を組んだまま暫く彼女の言葉の真意を考えてみたがどうにも正解だと思えるものは浮かばない。
 こんな時に妻がいたなら、簡単に少女から事情を聞き出せたのかもしれない。どうにも小さな子どもは苦手だ。年頃の少年少女ですら手を焼いているのに更に幼い少女なんて論外だ。
「これ、だれ」
 気がつくと少女は部屋の隅に置かれた仏壇を覗き込んでいた。慌てて少女を抱き上げてその場から引き離し、向かいのソファに座らせた。だが少女は仏壇に興味を示しているようで、写真を指さして「だれ」と私に問い掛ける。
 写真の彼女は、変わらず血色が良くて、穏やかな顔をしていた。
 確かあれは婚約して間もなく行った旅行先で撮った写真だ。ワンピース姿で歩く彼女に声を掛けて、振り向いたところを撮った。恥ずかしそうに、けれど嬉そうに微笑んでくれた彼女のことを、今でもはっきりと思い出せる。
 そう、今となっては思い出すことでしか見ることのできない笑顔。
「だれ」
 尋ね続ける少女に、私は「碧」とだけ書いたメモの切れ端を手渡した。なんとなく、やられっぱなしではいたくないと思ったのだ。こんな幼い子供相手に大人げないかもしれないが、振り回され続けるのも性に合わない。
「みどり?」
「そうとも読めるね」
 意図した返答と違ったが、幼いながら読めた事に思わず感心した。
 少女は暫くメモを見つめ、可愛らしくこくりと頷いてみせた。
「じゃあ、それ」
「それ?」
「みどりでいい」
「みどりで、いい?」
「わたしは、きょうからみどり」
 まるで理解ができなかった。
「ちゃんとした名前は?」
「みどり」
「そうじゃなくて、パパやママから付けてもらった名前は?」
「みどり」
 まるで言葉が通じない。
 みどりと口にする少女から目を離すとキッチンへ向かう、同じ問いかけを何度繰り返しても不毛だ。
 みどり―一先ずそう呼ぶことにした―は家鴨の子供みたいにぺたぺたと私の後をついてくる。鬱陶しいが、特に何かするわけでも、コミュニケーションを求めてくるわけでもないので放っておく。
 冷蔵庫から卵とマーガリン、マーマレード、ピーナッツクリームの容器を取り出し、傍の棚に置かれたトースターに食パンを二斤放り込む。
 私の事を観察し続けるみどりに「お腹空いてる?」と聞いてみる。少なくとも何か食べたいとは思っているだろう。
「たべる」大方予想通りの答えで少し安心した。
 暖めたフライパンの上に油を引いて、卵を落とした。
 形の良い黄身と白身がフライパンに落ちてじゅうじゅうと小気味よい音を立て始める。塩と胡椒を振り掛けると香ばしさが増した。空腹にはたまらない匂いだ。
「目玉焼きは好きか?」
「めだま?」
 まさか食べたことが無い、と言いはしないだろう思っていたのだが、どうやらそのまさからしい。私は嘆息する。
「卵を焼くと目玉みたいな感じになるから、目玉焼きだ。本当に食べたことないのかい」
 焼きあがった目玉焼きを皿に移し、みどりに見せた。彼女は暫く見つめていたが、やがて私に視線を向けると首を傾げる。
「おいしい?」結局食べたことは無いらしい。
「ああ、半熟くらいが丁度いいんだ」
「あおいもすき?」
 頷くと、じゃあわたしもすき、と幼くてたどたどしい口調でそう言った。
 そういえば、私は彼女に自己紹介をしただろうか。
 少なくとも目が覚めてからは無い筈だ。この家に入ってくる時に―どうやって入ってきたかは未だに理解できないが―表札で見たのかもしれない。だが碧が読めなくて葵が読めるのもおかしい。
 ソファの方へ小走りで駆けて行くみどりを見て、それから残りの卵も焼いて皿に載せると、焼けたトーストと共にテーブルに持っていく。
 なんにせよ、食事を終えてからでいい。もしかしたらこのマンションの住人かもしれないし、親御さんが探しにやってくるかもしれない。ただ裸だったところを見ると、何か重たい事情のある子なのかもしれないが。
 焼けたトーストにマーガリンとマーマレードを塗ってみどりに手渡すと、彼女は不思議そうに眺め、やがて一口だけ齧って咀嚼すると、二口目から勢い良く食べ始め、あっという間に平らげてしまう。
「美味しかった?」
 頷くみどりを見ていると、少しだけ胸の内がじわりと暖まった。妻が入院してから一人で食べる事が日常と化していたから、誰かと食事を共にできることが少し、嬉しかった。
「こっちは?」
「それはピーナッツクリーム」
「きになる」
「もう一枚食べる?」
「たべる」
「そこで少し待ってなさい」
 再び焼いたトーストを持って行くと、みどりはピーナッツクリームを満遍なく塗りたくって食べ始める。こちらはあまり好みの味ではなかったようで、二枚目を平らげた後少し物足りなそうにマーマレードの瓶を見つめていた。もう一枚いるか聞いてみたが、おなかいっぱいと残念そうに首を振っていた。
 食後に珈琲と紅茶を淹れると、みどりは暫く不思議そうに紅茶を眺めていた。乳白色のなめらかな陶器一杯の飴色の液体がきになるらしい。
「紅茶も飲んだことないのかい?」
「ない。でもいいにおい」
 みどりは目を閉じたまま匂いを嗅いでいる。元々珈琲も紅茶も選んでいたのは妻だったからか、彼女が褒められているように思えて気分が良い。
「あおいがのんでるのは?」
 みどりは私のカップを指さす。
「これは珈琲だよ」
 そう言って珈琲を啜る。芳ばしさと共に酸味と苦味が口の中を汚していく。私は顔を顰めながら一息に飲み込むと、深く息を吐き出した。
「どうして?」
 みどりは首を傾げた。何がどうしてなのか分からなくて、私も一緒になって首を傾げる。
「そんなかおしてのむものなの?」
 ああ、と私は彼女の疑問に納得すると、首を横に振る。そういうものではない。紅茶も珈琲も本来なら愉しむ物だ。
 だが、中にはそれらが苦手な人もいる。
「飲んでみるかい?」
 私はカップを手渡した。
 彼女は暫く不思議そうに眺めていたが、恐る恐る匂いを嗅ぎ、珈琲を口にする。無理させてしまったかもしれないと思ったが、みどりの顔からすると、少なくとも彼女には満足な味だったようだ。
「にがい」
 舌をちろりと出して顔を顰めるみどりに、私は声を出して笑ってしまった。
「珈琲だからね」
「でもいいかおりで、あんしんする」
 カップを覗きながらそう呟いた彼女は、もう一口飲むと嬉しそうに目を細めていた。
「あおいはこれ、すきじゃないの?」
 珈琲と私とを交互に見て、彼女は不思議そうに首を傾げる。私は何も言わずカップを彼女の手から取り上げ、残りを一息で飲み干した。
 すっぱくて苦くて、べったりと感触が口の中に残る。まるで泥水みたいだ。
「そうだね、好きじゃない」
「じゃあ、どうして?」
 そう問いかけられると、どうにも返答に困る。妻がいた頃は飲もうとすら思わなかった大嫌いな珈琲を、何故日課にしようと思ったのだろう。不味くて人が飲むようだとも思えないこれを。一体何故。
 自問自答の末に現れたのは、あの時の医者だった。
 妻が死んだ夜。結局泣くことができなかった別れの日。
 あの時もらった珈琲から、日課は始まっている。
 私は持っていたカップをテーブルに置いて、ソファの背もたれに身体を預けると、言った。
「輪郭が分かるんだ」
「りんかく?」
「私がちゃんとここにいる証拠」
「しょうこ?」
 こんな幼い子どもに使うべき言葉ではなかったか。
「真崎葵が、ちゃんとこの場所にいることが、はっきりする気がしてね」
「あおいは、ここにいるよ」
「ああ、いるね」
 理解できないといった風にみどりは首を捻る。
 まあ、分からなくても特に問題はないさと言ってみたが、彼女は納得できないようだった。
 私は立ち上がって再びキッチンに向かう。まだ湯は残っているからもう二杯分くらいなら用意できるだろう。
「みどりは、どっちが飲みたい?」
 途中で途切れた自分の言葉に呆れ、頭を掻きながら私はみどりに尋ねた。当たり前だった景色とまるで同じ光景だったから、少しだけ動揺した。
 私がキッチンで、碧がソファ。淹れるのは必ず僕だった。
『まだお湯は残っているけど、君はどうするかな』
 私は必ずそう聞いた。聞きながら、ティーパック、そして珈琲のドリップパックを用意する。
 返ってくる言葉も、淹れる物ももう分かりきっている。

「珈琲が良い。でも砂糖もミルクも要らないからね」

 顔を上げると私は慌ててキッチンからソファの方に目を向けた。
みどりが座っている。至って正常な景色だ。どこにも異常は無い。
「こーひーがいい」
 幼くて呂律の曖昧な、少女自身の声だ。
「あ、ああ。珈琲ね。砂糖とミルクはいる?」
「いらない」
 それだけ聞くと私はキッチンに顔を引っ込める。
 結局妻のオーダー通りになったそれにお湯を注げば、みどりの要望通りの珈琲は出来上がる。二つのカップにドリップパックを取り付け、湯を注ぐ。
 真っ黒い珈琲を眺めながら、私はさっきの声の事を考える。
 昔を懐かしんでいた結果、幻聴を耳にしてしまったのだろうか。
 ただ、あの雨の日の碧と同じように今しがた聞いた声は生きているように思えてならなかった。尾ヒレが長く、先端の赤い魚を見つけたあの日のように……。
 カップを二つ、テーブルまで運んでから、水槽の方を見る。乱雑な片付けのせいでポンプには水草が絡んでいて、砂利はまるでヘドロみたいに隅に寄せられている。
 あの尾の赤い魚は未だに見つからない。
 ただ、その行方に関して、一つの可能性を考えていた。にわかに信じがたい現象だが、もしそれが真実なら、みどりがここにいる理由も、魚が消えてしまった理由も、説明がついてしまう。
 だが、そんな非現実的な事を信じて良いものだろうか。
「なあ、みどり」
「なに」
 みどりは私に目を向ける。丸くて大きなくりりとした目に私の姿が映り込んでいる。
 言うべきだろうか。
 もし否定されてしまったら。
 珈琲を口にして、べったりとこびりつく不安をグッと飲み込んだ。
「あの水槽に入っていた魚を、知らないかい?」
「さかな?」
「そう、長くて、先端が赤い尾ヒレを持った、青色の魚だ」
 できるだけ特徴を詳しく伝えると、空になった水槽をちらりと見る。みどりは暫く水槽に目を向けた後、再び珈琲を一口飲んでから、口を開く。
「わたしがいたばしょ」
「君が?」
「でも、いたことだけ。ほかはわからない」
「分からない?」
「さかななんてしらない」
 首を横に振ったみどりを見て、私は頭を抱える。
 思考が中身の飛び出たビデオテープみたいに絡まっていく。一体何が正解だ。
「あの水槽にいたのは、一匹の魚だった。だが君はそのたった一匹の泳いでいた水槽にいたと答えた」
 あまりに非現実的な言葉を羅列する自分が滑稽に思えた。
 だが、元を正せば頭の中に響いたノイズから私の周囲は少し変わってしまった。いや、更に遡れば妻の姿を見て、あの魚を拾った時からだろうか。
「なら、泳いでいた魚が君だったとしか考えられない」
「どうして?」
「どうしてと言われても、そこから出てきたと言われたら、私にはそれしか――」
「わたしはみどり。さかなじゃない」
 みどりは眉を顰めると熱い珈琲を再び飲み始める。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
 結局まともな返答は無いまま。私と彼女の会話は終わってしまった。



   三

――願望を映す魚がいる。
 桃村継彦は開口一番そう告げた。
 彼と会話するのはこれで二度目だが、彼はやってきた私を見て何も言わず奥の間に通してくれた。
 私は彼の饗しを受けながら、昨日の魚の正体を教えてほしいと正直に尋ねた。
 彼は知っている限りを話してくれたが、その結果わかったことは「望みを映しだしてくれる魚」であるということだった。俄には信じ難いが、みどりという身元不明の少女が突然現れた事を考えると、その線が一番妥当だ。
「少なくとも私は出会ったことがない。知っているのは尾ヒレが異様に赤くて長いことくらいで、何も詳しい事は言えないよ」
「まるで、都市伝説ですね」
 桃村は頷く。
「私もそう思っていた。まさか私ですら出会ったことのない魚をよく手に入れたものだ」
「私は、あの魚を持ち続けるべきでしょうか?」
 出された饅頭とお茶を眺めながら、私は不安を吐露する。桃村でさえ詳細を知らない魚だ。私個人が手にして良いものなのかすら分からない。
「残念ながら、私にはどうにも判断できんよ」
 桃村は店内の方を見つめ、一口お茶を啜ってから深く息を吐き出す。
「ただ、折角の願望を手放すのは勿体無いと思うよ。こうして孤独になった今、改めて傍にいてくれる存在が現れたら、私は間違いなくそれに依存してしまうだろう」
「依存、ですか」
「全く、私が拾えたら良かったのに」
 彼は肩を竦めて笑う。
「それで、映し出されたのは何だった」
「少女、でした。幼くて、何も知らない」
「奥さんではなかったのか」
「妻は死にました。もう会うことも出来ない存在ということくらい分かっていますから」
「そうか、そうか」
 桃村は何度も頷く。その反応がなんだか不快に思えて、私は唇を噛んだ。
「君がどういった風にその魚を扱うのかはわからないし、私も何も言えない。だが、君の納得する結果をよく考えてみるといい。捨てても良いし、置いておくのも良い。その選択に誰かが介入するべきではないからね」
 それだけ言うと、彼は階段を上がっていってしまった。踏む度にぎしりと軋む音がする。
 彼は二階に上がったまま、それっきり戻っては来なかった。
 私は一人残された居間で饅頭とお茶を平らげ、階段の上に簡単な挨拶の声をかけ、店を出た。
 遠くからチャイムの音がする。
 見ると、色彩豊かな校舎が見えた。遠くからでも活気づいて見える。雪浪通りと交互に見比べても、その空気はまるで違う。
 この商店街は冷たい色をしている。
 そろそろ、学校にも戻らなくてはいけないと、私は校舎の方を眺め思った。このまま冷たいこちら側に居続けたら、凍えきってしまう気がする。
 私は踵を返し、校舎に背を向けた。途中コロッケのいい匂いがして、みどりに買っていこうか迷ったが、結局帰宅を選んだ。

 家に戻るまでの間、みどりをどうするべきかひたすらに悩んだ。
 桃村の言葉が事実であるとして、果たして彼女は「戻る」という選択は可能なのだろうか。もしそれが不可能であったら、私はこのまま一人の少女を捨てる事になる。
 何故私は子供なんて願望をいだいてしまったのだろう。何かもっと、手放しやすいものなら良かったのに。
 いや、手放しにくいからこそ願望なのか。
 帰宅すると彼女はテレビの前に体操座りでいた。おかえり、と口にしつつ目だけは液晶に釘付けのままだった。
 何かを見たり聞いたり知ることに興味があるらしく、ドラマよりもニュースの方が食いつきが良かった辺り、変わった子供ではあるのだろう。
「ねえ、これはなに」
 気になる事が見つかるとみどりはすぐにでも私に尋ねた。まるで知らないことを無くしたいとでも言うかのように知識に貪欲だった。
「君は知ることが好きなのかい?」
 ふと説明の途中で私が問いかけてみると、みどりは戸惑い、首を傾げてみせた。どうやら特に意図しているわけではないらしい。
「なにもないとね、すごくふあんになる」
「不安?」
「わたしがちゃんといるのかわからない」
 テレビに目を向けたままそう言う少女に、私は何も言わず隣に座る。
 彼女が求めているのは知識ではないのかもしれない。彼女は私の前に現れてから何かにつけて尋ねて、手探りで自分の知らない知識を。珈琲や紅茶すら知らない大きな赤子のような彼女は、必死に空っぽの頭を埋めようと必死だったのだろう。
「あおいはちゃんといるって言ってくれたね。あれはどうしてそう思ったの?」
 隣に座るみどりは、抱えていた両膝に顔を埋めると、うーん、と小さく呻いた。
「わたしがね、あおいをちゃんとしってるから。ちゃんと見えてるし触れるから、いるんだよって言ったの」
「そうか」
 ただ一言だけ口にすると、私は少しだけ彼女との距離を縮め、頭に手を置いた。滑らかで、指を入れてもさらりと抜けていく綺麗な髪に何度も触れ、それから頬に手をやる。みどりは小さく震えたが、やがて力を抜くと私に身体を寄せ、目を閉じた。
「触れるし、見えているよ」
「あおいも、さわれるしみえてる」
「君の言う証拠がそれなら、君もこれで証明された」
「わたしは、いるってこと?」
 頷くと、みどりは小さな頭を私の身体に預けた。小さな身体の中で、この少女は自分を探している。知らないことだらけで、恐らく何者かさえ曖昧なままなのだろう。それでも必死で自分がみどりである証拠を探している。
「納得できないなら、納得できる理由をゆっくり探せばいいさ」
 そう言って私はみどりから離れる。
 単なる気紛れだ。色々な物事がハッキリと分からないままで見捨てるのも具合が悪い。
 それに、私の家に残っているのは私だけだ。碧が居なくなって、代わりにみどりが入ってきたようなもので、これまでの当たり前に戻るだけだ。
「ねえ、あおい」
 みどりは袖を軽く引っ張る。
「さっきのたべたい」
「さっきの?」
 キッチンを指さす彼女を見て、ああ、トーストと珈琲のことかと理解した。
 壁にかかった時計は六時を示している。随分と時間が経っている。今から食材を買うのも億劫だし、できれば気分転換に外の空気も吸いたいと思っていた。
「夕飯は外で食べようか」
「ゆうはん?」
「この時間に食べる事を夕飯と言うんだ。朝は朝食、昼は昼食」
「ちょうしょく、ちゅうしょく、ゆうしょく」
「よく言えたね」
 まるでサイズの合わない服をどうにか短く仕立ててみどりに着せ、外に出る。ふとあの魚を拾った向かいに目をやると、マンションは逆行を浴びて俯いたみたいに薄暗くなっていた。
 昨日、あの場所で尾ヒレの長い魚を見つけ、そして今日はこうして突然現れたみどりの世話をしている。
 妻がいなくなってから、どうもこれまで送っていた日常の方がもしかしたら幻だったのかもしれないと感じてしまう。私を軸にしてぐるりと百八十度回ってしまったみたいに、きっかけ一つで何もかもが変わっていく。私の手を握るみどりも、そのきっかけの一つだ。
「こーひーのめる?」
「ああ、飲めるよ」
「とーすとも?」
「夜はもう少しちゃんとしたものを食べよう」
「とーすとはちゃんとしたものじゃないの?」
 どうにもうまく説明できないものは、黙ってやり過ごすことにした。みどりもどうやら尋ねても有益な情報が出ないと理解したのか―知っても知らなくても特に問題ないと判断したのかもしれない―それ以上訊こうとはしなかった。
 
 雪浪通りの奥に喫茶店が一つだけある。
 妻ともよく来た場所で、手先の器用だった調理師が親から店を継いだらしく、大人しい外見とは裏腹にそれなりの料理が出てくるのでよく出向いていた。
 何も知らないみどりの質問攻めに遭うのを避けたくて、私はハンバーグとライスを二人分注文すると、珈琲を先に出してもらい、向かいのみどりの前に置いてもらう。
 彼女はすっかり珈琲を気に入ったようで、興味深くカップを観察してからごくごくと飲み始めた。喫茶店だけあって珈琲の出来も良いらしく、家の物よりも好きだと喜んでいた。あまりにも嬉そうに飲むので私も一口もらったが、何がどう違うのか分からず、結局苦味と酸味にやられて渋い顔をするのみで終わった。
 閑古鳥が鳴いている商店街の一角に店を構えているだけあって、客も全く居ない。カウンター席で知人と思しき男性達が酒を飲み交わし、店員を交えて談笑しているのが見える。恐らく今いる客のほとんどはそういう関係の人なのだろう。もしかしたら私のような知らない顔の方が珍しく見えるのかもしれない。
「お待たせしました」
 店主直々に運んできたハンバーグは、よく熱せられたプレートの上でじゅうじゅうと音を立てていた。よく焼けた肉の香ばしい香りに空腹感を煽られながら、私はプレートを受け取る。店主は何も言わずにお辞儀をしてテーブルの前から立ち去り、カウンターの談笑に戻っていった。
「あつそう」
 振り向くとみどりはナイフとフォークの持ち方に苦戦していた。私は嘆息して、右手にナイフ、左手にフォークを手にし、ふっくらと丸い肉の上にナイフを突き立てて丁寧に切り分けていく。突き立てた先から肉汁が溢れでて、プレートに達して蒸発すると、食欲を唆る音と匂いが広がった。
 切り分ける動作をみどりはじっくり観察した後、ぎこちないながらも見よう見まねで解体した。
「いただきます」
 一語一語のはっきりしたみどりの声に、隣のテーブルの男性がちらりとこちらを見て微笑む。教育の行き届いた子供と父親と思われているのかもしれない。いや、事情を知らなければそう見えるに決っている。
「おいしい」
 切り分けたハンバーグを咀嚼して飲み込むと、みどりは驚いた顔でプレートを覗き込んだ。その一挙一動がなんだか面白くて、思わず笑みが零れた。
「お気に入りの場所でね、私も碧もよくここで食べていたんだ」
「ふうん、碧もすきだったんだ」
「そうだよ」
「碧は、いまどこにいるの?」
 知りたがりの彼女の事だから、いずれは来るだろうと思っていた。
 私は切り分けた肉を口にすると、水で流し込み、それから言った。
「碧はね、もういないんだ」
「いない?」
「会えないってこと」
「あおいと?」
 一瞬、息を飲んだ自分がいた。一呼吸入れてから、そっと頷く。
「わたしもあえない?」
「そう、誰も会えない」
 事実を述べただけなのに、言葉を口にするのに随分とかかった。まだ躊躇ってしまうのか、私は。

 食事を終えると、私達は帰路についた。
 通りは閑散としていて、シャッターで仕切られた道はどこか硬質的で重たく冷たい。
 来訪者を暖かく迎えていた筈のこの場所が、気付けば誰もが避ける畏怖の対象へと変化してしまった事を、この通りに済む住人達はどう思っているのだろう。ただ朽ちていくのを見届けるだけの生活は、どのようなものなのだろう。
 雪浪通りは、やがて死ぬ患者と似ているな、と私は思う。
 いずれ去ることが分かっていても、人はそれを伝える残酷さもなく、ただ眺めることしか出来ない。助かるとも、諦めようとも言えないまま、ただ傍らにいてやるだけ。
  それは幸福なのかもしれないが、終わりが来ることは確かで、残された方にとっては一番辛い結末だ。
「あおい」
 隣の少女に呼ばれ、私はみどりを見下ろす。
 普段と同じ何を考えているのか分からない無表情をこちらに向け、手を差し出している。
「なんで?」
 尋ねた言葉に、みどりは暫く宙を眺めてから再び視線を戻し、それから一言口にした。
「さみしそう」
 簡潔でとても分り易い感想だ。
「そうか、君にはそう見えたんだね」
 そう言ってみどりの手を握り締めた。滑らかで、小さいけれどじわりと奥底から熱を感じる手だ。私は思わず強く握りしめてしまう。
 これが、人ではないとはとてもじゃないが思えない。
「君は、どうしたい?」
「どうしたい?」みどりは繰り返す。
「帰るところも無いのなら、うちにいるかい? あの家はどうも一人じゃ大きすぎてね」
 みどりは暫く私のことを見つめていた。言葉の意図を知識の足りない頭でどうにか飲み込もうとしているようだ。
 多分、この誘いは気紛れだ。彼女の正体は未だに分かっていないけれど、それでもあの部屋は二人が丁度いい。
「あおいといっしょなら、なんでもいい」
 暫く考えた結果生み出された答えは、とても単純で、その単純さが私の胸の隙間を埋めてくれた。
「じゃあ決まりだ。帰ろう、うちに」
 みどりは繋いでいる手に力を込めてきた。
 幼くて弱い力だ。優しく握り返すと、嬉そうに彼女の小さな手が動いた。
「水槽、あのままは勿体無いね」
「わたしのいたところ?」
「そう、君の居たところ。折角だから魚を何匹か飼おうか」
「かう?」
「そう、育てるんだ。餌をやって、水の手入れをして、住み心地の良い環境を作る」
「そうするとしあわせ?」
「ああ、幸せだね。魚は住みやすいし、私達も見て楽しめる」
「じゃあそだてる。しあわせにする」
 何度も飛び跳ねながらみどりは張り切った声でそう言った。
 その姿を見て、もし妻と子供ができたらこんな風に会話をしていたのだろうか、とふと思う。左に私がいて、右に妻がいて、息子か娘か、二人の間に生まれた子供が私達に今度はどこに行きたいとか、夕飯はあれがいいとか、今日学校であったこととか、何気ない日常を報告していく。
 肋の隙間を風が通る音がして、私は身震いをした。
 これ以上は考えないでおこう。その夢は叶うことがない。
 私は右手で、みどりは左手で手を繋ぎ、たった二人で雪浪通りを歩く。
 彼女の右手を握ってくれる相手はもうどこにもいない。





   四

 みどりがやってきてからの一週間は、本当に楽しかった。それは本当だ。心の底から久々に笑えた気がしたし、誰かの為に振るう料理がそれなりに楽しいことにも気づけた。知らないことを教えているうちに教師として改めて仕事をしたいと考えられるようになった。
 周辺の住民ともみどりは馴染みつつあった。元々興味のあることには貪欲な性格で、人見知りをしない人懐こい子供に見られるようで、特に年配から人気だった。
 買ってきて欲しいものと財布を渡すと真っ直ぐ雪浪通りに行って、頼まれた通りのものも買ってきた。途中できっと誰かに貰ったのだろう、帰ってきたみどりの口元には揚げ物の滓が付いていることがしばしばあった。ありがとうは言えたか、と尋ねると大きく頷いた。私がタオルで口元を拭うと、彼女はどこか嬉しそうに見えた。

 その生活があまりにも充実していたから、私はすっかり忘れてしまっていたのだ。
 彼女についてまるで知らない事を。

 早朝、私は隣で眠るみどりの髪をそっと撫で、起こさないようにと慎重にベッドから這い出て仕度を始める。半月ぶりの出勤が決まったのは、二日前程だった。
 クリーニングに出してそのままだったスーツはビニールやタグが付けっぱなしで、久々に着ると随分窮屈に思えた。
 ネイビーブルーのネクタイを鏡で確認しながら締めて、最後に全身を眺めてみた。幾分かはマシな顔つきになったのではないだろうか。
 キッチンに戻ってトーストを四枚焼き、ナッツクリームとマーガリンの容器と一緒にテーブルに持っていく。
 傍には小さな弁当箱の袋が一つ。この日の為に用意しておいたものだ。決して見栄えの良い出来ではないが、味はそれなりにできたと自負している。
 寝室から眠たそうな目を両手で擦りながらみどりが起きてきた。水色のフリルのついた寝間着をひらひらさせながら、彼女は覚束無い足取りでテーブルまでやってくると、椅子に座る。
「おはよう、みどり」
「おはよう、あおい」
 熱い珈琲を注いだカップを差し出すと、みどりは何よりもまずそれを飲み始める。なんだか年端もいかない子供には似合わない光景だと感じながら、私もブラックを啜る。啜ってから顔を顰め、口直しをするみたいにトーストにナッツクリームを塗って齧り付いた。
「でかけるの?」
「沢山お休みしていたからね」
「がっこう?」
「そう、学校だ」
 頷く私をちらりと見て、みどりはなんだか寂しそうに目を細める。
「わたしは?」
「悪いがお留守番だ。お弁当も用意しておいた」
 頷くが、みどりは無言のまま私をじっと見つめていた。彼女なりのねだり方なのだろうか。なんとなくみどりの思っていることを察した私は、分かったと頷いてトーストを皿に置いた。
「夜は外に食べに行こう。みどりの好きなハンバーグにでもしよう」
「じゃあ、まってる」
 素直に頷くみどりを見て、私はにっこりと笑ってみせた。みどりの表情は大して変わらないが、どこか納得しているように見えた。

 登校する生徒の集団の中で私は浮いて見えた。
 随分と休んでいたこともあってか周囲からの視線もどこか重たく感じる。校門前に教師がびっしり張り付いていていたが、これはどういうことだろう。
 あの誘拐事件の関係だろうか。確かにまだ男子生徒は見つかっていないらしいし、多分それだろう。
 すれ違う生徒達に挨拶を交わしながら校門前にやってくると、その教師達に軽く会釈して通り過ぎた。皆驚いた顔をして私のことを見ていたが、構わずに通り過ぎ、朝の練習に励む校庭の生徒達を横目に教務員用玄関から校舎に足を踏み入れた。
 すっかりくたびれ汚れた室内靴もこれだけ期間が空くと新鮮な気持ちで履けた。右、左と片方づつつま先で床をノックする。まだ暫くはこの一足でどうにかなりそうだ。随分と買い換えるべきと言われていたからいつ買いに行こうかと悩んでいたものだが、
 そう、私がというより妻が買い換えるべきだと散々言っていたのだ。普段から身なりに頓着のない私を不機嫌そうな顔を浮かべて見つめ、そして深い溜息を吐いていた。
 多少なりとも整っていた身なりもなんだかすっかり適当になってしまった。もし見られでもしたら休日にまた服屋に連れて行かれる。
 くくく、と笑ってから、喉元を冷たい塊がすとん、と落ちていく。
 いや、もう居ないんだと、暖かな記憶達から一瞬にして熱が消え失せていった。
「おはようございます」
 挨拶と共に職員室を開くと、室内では数人が電話対応に当たっている。あの事件だろう。
 この学校の生徒では無いが、姉がいるのなら嗅ぎ付けてやってくる者はいる。恐らく行方不明から今日までずっとこの調子なのだろう。憂鬱そうな顔で対応を行なう教員がなんだか哀れに思えてならない。
「すまないね、復帰早々慌ただしい姿を見せてしまって」
 自分の席に座ったところで校長がやってきて、私にそう言った。
「いえ、むしろあれだけ長く休んでしまって申し訳ないくらいです」
「突然のことだったからなあ、うまく踏切りが付かないのも仕様がないだろう」
「それより……、これはどうしましたか?」
 敢えて私は一から尋ねてみた。校長はああ、とばつの悪い顔をして周囲を見回し、深い溜息を一つ吐き出す。
「一人の男子高校生の失踪事件は、見ましたか?」
「ニュースで見た程度なのであまり詳しくは……」
「我が校に姉がいるからか、飛び火するようにこちらにも次から次へと電話がやってくる。酷い時は一目見て分かる偽物の名刺を手に乗り込んでくることすら、ね」
 しかしそれも稀のようで、実際にこの学校の生徒が消えなくて良かったというのが言葉の裏側に透けて見えた。
「咲村朱色さんですか」
「知っているのかい?」
 首を横に振った。あの電話の事を特に切りだす必要は無いように思えたし、声と声だけでは恐らく、知っているとは言えないだろう。
「彼女は登校しているのですか?」
「父親の車に乗って登校しているよ。ただ少し不安定で保健室を利用することが多くてね、茅野君が親身になって世話をしてくれているよ。つい最近やってきたばかりの彼女に全てを任せるのはなんだか申し訳ない気もするが」
 そう言いながらも厄介事をうまく押し付けることが出来たという言葉が彼の逸らされた目からはそれとなく受け取ることができた。
 茅野茜さんとは顔を簡単に合わせた程度の仲で詳細は分からないが、随分と生徒の相談を親身に聞く女性で生徒からの人気は厚いらしい。一つの場所に留まるのを嫌って非常勤という形で日本中を転々としているらしく、私もそれ以上の事は知らないが、とにかくこちらとしてはタイミングが良かったと考えるべきなのだろう。
「登下校の見守りの対応は?」
 私がそう問いかけると彼は少しだけ目を細めてから首を横に振る。
「幸い駅からとても近い事もあってか、そういった訴えは特に来なくてね。私としては慌てず普段通りにだね――」
 要するに面倒でならない。彼の長い言葉を聞き流しながら私は職員室の隅で電話対応に追われる数名を見た。どれもが朱色との接触に対するものなのだろう。「本校の生徒に問題は無い」と強い口調で断る声が遠くからでも聞こえた。大分苛立っているのが分かる声だ。
「いずれにせよここ数日職務を離れていた真崎先生は、本来の職務に集中してください」
 私は軽く頷いてから自分の席に座った。古くなった日付の資料の横に、私が休んでいた期間が詳細に記述されたプリントが纏められていた。恐らく引き継ぎをより簡潔にしたかったのだろう。
 ホームルームのチャイムを聞きながら、ふと私は家に残してきてしまったみどりの顔を思い浮かべた。一週間傍にいて、少しは彼女について知ることが出来た気はするが、それでもまだあの子については穴だらけだ。今も一人家に残されてどんなことを感じているのか分からない。酷く寂しがってはいないだろうか。
 いや、それは無いか。普段から一人でそこら中を駆け回っているくらいだ。一人で特に問題なく過ごしているだろう。
 尾ヒレの赤い魚の代わりに水槽に入れた観賞魚も随分気に入っていたみたいだ。
 帰りにあの喫茶店でハンバーグでも食べさせてやればそれだけで十分に満足してくれるだろう。
 それからふと、咲村朱色の言葉を引き継ぎ内容の書かれたプリントに走り書きしてみる。

「泣けましたか?」

 あの時彼女が躊躇いがちに口にした言葉。その意図を未だに私は理解しきれずにいる。あの時も考えた。非情だと思われるのか、弟の失踪と重ねて共感されるのか。声だけの咲村朱色だけでは全く判断の付かない疑問だ。
 会ってみるべきだろうか。いや、しかし会って何を言えば良い。今更「泣けなかった」と伝えて、彼女は納得するのだろうか。
「木村さん、ちょっと良いかな」
 私は声をかける。荷物をまとめて丁度授業に向かうところだったようだったが、彼は柔和な笑みで私のかけた声に応えてくれた。
「君の担当教室に、咲村朱色さん、いなかったかな」
「ああ、いますよ」
「もし教室で会ったら、私を尋ねるように言っては貰えないだろうか」
 そう頼むと、彼は二つ返事で了承してくれた。
「こんなことを言うのは良くないのかもしれないですが……」
 木村は顔を伏せて小さな声で呟く。軽快ではつらつとした声で喋る彼にしては珍しいトーンだ。
「咲村さん、大分参ってるみたいだから、できたら真崎先生が力になってあげてください。その……」
 ああ、と私は大きく頷く。
「境遇としては似たようなものではある、か」
「こんなこと言うのは失礼だとわかってはいるのですが」
 彼なりに生徒を心配し、思考を巡らせた上でのものなのだろう。私は彼の肩を軽く叩いてから頷くと、職員室を先に出た。
 できれば、この先も彼には生徒を大事に思ってほしいものだ。いつか薄れて、まるで部品を組み立てるみたいに作業的になると、もう抱けなくなってしまうから。
 果たして私は咲村朱色の力になれるだろうか。だが別に探偵ではないし、生徒に寄り添えるような気さくさや包容力も無い。
 あるとすれば、大切な人を無くしたという共感だけだ。果たしてそれだけで彼女は癒されるだろうか。救われるだろうか。
 なんにせよ、一つだけはっきりしている事がある。
 廊下をぺたりぺたりとゆっくり歩きながら、ふと私は振り返って遠くなった職員室を見つめる。会報やスケジュールプリントで埋め尽くされた掲示板に、すっかり古びたプレートが一つ。
 暫く眺めてから、私は授業の担当教室へ歩き出す。
 彼女はまだ可能性を信じられる側にいる。手を伸ばせば届くかもしれない。
 戻れない私とは、違うのだ。




sage